【2016年7月9日】NPO法人日本独立作家同盟セミナー講演録『サルベージ出版に挑戦 』発売開始

こんばんわ、社主”大変ご無沙汰しております“持田です。もうミドルネームに組み込んでいいくらい毎度のご無沙汰展開で恐縮です。年末年始にエンジンかけておきながら夏前まで怠けておりました!怠けきっておりました!猛省しております!猛省に慣れ親しんでおります!

ところで表題通り、昨日7月9日、前回登壇しました2016年1月30日独立作家同盟のセミナーがなんと!「講演録」として発売開始されました!何もこんな参院選の週末じゃなくとも!

7月9日遂に出てしましった!『サルベージ出版に挑戦 NPO法人日本独立作家同盟セミナー講演録』

7月9日遂に出てしまった!『サルベージ出版に挑戦 NPO法人日本独立作家同盟セミナー講演録』

なおKindleだけでなく、各電子書籍ストアで購入可能です。さすが!独立作家同盟!

群雛ポータルサイトからストア一覧あります!

群雛ポータルサイトからストア一覧あります!

なにはともあれ、まずは、こちら第二部で登壇いただいた「マガジン航」編集発行人仲俣暁生氏、国会図書館大場利康氏、毎度熱唱殿池田”ゲバラ”敬二氏、機会いただいたNPO法人日本独立作家同盟理事長鷹野凌氏、また会場裏方で様々に働いて下さった皆々様、さらには今回セミナー冊子として作成尽力いただいた株式会社ボイジャー鎌田純子氏、編集対応いただいたトルタル兄さん古田靖氏に、深く頭を垂れて感謝いたします。このように冊子として形になりましたのも、ひとえに皆様のおかげでございます。逆にむしろ「皆様のおかげ」以外何が残ろうか!

実際こちら既に何名かの読者様から「面白かった」なんて有難いお言葉をいただいており、誠に汗顔の至りなのでありますが、僕が実際語った内容といったら、サブタイトル通りの「文学中年」が「サイバー」だけでなくとも紙も含めて「ディギング」して、とりあえず電子で「サルベージ出版に挑戦」した顛末を、前夜突貫のスライド芸に籠めて、当日は幾分のアルコールの霧で誤魔化しつつ捲し立てた「偏愛」であり、単にそれだけでありますから、実際なんてことはなく、私はこうやって生きて居るのです。御年43歳。いろいろあって禁煙しましたが最近酒量が心配です!

なおタイトルの「サルベージ出版」という言葉はボイジャー鎌田氏が散々私が節々で使っていたタームをコンパクトにまとめて變電社第二期を端的に言い表していただけました。變電社とはサルベージ出版社である。素敵じゃないですか。なんか偉そうで何様のつもりって感じです!

そんなわけで今回サルベージ出版とはなんたるか定義を試みてみようかなと。単純なパブリックドメイン出版ではないというところがポイントかもしれません。

僕が常々疑問に思っている点が、セミナーでも話したとおり、また前からもいろいろ話しているとおりに、パブリックドメイン(以後PD略)一般解釈で根強くある著名人・有名作品大好き!大文豪史観なんですが、さあ今年はこんな大御所がPDになる!ってタイトルが戦後散々にリパッケージされ再生産され続けたおかげでマーケットプレイスで1円とかで並んでいる本だったりするわけですね。

無論それらがPDとなり青空文庫のような形でデジタライズされていくことの価値はあります。「公有」という形で誰のものでもあるという状態としてオンラインで解放すること(まるで「成仏」するかのような)は正しいわけですし、それが再利用され再活性化されていくことは心から賛成です。なんですが、そのマーケットプレイスや新古書店で端金で購入できるくらい再生産され続けたタイトルは半ば「公有」みたいなもんではないのか、というと語弊ありますが、手に入りやすいという意味では簡単なお話であり、既にスキャン本含めて大量にそういったKDPにおけるPD商用利用はあるわけです。よって個人的には違う方向を試みたい。

翻って、今回著作集を出させていただいた「野川隆」で考えてみます。その前にまず認識を新たにしていただきたいのは、野川隆とは完全に忘れ去られた作家であったわけではありません。にもかかわらずほぼ読めません。

戦後『昭和文学盛衰史』で高見順が深い鎮魂の念を持って触れたのを皮切りに、大岡昇平・平野謙は野川隆との思い出を語り、江口渙もプロレタリア作家同盟を振り返る回想録の中で「後世に語り伝えねばならない」と結構な分量を割いて『戦旗』非合法時代の野川について語り、また『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』盟友北園克衛も野川「SFポエム」の業績を語り、稲垣足穂も

私のロバチェフスキー空間も実は野川によって教えられたのである。
 ソヴィエトのルーニク3号が初めてもたらした月の裏面の写真にソヴィエツキー山脈の左側に「ロバチェフスキー」という地名があたえられている。でも、これに先立つ約四十年前、カザン大学の総長であり、非ユークリッド幾何學の大立者でもある人の名を、日本文学の中に取り入れたのは野川隆君であることを諸君に銘記してもらいたい。

——稲垣足穂『「GGPG」の思い出』

と語られるところの野川隆です。また『作文』という同人誌で戦後初めて「野川隆記念号」が組まれたのですが、野川渡満前の盟友たる壺井繁治がこう書いてます。

野川隆は四十四才で死んでおり、今日から見れば実に若死にであるが、早くから詩や評論を書きつづけていたので、相当の量を書いているようにわたしは思われる。詩集として刊行されているものは前記の『九篇詩集』一冊だけだが、何とかして彼の全業績をまとめる時期にきているのではなかろうか。それが完成されれば、モダニズム詩人、アバンギャルド詩人として出発し、アナキズムを経てコミュニスト詩人となった彼の仕事の中から、いろいろと面白い、現代にもじゅうぶん示唆する問題が引き出されるのではなからろうかたとえば「芸術の革命」と「革命の芸術」との関連、その統一的形成の問題は、今日、なおじゅうぶんに解決された問題とはいえぬが野川の全業績があきらかにされれば、この問題についても一つの回答があたえられるかもしれぬという期待がわたしにはもたれる。(一九七四年一月二十三日)

——壺井繁治「野川隆の思い出」『作文』1974(昭和49)年4月

この文章の日付見てのとおり1974年ですから今から42年前です。折に触れて一部では思い出され偲ばれていた野川隆とその作品でありましたが、この42年間、誰も纏めてこなかった。いや42年どころではなく、つまり戦後71年、野川隆の作品はほぼ読めなかった。

理由はなにか。端的に、その作品のほとんどが雑誌(同人誌含む)掲載物しかなく、野川隆は生前、作品集としての本が出版されていないからです。前衛期に戦前朝鮮半島で新興詩人集という形でいくつか収録されて(こちら半島在住の希有な野川隆ファンのお友達から情報いただき感謝しております!)いる他は、芥川賞候補作たる「狗寶」が収録された『満洲国各民族創作選集』、また「幻の詩集」とも言われる『九篇詩集』を私家版として少部数を満洲で発行し、それを中野重治が所持していたおかげで1952年創元社刊行『日本詩人全集』第7巻にそのうちの数編が収録されたくらいです。つまり戦前円本、戦後文学全集のように日本国内で作品集を編まれたことは一度もない。戦後新日本出版社で編纂された『日本プロレタリア文学集』全40巻+別巻『日本プロレタリア文学評論集』全7巻にも驚くことに1作品すら収録もされていません。アバンギャルド期の野川に関してはそれこそ僕の知る限りで、1957年に遠地輝武『現代詩の体験』(酒井書店)で1925年8月『世界詩人』第1號に掲載された「甲殻類建築」が部分収録されているのみ。

ようやく90年代に旧帝国植民地たる「外地」文学研究がすすみ、野川隆の渡満後の作品に関しては評論(例えば川村湊『満洲崩壊「大東亜文学」と作家たち』文藝春秋1997)の中で読めるようになる。そして2000年代に入ってから、渡満後作品は複写によるアンソロジー『日本植民地文学精選集 満洲編』(ゆまに書房2001)に収録されました。そして2000年代後半になってようやく戦前の様々な詩誌が、ゆまに書房、不二出版各社で、復刊復刻(高価)を開始してくれたこと、そして同じく2000年代に国立国会図書館デジタルコレクションなどのデジタルアーカイブで戦前の雑誌を閲覧できる環境が整ったことで、国会図書館・都立図書館・大学図書館でこの「野川隆」という人の大正期新興美術運動前衛詩運動まっただ中の作品も、素人でも掘り返すことができる環境が整ったわけです。だから実は私みたいな人間にしてみると、極めて「現代作家」なんですね。だって最近読んだんですから。こう言うと頗る語弊がありますが、何も生きている作家だけが現代作家ではありますまい。

であらばと、我「文学中年」ですから、ほじほじほじほじほじくり返しに行くわけです。またこれらパブリックドメインなんで大手を振って複写依頼して持ち帰っていいわけですから、原始的なプリントオンデマンド!なんつうて一人ほくほく顔しているわけですね。もっともそう簡単に読めるものではないブツですし、誰もが知る作家というわけでもありませんから、結果、僕一人の楽しみで終わる袋小路なわけです。どこかしらの奇特な版元さんが野川隆集を出してくれないかななんて思っても、この手間ばかりかかり、とくに現代注目集めている作家でもない作品で売れる見込みも立つもんでないわけですから、そう簡単に出すわけない。だったら我が初編纂して出版してしまえばいいじゃないか。

そういうわけで、變電社が野川隆の前期「モダニズム詩人、アバンギャルド詩人として出発し、アナキズムを経てコミュニスト詩人」までを拾遺して今回勝手に纏めて出しました。これ改めて強調しておきますが戦後・戦前通して初編纂です。

2016年1月27日amazonKDPにて變電叢書『野川隆著作集1』刊行開始です!

さる2016年1月27日amazonKDPにて變電叢書『野川隆著作集1』刊行開始!

そして今回ちゃんとEPUB化してまあ正字体のファイルで無茶をやったわけです。外字なんか使って。無論、變電社技術工作隊の皆さんのご支援や、でんでんコンバーターという最強ツール、またそもそもでKDPという電子書籍プラットフォームもあって、僕みたいな素人でもなんとか出せました。

この展開は大きいと我ながら思うわけです。なぜなら出版社に全てを委ねて待つ必要がないのだと僕自身が理解できたということです。だからナマを言うと、こういうことを各学会やら研究者がやってくれたらいいんじゃないのかと素で思っていたりもします。今後ますますこの手のものが出版社からは出てこなくなるだろうからです。

よってまとめますと、變電社が考えるサルベージ出版の勘所は三点です。

  • 戦後出版で再生産され尽くしたものは他の個人・団体に任せたい。
  • そのわりに何故か人気なくデジタル化されることがない不幸な「よい作品」は變電叢書で出したい。
  • また今まで本の形として編纂されていない雑誌掲載作品などは今後も中心に掘りたい。

そしてもう一つ追加しますと、実は一番重要で実はここを一番進めたい領域なのですが、

  • パブリックドメインに限らずオーファンワークスまでをも対象としたい。

つまりパブリックドメインは結果であり、手続きの手間がかからないってだけのラッキーアイテムとし、必要ならば調査・吟味・著作権者捜査、手続きの手間を掛けても、出す。実はパブリックドメインではない作品をどうにも再出版したくなり探り出した著作権継承者と面会してきた件がこの春にあったのですが、諸事情により電子書籍化は無理という結果になりました(だけど紙ならいいよという話に落ち着き、現在調整中です)。

といったわけで、現在いくつか改めて上記3ルールでもって改めてのサルベージ出版を鋭意企画中です。その前に野川隆中期・後記評伝もまとめていかねばであります。また兄の野川孟に関しての事後調査が進んでおり、新事実実と「評伝」更新を実行します。Coming Soon!

さて本日世間では悲喜交々の参院選祭りの日に更新いたしましたが、引き続き變電社ご愛顧たまわらんことよろしくお願い申し上げます!

變電社 社主 持田 泰

【變電叢書】『野川隆著作集1: 前期詩篇・評論・エッセイ 1922 ー 27』【KDP発売中】

2016年1月27日amazonKDPにて變電叢書『野川隆著作集1』刊行開始です!

2016年1月27日amazonKDPにて變電叢書『野川隆著作集1』刊行開始です!

こんにちは!社主持田です!

ついに變電叢書『野川隆著作集1: 前期詩篇・評論・エッセイ 1922 ー 27』が販売開始されました!

野川隆著作集1: 前期詩篇・評論・エッセイ 1922 ー 27 (變電叢書)
AmazonKDPストア http://www.amazon.co.jp/dp/B01B3I5IU

一年越しでようやく弔いができました。
思えば43歳で満洲の大地で人生を閉じた野川隆と僕は今同い年です。詩人よどうぞ安らかに。

2014年末サイトでbib/iリリースしていた無料公開版はもろもろ誤字脱字も多くクローズさせていただきました。今回の版でピックアップ作品と前期評伝(こちらもブログ版の加筆修正版です)立ち読み版を公開いたします!こちらは少々お待ちください!

もう一点今更お知らせです!今週末2016年1月30日独立作家同盟のセミナーに登壇いたします!

持田泰「變電社の試み ~『デジタルアーカイブ』『パブリックドメイン』がもたらす自己出版の可能性を探る」

1月30日独立作家同盟セミナー

イベント自体が久しぶりです!国立国会図書館デジタルコレクション他、大英図書館や年始のニューヨーク公共図書館などなど盛り上がる『パブリックドメイン』の可能性をもろもろ探ります!

第二部はなんと国会図書館・大場利康氏 マガジン航・仲俣暁生氏を迎え鼎談!今回の變電叢書リリース裏話も交えつつ、酒あり池田敬二氏パブリックドメインソング弾き語りありのパーリータイム予定です!
きっと楽しい!はずです!

土曜日お時間あれば是非遊びに来てやってくださいませ!

2016年變電社は電書パブリッシャ―として本格稼働いたします。
ひきつづきよろしくお願いいたします。

社主 持田泰

『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第一年第一集1924年6月、第二年第一集(1925年1月)、第二年第三集(1925年3月)

變電叢書刊行準備【野川隆評伝:前期】Gの震動—1901〜1927  第三章 疾走期【関東大震災と「Gの發音の震動數と波形」たる『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』・橋本健吉・稲垣足穂・暴れる玉村善之助】

社主持田です。ようやく!ようやく前期評伝完結!

もっとも中期評伝・後期評伝に続きますが、とりあえずは野川隆二十六歳までの前衛期までは細かく足跡を追いました。

1:變電叢書刊行準備【野川隆評伝:前期】Gの震動—1901〜1927  第一章 揺籃期【野川二郎・十和田操・野川澂『高原』周辺】
2:變電叢書刊行準備【野川隆評伝:前期】Gの震動—1901〜1927  第二章 覚醒期【「江戸川亂歩」としての野川孟・『エポック』周辺・末弟野川隆の登場】

そして今回が「第三章 疾走期」です!本記事だけで15,000字越えてますのでお暇な時でよしなに!

さあ急げ一年越し念願の野川隆著作集1coming soon!とりあえずKDPでまいります。

末弟・野川隆と関東大震災

 大正十一(一九二二)年秋、野川隆は六兄の圭の紹介で横浜税関に勤めながら、八兄・達の残した絵具で絵(おそらくは「ルソー」風の)を描き、七兄・孟が玉村善之助の元で創刊した海外新興美術雑誌『エポック』に詩作の寄稿をはじめていた。

 この頃隆が何処に住んでいたのかは定かではない。が、その前に俳優を志して転がり込んでいた先の芝日吉坂の十和田操の下宿からは既に出ており、後述する隆の油絵は関東大震災の際に横浜駅の荷物預かり所で焼失しているから、職場の横浜税関(現:神奈川県横浜市中区海岸通一ノ一)の近郊であったろうと思われる。

 隆の『エポック』時代の発表作品は、詩は四篇、小説一篇、飜訳一冊。まず大正十一(一九二二)年十一月第二号に詩三編「數學者の饗宴」「沼の水蒸気」「風の詩人」、翌号一二月第三号に詩「知見の虹」、翌号大正十二(一九二三)年一月第四號に初の小説「作品第三(宇宙・人間及想像)」を発表。翌二月の第五号は『輓近藝術特集號』と名を打った新興美術絵画の紹介のみで創作欄はなく、その翌三月第六号で、野川隆の初の訳詩集「立體詩三十八篇」が一冊まるまる当てられる(1)。

マックス・ウエバア『立体派詩集 “CUBIST POEMS”』の全訳「立體詩三十八篇」1923年3月

マックス・ウエバア『立体派詩集 “CUBIST POEMS”』の全訳「立體詩三十八篇」1923年3月

 この訳詩はロシア系アメリカ人マックス・ウエバア『立体派詩集 “CUBIST POEMS”』の全訳であり、壺井繁治によれば萩原恭次郎『死刑宣告』(大正十四(一九二五)年)の詩作に影響を与えたと言われる。同じ様に反響が高かった村山知義訳詩エルンスト・トルラー『燕の書』が大正十四(一九二五)年のことであるからそれよりも二年早い。これは新興芸術全般にアンテナの高い孟が選別し隆に訳させたものだろう。前述したように孟は編集の裏方に徹し、まるで隆の舞台を整えるかのように毎号に隆に何かを書かせている。

 この頃、隆は外国帰りの未亡人にしつこくつきまとわれる今で言えばストーカー事件が起きるが、稲垣足穂が二十代の野川隆を振り返り「奇異な感を抱かせるような美少年であった。たとえれば平安朝の童子か御所人形を思わせるかおであった」と述べ、また平野謙が三十代の隆を振り返り「はじめて野川隆を見たわけだが、その若々しい美青年ぶりに一驚した」と記した「野川隆=美青年」逸話の最初の事件である(2)。

 そのストーキングに業を煮やした隆は税関を辞め横浜から十和田の東京の下宿先に一旦身を寄せる計画を企てる。十和田の証言によれば、横浜を出奔したのが大正十二(一九二三)年八月三十一日。十和田の下宿に着いたその翌日、疲れ果て眠りこけていた二人は床下から突き上げられた。

 関東大震災。大正十二(一九二三)年九月一日十一時五十八分に発生したこの震災で一九〇万人が被災し、一〇万五〇〇〇人余が死亡または行方不明、建物全壊が一〇万九千余棟、その後の火災による全焼が二一万二〇〇〇余棟に及んだ。

 彼らの下宿のある芝日吉坂周辺は地震後の火災を免れた。前日の横浜からの出奔こそが隆に命拾いになったとも考えられるかもしれない。震災は東京よりも横浜の方が深刻だった。現に隆が二科展に出品する予定であった数点の絵画は、預けていた荷物とももに横浜駅で焼失した。また隆の勤め先の税関が位置する横浜港に、田山花袋の友人が震災の瞬間居合わせた際の状況をこう語る。

もう汽船は出やうとして、見送りのものも皆な階梯を下りて、気の早いものは、ハンカチを出して、それを振らうとしてゐたところさ。そこにぐらぐらとやってきた來たんだからね。それも、君、ひどいんだ。とても立ってなんかゐられないんだ。いや、振返ると、あの待合所の煉瓦がガラガラと崩れてゐるじゃないか。あっちは東京よりはぐつどひどかつたさうだが、実際さうだろう。見る見るいろいろなものが崩潰して了つたからね。何でも埠頭を走つてゐる自動車も二三臺人を乗せたまゝ海に落ちてつは言ふからね。何しろ、皆慌てゝ了つて、何うすることもできないんだ……。その中、あちこちが火になつた。そこからも此處からも烟が颺つた。

——田山花袋『東京震災記』(3)

 またその火災の後、横浜税関は避難民から襲撃を受けていた。

横浜は東京よりも被害がひどかった。一瞬のうちに全戸はほとんど全壊して、猛火に包まれた。何万人という避難民が横浜港の波止場近くの空地になだれこんだ。夕方になったが食う物がない。誰かが税関の倉庫の中には食料が一杯詰め込まれてあるといい出した。だが手を下す者はなく、空しく眺めていた。その時立憲労働党山口正憲という男が「税関を襲え!」と先に立ち、その女房と子分十数人がそのあとに続いた。それに勢いを得た避難民は、ときの声をあげて倉庫を襲い、戸を破って、ありたっけの食料をひきずり出して分配した。その立憲労働党というのは、いつも赤鉢巻で赤旗を振って街頭演説などをやっている左翼の真似ごとをする右翼の暴力団だということだ。あとの祟りを恐れた山口はその略奪を朝鮮人になすりつけ「朝鮮人が爆弾で倉庫を破壊して食料を強奪した」と、赤鉢巻、赤旗で、焼跡を宣伝して歩いた。この赤鉢巻、赤旗で社会主義者と混同されて、朝鮮人と社会主義者がいっしょになって、爆弾を投げて放火略奪をして歩くというデマが広がった。

——村山知義「演劇的自叙伝2」(4)

 このデマは被災地に急速に広がりを見せていた。後に一九三〇年代諷刺詩団体「サンチョ・クラブ」を隆と結成する壺井繁治もこんな目に遭っている。

翌日わたしは牛込弁天町かの居出の下宿に避難した。彼は早稲田の法学部を卒業後も学生時代の下宿に陣取り、そこから海軍省に通っていた。その避難先でも朝鮮人が家々の井戸に毒物を投げ込みまわっているとか、社会主義者が暴動を起こそうとしているとかいう噂で持ちきりだった。つぎの日の昼ごろ居出と連れ立って矢来下から江戸川橋の方へ歩いていった。そして橋の手前に設けられた戒厳屯所を通り過ぎると、「こらっ!待て!」と呼び止められた。驚いて振り返ると、剣付鉄砲を肩に担った兵士が、
「貴様!朝鮮人だろう?」とわたしの方へ詰め寄ってきた。わたしはその時、長髪に水色のルパーシカ姿だった。それは戒厳勤務についている兵士の注意を特別に惹いたのだろう。その時それほど気にしていなかった自分の異様な姿にあらためて気がつき愕然とした。わたしは衛兵の威圧的な訊問にドギマギしながらも、自分は日本人であることを何度も強調し、これから先輩を訪ねるところだから、怪しいと思ったらそこまでついてきてくれといった。

——壺井繁治「激流の魚 壺井繁治自伝」(5)

 隆が十和田がその震災直後をどう過ごしたのか。その詳細は不明だが、当然この流言は耳に入っていたにちがいない。九月四日、亀戸警察署に保護の名目で朝鮮人とともに拘留されていた南葛労働会川合義虎、純労働者組合長平沢計七ら十三名が、九月四日から五日にかけて習志野騎兵第十三連隊によって刺殺される事件が起きる(6)。九月十六日には大杉栄、伊藤野枝、大杉の六歳の甥橘宗一三名憲兵隊特高課に連行後、憲兵隊司令部内で絞殺された(7)。

 この事件が露見し世間で騒がれ始めた頃、隆は東京社(現ハースト婦人画報社)児童雑誌「コドモノクニ」の編集を手伝うことになり、十和田の下宿を出る(8)。

脚注

  1. その一年後に大正十三(一九二四)年に篠崎初太郎訳マックス・ウエバア『立体派詩集』が大阪の異端社から出ている。
  2. 先に記述した夭折した八兄の達も帝劇の客席に座る彼を舞台上から見初めた高木徳子が楽屋に引っ張り込みそのままか彼女の一座にねじ込んでしまったという逸話もあるように野川家が極めて「美形」の一族であったことがわかる。
    平野謙「晴天乱流 野川隆のこと」『文藝』 河出書房新社 1974
    稲垣足穂「「GGPG」の思い出」『稲垣足穂全集 第11巻』筑摩書房 2001
  3. 田山花袋『東京震災記』大正十三(一九二四)年博文館(復刻 1991)
  4. 村山知義「演劇的自叙伝2」東邦出版社 1971
    この引用箇所は村山が江口渙の震災報告を再掲載している。
  5. 壺井繁治「激流の魚 壺井繁治自伝」立風書房 1974
  6. 亀戸事件 – Wikipedia
  7. 甘粕事件 – Wikipedia
  8. 実際に携わったのかは不明であるが、この仕事を通して隆は村山知義と初対面している可能性が高い。村山知義は『演劇的自叙伝』において、明治三十四(1901)年生まれ同年である野川隆に関する記述が極端に少ない。『少年戦旗』編集方針に対する妻壽子の批判の相手として出てくるくらいである。明治期に医師の息子として生まれともに父を早くになくし、また大正から昭和という同時代の青春をともにアバンギャルドからボリシェビキへの放物線を明確に描き、村山『マヴォ』野川『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』お互いに作品を寄稿し、様々な同じ誌面で名前を並べ、また戦争末期にはともに満洲に居たという事実(かたや死にかたや生き残る)にもかかわらず、村山知義は野川隆には一貫して冷淡である。前衛藝術運動ピークにあたる大正十四(1925)年『劇場の三科』に関する記述で中ですら、玉村善之助を描いていながらその横にいたはずの野川隆を描いていない。
    村山知義 – Wikipedia

『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』


 

『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第一年第一集1924年6月、第二年第一集(1925年1月)、第二年第三集(1925年3月)

『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第一年第一集1924年6月、第二年第一集(1925年1月)、第二年第三集(1925年3月)

 翌大正十三(一九二四)年六月『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』を玉村善之助とともに創刊する。発行元はエポック社。雑誌『エポック』の方は震災の年の大正十二(一九二三)年三月の第六号マックス・ウエバア『立体派詩集』を最後に中断している。当時パトロンの玉村の財政が逼迫していたようだ。その年の春頃から前兆地震が関東で頻発して、関西出身の玉村は非常に不安を覚えていた。そこでその年の八月二十六日、玉村は深川から千駄ヶ谷穏田の家へ引き移った。

 恰好の家だと尾崎が知らせて呉れたのは、青山六丁目を神宮参道のほうへ、その中凹みを少しばかり先に行って右折したところにあった。崖下の背の低い二階建てで、べったりと尻持をついたやうな不格好な家だった。でもこゝへとりあえず下町から引移ってきたわたしは、ほんの五日あまりのところであの震災の火災をまぬがれたのだつた。

——玉村方久斗「随筆集世の中」昭和十四(一九三九)年

 玉村も、また同居人の七兄・孟も運良く難を逃れたのである。東京市深川地区は震災直後の火災でほぼ全域が焼失し、死者・行方不明者の数は四〇〇〇人余りに上っている。同じく運良く横浜から逃れていた隆は、この頃この玉村の千駄ヶ谷穏田の家に転がり込んだようである。

 隆と別れた十和田は兵役のため東京を離れていて一年ぶりに東京に戻った時に、偶然『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』の奇妙な名前の雑誌を手に取る。「野川隆」の名前が掲載されていて「詩のようなもの」を書いている。

これで見ると、あの野川は、青山神宮前の玉村邸に寄宿しているのかも知れないと思った。大垣の野川の兄の劇作家(筆者注:おそらく澂だろう)は昔東京時代に玉村氏とかなり深い交友があったことを聞いていたので、そう考えたのである。数日後電話してかれに会いに行くと、巨人の玉村画伯も出て来て、京都弁の早口で「ゲエ・ギム」の構想を語り、同人数名に名をならべて、きみもぜひ同人に加わらんかと誘われたが、具合がわるいので、才能も暇もないからと辞退して来た。お蝶さんというこれこそ真に夢二式の瑞々しい夫人も同座していた。

——十和田操「野川隆の青春」『作品 野川隆記念号』作文社 昭和四十九(一九七四)年

 玉村が先の随筆の中で、震災前の深川の家に「岐阜産の若もの二人」が同居していて、震災直前に穏田の家への引っ越しを手伝ったことを伝えているが、この二人に隆は含まれていないようだ。十和田の証言が確かならば、隆は震災時は十和田と被災し、その後に玉村の穏田の家で寄宿をはじめていることになるからだ。深川の家には七兄・孟が同居していたことは間違いないので、孟がその一人と予想できるまでも、もう一人別の「岐阜産の若もの」が住んでいたことになる(1)。事実その頃の玉村の家には多くの若者たちが集まっていた。

 どうしたはづみでそうなったのか、畫筆をとつて業としてゐたわたしの周圍にそのころ畑ちがひの文學志望の若者が同居したり寄り集つてきてゐた。これらの若ものはきまつて長髪にラツパズボンといふいでたちであつたし、藝術家氣質の多い文藝道を口にしながら過激な社會問題に關心を持つものの如くであつたし、もう一つそのころの新興藝術運動などと、新興とか運動とかそれだけで過激思想の同義語に一とからげに當局からにらまらてゐたから、さうした呼稱をしてゐたわたしたちも注意人物視されてゐたのであらう。

——玉村方久斗「随筆集世の中」昭和十四(一九三九)年

 もっとも「長髪にラツパズボンといふいでたち」の若者の一人として隆が居たには違いない(2)。一方で、七兄・孟の方は大正一三(一九二四)年秋頃には玉村邸を出ていた。

 一九二四のことであった。目黒駅に近い上大崎の、教会の隣りに味もそっけもない木造の洋館があった。私はその二階の二十畳ほどの一室にトランクと未だ封を切らないペパアミント一瓶をもって移っていった。その一階の薄暗い部屋にこの空室を教えてくれた野川孟が住んでいた。私がこの人物に会ったという偶然が、私の一生のコオスを非常に面白いものにしてしまったのである。このことを思うたびに、おかしくなり、一人の人間の運命のたわいもなさに思わず吹き出すのである。若し私が彼と会うことがなかったとしたら、当然に、私はどこかの法律事務所にはいるか、適当な新聞社の政治部の記者になるか、どちらかを選ぶつもりでいた。
 しかし、すべては全くコペルニクス転回というのをやってしまったのである。野川孟は私の頭から六法全書的知識をすっかり抜き出して、そのかわりにバウムガルデン風の美学を煙草の煙といっしょに詰めて呉れたわけである。

——北園克衛「「G・G・P・G・」から「VOU」まで」昭和二十六(一九五一)年一月

 上大崎の部屋で煙草の煙を吹かしながら「バウムガルデン風の美学」を語る孟が北園克衛こと橋本健吉を『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』に引っ張り込むのである。孟はその北園(橋本健吉)か編集に加わった『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』大正十四(一九二五)年一月に詩二編と評論一本を書き、翌月二月に「リンジヤ・ロックの生理水」なるSF風小説を最後に日本を発った(3)。

脚注

  1. 玉村の記憶違いとも考えられるが、以下参照。
    玉村方久斗「随筆集世の中」高見沢木版社 1939
  2. 萬万朝に井荻の玉村邸の写真掲載されるが真ん中に立つ長髪の若者が野川隆と思われる。
  3. 孟は朝鮮でその大正十四(一九二五)年に北鮮日報の記者となるが、大正十二(一九二三)年に橋本健吉はこの紙面で「カライドスコープ」なる詩を発表しているようだ。北鮮日報側にそういう感度の受け口があったことが窺える。

「都會の街々を動く、機械で出來た人間的な動物人形には、Gの發音の震動數と波形が氣に入つた」


 

 高見順が戦後にこんなことを書いている(1)

ホテルの部屋で、寝そべりながら、皆で雑談しているうちに、青柳が、ふと、自分が早稲田の学生時分、『散文精神の内的壊體である』をやっていたと言ったのである。
「君はダダイストだったのか」
 と私は言った。『散文精神の内的壊體である』というこの奇妙な名前のダダ雑誌を、私は知っていた。私自身、その頃、ダダイストをもって任じていたからである。
「僕はあの頃『廻轉時代』というのをやっていた」
 と私が言うと、
「ああ、『廻轉時代』——あった、あった」
 と尾崎一雄が言った。
「ゲエ・ギム・ガムなんてのもあったな」
 と青柳優が言った。
「そうそう、ゲエ・ギム・ガム・プルルル・ギンガム」
 と私が言うと、
「みんな違っている、ゲエ・ギム・ギガム・プルルル・ギムゲム」
 博覧強記の倉橋弥一が言った。これは今日の北園克衛、当時の橋本健吉がやっていた雑誌の名である。全回に「文黨」執筆者のひとりとして上げた野川隆はこの『ゲエ・ギム・ギガム・プルルル・ギムゲム』の同人である。ほかに、稲垣足穂、石野重三、田中啓介、平岩混児が同人であった。
「あの時分は、マヴォとか、ダムダムとか、ド・ド・ドだとか、ドンだとか、妙な名前の——これはみんな、ダダ系の雑誌だが、妙な名前の同人雑誌が多かったけど、同人雑誌というものも実に多かったな」
 と青柳が言うと、倉橋弥一が、
「現在、何かを書いている連中で、あの時分の同人雑誌やってないのは、先ずないといっていい」

——高見順『昭和文学盛衰史』

 高見順は続けて、梅原北明『文藝市場』大正十四(一九二五)年四月号「同人雑誌関係者一覧表」を取り上げ、当時の同人誌を数え上げている。全国に「雑誌名一六四種、関係者千百四十名」にも上った大正期同人誌文化の隆盛であった。『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』という「舌でも嚙みそうな風変わりな名前の詩の雑誌」(2)もその中の一誌である。もっとも当初は先の『エポック』休刊の中継ぎ的に創刊されたものであった。隆自身が『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』創刊号の編集後記でこう伝える。


 文藝美術誌「エポツク」は何れ最近に再刊し度い思つて居る——で、それまでの連絡をつけるために、「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」を出すことにした。「エポツク」では、しきりに海外の新藝術の紹介に努めたが、これでは、それをしないで、創作ばかり發表する。
〜中略〜

「エポック」が再刊されても、併し、この「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」は、このまゝ繼續して發行しようと思つて居る。此の名前に就いて直きに意味を聞きたがる人があるが、そんな必要はない。(少なくとも私の一個の解釋に依れば、)音樂的な感覺でわかつて呉れゝば可い。(蛇足を附け加へるならば、)都會の街々を動く、機械で出來た人間的な動物人形には、Gの發音の震動數と波形が氣に入つたのである。

ーー『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第一年第一集

大正十三(一九二四)年六月十三日

 孟の手引きにより翌大正十四(1925)年一月から発行兼編集人に橋本健吉(北園克衛)が加わったことで、より「Gの發音の震動數と波形」を増幅させることになる。その号から月刊での発行になり隆も橋本も独特な詩風の作品を矢継ぎ早に発表する。さらに四月には神戸にエポック社の支社を置き、関西方面にも影響を与えはじめていた。

野川君は当時、東洋大学に籍を置いていて、私の神戸における旧友平岩多計雄も同大学生だったところから、日本画家玉村方久斗が金主で、同家に書生として野川が編集していた『GGPG』に関係することになったわけである。

——稲垣足穂『GGPG』の思い出」

 隆が東洋大学にまだ籍があったのかどうかは不明であるが、関西出身の同級生経由で稲垣足穂が同年五月から同人参加する。この時期、足穂の他、当時『マヴォ』で盛んに暴れ廻っていた村山知義、三科参画していた九段画廊の画家・中原実(3)、戦後グラフィックデザイナー・宇留河泰呂(4)、モダニスト建築家・山越邦彦(5)、など詩人以外も多くの美術家・建築家が寄稿する大正期新興美術運動の一角を占める勢力になるのである。

脚注

  1. 高見順はこの「昭和文学盛衰史」の中で幾度か野川隆に触れていて、その鎮魂の念の深さに興味を持ち、筆者は今回の野川隆の追跡を始めた経緯がある。
    「この北園克衛と『ゲエ・ギム・ギガム・プルルル・ギムゲム』をやっていた野川隆は藝術左翼から左翼藝術へと轉換して『ナップ』に参加、のちに満洲で捕らえられて獄死した。私はここで野川隆の靈に脱帽するとともに、生きている北園克衛の操守にも脱帽せざる得ないのである」
    高見順『昭和文学盛衰史』文藝春秋新社 1958
    高見順 – Wikipedia
  2. 壺井繁治「野川隆の思い出」『作品 野川隆記念号』作文社 1974壺井繁治 – Wikipedia
  3. 中原実 なかはら・みのる 一八九三〜一九九〇 大正七(一九一八)年ハーバード大学卒後、渡仏し、ランス陸軍の歯科医を務めながら美術を学び大正十二(一九二三)年帰国。二科展入選。アクション、単位三科を結成,画廊〈九段〉を開設するなど,大正期新興美術運動の中心的存在
    中原実 – コトバンク
  4. 宇留河泰呂 うるがわ・やすろ 一九〇一〜一九八六 本名・宮崎辰親、パン・ウルガワ。金子光晴とも交流があり、上海芸術大学教壇にたち、パリを中心にグラフィック・デザイナーとして活動した後帰国。資生堂で帰国記念展を開催。昭和二十八(1953)年応募ポスターにより第1回日宣伝美賞を受賞
  5. 山越邦彦 やまこし・くにひこ 一九〇〇〜一九八〇 日本建築界の先鋭的モダニストとして活躍。玉村善之助の杉並区井荻の新居を設計『出た三科式の家一軒<妖怪の家>かと噂に上る」と新聞「萬朝報」大正十四(一九二五)年年九月二五日記事掲載。
    山越邦彦 – Wikipedia

「インテリギブレ・フライトハイト」の野郎ども

 橋本健吉(北園克衞)は後年こう振り返る。


私たちは「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」」という文芸雑誌を発行した。すでに私たち未来派、表現派、立体派については精通していたし、構成派やダダ、についても知っていた。高橋新吉らのダダあどうも汚くて面白くなかった。村山知義をリイダアとする意識的構成主義はその頃のジャーナリズムをよろこばせた。三科の造形運動は、ダダと構成主義の狂暴な突風となって強烈なスキャンダルを矢つぎばやに生みだした。かれらは、地震のために到るところに捨てられた鉄骨や廃品で、芸術のスキャンダルをつくったが、そこは政治、経済、社会に対する鋭い抵抗が諷刺が露骨にあらわれていた。この三科の一群のなかからMAVOという雑誌が創刊された。しかしその詩作品はまだ文学運動以前のものといってよかった。私たちは、MAVOとは全くちがった角度で詩を考えはじめていた。何よりも先ずその態度が知的で自由であることだ。私たちはそれをロシア語やフランス語やイギリス語でなく、ドイツ語でインテリギブレ・フライトハイトと呼んでいた。

北園克衛「昭和史の前衛運動」昭和三十二(一九五七)年三月

また同人の稲垣足穂も

「野川(孟・隆)兄弟は四谷の電車通うらの鍵手の入った所にある真四角な二階館に住んでいるとのことでした。空地にキャベツを作っていて、キャベツばかり食べているとのこと。この四角い家の話によって、私は一千一秒の中にある「自分のよく似た人」を着想しました。私は辻や高橋に代表される泥くさいダダを好みません。チュリヒ的なダダも日本に在ったということで「G・G・P・G」はもっと世間に知ってもらいたいと思っています」

—「稲垣足穂からの手紙」中野嘉一『前衛運動史の研究』沖積舎 2003


 辻潤や高橋新吉のやもすれば禅問答めいてくる「日本的ダダ」に対して、足穂の言う「チューリッヒ・ダダ」、橋本の言う「インテリギブレ・フライトハイト」=知的な自由を目指した『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』一派は、都会的に洗練された知性派としてのエコールを形成していく。

未知の人から原稿が大分集まつた。ひどく愉快だ。
ただG・G・P・Gを誤つて解釈してゐる人が大部分であるのは残念である。それから模倣が多い。現在のG・G・P・Gの形式はまだまだほんの幾何學的一點に過ぎない。どうか、本家本元をひつくり返すようなギムゲミズムの作品が現はれて貰いたい。
誤られ易い、「藝術の普遍的必要性」と「作家の個性」とか云つた概念なぞ振り捨てて來給へ。だが、兎に角、オリジナルであって——、もがいてもどうにもならない。あの見苦しい文壇を驚かしてもらひたいものである。
私たちに氣にいられようとして作つたものも困るではないか。

ーー『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第六集

大正十四(1925)年六月一日

 隆の言う「ギムゲミズム」においてどんな詩作が試みられていたか。その際だった例として「バアド・マンa氏の曲乘飛行」を上げよう。

「バアド・マンa氏の曲乘飛行」大正十四(一九二五)年六月

「バアド・マンa氏の曲乘飛行」大正十四(一九二五)年六月

驚くなかれ。この「数式でもない数式」が二十代野川隆の「詩」なのである。現代数学や理論物理学の知見をふんだんに取り込んだ実験詩——日本だけでなく世界文学史上においても極めて特異な「SFポエム」(北園克衛)が前衛期野川隆の作風であった。

 私のロバチェフスキー空間も実は野川によって教えられたのである。
 ソヴィエトのルーニク3号が初めてもたらした月の裏面の写真にソヴィエツキー山脈の左側に「ロバチェフスキー」という地名があたえられている。でも、これに先立つ約四十年前、カザン大学の総長であり、非ユークリッド幾何學の大立者でもある人の名を、日本文学の中に取り入れたのは野川隆君であることを諸君に銘記してもらいたい。

——稲垣足穂『「GGPG」の思い出』(1)

 大正十四(1925)年になるとこの珍妙な詩を書く「GGPGの野川隆」として名が知れ渡り、『マヴォ』(詩「無敵艦隊」大正十四(一九二五)年八月)『世界詩人』(詩「甲殻類建築」大正十四(一九二五)年八月)『文黨』(詩「海賊または食蟲植物」大正十五(一九二六)年一月)など、『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』以外の詩誌・文芸誌に前衛詩や翻訳詩を様々に発表していく。(2)

その頃の野川隆を橋本健吉(北園克衛)がこう綴る。

 ネオ・シュプリマチスト野川隆は玉村善之助の家に厄介にならなければならん程、窮迫のドン底に在るが、毎日、外国行きの旅費や、飛行機學校の學費の計算ばかりして居る。ゴオルデン・バッドを吸ひながら、ルート・マイナス・1劇塲臺本を執筆中。

——『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第四號 大正十四(一九二五)年四月

 時代の上で「尖った」感性を抱えた若き詩人は、この頃は玉村善之助宅エポック社でポスターやビラの図案製作などして日々の小遣いを稼ぎながら詩や評論を紡いでいた(2)。

脚注

  1. 稲垣足穂「「GGPG」の思い出」『稲垣足穂全集 第11巻』筑摩書房 2001
  2. この頃、井上康文「華麗な十字街」(大正十五(一九二六)年六月)の図案なども手がけている。

絶頂の『劇場の三科』

 大正十三(一九二四)年木下秀一郎(1)が起案し当時の新興美術勢力各派、旧未来派美術協会、旧アクション、旧第一作家同盟、マヴォ、が大同団結を企て「三科」(2)が結成される。旧第一作家同盟の中心メンバーたる(左派離脱後も『エポック』に「D・S・D意匠部」の広告が出していたが、自然解消されたようだ)玉村善之助はその「三科」に合流し、これが「劇場の三科」へと結実する。

 この「劇場の三科」とは言うなれば、一九一六年トリスタン・ツァラらがチューリッヒで起こした「ダダの夕べ」模した大正期日本版の前衛舞台であり、大正期新興美術運動の一つの頂点である。「三科」自体は中心的な人物が旗を振って進行したものではなく、震災復興で沸く街を暴れ回っていた美術家・詩人たちが自然発生的に「劇場にまではみ出して行った」(3)。翌大正十四(一九二五)年五月三〇日六時三〇分に築地小劇場でその舞台がついに開演される。

 実際この「劇場の三科」とはどのようなものであったか。高見順はこう記している。

『劇場の三科』というのを築地小劇場で行って、表現派の芝居などよりもっと猛烈な劇の上演やダダの詩の朗読の間に、突然オートバイを舞台の上に走らせたり、鉄板を叩いたりして、人々の度胆を抜いた。こうして劇場革命を行うという訳である。

—高見順『昭和文学盛衰史』

 ダダ的挑発を繰り返し観衆の「度肝を抜いた」数々の演目で玉村善之助『トロンボン・ブーツ・パーク・タンテラ』『莫児比涅海賊貴族古加乙温』が大トリを飾り、その中で「メカフォーンを持った演劇機構者」として「野川隆」もこの舞台に立っている。隆は「劇場の三科」をその後こう評している。

  「劇場の三科」總評
 最初の試みとしては成功である。
 だが、槪して、誰も、劇作家としては畫家であり過ぎ、舞台装置者、劇場藝術家として畫家でなさ過ぎた。それが豫期しなかつた、無意識的に現はれた現象であつたが故に、失敗に數へられなければならない。
 どの劇もどの劇もみな一樣に悒鬱で、舞臺が暗〔ママ〕い。恰度、ロマノフ王朝末期のロシアのシムボリズムのそれみたいだ。「亡び行くインテリゲンチャの悲哀」と云う奴だ。
 まどろつかしくて、落ちついてゐると人は云ふが實際はひどく性急な俺に適しないものがあつた。
 嗅覚的要素の導入も失敗であつた、と云へる。
 私自身の手傳つた劇に就いては、云ふのを差し控える。

『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第八號 大正十四(一九二五)年八月

 また既成演劇界の「劇場の三科」黙殺に対しては「有名な文士や定評ある劇作家たちは殆ど見に來なかつた。彼等が如何に無氣力で怠惰で不勉强であるか。そんなことでは、君たちはつひに「文學」から一歩も出られないだらう」と罵っている。

 またこの八月号で、エポック社が千駄ヶ谷穏田から西荻窪井荻上井草に移転通知を出している。この井荻もやはり玉村善之助の新居で『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』同人で建築家の山越邦彦に依頼して設計されたものだ。おりしも「劇場の三科」「三科会員作品展覧會」を経ている中での七月の建設だったために「出た三科式の家一軒<妖怪の家>かと噂に上る」と大正十四(一九二五)年九月二十五日の「萬朝報」で報じられた。

井荻の玉村善之助邸1925年9月「萬朝報」

井荻の玉村善之助邸1925年9月「萬朝報」

 また昭和三(一九二八)年『主婦の友』の住宅特集でも写真入りで掲載され「内外ともに大部分が城壁の木筋、効果と平面割は時分で、立面はもとより専門家Y氏を煩はした處女作、そこで失敗を云ふならこの平面割りに、度地慣れないうらみをのこしてゐる」と玉村自身が語っている。

 その後「三科」運動が空中分解するのが築地小劇場から半年も経たない大正十四(一九二五)年九月。「三科」の初の公募展である第二回展覧会の前にアクション神原泰(4)の除名から始まり、会期中にマヴォ陣営から解散声明が出された。

 それを報じた九月二十三日の『萬朝報』では「三科騒動の真相報告と演劇の会」開催予告も掲載される。この中のプログラムに「村山知義氏等の断末魔まで亂舞を演じようとの趣向」の他に「野川隆の講演」も混じっていた。しかし上野警察署から中止を命じたために結局開催されずに終わる(5)。やはり高見順がその内紛中の三科展を見ている。

 私は、その大もめの日に、会場の自治会館に偶然行ったが——いや、偶然ではなかったかもしれぬ。三科に出品した(そして、たしか落選した)ダダイストの友人(と言っても私と同じ一高生)に誘われて、行ったのだが、その友人から何か騒動があるらしいと聞いて、面白半分に行ったように思われる。その辺は忘れたが、忘れられないのは、巨漢の玉村善之助(のちの日本画家玉村方久斗)がハンマー投げの鎖を振り回して大暴れに暴れていた姿だ。「末期的智識階級」のひとりだった私には、それが何か痛快極まるものに感じられた。

——高見順『昭和文学盛衰史』

脚注

  1. 木下秀一郎 – コトバンク
  2. 三科 | 現代美術用語辞典ver.2.0 – Artscape
  3. 「展覧會の三科と劇場の三科」『みづゑ』二四五號 大正十四年(1925)七月号
  4. 神原泰 – Wikipedia
  5. 五十殿利治『大正期新興美術運動の研究』1997 スカイドア
    本著は「劇場の三科」に関する記述だけでなく大正期新興美術運動の中での野川隆に関する貴重な情報を得ることができた。

祭りの後の『劇場の三科』

 この「三科」が解散された後に、継続する形で中原実・玉村善之助らを中心として大正一五(一九二六)年五月に「単位三科」が企画された。昭和二(一九二七)年六月には「単位三科」による再び「劇場の三科」も上演されることになる。

 その中で野川隆は再び登壇し、自演舞踏『果敢なる運動 1鉄衣を着た踊り 2工場の踊り』披露した他、群衆劇『千万人のツアラトウストラ 廿五景』発表した。東京展を終了すると大阪に巡回し、この野川隆「千万人のツアラトウストラ」(1)は開局されたばかりの大阪JOBKにおいてラジオドラマとして放送された。

玉村 善之助「劇場の三科」ポスター1927(昭和2)年

玉村 善之助「劇場の三科」ポスター1927(昭和2)年

 しかし単位三科における「劇場の三科」は確かに「祭りの後」の空気であった。大正前衛詩・新興美術運動は一回目の「劇場の三科」の大正十四(一九二五)年が沸騰のピークであり、その年はおりしも普通選挙法にのセットで治安維持法が公布された年である。欧州ではイタリアでムッソリーニが独裁宣言し、ドイツでヒトラーが『我が闘争』第1巻を発表する。ソ連ではトロツキーが失脚し第十四回共産党大会においてスターリンの「一国社会主議論」が採択された(1)。そして翌、大正十五(一九二六)年十二月二十五日大正天皇が崩御。隆と同じ明治三十四(一九〇一)年生まれで隆の誕生日から六日後に生まれた摂政宮裕仁が即位。元号は「昭和」と改元された。

この北園克衛と『ゲエ・ギム・ギガム・プルルル・ギムゲム』をやっていた野川隆は藝術左翼から左翼藝術へと轉換

——高見順「昭和文学盛衰史」

 そのたった六日で終わる昭和元年の翌昭和二(一九二七)年一月、大正が継続することを前提として「大正十六(一九二七)年一月一日発行」と記載された『文藝解放』というタブロイド紙が出る。

『文藝解放』1927年1月

『文藝解放』1927年1月

 その同人として旧『赤と黒』壺井繁治・小野十三郎・萩原恭次郎アナキストメンバーらともに名を連ねた隆は、全匿名記事の中で唯一の記名「野川隆」で詩を一篇を発表している。

  嗅覚

 五群
 結合
 排列
 合同
 平行
 連續
 破けた靴には釘を打ち
 破けた胸には彈をぶちこむ
 へつへ
 風がびゆうと吹いてるなかを
 移動して行くのは細胞の集合體ぢや
 犬ではないか
 犬ではあるが
 うまさうな哺乳類ではないか
 足の裏の豆ツつぶで地球にさはり
 眼は空間を吸ひ込む貝殻のかけら
 黑いきれのひらひらの下で
 科學とは
 それは何か——と
 犬の鼻にでも聞いてみろ

『文藝解放』第一巻第一號 昭和二(1927)年一月一日

 既にこの段階で前衛期の難解で理智的な詩風を棄てている。その数ヶ月後の三月には明確な訣別宣言とも呼べる「生命を賭して生命する」を『太平洋詩人』に発表した。

 平明でなければならぬ。
 單純でなければならぬ。
 果敢でなければならぬ。  
 此の事は勿論餘りに生理的なことである。
 だが、生命の事實が生理的であることを要求するのである。
 これを否定する者は、愚劣きはまる煩悶と懐疑の遊戯にふけろ。
 死んでしまへ。
 〜中略〜
 僕は過去の作品を全部排出してしまひたい。出版することに依つて區切りをつけたいと思つて居る。勿論、最初から「藝術欲望の性質に對する研究的文献」であつたのだが、がそれが享樂靑年どもに感應してしまつた——と云ふことが不愉快きはまることである。
 橋よ燒けろ。

「生命を賭して生命する」『太平洋詩人』第二巻第三號 昭和二(一九二七)年三月

 そして昭和二(一九二七)年六月『銅鑼』に「蚤の卵に就いて」という短い評論が掲載される。

 文藝はつひに文藝である、從つて、如何なる思想の支配も受けない。——かう彼等は云ひたいのである。試みに此の言葉をそのまま受けついでみよう。『如何なる思想の支配も受けない藝術』——これは無政府的藝術であると云へる。『それなら何も、無政府主義藝術と云はなくてもいいだらう。』と彼等は得意になつて輕卒に云ふ。僕たちは答へる。『處が大いに必要がある。君たちはブルヂユア根性と奴れい根性の支配をうけた藝術しか持ち合はさないからだ。』
 だいたい、藝術と思想とが別箇に存在あるかの如く考へることが見當違ひなのであつた。
『狸はつひに狸である。』
『ビール瓶はつひにビール瓶である。』
『蚤の卵はつひに蚤の卵である。』
 そして、蚤の卵は蚤から生まれなかつた、とでも云ふのか。そして、また、つひには蚤にはならぬ、とでも云ふのか。
〜中略〜
 僕たちが現在如何に努力しようとも、搾取と支配の影響なしに制作することは絕對に出來ぬ。だから、今日云ふ所の純粹藝術は盡くブルヂユア藝術でしかないのは當然である。實に恐ろしく不純藝術であつたのだ。ブルヂユアの宣傳につとめて居るのだ。そして云ふ。『僕は僕だ。』この位ひ愚劣な事はない。これは個性と習慣とを混同した低腦なタイプに屬する蚤の卵である。蚤の卵をひねりつぶせ。

——『銅鑼』第十一號 昭和二(一九二七)年六月

 この文章の同月、隆は先述した「単位三科」の二回目の「劇場の三科」に加わったわけであるが、玉村善之助、中原実らの昭和初期のシュールレアリスムへの変容していく「単位三科」のもつ知的で洗練された前衛美術の空気の中で、隆は何を深く思い、考えていたのかは定かではない。ここから長い沈黙期に入る。そして翌大正三(一九二八)年、寄宿先である玉村善之助家の妻「お蝶」と井荻の家から駆け落ちをするのである。

(第一部Gの震動・完)

脚注

  1. 五十殿利治前著で本劇は『時間表と群衆の力学について』と改題の可能性があることを伝えている。
  2. 大正十四(一九二五)年は、大日本雄辯會講談社(現・講談社)が楽天的立身出世主義を謳う「面白くてためになる」大衆娯楽雑誌『キング』創刊した年でもある。翌大正十五(一九二六)年十二月 改造社が『現代日本文学全集』を刊行し、昭和の幕開けとともに円本時代が到来する。
野川孟編集『エポック』1922年10月−23年3月 1〜6號

變電叢書刊行準備【野川隆評伝:前期】Gの震動—1901〜1927  第二章 覚醒期【「江戸川亂歩」としての野川孟・『エポック』周辺・末弟野川隆の登場】

こんばんわ!社主持田です。
前回【野川隆評伝:前期】Gの震動—1901〜1927  第一章 揺籃期【野川二郎・十和田操・野川澂『高原』周辺】のつづきです!ようやく野川隆デビューまで。兄弟追ってたら平日更新だというのに毎度の如く長くなってしまいましたが、なのにまだデビューまで!もっとも野川隆ならびにその兄弟伝としては、現在の日本で最も掘り下げているはずです。がんばってまいります。

次回で前期評伝は終了です!のはずです!

何はともあれ變電叢書「野川隆著作集」まで今しばらくお待ち下さい。

Gの震動——1901〜1927 前期:野川隆評伝

初代「江戸川亂歩」登場

江戸川亂歩「間島方面の宣傳戰一班」掲載『高原 十一月號』大正10(1921)年11月

江戸川亂歩「間島方面の宣傳戰一班」掲載『高原 十一月號』大正10(1921)年11月
日本近代文学館所蔵

 先の『高原』十一月号(大正十(一九二一)年)に五兄・野川澂の詩「懶惰なる哲學者」と並ぶようにしてに現代の我々には特別な名前が出てくる。江戸川乱歩。書かれたものは「間島方面の宣傳戰一班」。その正字「江戸川亂歩」名義で日本で一番最初に発表されたものは探偵小説ではなく、この評論である(1)。

 間島(かんとう)方面とは中国吉林省の一部で中国・朝鮮の国境線の豆満江に朝鮮威鏡北道にも接し朝鮮民族居住地を指す。現在は中華人民共和国吉林省東部の延辺朝鮮族自治州一帯で、中心都市は延吉。当時は明治四十三(一九一〇)年日本に併呑され日本統治時代の朝鮮半島から逃れてきた人々も住み着き、朝鮮独立運動の重要な拠点とされていた。「間島方面の宣傳戰一班」はこの地の朝鮮独立運動に関するプロパガンダ戦の実態を報告した非常にジャーナリスティックな作物である。この異質なものが大正美術のレポートと評論、また創作を中心とした『高原』誌面に唐突に掲載されたわけである。

 既に「中国吉林省」「延吉」という地名で思い当たるかもしれない。「間島方面の宣傳戰一班」冒頭に「江戸川亂歩」自身からの経緯の説明もある。

實は私は大正六年の暮、間島に這入り龍井村に止まること一年半、其の間大正八年龍井村に於ける鮮人の獨立運動を目撃し、更に朝鮮威鏡北道に於いて二年半新聞通信に携はつて居た関係上、間島及び露支国境方面の情報に接する機會が多く、且つ大正九年十月琿春事變に引續いて行われた討伐に從軍して、比較的此地方に關して語る材料を有して居る。

——江戸川亂歩「間島方面の宣傳戰一班」『高原』第一年十一月號(大正十(一九二一)年十一月)

 「龍井村」つまり「中華民国吉林省延吉県竜井村」、野川隆の長兄・弘が「朝鮮総督府鮮人救療医」として赴任された地である。稲垣足穂が後年『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』時代を振り返りこう証言している。

野川(筆者注:隆)の兄(筆者注:孟)は新聞記者で江戸川乱歩を名乗っていた。ちょうど推理作家平井太郎の売出し中だったから江戸川乱歩は天下に二人いたわけだが、野川は「おれの兄の方が本物である」と云っていた。

——稲垣足穂『「GGPG」の思い出』「稲垣足穂全集 第11巻 菟東雑記」2001年8月 筑摩書房

 「探偵小説家」としての平井太郎=江戸川乱歩が中国朝鮮国境付近に滞在した経歴もなく、また朝鮮独立運動に興味を持った形跡もない。この「もう一人の江戸川乱歩」説として「辻村義介」の名が上がることがあるが、ここで明確に断言しておく。江戸川乱歩=平井太郎「二銭銅貨」デビューの一九二三年の前に、一九二一年『高原』誌上に「間島方面の宣傳戰一班」、一九二二年『エポック』誌上で詩「アインシユタインの頌」を発表した「江戸川乱歩」とは、隆の七兄・野川孟である(2)。

 野川孟は隆の六歳上の明治二十八(一八九五)年生まれ。長兄・弘が大正五(一九一六)年中国大陸に渡った翌大正六(一九一七)年、孟は兄の手伝いのために渡ったようだ。二十二歳である。その地で「一年半」と「二年半」足かけ四年の間、彼はその中国朝鮮国境付近に居たことになる。

 前半は兄の弘の医療現場の手伝いをしていたようだが、その詳細は不明。後半「二年半」は「新聞通信に携わっていた」というからこのタイミングで彼は新聞記者であったこともわかる(3)。そして内地(日本)に大正十(一九二一)年に戻った。ちょうど隆の上京の年である。

 ここから隆が母よしを「中華民国吉林省延吉県竜井村」に送った際に、その母と入れ替わるようにして末弟・隆ともに帰国したのではないか。仮に兄弟が別の便で戻った場合でも、隆はその年に新設された「東洋大学文化学科」に四月に入学している(4)ため、三月末には東京に戻っている。また孟は大正十(一九二一)年の秋には、日本に既にいたことも分かる。何故なら孟の国内での活動が把握できるのは、この「江戸川亂歩」が最初だからである。帰国した孟は、一旦五兄・澂の東京の部屋に身を寄せていたようだ。その江戸川亂歩「間島方面の宣傳戰一班」掲載の『高原』同号に澂の「黑い子猫」という小品も発表されているが、どうやら孟とおぼしきモデルが出てくるからである。

 この小説の中で澂自身を三人称で扱ったであろう「村木」という主人公が『高原』編集の進捗で頭を悩ましているところに、その「弟」が使いから帰ってくる。同人「浦上」の家に原稿催促に行ったのである(4)。原稿は早速書くそうだという回答を貰えた気楽さから「村木」は「浦上」の家の「亞米利加種」の「白猫」が大層可愛いという雑談を始める。すると弟は「僕は博兄さんの家にゐた黑猫が一等好きだ」と答える。

「ふむ。博兄さんの所にも猫が居るのかい」
「居るんだ。眞黑な小さい猫でね。それが仲々愉快な奴なんだよ。」
 村木は嘗て自分も行つたことのある植民地の兄の家と、その窓際の日向に蹲つてゐる小さな黑猫を想像して、怖ろしく悠長な、原始的な環境を可なり羨ましく感じた。大陸の限りのない鷹揚さを、もう一度落ち着いて味はひたい氣がした。

——野川澂「黑い子猫」『高原』『高原』大正十(一九二一)年十一月号

 「博兄さん」の「植民地」の家は「大陸」にあり、その地にその「弟」が居た。この弟が長兄・弘の家に母を送って一時滞在した末弟・隆がモデルの可能性も考えられるが、この不思議な黑猫のエピソード(5)を兄弟が話し終わると

「さあ、昨日の続きを始めようかな。」
 かう云つて弟は翻訳物にとりかゝった。

 澂から孟に編集がバトンタッチされた『高原』大正十一(一九二二)年一月号に初の「野川孟」名義(江戸川亂歩ではなく)で短い飜訳詩(6)が載る。翌二月に野川孟訳のスタークヱザー「フランシスコ・ゴヤ」論のが掲載される。この時、隆は未だ東洋大学一年生であり『高原』には未だ作品は発表していない。ゆえに澂と同居している「弟」のモデルは孟と考えていいだろう。孟はこの頃二十六〜七歳であったはずだ。「黑い子猫」掲載号の編集後記に「東京都外巣鴨町三ノ二六ノ 三ツ矢方 野川澂」とある。野川兄弟が住む下宿は巣鴨とげぬき地蔵の裏手あたりにあったようだ。

脚注

  1. 平井太郎=江戸川乱歩「二銭銅貨」デビューは大正十二(一九二三)年である。
  2. 後年北園克衛は「朝日新聞記者」であった事実を述べているが、この段階で朝日新聞社であったか不明。
  3. 官報 1921年02月19日 国立国会図書館デジタルコレクション
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2954678/14
    この官報の東洋大学の学生募集の告知の記載を観る限り旧制中学卒業生無試験入学であることもわかる。
  4. 同号の編集後記に「私は下記のところへ移った。編輯に關しては一切の通信を此所へ頂きたい。東京都外巣鴨町三ノ二六ノ 三ツ矢方 野川澂宛」と記されているが、その前号十月号の編集後記に「雜誌「高原」の編輯に關することは、東京市外巣鴨一〇五二 村雲毅一方 野川澂宛」となっており、澂は十一月に友人の村雲宅から離れたことが分かるが、ともに「巣鴨」で近所である。ここで弟が原稿の催促にいった「浦上」はおそらく村雲ではないか。
  5. 「植民地の兄の家」の黑猫が居なくなり、いくら探しても見つからず、「弟」は気まぐれに家の屋根に上って望遠鏡で辺りの植民地風景の中を探していると、そこからは遠くにある、その地で一番高い建物の「總領事館」の三階建ての屋根の上で黑い動くものがいるのが見える。まさかと思って
    「それで建物のそばまで行くと、此方からは見えない側に修繕を加へて居たので、幸ひなことにずつと上まで足場が架けてあった。それを上つて行つて、庇から上の方を見ると、散々人を探しあぐませた黑い子猫がちやんと居た。屋根の棟の所でぶるぶると顫へながら、救ひを待ち焦れているやうな、それでゐて助けが來るのが當り前のやうな顔付きをして居たんだ。それから勾配な急な屋根を這うやうにして上つ行つて、到頭抱いて來てやつたよ。」
    「さうか、まるでお伽話みたいな話だが、矢張り其麽そんな所に居たんだね。」
    此処まで聞くと、村木は黑い子猫のアドヱ゛ンテュアが酷く面白くなつた。
    「全く僕も總領事館の屋根の上に居やうとは思わなかつた。」
    「どうしてそんな所へ上つたものだろう」
    「更に想像がつかないね。第一あんなに遠い所へどうして出かけて行つたか、まるで解らないよ。捕へ歸つてくる途中でも、他の違つた猫ぢやないかと思つて随分ためして見た。何となく誰かに欺されて居るやうな氣がしてね。然し全くあの黑い子猫に相違なかつたのだから不思議だよ。」
    「ふむ全く妙なことがあるものだな。」
    ——野川澂「黑い子猫」『高原』大正十(一九二一)年十一月号
    その後「村木」はその「アドヱ゛ンテュア」お伽話風に想像していくという小品である。
  6. 澂から孟に編集バトンが廻った『高原』一九二二年一月号に掲載された訳詩メリイ・コールリツヂ「街燈」で初めて「野川孟」の名が目次に並ぶ。

七兄・野川孟

 もしかすれば、七兄・孟が野川兄弟の中で最も先鋭的な人物だったかもわからない。孟がその革新性の片鱗を見せるのが『高原』大十一(一九二二)年一月号、澂から急遽編集業務を引き継いだ時である。彼はまず『高原』の誌面を抜本的に改めた。孟はこの一月号から唐突に縦組を改め横組を敢行するのである。

横組『高原 一月號』大正11(1922)年1月

横組『高原 一月號』大正11(1922)年1月 日本近代文学館所蔵 

 商業雑誌における左開きの横組レイアウトはこの孟の『高原』が国内で最も早い(1)。このヨーロッパ風レイアウトはのちに北園克衛の前衛雑誌『VOU』等の実験的組版へも決定的な影響を与える。

 編集後記「横組に就いて」と書かれた一文の中で「今度の誌面の大變化にも驚かれたと思ふ全く豫告もなく突如として變つたのであるから、此點も𦾔來の読者に對して一應お詫びしなくてはならない」と述べながら、

けれども、吾々が今思い切つて、之を行つたのはあながち奇を衒つたと云ふ譯ではない。實は同人の中でも反對乃至尚早を唱える向もあつたが、國字改良、漢字制限、ローマ字論等が唱へられて居る今日、吾々としても多少つゝこ方面に注意を向けて、我が國の文化促進に向かつ努力することが出來たならば非常にいゝだらうと考へたから思い切つて斷行する事としのである。

——野川孟「編輯者から」『高原』第二年一月號(大正十一(一九二二)年一月)

 孟はこの編集交代を機に、兄・澂の編輯時代の大正教養趣味の白樺派的傾向からの切断を試みていたようだ。

此號から私が前編輯者と代つて、主として編輯の任にあたることになつた。突然の事でもあり、形式が全く變つた事でもあり、凡ての點に於て思ふ樣に行かなかつた。が道々改善を加えて行つて、夫れこそ雜誌刊行の上で一のエポツクを劃する樣な仕事がして見たいと思つて居る

——野川孟「編輯者の交送に就いて」『高原』第二年一月號(大正十一(一九二二)年一月)

 未曾有の第一次世界大戦後にヨーロッパで爆発したアバンギャルド——立体派、未來派、表現派、ダダ、構成派、その枠を突き破って渾然一体と化した潮流に孟は精通しており、また世界史的動向に対する感度の良さは他の同人の追随を許さなかった。『高原』大正十一(一九二二)年七月号の編集後記で本号は「ロシヤ號」にしようとした旨を触れながら、

ソヰ゛エツト、ロシアの藝術に関する文献は、繪畫にしろ、文字[ママ]にしろ餘り得られないので、困って居る。殊に、ロシア未來主義者の繪畫に到つては、殆んど僕たちの眼に触れない。僕はロシアの未来主義は嘗て日本へ来たブリユリツク、ザツキンやその他の連中のやうなものではないと思つて居る

『高原』大正十一(一九二二)年七月号

 大正九(一九二〇)年四月ロシア未来派の父と言われた「ブリユリツク」=ブルリュークらが来日、一年に渡り展覧会や講演会で全国を廻りそのまま渡米するが、当時、既にマレーヴィッチが未來派からシュプレマティズムへと到るソビエトにおける新動向を認識している(2)。

 二〇代の半分を中国朝鮮国境付近で過ごすまでの経歴は不明であるが(3)、この大陸での経験からも日本の狭い画壇・文壇の枠には収まらないアクチュアリティを獲得していた。その確かな見識は、高原会同人であり『高原』パトロンたる玉村善之助や『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』編集人たる橋本健吉のちの北園克衛のその後の芸術活動に深い影響を与える。

 この編集後記で末尾に東京「深川區西平町一七 高原會内 野川孟」と記されている。この住所は玉村善之助の自宅であり、これで孟は兄の澂が岐阜の大垣に戻ったついで「大正十年十二月二十八印刷納本」日前までには玉村善之助宅に移ったことが分かる。

 先鋭的な編集方針で「白樺派的なるもの」から切断を果たした『高原』に、野川孟名義で発表している作品は、様々な展覧會評、中に革命後のソビエトポスターの解説等、編集者として活躍は多岐に渡るが、『高原』誌上に発表した作品としては、飜訳評論一篇、飜訳詩一編、創作詩四編、小説一篇のみである。

野川孟編集『高原』1922年5・6・7月號

野川孟編集『高原』1922年5・6・7月號 日本近代文学館所蔵

 そのうち最初の孟の詩作「冬の印象」では「1917年の冬 豆滿江岸に佇みて」という副題のつくように孟の植民地時代の風景を活写したものであるが、一九三〇年代後半に渡満後の末弟・野川隆の詩を彷彿とさせる。一方でいくつかの都市風景詩も残しており、以下の実験的作品はその後『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第二集(大正十四(一九二五)年二月)で再掲されているものである。

野川孟「銀座街頭の夜」『高原』1922年6月号

野川孟「銀座街頭の夜」『高原』1922年6月号

 また小説は大正十一(一九二二年)五月と六月に渡り「母」を掲載しているが、これは先の中国朝鮮国境付近の間島(かんとう)を舞台にした朝鮮独立運動のテロリストをモデルとした作品であり、一九二一年当時でこの現在の中東情勢を背景にしたような国際性を持った作品は寡聞にして知らない。いずれも横組であり先頭の文字を大きくするドロップキャップを用いるなどの工夫がある。

脚注

  1. 日本において芸術雑誌が横組誌面で編輯されるのは『美術新報』の明治三十五(一九〇二)年三月が最初であるが、それは横組とはいっても右開きの横組みであった。一九二〇年代の都市グラフ誌でも同様で横組も右開きである。
    関井光男・曽根博義・鈴木貞美「文献渉猟-22-玉村方久斗と日本のモダニズム運動-2-美術文芸誌『高原』と『エポック』」『国文学 解釈と教材の研究』(学灯社 1989.12) p160-163参照
  2. ダヴィド・ブルリューク – Wikipedia
    カジミール・マレーヴィチ – Wikipedia
    その後も孟は『高原』の次に手がけた『エポック』二・三号でウスリースキイ「ロシア詩壇の話」の飜訳を掲載し、詩の側面からロシアの新潮流を追っている。
    「即ち未來主義から一轉したロシアの詩壇は、今やイマヂニズムの形式の上でにメタフィジカルな思想が盛られつゝ藝術の奔流を眼ざしてヒタ走っている」
    ウスリースキイ「ロシア詩壇の話(二)」『エポック』三號 大正十一(一九二二年)一二月
  3. 孟の作物を見る限り英語・ドイツ語・ロシア語また中国語・朝鮮語が堪能であったようであり、外地で新聞社に携わっていた関係で、積極的に海外文献を漁っていたこともうかがえる。孟は四年半の外地生活中も第一次世界大戦の戦中戦後の様々な芸術革命の動向をリアルタイム吸収しているからである。なおその後の隆の語学能力(英語・ドイツ語・ロシア語・中国語)も、ポリグロット(多言語使用者)であった孟を倣ったのではないか。

第一作家同盟(D・S・D)から『エポック』へ

 同年『高原』七月号には、先に記したように澂の最後の作品となる飜訳『影のない男』が掲載されているが、その飜訳の扉前に第一作家同盟(略称D・S・D)の成立趣意文が載っている。

 おそらく玉村善之助が筆者と思われる趣意文は、既成日本画壇に反旗を翻した独立系青年日本画家グループ、高原會、蒼空邦畫會、赤人社、靑樹社、行樹社の五団体、総員三十四名による大正十一(一九二二年)六月の大同団結宣言である。この第一作家同盟は「未来派美術協会(一九二〇)」「アクション(一九二二)」が洋画界における反帝展・反二科のカウンターであったように、日本画壇における反帝展・院展への対抗運動であった。直後に一年間にわたり発行を続けていた『高原』を廃刊する。もとから院展離脱グループとして成立したその同人母体「高原會」も解散し、この第一作家同盟へと合流するのが、その年の九月である。

 改めてこの大正十一年(一九二二)を振り返れば、戦後不況の社会不安の中で様々な社会運動が加速度的に形成され始めた年である。

 その三月、京都の岡崎公会堂に三〇〇〇人余が集結し部落解放運動の「全国水平社」が設立、日本最初の人権宣言といわれる「水平社創立宣言」を採択された(2)。四月、賀川豊彦らが神戸で日本最初の全国的農民組合「日本農民組合」が創立され全国の小作争議を組織指導を開始した(3)。六月、農民組織化を目指していた「小作人社」に挫折した古田大次郎は社を解散し、中浜鉄らと「ギロチン社」を結成。訪日中のイギリス皇太子のテロル計画など一連の襲撃事件を企てるもいずれも失敗に終わる(4)。

 七月、日本初の革命政党「日本共産党」(第一次共産党)が堺利彦を中央委員長として山川均、荒畑寒村ら野坂参三、徳田球一、佐野学、鍋山貞親、赤松克麿らとコミンテルン(第三インター)日本支部として秘かに創立された(3)。九月、所謂「アナ・ボル論争」が大阪天王寺公会堂にて行われた日本労働組合総連合の結成大会で両者の対立が頂点に達し、以後アナキズムが衰退していく(4)。

 この時勢の中で第一作家同盟も左翼芸術運動の色彩が当初から色濃く、岡本唐貴『日本プロレタリア美術史』の中で日本画におけるプロレタリア美術運動の幕開けとして位置づけている(6)が、メンバー全員がその運動に共鳴していたわけではない。

 『高原』パトロンであり高原會の中心であった玉村善之助自身もその思想とは距離を置いており、「烏合の衆」たる彼らは結成直後から内部分裂の兆しがあった。第一回展を翌十月東京と京都において開催するに及んで破綻は明確になり、その左派同盟員の脱退に到る。玉村は第一作家同盟第二期を率いることになるが、同月の十月、玉村善之助は「経営者」として「エポック社」設立。同居人たる野川孟を「編集人」として新興美術雑誌『エポック』を創刊する。そこでプロレタリア芸術運動の建設の直前たる「破壊芸術」として「表現派傾向」に留まる趣旨を玉村善之助自身が語る。

 ここで孟は縦横無尽に「雜誌刊行の上で一のエポツクを劃する樣な仕事」を実行することになる。そしてこの孟の「地ならし」が出来た上で作品を初めて発表したのが、末弟の野川隆である。澂が関係を作り、孟が可能性を吹き込み、隆がその上で創作を生んだわけである。

脚注

  1. 改めてこの大正十一年(一九二二)とその前後を振り返れば、時代が旧世界から新世界へと急激なシフトチェンジを示す様々な出来事で満ちている。
     二月にワシントン会議で海軍軍縮条約が調印され一万トン以上の主力艦建造が日本含む列強間で制限された。これを機にアメリカ・イギリス・フランス・日本の四カ国条約が締結され、一九〇二年以来約20年間にわたって日本の様々な外交政策の基盤であった日英同盟の満期となり終了する。
     大戦後世界的経済不況の社会不安の中イタリアでは、ムッソリーニは、一九二二年一〇月クーデターを起しローマに進軍を始める。国王はムッソリーニに組閣を命じ、ここで史上初のファシスト政権が誕生する。
     多額の賠償金で苦しむドイツは一九二三年フランス・ベルギーに工業地帯ルール地方を占拠された結果、パン1個が1兆マルクにも及ぶ空前のハイパーインフレが発生。ドイツ中産階級は凋落。その不満は国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の擡頭を許す。同年ヒトラーは「ミュンヘン一揆」を敢行し逮捕投獄。獄中で「我が闘争」を執筆することになる。
     ソビエトでは病で倒れたレーニンの不安をよそにスターリンが実権を掌握、一九二一年一二月ソビエト連邦が成立する。
  2. ギロチン社 – コトバンク
  3. 全国水平社 – Wikipedia
  4. 日本農民組合 – コトバンク
  5. 第一次共産党 (日本) – Wikipedia
  6. アナ・ボル論争 – コトバンク
  7. 岡本唐貴『日本プロレタリア美術史』造形社 1972

アインシュタインと末弟・野川隆のデビュー

野川孟編集『エポック』1922年10月−23年3月 1〜6號

野川孟編集『エポック』1922年10月−23年3月1〜6號 国立国会図書館デジタルコレクション所蔵

 『エポック』は僅か6号で終わった短命な雑誌であったが(1)、見開き一体の大胆で鮮烈なカバーデザインを最終刊まで手がけたが玉村である。

玉村善之助『エポック』第5號1923年2月表紙・裏表紙

玉村善之助『エポック』第5號1923年2月表紙・裏表紙


玉村善之助『エポック』第4號1923年1月表紙・裏表紙

玉村善之助『エポック』第4號1923年1月表紙・裏表紙

孟の編集方針は第一号編集後記でこう書いている。

本號は最初𦾔「高原」の體裁及内容を踏襲つもりであつたが、中途から全然新たな事業として遂行して行くことゝとして、一切第一歩から踏み出すことゝした。(中略)従來「高原」は美術雑誌として世間から取り扱われて來た。なる程美術に關係のある記事が多いから、さう取り扱はれるのも止む得ないが、「エポック」は、文藝美術を主とした雜誌であつて、決して純然たる美術雑誌でないことを斷つて置く

『エポック』第一號 大正十一(一九二二)年一〇月

 『エポック』は『高原』からさらに切断され、評論・創作の他「海外消息」を設け、美術・演劇・映画・文学など領域横断的に世界同時時代的なグローバルな新興芸術潮流を積極的に紹介し、かつ日本の既成芸術への対抗意識をさらに鮮明にしていく。

 ただし編集人野川孟名義で書かれたものは少なく評論二篇「表現派映画「朝から夜中まで」について」「立體派以後の藝術」のみである。「N生」名義での飜訳数篇と展覧會評などのエッセイ数篇、おそらく孟であろう編集者としての無記名の飜訳、海外消息文章が並び、裏方に徹していたようだ。

 玉村善之助も孟と併走するように新興芸術に対する理解を一層深めていく中、「破壊藝術として」「果たして藝術永遠か」「革命は先づ都會より」「輓近藝術の方向」などの新興芸術論の他、「D・S・D袂裂の眞相と私見」の声明や、変名や「T生」名義での寸評・画壇評などを発表している。

 そして『エポック』には今一度「江戸川亂歩」が出てくる。一九二二年十一月の第二號に諸端を飾るのが「江戸川亂歩」の詩『アインシユタインの頌』である。

江戸川亂歩『アインシユタインの頌』1922年11月

江戸川亂歩『アインシユタインの頌』1922年11月

またもう一つ「江戸川亂歩」名義で短いコラム記事が大正十一(一九二二)年『エポック』三號に載っている。この記事タイトルが「相對性原理の映畫」。アインシュタインの相対性理論を通俗的に解釈した映画がドイツで製作され、同年一〇月八日〜九日の間に神田青年会館で上映されたという記事である。

アインシュタインの學説殊にその新しき時空觀へと彼の新宇宙觀とは、將來哲學が、藝術等の上に非常ま影響を與へて行くものであるから、單に科學として研究する以外に若い藝術家たちが出來得る限り消化して置くことをすゝめる。(江戸川亂歩)

「相對性原理の映畫」『エポック』三號 大正十一(一九二二)年

 「江戸川亂歩」=野川孟は『エポック』では二回登場するが、どちらも「アインシュタイン」に関するものだ。医師の父と兄弟を持ち科学的知見を育まれた野川兄弟にとってアインシュタインの一九一〇年代に発表した様々の理論は非常な衝撃を持って受け入れられた(1)もあるが、当時日本でアインシュタインは全国で一大フィーバーを起こしていた(2)。同号海外消息欄にて「アインシユタイン敎授來朝」の報告もあるように、アインシュタインは大正十一(一九二二)年十一月に来日を果たし、全国で学術講演を行ったのである。岡本一平は「本年流行のもの十七種の考察」にて流行を揶揄っている。

 アインスタイン
 判らぬ、判らぬと言い乍らアインスタインの相對性原理といふものが流行だ。
 相対性という文字を男性女性の相対の研究といふ風に魅力あるものと受け取った若い人々は無いか。
 この原理の専攻家の某博士の私行上にある逸事によってアインスタインの名も世間的に流布する力を得なかったか。

岡本一平「本年流行のもの十七種の考察」『新小説』大正十一(一九二二)年十二月初出

 当時日本で「相対性」は「あいたい性」と読まれ世間では「性的」なものとして捉えられた逸話がある。「某博士の私行上の逸事」とはアインシュタイン来日講演時には通訳もした理論物理学者で『アララギ』歌人の石原純が原阿佐緒と起こした不倫事件のことである。このように世間はヨーロッパの理論物理学の新潮流に浮かれ気味に摂取したわけでが、その岡本一平「本園流行のもの十七種の考察」の中で同列に「畫家の洋行」が扱われている。パリに居る画家志望の日本人が当時八十名も居るという話の中で、第一次世界大戦中洋行を控えていたが、戦後に殺到したという事実がまずあり、そして、

他の原因は歐洲の天地もこの頃生氣を恢復し出し繪畫に於ても、新傳統主義や、表現派や立體派や幾何學派や未來派や、ダゝイズムやが再び力を籠めて宣傳し出さるゝ気運を帶びて來た。その力に吸ひ寄せらるゝのであらう。

 第一次世界大戦後、世界は変革・刷新の気運に満ちていた。ロシアは革命を達成させ、その時勢の中でアインシュタインの理論物理学さえ「新時代」の幕開けと捉えられた。大正十(一九二一)年来日したバートランド・ラッセルは改造社山本実彦に「世界の偉人を三人上げてほしい」と乞われ、「一にアインシュタイン、二にレーニン、三はいない」と答えたという。

 その同時代の欧州で爆発した様々な芸術運動の爆風は、確かに日本にまで届いていた。その爆風を真っ先に浴びた先に野川孟の『エポック』がある。

 そして末弟・野川隆がデビューを果たすのが、この江戸川乱歩「アインシユタインの頌」が掲載された『エポック』第二号の大正十一(一九二二)年十月である。詩三編「數學者の饗宴」「沼の水蒸気」「風の詩人」の詩三編を発表(同著作集収録)。兄の孟が編集後記でこう書いている。

本號に創作欄に紹介した詩『數學者の饗宴』他二篇は、此の作者の近什二十数篇の中から編輯者は選定した。作者自身としては會心の作ばかりではないらしいことを斷って置く。

 野川隆。当時、二十一歳。東洋大学中退後、横浜で外国商館員の六兄・圭の紹介で横浜税関で「時計巻き」という真夜中の見回り仕事をしいたて頃である。空き時間には死んだ八兄・達の絵具で絵を描き、七兄・孟の雑誌に向けて詩を書いた。

 七兄・孟のその後であるが、大正十四(一九二五)年一月『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第一集の編集後記で「嘗て「エポック」の編輯に非凡な技倆をふるってゐた野川孟は、こんどロシヤ周遊の途に就いた」と記され、翌月第二年第二集「リンジヤ・ロックの生理水」なる小品を最後に筆を断っている。翌々号三月の第二年第三集の編集後記には「野川孟への手紙を出し度い人は左記へ 朝鮮 清津府敷島町 北鮮日報社内」と再び外地へと旅立った。

野川孟が大正期に内地(日本)に居た期間は僅か五年である(3)

脚注

  1. 今回参照した『エポック』全号はいずれも国立国会図書館デジタルライブラリー(館内限定/図書館送信サービス)で閲覧可能である。
    『エポック』第一號(エポック社 1922.10)
    『エポック』第二號(エポック社 1922.11)
    『エポック』第三號 (エポック社 1922.12)
    『エポック』第四號 (エポック社 1923.1) 
     ※一部欠損箇所あり 秦泰「ダダ・ダダ」部分(玉村善之助の変名で『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第二集(大正十四(一九二五)年二月)で再掲)
    『エポック』第五號 (エポック社 1923.2)
    『エポック』第六號 (エポック社 1923.3)

  2. 『高原』時代の江戸川亂歩と並ぶようにして発表した五兄・澂が「懶惰なる哲學者」という、朝目覚めとともに一匹の蜘蛛を見つけて歌う詩の句の中でアインシュタインが取り上げられている。
    「アインスタインの立證した/四次元の世界であらうと、/乃至は尙新しき/十次元の世界であらうとも、/散歩の怠りの陶醉は、/哲學者の糧に相違ない。」
    また末弟・隆も後「ハイアロイド・メムブレーン氏の憶説」(『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第六號 大正十四(1925)年六月)でも同じく「アインシュタイン」を作品の中に登場する。
  3. 岡本一平『一平全集第13巻』先進社 1929-30 国立国会図書館デジタルコレクション
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170493/148
    また、「アインシュタイン相対ぶし」なるものが大正十一(一九二二)十二月三日の「新愛知」に掲載される。その一つが「アインシュタインさん心からかあい、かあい筈だよ、アインシュタイン(愛したいん)だもの、おやまあ相対的ですね。」
    また寺田寅彦も大正九(一九二〇)年小宮豊隆宛の葉書に「変体詩 その三」としてこのようなものを綴る。
    「りんごが棚からおこった
     星の欠けらをちょっとなめた
      オムレツカツレツガーランデン
      カントにヘーゲル、アインシュタイン
     みみずの目玉を見つけたが
     碧い瞳にちょっとほれた
     ファウスト、ハムレット、バーベリオンドンナーウェターパラプリュイ」
    当時のアインシュタインに対する熱狂に関しては以下参照。
    金子務『アインシュタインショック』河出書房社1981(その後、岩波現代文庫2005)
  4. 野川孟のその後の朝鮮半島での戦前戦中の足跡は不明であり、終戦後愛知県八日市市滋賀県八日市町(現東近江市)に引き揚げ、当地で京都新聞支局長を勤めて、唯一戦後の記名記事として、昭和二十四(一九四九)年『ニューエイジ』第一巻第一号(国立国会図書館デジタルコレクション館内限定)に「近江兄弟社 労働争議のない工場」という記事を書いている。その後の消息は今なお割り出せず、没年不明である。

(つづく)

父野川二郎が第一高等学校医学部教授時代に使用した教科書

變電叢書刊行準備【野川隆評伝:前期】Gの震動—1901〜1927  第一章 揺籃期【野川二郎・十和田操・野川澂『高原』周辺】

社主持田です。こんばんは!最近更新が多いのですが、大丈夫です!なんら自棄になってませんよ!

ところで變電叢書「野川隆著作集」をガチで電子パブリッシングする前に、今までの調査の成果をきっちりまとめたろうと、無謀にも手をつけてしまった「野川隆評伝」がとんでもない分量になりそうで、とりあえず前期の前期たる「揺籃期」のみを公開いたします。今回パブリックドメインEPUB作品公開はありません(没年不明者多数の一族なものですから)。もはや野川一族のファミリーヒストリーになっておりますが、まあやってる本人が心底楽しいんですから。いいんです。僕は文献狩猟だけ白米何杯でもいけます。

今回、持ってうまれたネチネチとした性格は幸いして、この年末年始の追加調査でびっくり!新発見多数であります。自分で言うのもなんでありますが、今日本で一番詳しい野川隆伝が仕上がりそうな予感です。

今回、レア人物たる五兄・野川澂も初登場です。この人物の調査のおかげで、ミッシングリンクが繋がり野川孟・隆がどういうルートで大正期新興美術・前衛詩運動の真っ只中へ登場したかも判明した次第です。文体はいつもと違い、さらに縦書き予定の原稿のため半角数字が抑え気味にしたものなので、大変読みつらいかもしれませんが、よしなに。

こちら前期1901〜1927年まで野川隆前期著作集正式版に「前期野川隆伝」として併載させていただきますので、斯うご期待!

Gの震動——1901〜1927 前期:野川隆評伝

第一章 揺籃期 目次

 「明治」の20th Century
 兄たち
 都市へ
 五兄・野川澂

「明治」の20th Century Boy

父・野川二郎『局処解剖学』(積成社 明治三十(一八九七)年九月

野川二郎著『局処解剖学』(積成社 明治三十(一八九七)年九月)

 野川隆は明治三十四年(一九〇一)年四月二十三日に生まれた。父・野川二郎(一八五二年八月五日〜一九一四年一月二〇日)は当時第一高等学校医学部教授で、すでに五十に近い。母は東京府麻布出身でかつて宮中女官であった「よし」(一八六五〜一九三七)。その二人の子供男ばかりの九男末っ子である。二郎が教鞭を持つ第一高等学校医学部はその後千葉医大専門学校、現在の千葉大学医学部であり、その医学部校舎と目と鼻の先の「千葉縣千葉町千葉六百二八番地」(現千葉市本町一丁目)が隆の出生地となる(1)。

 その明治三十四年すなわち一九〇一年、二〇世紀が幕明けた年でもあり、のちの昭和天皇も四月二十九日に生まれている。翌日には北海道から台湾まで皇太子御生誕の号外が舞う。隆誕生から一週間もしないうちに日本は祝賀ムード一色に染まった。偶然にも父二郎も一八五二年生まれと明治天皇と同年であり、そして明治帝崩御一九一二年から二年後に没している(2)。

 野川家のルーツは岐阜県大野郡数屋村(現本巣郡)で代々の医家である。二郎は東京大学医学部第三回生で、その同窓に森林太郎(鴎外)がいた。この年医学部新入生僅か七十一名。全国から集結した明治という時代のエリート中のエリートである。細菌学の医学博士号を得て、福島県立医学校校長兼県立病院院長、和歌山県立医学高校長兼県立病院院長、宮城県立石巻病院院長を経てから、明治二十七(一八九四)年第一高等学校医学部(のちの千葉医学専門学校。戦後千葉大学医学部前身)に赴任する(3)。

 解剖学や顕微鏡使用法での教鞭を持つものの、翌明治三十五(一九〇二)年十二月、隆が一歳と八ヶ月の時にその職を辞した(4)。そして故郷近くの岐阜県大垣市俵町に大垣病院を開業する。当時日本は日清戦争を経て日露対決を目の前にして日英同盟を締結した年である。

 隆はその大垣という地で中学(旧制)卒業するまで過ごすことになるが、この地の大垣招魂社(現・濃飛護國神社)に日露戦の戦病死した岐阜県出身者二五五二名が合祀されたのが明治三十七(一九〇四)年。またそれを機に社殿拡張改築の機運が高まり、岐阜県下在郷軍人会の手で集められた寄付金によって新招魂社が竣工されたのが明治四十二(一九〇九)年(5)。

 野川隆が幼年期にこの社の竣工式を観にいったのかは不明だが、その式典で賑わう街の風景を子供の眼で眺めたにちがいない。また大垣病院では復員した傷痍軍人ら姿を多数眼にしただろう。なおその日露戦争に二郎同窓の鴎外も従軍している。また長兄弘(ひろむ)は京都大学医学部卒業後、陸軍軍医になっている。

 明治四十三(一九一〇)年韓国併合があり翌年日本が列強との不平等条約改正にこぎ着けた年の明治四十四(一九一一)年の暮、大垣病院が不審火で全焼する事件が起きる。野川隆一〇歳。医家野川家の倣いで、九人の兄弟のうち四男まで皆医師であり、陸軍軍医であった長兄弘を除き次兄・三兄・四兄は大垣病院を切り盛りしていた。その三人がこの火災で命を落としているその火災後、次男・三男は相次ぎ病没している(6)2016年1月15日訂正

 翌四十五(一九一二)年七月二十九日に明治天皇崩御し「明治」という大帝の時代が終わる。明治時代の「スーパーエリート」であった父二郎は「明治」を追うようにして大正三(一九一四)年一月に死去。享年六一歳。

 同年六月に大垣医院の再建のため長兄・弘は陸軍を離れ大垣市に戻る。しかし蓋を開けてみれば創立以来重ね続けてきた莫大な借金があることがわかり再建を断念する。弘はその返済と野川家の家計のために日本統治化からまだ間もない朝鮮総督府の「鮮人救療医」として中華民国吉林省延吉県竜井村に大正五(一九一六)年中国大陸に渡る。

 その後大正七年(一九一八年)四月間島慈恵病院院長に任命され、大正十一(一九二二)年野川隆が大学進学のため上京する際に、母よしをその地まで送っている。その後も朝鮮京畿道立開城医院長などを歴任し定年後も昭和十二(一九三七)年に弘は現地で「野川医院」を開設した。

脚注

  1. 西田勝『近代日本の戦争と文学』(法政大学出版局2007)p209参照。他でもこの著作から初期野川一族に関する貴重な情報を得た。
  2. 明治天皇 嘉永五年九月二二日(一八五二年一一月三日) – 明治四十五年(一九一二年)七月三〇日 明治天皇 -Wikipedia
  3. この第一高等学校医学部教授時代に使用したとおぼしき教科書が国立国会図書館デジタルコレクションにある。奥付の発行人に「岐阜県平民 野川二郎」の記載と「千葉縣千葉町千葉六百二八番地」の野川隆の本籍住所の記載がある。
    野川二郎『局処解剖学』(積成社 明治三十(一八九七)年九月)国立国会図書館デジタルコレクション
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/833554/2
  4. 官報一九〇二年一二月二五日 国立国会図書館デジタルコレクション
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2949148/5
    なお先掲の西田勝『近代日本の戦争と文学』(法政大学出版局2007)では「8ヶ月後」とあるが官報の記載の方を採用した。
  5. その後昭和十四(1939)年に「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」(昭和14年3月15日内務省令第12號)による同年4月1日の官報告示を以って内務省指定の「濃飛護國神社」と改称される。濃飛護國神社 – Wikipedia
  6. 十和田操「野川隆の青春」『作品 野川隆記念号』(作文社 1974)p7内の証言によるが、野川家の説明において十和田は「N(隆)はその九男だそうである。このうち次男と三男と四男は、いずれも医学博士で、長兄の博士とともに大垣病院を手伝っていたが、先年病院の大火災の折、焼死したりしている」と、長兄弘も手伝っていたという記載があるが、軍医である弘は別の土地にいて、大垣病院を再建するために軍務を辞して戻ってきたという西田勝『近代日本の戦争と文学』の調査結果の採用する。なお西田は兄のうち三人が医師であったとされるが、詳細は不明(一名の兄の計算が合わなくなるが、早期に亡くなっている可能性もある)。2016年1月15日追記更新:上記十和田操の証言とは違うが上記野川延吉の著書で「相次ぐ二男・三男の病死」と記載あり、親族の病没の証言を採用する。四男に関してはやはり不明。
    野川延吉『一医師の戦中戦後記―真実の自由と平和を求めて』(創英社/三省堂書店 2005)

兄たち

 野川隆の他の兄たちに触れる。一〇歳で父を亡くした隆にとって、兄たちは生活、経済面の援助だけでなく、精神面でも多大な影響を与えた。先も記載したように野川家では、九人の兄弟のうち四兄まで医師であり、次兄・三兄・四兄の三人(詳細不明)はその病院火災で亡くなっている。さらにその下に四人の兄がいた。筆者による調査の結果、左記が現在判明している野川家の家族構成である。

野川隆家族構成

  • 父:二郎(1852〜1914)医師。細菌学医学博士。東大医学部卒。森鴎外同窓(第三回生)。代々の医家の出。
  • 母:よし(1865〜1937)東京府麻布生 元宮中女官。
  • 長男:弘(ひろむ)(18??〜1941)医師。元陸軍軍医。京大医学部卒。大垣病院継ぐも再建断念。「朝鮮総督府鮮人救療医」として中華民国吉林省延吉県竜井村に診療所を開設。子息は野川延吉(1)弘は現地に野川医院を開設。その龍井村で死去。
  • 次男:?(18??〜1911)医師 病院火災で死去 病院火災の頃に病死?2016年1月15日訂正
  • 三男:?(18??〜1911)医師 病院火災で死去 病院火災の頃に病死?2016年1月15日訂正
  • 四男:?(18??〜1911)医師 病院火災で死去 
  • 五男:澂(きよし?)(1893?〜?)小説家。玉村善之助(方久斗)発行の『高原』に作品発表し、その後編集人へ。この澂が大垣へ帰郷しと入れ替わる形で孟が編集人になる。『高原』編集後記に同人村雲毅一(大樸子)(1893.8.3ー1957.7.27)の友人と紹介されているため、だいたいこの同年か少し上くらいか?(3)
  • 六男:圭(けい)(18??〜?)外国商館員。東洋大中退後の隆に横浜税関の勤務先を世話。
  • 七男:孟(たけし)(1895〜?)朝日新聞記者。『高原』『エポック』『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』同人編集に関わり作品論評も多数発表。朝鮮に渡り北鮮日報記者に。引き揚げ後は滋賀県八日市町(現東近江市)に居住し京都新聞支局長。子息は野川洸(4)
  • 八男:達(たっす)(189?〜1920)家・俳優。帝劇で観客であった達が舞台上の高木徳子に見初められ楽屋に連れ込まれそのまま一座へ。結核で夭折。
  • 九男:隆(たかし)(1901〜1944)作家・詩人。

 長兄弘は中国大陸に渡っていたため、隆がじかに接していた兄たちが、五兄以下の兄たち、五兄・澂、六兄・圭、七兄・孟、八兄・達である。隆はこの四人の兄から文学・演劇・西洋美術の影響を強く受けた(後述するがこのうち七兄・孟は隆の少年期に日本にはいなかった)。

長兄の博士は病院崩壊後、開業医として上海に渡ったという。N(筆者注:野川隆)には今(筆者注:当時の日記の日付「一九一九年六月一三日(金)」)残っているの兄は、上海の兄は別として四人いる。その内で私がNの家で紹介された二人の兄は五男と八男でみな芸術家である。一人は演劇家で下の兄は洋画家であり、俳優である。芸術家も哲学者のように人嫌いをするが、会ってみると正直で気持ちがよい。

——十和田操「野川隆の青春」『作品 野川隆記念号』作文社 昭和四十九(一九七四)年

 「下の兄」の八兄・達は、東京で洋画学生をしていた頃に話題の高木徳子の舞台を観に帝劇に行った。その徳子に舞台の上から見初められ楽屋に引っ張り込まれ、あれよあれよという間に、一座に加わることになった。この高木徳子(たかぎ とくこ 一八九一〜一九一九)とは、大正期の一大ムーヴメント「浅草オペラ」でアメリカ流のダンスで火をつけ、トウシューズで踊った日本最初のダンサーとして知られる(5)。

 隆は「この兄の将来に」「大変大きく期待をかけて」いたが、その一座で俳優活動での無理が祟り肺を冒し大正九(一九二〇)年に達は死去した。ちょうど隆が大垣中学を卒業する年であり、この影響で隆は一年遅れて大学進学をすることになる。

脚注

  1. 弘の子息の野川延吉は大正八(一九一九)年生。遠藤周作『海と毒薬』(昭和三十二(一九五七)年)でモデルとなる「九州大学生体解剖事件」の戦犯容疑で昭和二十二(一九四七)年巣鴨拘置所に拘留。昭和二十三(一九四八)年横浜第一軍事法定にて有罪の宣告をうけ、昭和二十八(一九五三)年仮出所。
    九州大学生体解剖事件 – Wikipedia
    なお野川延吉が乳児期に育った中華民国吉林省延吉県竜井村で大学進学前の野川隆とスナップショットがある。大正九(一九二〇)年三月頃撮影。一九歳の頃の野川隆が写っている。(前掲:西田勝『近代日本の戦争と文学』(法政大学出版局2007)p211参照)。
    野川延吉『一医師の戦中戦後記―真実の自由と平和を求めて』(創英社/三省堂書店 2005)
  2. 筆者は「五男・澂」としたが、加藤弘子『大正期の玉村方久斗(2)』での「長兄」としている。
    「長兄の野川澂は『高原』第4号(大正一〇年八月)に創作を発表した後、同誌第5号(大正一〇年八月)から第7号(同年一一月)まで編集人の一人に加わっていた。その弟野川孟は、その後を引き継ぎ『高原』(大正一一年一月)から澂に代わって編集に加わった。これが大正一一年(一九二二)年七月に廃刊になり、その後の『エポック』になるのである」加藤弘子『大正期の玉村方久斗(2)』(東京都現代美術館紀要 1998)p5
    長兄は医院再建を断念し中国大陸に渡った「弘」であることは他文献で判明しており、次兄・三兄・四兄は既に亡くなっているので、この「野川澂」は十和田操が伝える「五兄」の「演劇家」でないかと推定した。最も日本にいた兄のうち一番年長であることは変わりがない。
  3. 野川洸は川崎彰彦・五木寛之と早稲田一文同窓同窓でなく川崎彰彦の滋賀県八日市市時代の友人として芝浦工大生であった野川洸と五木が出会うことになる。(川崎彰彦『ぼくの早稲田時代』(右文書院 2005)2018年11月24訂正。)で、五木寛之「こがね虫たちの夜」(1969)は友人高杉晋吾、三木卓、川崎彰彦、野川洸らとの学生時代をモデルにしたもの。五木寛之 – Wikipedia
  4. 前掲十和田操「野川隆の青春」『作品 野川隆記念号』(作文社 1974)参照
    高木徳子 – Wikipedia

都市へ

 少し時間を巻き戻す。大正八(1919)年、隆は大垣中学校時代の十和田操と出会っている。十和田操は筆名で、本名・和田豊彦。時事新報社記者時代、昭和四(一九二九)年に吉行エイスケ第二次『葡萄園』同人に加わり、伊藤整・尾崎一雄・上林暁・川崎長太郎らと『文學生活』同人を経て、朝日新聞社出版編集部で勤務。昭和十四(一九三九)年『屋根裏出身』第九回芥川賞予選候補作になる一作発表し、戦後は明治学院大学で教鞭を持ち、作家、児童文学者として知られる(1)。隆はその十和田との最初の出会いの時から詩を送り交流を始めている。

   
 風


 黄色い風が吹いてくりゃ
 春が来る
 青い風が吹いてくりゃ
 夏が来る
 赤い風が吹いてくりゃ
 秋が来る
 白い風が吹いてくりゃ
 冬が来る

——十和田操「野川隆の青春」『作品 野川隆記念号』作文社 昭和四十九(一九七四)年

 大垣中学五年大正八(1919)年生、隆十八歳の頃の素朴な詩である。おそらく本作が野川隆の残存する最も古い詩だ。そもそもで野川隆が詩作を志したのはいつの頃からだろうか。もともと父二郎も漢詩・茶道・生花・南画などの文人としての素養を持ち、文化的な気風が色濃い家庭ではあった。さらに二郎は近代科学の粋たる医学博士(細菌学)であった。大垣医院には顕微鏡や様々な実験器具などが設備されていた(2)。野川隆の前期詩作に見られる数学・物理学・自然科学の様々な知見や述語をおり混ざる詩風は澂、孟がその片鱗を見せて、隆が徹底して突き進めたものである。後に『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』ともに編集に携わる橋本健吉こと北園克衛(3)が

ほとんど完全にSFポエムである。そんなものは今のところどこの国にも存在しないし、これから先もたぶん存在したいかもしれないが、もしそういうジャンルがこれから発生するとしたら、ぼくたちがパイオニアということになることだけは確かだ。

——北園克衛「丸善からはじまった随想」『詩と批評』昭和四十一(一九六六)年七月

 このSFを「サイエンス」と「フィクション」と分けた場合、「サイエンス」性は医学者たる父と野川兄の上の半分から「フィクション」性を芸術家たる残りの下の兄たちから引き継いだに違いない(この「芸術家の兄たち」は後述する)。なお今回の著作集は北園克衛が言うところの「SFポエム」を中心に編んである。野川隆初期作品をまとめたものとして国内初の著作集になる。

 大正九(一九二〇)年三月に隆は大垣中学を卒業するが、先に記述した八兄の達の死もあって、隆は一年遅れの大正十(一九二一)年三月に東洋大学文化学部に入学準備のために上京する。「狂騒の二〇年代 ”Roaring Twenties”」。東京は工場労働者を中心にその十年間で人口流入が倍増し、急激に近代都市の相貌を帯びはじめた。第一次世界大戦の影響による「大戦景気」で都市文化が百花繚乱のごとく花開き、そのバブルが弾け急激に社会不安が増大していた。様々な社会思想が喧しく輸入されてきたのもその頃である。

 隆の入学した東洋大学は、当時、東京大学、慶応大学、早稲田大学、と並び「東京四学」と呼ばれ、「白山の哲学」や「詩人大学」とも謳われた学舎であった。後に「詩とは爆弾である!詩人とは牢獄の固き壁と扉とに爆弾を投ずる黒き犯人である!」と檄文が刻まれた『赤と黒』(大正十二(一九二三)年一月)同人に加わる詩人小野十三郎(4)も同じ年に同学部に入学している。また一九〇一年生まれの同い年の岡本潤も東洋大学や白山周辺でたむろしていた。また白山の「南天堂」では大杉栄・辻潤らアナキスト・ダダイスト、様々な「主義者」たちが気炎を吐いていた頃でもある(5)。もしかすれば彼らとの面識が新入生の段階であったのかもわからない。が、野川隆は二学年で中退することになる(6)。

 中退後は同じく上京して明治学院大学に通っていた十和田操の部屋に転がり込み、十和田の証言によれば蒲田の映画俳優や浅草の歌劇団等様々に出入りするなど進むべき道を様々に模索していたようだ。様々な変遷のうち、横浜で外国商館員であった六兄の圭の紹介で横浜税関の職に落ち着くことにになる。その頃十和田宛て手紙を送っている。

“時計巻き”という真夜中の見回り役をつとめている。アンリー・ルソーは税関につとめながら絵をかいた。ぼくもこのごろ達ちゃん形見の絵の道具で油絵をかいている。

——十和田操「野川隆の青春」『作品 野川隆記念号』作文社 昭和四十九(一九七四)年

脚注

  1. 『十和田操作品集』異色作家叢書(冬樹社 1970)
    十和田操 – Wikipedia
  2. 「父の生命の顕微鏡も全部焼失し、父はそれを苦にして間もなく死んだ」十和田操「野川隆の青春」『作品 野川隆記念号』(作文社 1974)
  3. 北園克衛 – Wikipedia
  4. 赤と黒(詩誌) – Wikipedia
    小野十三郎 – Wikipedia
  5. 寺島珠雄『南天堂―松岡虎王麿の大正・昭和』(皓星社 1999)
    岡本潤『詩人の運命』(立風書房 1974)
  6. 東洋大学を「一年足らずで退学」との十和田操の証言もあるが、野川隆が治安維持法で逮捕された際の『特高月報』昭和八(一九三三)年八月号の記載にならう(籍は置いていても一年足らずで大学に出ていない可能性はある)。また稲垣足穂の証言によれば大正十三(一九二四)年六月の『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』刊行のタイミングでも大学に籍は置いていたとの記載もあり(計算すれば大学3年生)詳細は不明であるものの、卒業はしていない。なおその後も東洋大学系詩誌『白山詩人』第一号(大正十五(一九二六)年七月)に正富汪洋・赤松月船・角田竹夫・岡本潤・小野十三郎・勝承男・多田文三・橘不二雄ら様々な詩派であるものの東洋大学に籍を置いたとされる面々とともに会友として巻末に記載されているが、『白山詩人』への野川隆の詩稿はない。

五兄・野川澂

 隆に税関職を紹介した六兄で横浜の外国商館に勤務していた圭の他、五兄・澂(1)また七兄・孟は、隆が上京する大正十(一九二一)年三月に東京、横浜にいた。つまり野川隆の国内にいる家族は全員東京近郊に勢揃いしていたことになる。ただ澂はその年の暮には大垣市に帰郷する。母よしは中華民国吉林省延吉県竜井村の長兄・弘の元に上京前に隆が送っている。もしかするとこの隆の上京により五兄・澂が内地にいる一番上の兄として大垣市の生家を守るために帰郷する羽目になったのかもわからない。

 五兄・澂は何で生計を立てていたのかは不明であるが、その頃の澂は玉村善之助(方久斗)の雑誌『高原』(2)に関わり大正十(一九二一)年八月号から寄稿をはじめていた。『高原』とは、横山大観率いる日本画壇と衝突した玉村善之助(3)が荒木留吉、田中一良、村雲毅一(大樸子)と院展離脱の新グループ「高原会」を結成し(大正十(一九二一)三月)、その機関誌として同年五月から発行されたものである。初期は『高原絵画展覧會』を催しながら雜誌を運営していくスタイルは『白樺』踏襲しており、作品も写実的傾向の強い自然主義を標榜していたが、意匠部を設置して、ドイツやソ連のポスター紹介、またそのポスター図案制作、室内装飾や舞台装置の製作を請け負うなどのデザイン方面へ早い段階で実践を試みている(4)

 この誌上に五兄・野川澂の小説「途上」が出たのは『高原』八月號、大正一〇(一九二一)年八月である。

野川澂「途上」掲載『高原 八月號』大正10(1921)年8月

野川澂「途上」掲載『高原 八月號』大正10(1921)年8月

 同時代の内田百閒「冥途」(一九二一)にも似た夢小説である。この号の編集後記に

「途上」の作者野川(筆者注:澂)は僕の友人だ。ここ五六年の間は作らざる作家としてひどく黙りこくつてゐたが、今後は、どしどし實のあるものを書くといっている。ほんとの作家になつたさうだ。「途上」は彼の言によればほんとの小説ではないそうだが、彼の所謂「素描や習作で埋つてゐる」現文壇のなかにあつては、これも創作として立派に鑑賞出來ることゝと思ふ。

——村雲毅一「重寶記」『高原』八月號 大正一〇(一九二一)年八月

 と村雲が「友人」として紹介しており、村雲の来歴をみると旧制岐阜県立中学時代に同窓の可能性が高い(5)。その後「『高原』は十月號から野川が主となって編輯することになった」と村雲が九月号の編集後記で書いている。

 澂はつづけて小説「第三者」(同年十月號)、詩「懶惰なる哲學者」小説「黒い子猫」(同年十一月號)を発表した後で、翌大正十一(一九二二)年一月号同人通信欄で「野川澂 十二月大垣市に歸る」と急遽記載され、さらに「編輯者の交送に就いて」という連絡欄の中で、初めて七兄「野川孟」の名前が上がるのである。

此號から私が全編輯者と代つて、主として編輯の任にあたることになつた。突然の事でもあり、形式が全く變つた事でもあり、凡ての點に於て思ふ樣に行かなかつた。が道々改善を加えて行つて、夫れこそ雜誌刊行の上で一のエポツクを劃する樣な仕事がして見たいと思つて居る
——野川孟「編輯者の交送に就いて」『高原』第二年一月號(大正十一(一九二二)年一月)

 前年十二月に澂は急遽帰郷せねばならぬ問題が起きて編集を弟の孟にバトンを回したにちがいない(6)。半年後(七月号)にシャミッソー『影のない男』の翻訳とその評論を寄せたのを最後に澂の消息は掴めていない。残したものは創作四作品翻訳一篇評論一篇のみ。もっとも隆の兄の中で一番最初に作品を世に出したのがこの澂である。

 ここで重要なのは、村雲毅一経由で弟二人野川孟・隆を玉村善之助へと繋いだ点にある。『高原』に続き玉村がパトロンとして発行された『エポック』『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』は大正期新興美術運動ならびに前衛詩運動の重要な一角をなした。

 もっとも後述するが、村雲と同じ明治二十六(一八九三)年生まれの玉村善之助が歳下の孟・隆に芸術的な指導や影響を与えたというよりは、逆に「新時代の感性」を持つ野川兄弟から影響を受けたと考えた方がよい。玉村は大正から昭和にかけてその新しい感性を吸い尽くそうかとするかのように野川兄弟と併走したといえる。また末弟の隆を玉村家の書生としても住み込ませることにもなる。

脚注

  1. 野川孟・隆の「二兄弟」ではなく澂を加えて「三兄弟」の事実を伝えてくれたのが以下の東京都現代美術館紀要の加藤弘子の論文である。今回、玉村善之助(方久斗)の調査から以下の加藤弘子の論考を発見できたのは誠に僥倖であった(そこからそれ以前に『国文学』で関井光男氏他「文献渉猟」における玉村方久斗『高原』特集で「野川澂(野川隆の兄)」と記載あることが分かったが、五兄・澂に関しての論述は、現在野川隆研究に関する文献は集めうるかぎりは集めていたつもりであったが、その名を眼にしたことがなかった)。これにより『エポック』以前の野川孟・隆兄弟の前史としての『高原』を辿ることができた。これにより玉村善之助と野川兄弟を繋いだ線が明確になった。もっとも加藤弘子は「長兄」としているが本稿の「五兄」が正解かは不明であるが「長兄ではない」と訂正はしておきたい。
     加藤弘子『大正期の玉村方久斗(1)』(東京都現代美術館紀要 1997)p4
     加藤弘子『大正期の玉村方久斗(2)』(東京都現代美術館紀要 1998)p5
  2. 今回参照した『高原』号は以下。いずれも日本近代文学館に所蔵されている。
    『高原』第一年八月號(岩瀬書店 1921.5)
    『高原』第一年十月號(岩瀬書店 1921.10)
    『高原』第一年十一月號(岩瀬書店 1921.11)
    『高原』第二年一月號(岩瀬書店 1922.1)
    『高原』第二年七月號(岩瀬書店 1922.7)
  3. 玉村善之助は野川兄弟との関わりが深いため後述する。玉村方久斗 – Wikipedia
  4. 関井光男・曽根博義・鈴木貞美「文献渉猟-22-玉村方久斗と日本のモダニズム運動-1-美術文芸誌『高原』と『エポック』」『国文学 解釈と教材の研究』(学灯社 1989.11) p158-161
    関井光男・曽根博義・鈴木貞美「文献渉猟-22-玉村方久斗と日本のモダニズム運動-2-美術文芸誌『高原』と『エポック』」『国文学 解釈と教材の研究』(学灯社 1989.12) p160-163
    紅野敏郎「逍遥・文学誌-61-新興芸術誌「高原」–田中一良・玉村善之助・野川孟ら」『国文学 解釈と教材の研究』(学灯社 1989.12) p172-175
  5. 村雲の生年月日から澂を明治二十六(一八九三)年生まれか少し上くらいではないかと筆者は推定しているが、生年没年ともに詳細は不明である。ただし同人である玉村善之助・村雲毅一と同世代であったであろう。村雲大樸子 -kotobank
  6. 『高原』大正十(一九二一)年十月号に掲載されている野川澂「第三者」は私小説に近いものと推定すれば、その中で従兄弟における婚姻トラブルの存在を臭わせているが、詳細は不明。

(つづく)

「戦後70年談話」における「挑戦者」なるモノの「ある側面」としての野川隆後期詩『丘の上の鏟地』『夢みる友』初公開と14回芥川賞候補作『狗寶』再掲と『哈爾賓風物詩』を歌う池田隊長【懲りずに變電社再起動宣言】

あまりにも久しぶりすぎて芸風忘れてしまった變電社社主持田です。ご無沙汰過ぎていますが終戦70年目の本日に何かポストしようとしていながら、だかこその逡巡が深いまま、日付変わって16日になってしまいました!

何はともあれ懲りずに再起動宣言です。諸々中期野川隆調査結果をため込んでいるだけで発表もせねばなりません。また出す出す詐欺中の「著作集」出しますよ。遅れている理由は諸々ありますが一番の理由はこれびっくり。完全に我が怠慢です。

まず今回怠慢野郎の再起動宣言の狼煙として素敵な援護いただきました!毎度の某業界ではおなじみの池田敬二ゲバラ軍楽隊長殿が『哈爾浜風物詩』の「新馬家溝にて」を歌っていただております!

ああ満洲の風が吹いてくるようだ。ありがとうございます。70年目の終戦前日に弔いができた気持ちで心より多謝です。

以前記事(【大復活祭!電誌「トルタル」5号発刊記念】「野川隆の放物線Ⅱ」詩編『數學者の饗宴』『哈爾浜風物詩』他【続きはトルタルで!】)でも公開していますが、再度こちらに『哈爾浜風物詩』を再掲載します。

野川隆『哈爾浜風物詩』康徳7・昭和15(1940)年5月

『哈爾賓風物詩』

「新しい国際秩序」への「挑戦者」のある側面

さて話変わりますが、去る8月14日。安倍晋三内閣総理大臣から所謂「戦後70年談話」がありました。言わずもがなでマスコミ報道の揚げ足取り的な物言い含めて賛否両論の炎上談話でありますが、とりあえずイデオロギッシュなことは置いておいて、僕が気になったのが以下の文です。

満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。
そして七十年前。日本は、敗戦しました。
——産経ニュース【戦後70年談話】首相談話全文 2015.8.14 18:03

奇しくも「満洲」という言葉が出てきたわけでありますが、その首相が言うところの『「新しい国際秩序」への「挑戦者」』が「進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。そして七十年前。日本は、敗戦しました。』の短い文章で省略された「挑戦者」の現物の生が、北満の大地で、どういう形の日本語でもって写されたか。

そのサンプルとしての野川隆後期未公開詩を公開します。

野川隆『丘の上の鏟地』康徳6・昭和14(1939)年10月

野川隆『丘の上の鏟地』

野川隆『夢みる友』康徳8・昭和16(1941)年4月

野川隆『夢みる友』

野川隆の改めて略歴です(細かいの内容はWikipediaか變電社の過去記事からどうぞ)が、百花繚乱の大正期前衛詩運動から「ボル転」しプロレタリア文学の牙城の「ナップ」の編集部員であり非常時共産党員として非合法活動に従事し小林多喜二と同時期に検挙され出獄後、昭和13(1938)年11月渡満。満州国浜江省呼蘭県の農事合作社に勤務し「北満合作社運動」にて満洲国の最底辺の貧農救済活動に従事。その中で書かれた小説「狗寶」が昭和16(1941)年の第14回芥川賞の候補作品となりますが、こちらも前回公開(野川隆生誕114年記念】芥川賞第14回候補作『狗寶』『作者の言葉』ならびに前回未収録最初期エポック時代詩作『風と詩人』公開【變電叢書近日リリース宣言】)してありますが、上の『夢みる友』と同時期のものなのでこちらも改めて再掲載します。その「挑戦者」の最末端最下層の一般労働者としての挿話的な現物の生であります。

野川隆『狗寶』康徳8・昭和16(1941)年5月

野川隆『狗寶』

その後期の作者の言葉も改めて引用しておきます。

作者の言葉
 滿洲へは始め開拓團を見るつもりで旅行して來たのだが、此方へ來て滿洲の人口の八十パアセントを占める滿洲農民の存在に今更のやうに氣づき、之を究めることなしに満洲が解るわけはなからうと思つた。それで、そのまま腰を落ちつけて合作社に入り、その仕事を通じて滿洲農民社會生活の叢林にわけ入らうとしたのである。併し、之も結局仕事に追はれて充分に果たすことは出來ないでしまつた。經濟的な調査ならば時々の下屯でも或る程度まで果たせなくはない。だが、血の通つてゐる生身の人間たちの形象化となると、事態は全く別である。實に困難だ。不可能に近い。さういふ状態の中で、可能な限りの努力をしてみたものの一つが之である。
 今は私は合作社を退き、彼等と生活をともにする前提として、農村が經濟的に依存してゐる地方小都市のなかの、豪農の家の炕の上で寢起きして居り、かうしてこの小都市の農村と關連に於いていくらでも覗けたら、來春はいよいよ屯子で暮さうと思つて樂しみにしてゐる。

この同年です。太平洋戦争勃発直前1941年11月「満洲国治安維持法」でフレームアップされた「合作社事件」として一斉逮捕された中の1人として収監。懲役三年で収監され奉天監獄での過酷な環境の中で衰弱し重篤。仮出獄が認められたが昭和19(1944)年12月23日奉天医大病院で死去。享年43歳8ヶ月。

野川が内地から逃れるようにして渡った「外地」中国大陸で確固たる「滿洲農民」を見出し、彼の『哈爾賓風物詩』の「エミグラントに生きる」ことよりさらに深く「挑戦」を企てながらそれが適わないまま世を去りました。

「日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。
そして七十年前。日本は、敗戦しました。」

上の野川後期作品は全て「進むべき針路を誤」ってから「そして七十年前。日本は、敗戦しました」までの深い谷間で「真面目に働いていた人々」の詩であり小説であり、写された人々は、日本人だけでなく中国人(満洲)農民たちであり、彼らと野糞まで一緒にする日本人労働者たちです。

そんなわけで、更新もままならないままでありましたが、地道な蒐集活動結果、野川隆の今集められるだけの作品は全て手許にあります。粛々と電子化公開をすすめて著作集を年内に出す(これは必ずや)所存でありますので、變電社再起動宣言今回は随分硬苦しくはじめましたが、引き続きよろしくお願いいたします。

社主 持田泰

『満州短編小説集』滿洲有斐閣(1942)「作者の言葉」69頁(38コマ)より

【野川隆生誕114年記念】芥川賞第14回候補作『狗寶』『作者の言葉』ならびに前回未収録最初期エポック時代詩作『風と詩人』公開【變電叢書近日リリース宣言】

唐突ですが、社主持田です。

本日4月23日は野川隆114歳の誕生日にあたります。

野川隆著作集を公開をを目指しておりますが、公私にわたる多忙ゆえに手間取っておりまして非常にお待ちいただいている皆様、また「詩人の魂」に面目ないところですが、近日必ず出しますのでしばしお待ち下さいませ。

本日は後期野川の一つの到達地点で戦前期芥川賞第14回候補作にもなった短篇「狗寶」の公開と、野川の一つの源流たる最初期『エポック』時代の試作「風と詩人」を公開いたします。

野川隆『狗寶』昭和16(1941)年下期年5月

『狗寶』

ちなみに日本の常用漢字にない

ウイ

ウイ

なる名の登場人物に関しては外字を使用しておりますが、昨晩唐突に公開を思い立ってお手伝いいただいた變電社技術工作隊原田晶文波野發作先生スペシャルサンクス引き続きヨロシクお願いいたします。

初期詩作から一気に後期に飛ぶと、こうまで作風が変わったのかと全く驚愕するころであります。後日もう少しこちらの作品レビューに触れたいと思いますが、今回は野川自身によりレビューで。

野川隆『作者の言葉』康徳9・昭和12(1942)3月

『作者の言葉』

野川が内地から逃れるようにして渡った「外地」中国大陸で何かを見出し、さらに手応えを得て、以前も紹介した彼の『哈爾賓風物詩』の「エミグラントに生きる」精神よりさらに大陸の深く深く潜行していく詩人の後ろ姿を見るようであります。

なおその後の野川の足跡は同年太平洋戦争勃発直前にあたる11月「合作社事件」の一斉検挙された50余名のうちの一人として収監され、その後、奉天監獄での過酷な環境の中で衰弱し、仮出獄が認められたが昭和19(1944)年12月23日奉天医大病院で死去したことは既に伝えております。「潜行」を図ることがほとんど出来ないままに世を去りました。

今回も「放物線」の距離を測るべく、最初期も同時に紹介いたします。

野川隆『風と詩人』大正11(1922)年11月

『風と詩人』

こちらは前回の「野川隆著作集1」公開時にはどうしても探し出せず収録断念した作品ですが、国立国会図書館デジタルコレクションの目次データ漏れていたために検索に引っかからなかったのですが、後日ようやく見つけ出せました。最初期の「沼の水蒸気」も回収できておりますので、著作集には追加させますのでお待ちください。

きさまは、きさまの書くどの詩よりもつと深刻な、
自殺した狂人の(血みどろの死骸)といふあさましい詩劇を演るが、いい!

この「風」の最後の捨て台詞は意味深でありますが、予言的であったとは全く思いません。野川隆晩期は間違いなく狂気とは違う方面へ向いておりましたので。もっとも疾風怒濤の時代が幕開けんとした1922年。その後の彼は前期詩編でもわかりますように、「靜かな詩」を捨て「外のあらあらしい風が、星とともに」ある世界へと離陸していきます。彼はその後も何かを振り捨てるように作風を変えていきますがそれが彼の放物線です。引き続き詳らかにしてまいりますが、本日はこれにて!

以上、あっさりとですが、どうしても本日4月23日中には何かを公開しないことには!という意地だけで、仕事明けに渋谷のカフェで温めていた作品公開を敢行いたしました!どうぞご賞味ください。

また近日トルタルでも野川隆の生きた時代と世代論を公開していきますので、こちらも乞うご期待!

詩人の魂に。
お誕生日おめでとうございます。
そしてどうぞ安らかに。

持田 泰

「世界文藝史上最初の試み」という原稿叩き売り現場

【20世紀跨ぎ生まれ「X」とその世代】「公敵」としてのコンテクストメイカー梅原北明『殺人會社』『文藝市場宣言』『火の用心』『ぺてん商法』【FIGHT THE POWER】

大「變」ご無沙汰しております。社主持田です。当サイトの更新ならびに念願の野川隆集のストア公開がままなっておりませんが!お待ち下さいませ!凡てはいつのも如く公私にわたる諸事情の結果の社主の「怠慢」です。近日出します(出せるはず)!

しかし今回遅れております事がもっけの幸いで、国立国会図書館デジタルコレクション館内限定データでの目次記載漏れで発見できていなかった最初期「風の詩人」「沼の水蒸気」大正11(1922)年の詩作二編を回収できましたので、前期野川隆詩片はどうやらコンプリートできた模様です。外字の他の環境によっては見られない可能性のある非常用漢字や記号整理で手間どっておりますが、また少々「野川隆とその時代」論を画策もしておりますが、なにはともあれ急ぎます。

今回は「レッド」でも「ブラック」でもなく「ピンク

といったわけでありますが、今回もやはり野川中期調査と平行しつつ、前回に続き「變態光波」の井東憲調査を諸々進めている中で、さらに傍流に流れまして(本流かもしれませんが)、まあ僕の個人的趣向として過去一貫して戦前期「赤色(コミュニズム)」や「黒色(アナキズム)」作物が多いわけですが、もっとも正確に云えば赤色」「黒色」未然のワアっと沸いた都市の渾沌渾然としたマージナルな作家らに惹かれているわけですが、今回はその流れで以前から取り上げよう思いながら放置していた「桃色(エロ)」の方を取り上げます。もっとも正確に云えばこちらも「桃色」未然のものです。なにはともあれ春であります。

実際、変電社の事に起こりにおいても「桃色」方面は重要な宿題として認識はしており、最初期2012年末の変電社日記日本歓楽郷案内』『異国風景浮世オン・パレード』を取り上げ、前回でも一部触れたように、酒井潔『エロエロ草紙』webブレイクしたのが変電社契機でもある関係でやがて触れなければぬ珍書軟派本領域とは思っていました。今回はようやく、『エロエロ草紙』作者たる酒井潔の盟友であり歳下の師でもあり、当時官憲側から「正気の狂人」と称された梅原北明を取り上げます。所謂エロ・グロ・ナンセンスの巨人でありますが、プランナープロデューサー的に立ち振る舞った北明では珍しい初期「小説」作品を中心に、NDLデジコレ紹介1本と&bib/i公開3本紹介で参ります。で、この北明調査の中で非常に重要なことを思い出ささせていただきました

【猛省!】社主がうっかり見落としていた「X」【慚愧!】

つまるとこ、今まであまりにもこの時代の巨大な登場人物「X」を見落としていたのです。その発見経緯について後段で説明いたますが、というのも僕はその人物のその事実を知っていたからなのですが、にもかかわらずぼんやりと見過ごして居たことに驚いているのです。歴史というのはなんかこう、知っていた事実を忘れる、知っていた事実を見落とすものなのか?

そもそもなぜ今頃梅原北明を取り上げるのか?と云うと、前回記事の井東憲『贋造の街』大正14(1925)というdopeでcoolな詩に中の一節

「あの幻想狂の、意識的構成派の畫家は、私のことを……もつとも、そのかけてゐたセルロイドの眼鏡は、ほんの間に合わせに、夜店で買つたものだが……女に捨てられた怜悧な蜻蛉にたとへた。」

「意識的構成派の畫家」とは間違いな村山知義のことですね。本当に皆が近くに居たのだと。

と作内に村山知義が登場してくることに、僕は軽く触れて流した。のですが、面目ないことに社主持田の勉強不足です。村山知義と井東憲はそもそも近くに居たも何も二人して「文藝市場」の同人です。以下の表紙は文藝市場第二号ですが「作品市場」で村山と井東の名が仲良く並んでおります。

村山知義と井東憲が仲良く並んで記載

村山知義と井東憲が仲良く並んで記載


そしてこの二人をつなげたのが、この表紙の中央で群集に取り囲まれている和服姿で眼鏡の男—「文藝市場」首領の梅原北明です。
 
 この梅原北明と邂逅した時のことを、後に村山が書いていまいす。

彼は顔色の蒼白い、痩せた、むしろ小男であった。極度の近眼らしく、大きな眼鏡をかけ、青蛙のような顔をした男だった。おしゃべりで、人の気持ちにかかわらず、自分の考えだけを述べ立てる人で、何かに魅かれている男のように思えた。
「おれは天ちゃんと同い年に生まれた。そうか、じゃ、君と同い年だ。一月の生れ?そうかじや同じ月だ」と初めて会った時いった。蝶ネクタイをし、古いタキシードを着ていたと思うと、ヨレヨレの着物姿であった。

——村山知義「文藝市場の頃」文藝市場復刻別冊解説 日本近代文学館

ここで「あっ」と思った。北明が村山知義と同世代であることすなわち20世紀跨ぎ生まれ世代であることの発見よりも、

「おれは天ちゃんと同い年に生まれた」

嗚呼…何故忘れていたのか?

そう私が勝手に名付けた「20世紀跨ぎ生まれ世代」を等記号で人物「X」と結べるのでした。

そう「X」=「天ちゃん」です!

もうおわかりかと思いますが、すなわち「昭和天皇」であります!北明にとってこの不敬なる「天ちゃんと同い年」が口癖だったそうですが、つまり「20世紀跨ぎ生まれ世代」とは「昭和天皇の世代」だったんですよ!「昭和の世代」ではありません。「天皇の世代」でもなく、「昭和天皇迪宮裕仁の世代」です。嗚呼!今更気がつくとは!!

北明が言うように昭和天皇迪宮裕仁は1901(明治34)年4月29日御生誕です。今も国民の祝日「昭和の日」たる4月29日。その1901(明治34)年の同年、1月15日に梅原北明、3日後18日に村山知義が生まれ、昭和の天長節(天皇誕生日)4月29日の僅か6日前23日に野川隆が生まれたわけです。

しかも僕が取り上げた他の同世代人の中で1989年(昭和64)年1月7日まであたりまえながら「昭和が終わる日」までご長命であられた。僕が生後の高度経済成長期後の昭和後期をも生き僕の知る他の同世代人物の中でももっとも親し(?)くあった人物です。どうして忘れていたのか?

さらに過去さんざん参考にさせてもらっているWikipediaの1901年誕生者リストにも昭和天皇の誕生日は明記されており、

昭和天皇記載あり

昭和天皇記載あり


4月29日同日生まれたるかの尾崎秀実はゾルゲ事件における同世代論として調査対象だったわけで、何故に昭和天皇を見落としたのか?

また棚の福田一也「昭和天皇 第一部 日露戦争と乃木希典の死」においては第二章「二十世紀の子」というタイトルまであり、その冒頭が、

 迪宮裕仁、のちの昭和天皇は、明治三十四(一九〇一)年、つまり二十世紀最初の年の四月二十九日に生まれた。 

にも係わらず、僕はうっかり見過ごしていたのであります。深い反省の中で、僕の記憶の構造に重要な欠陥があるような気がしておりますが、なにはともあれここで思い出せて良かったと安堵もしています。「野川隆とその時代」を書く前でよかった。

その世代論は近日トルタル6号にて!

この想起により僕の中では、ある点と点を線として結んだ先の「面」にまでようやく持って行けた感があります。

以前より取り上げた「世代論」は過去な記事で折々の余談として触れておりますが、
【秋の変電書月間’14】「村山知義の強引」ゲオルク・カイゼル作/北村喜八訳『朝から夜中まで』【オチとしてのウォーク・ディス・ウェイ】」
【変電社復刊宣言予告】野川隆と橘不二雄と「白山の野郎ども」【橘不二雄『腕の欠伸』文化庁裁定に送り出すよ宣言】
【謹賀新年】第二期變電社ロンチ宣言と正月余談として勝承夫『駅伝を讃えて』と野川隆『旋風』フォークゲリラ【變電社第7宣言】
【20世紀跨ぎ生まれ世代の兄達1894ー5】二人の「江戸川亂歩」と井東憲『贋造の街』ならびにカフェ「變態光波」開店宣言【都市と變態】

上のゾルゲ事件尾崎秀実の他、何人かさらに追加したい同世代人物を加えてあのジェネレーションを一度整理したいと思っております。今回はこちら予告として。次回5月リリースのトルタル6号に變電社からは「20世紀跨ぎ生まれ『X』とその世代」試論を書こうと思い立っておりますが、困ったことに現在締切間近で一文字も書いておりません!どうしよう!が景気よくやはり以下のT.RexをBGMで参りましょう! 

梅原北明について

さて、戦後かの発禁本猥褻本研究の大家であり「書痴」斉藤昌三に「軟派の出版界に君臨した二大異端者を擧げるなら、梅原北明と宮武外骨老の二人に匹敵する者はまずない。その実績に於て北明は東の大関」(斉藤昌三「三十六人の好色家―性研究家列伝 (1956年)」)と言わしめ、当時の出版法違反で発禁・罰金回数でかの外骨を圧倒的に上回るレコードを叩き出して、当局も心底手を焼いた「猥本の出版狂」です。戦後まで生き延びるものの大量に出回った廉価カストリ雑誌などの戦後出版を手がけることもなく、虱に嚙まれたが元で発疹チフスで昭和21(1946)年4月に死去しております。享年45歳。

結果、すべてパブリックドメインということで、NDLデジコレにも作品が多数眠っておりますここに本名梅原貞康から「梅原北明」として世に出た処女出版であり最初期の「惡魔主義」を標榜していた頃の非常に珍しい小説殺人会社. 前編」(アカネ書房 1924(大正13)年)が読めるのですから、NDLデジコレは偉大です。

なのですが、検閲後による伏せ字本になってますので相当に切り刻まれて(何を書いたのか?というレベルですが)よく文意が通じない所もあります。ので読んでみようと思う方はご注意ください。

梅原北明「殺人會社

殺人會社





殺人会社. 前編』(コマ数165)
著者:梅原北明
発行日:大正13(1924)年11月 出版社:アカネ書房
国立国会図書館デジタルコレクション






ちなみにこちらそもそもで「前篇」しかありません。相当クレイジーな作品で暗殺を請け負った殺し屋が、日本人移民から黒人運動家から白人レイシストと片っ端から殺戮し、沸騰する鉛の池に放り込んだり人肉缶詰にして売りさばいたりとありとあらゆる手口で処理していくという、大変に荒唐無稽な作品ですが、なんともタランティーノ映画を見るような、猛烈な勢いでまくし立ててくる「陽気な暗黒性」とでもいいますか、北明の壊れ具合が妙に解る作品です。

このの「悪魔主義全盛時代」という大層な副題の下のエピグラフを引用します。

八百八萬の神々を頭から馬鹿にしきつて人間と云ふ人間を、けだものの如くに尻にひいて、蔑けりとおした或る男が、死に臨んで此の世の中へ殘した最後の言葉は「俺は、これ限り蛆虫の世界とは絕緣してやる」
人間達「そんなら何處げ行くんです」
その男「きまつてるぢやないか?極楽へさア。そして俺は、其處の平和の攪亂者になるんだ

—「殺人會社」1924(大正13)年11月

この宣言どおり大正から昭和にかけて「平和の攪乱者」たる使命は果たしたと言える北明ですが、一方でこの中二的幼稚さとも取れる「惡魔主義」の美意識に終始しているわけではありません。黒人差別の問題と水平社の問題を同等に論じる視点などアクチュアルな問題意識があります。ただその回答に一貫する「反骨」=あらゆる「権威」への拒否のみならず、「正義」や「公正」や「善意」というものを、ある種の今でいうポリティカル・コレクトネス的なものを、せせら笑い「力」もしくは「自力」を賛美し、それはまた「市場主義」へと直結します

資本主義キャピタリズム如何どうであらうが、ナショナリズムがくたば﹅﹅﹅らうが、そんな事にはお構ひなしだ。組織そのものが金だ。コンマシヤリズムに出發してゐるのだ。斯う云つた方が一番早道かも知れぬ。純然たる會社組織だ金を儲けるための祕密結社である。だから俺達は祕密結社とは云はずに The F murder Joint Stock Company つまりF殺人會社と呼んでゐるのだ

—「殺人會社」14コマ目 1924(大正13)年11月

他にも語り手「三太郎」の台詞を抜粋していきますと、

「革命なんて厭なこつた。それより自分が自分で力强くなることに心がけりア其れで好いと僕が思ふね。つまり各に惡になればいいんだ。資本家も惡魔なら、勞働者も惡魔になりアいい。プロもブルも猫もないのだ。世の中は惡の結晶だ。虚偽と欺瞞の塊なんだ。いくら其の中で正義を叫ぶミノリティが逆立をオツ始めたつて、大勢に逆行することア不可能だ。惡なら惡でよし、その中を力强く泳いで行けア其れでいいのだ」

この反革命精神と、この「惡なら惡でよし、その中を力强く泳いで行けア其れでいいのだ」という態度は、当時で言えば大杉栄的なアナキストではあるのですが、今様で言えばまさしくリバタリアンという単語が北明を指すに最も近いと思われます。

「殺人結社秘書の秘書」「三太郎」たる語り手は当時の当時のベストセラー阿部次郎の「三太郎の日記」が由来の大正教養主義者たる「三太郎」をアメリカで殺人結社の殺人者に仕立てるという意図的な皮肉を込めたようです。

また全くの余談をしますと、その殺人會社に「馬鹿になる薬を打たれて」で初めて殺されてしまう日本人店員(組織の隠れ蓑たるドラッグストアの薬剤師)のエピソードが出てきます。この日本人が殺された日付が何故か奇妙なまでに明確に(「忘れもしない」と)記されていてそれが「1923年12月8日」です。それから28年後の41年12月8日が真珠湾攻撃なので、ここは全くの偶然でがありますが、なんかゾクリとしました。

コンテクスト・メイカーとしての梅原北明

北明数々の逸話はWkipedeiaはあまりたいしたこと書かれていないので、参考するよりググるといろいろ出てくるかと思いますが、變電社としても北明の逸話をつまびらかにしていきたいとこなのですが、ぶっちゃけ逸話が多すぎてどこから手をつけていいのかわかりません!

梅原北明が昭和戦前期の猥本出版のオルガナイザーとして伝説化するのは、自らへの出版物に対してを北明自身が身体張って文脈形成していく逸話量産裝置だからです。罰金・禁固刑を何度食らっても、金鵄勲章(きんしくんしょう)なあぬ禁止勲章授与、数十回!なんて発表して徹底して「ネタ」の弾幕を張ります。

もうそのネタ数が多すぎるので最初期だけを走り書きで書いておきます。

まず北明の名を世間に轟かしたのは先の荒唐無稽な「殺人會社」なる小説ではありません(黙殺)。彼が翻訳を手がけた世界文学史上に燦然と輝く猥褻本ボッカチオ「デカメロン」がありますが、大正14(1925)年に発行する際です。その前に戸川秋骨が翻訳した「デカメロン」が内務省図書課によって伏せ字削除の「検閲」で切り刻まれために、それを見越して「やれるものならやってみろ」とばかりに「ボッカチオ没後五百五十年祭記念出版」と名をうち、イタリア皇帝皇太后両陛下ならびにムッソリニ首相にこの日本語翻訳本を献上し、盛大なボッカチオ祭を浅草でぶち上げ、イタリア大使を呼んで散々っぱら吉原の芸者と遊ばせ、それに歓喜したイタリア大使からこの桃色接待に応える形でイタリア国家勲章をもらってしまったという逸話(またその勲章をカフェの女給に簡単にくれてしまうなど)。

また、昭和2(1927)年4月29日、先の入った昭和天皇の誕生日にあたる戦前表現で云う昭和最初の「天長節」(昭和元年は前年の12月25日で6日しかなかったので、この年が昭和天皇初の天長節)ですが、その全国祝賀ムードMAXの日に「八百屋お七二百五十年追善供養」を打って出た。この恋人逢いたさで江戸に火を放ち火刑に処された放火犯「お七」の供養を取り仕切った「施主」が梅原北明です(当日の全国紙朝刊で報道されたことで各所から上野自治会館に老若男女が集まり恋の炎に燃え焼け死んだ「お七」にセンチメンタルに涙した言われてます)。

これは明らかにタメ年の「お上」をからかう意図でフザケたので、事実その『文藝市場』誌上にて北明自身が「去る四月二十九日は、今度の聖上陛下御誕辰にわたらせらるる最初の天長節で今後毎年繰り返される我らにとっての新たなる祭日であるが、今より二百五十年前の当日は、実に情熱ある女、八百屋お七が鈴ガ森で炙刑に処された日である」とまで書いた確信犯です(しかも二百五十年ではなく二百四十五年であったところサバまで読んでます)。

また大正14(1925)年菊池寛に反旗を翻して始めた今東光『文党』(同誌には村山知義も野川隆も参加)に参加しかつ「文党歌」なるものまで作詞しして、村山知義に構成派風の目立つ看板を描かせ、銀座目抜き通りを桃太郎の歌の節に「天下に生まれた文党だ/値段が安くて面白い/既成文壇討たんとて勇んで街へ出かけたり」と大合唱しながら行進させ衆目を集めるなど、いわば街頭での「ハプニング」とそのアジテートを十八番としており、そして極めつきには先の『文藝市場』二号この表紙写真です。

「世界文藝史上最初の試み」という原稿叩き売り現場

「世界文藝史上最初の試み」という原稿叩き売り現場

この群集に取り囲まれた北明がここで何をしているかというと、「世界文藝史上最初の試み」と売り文句で不意に街頭ゲリラ的に行われた「生原稿の叩き売り」です。出典不明ながら村山知義が新聞の切り抜きスクラップの中の記事として以下を紹介していますのでそのまま引用します。非常のその空気がよくわかります。
 

枯川老の原稿、三枚で三円半也 文藝市場での逸品 二束三文で投売でも一夜の売上百五十円の大景気

『世界文芸史上最初の試み』と云ふふれ出しで、金子洋文伊藤憲梅原北明村山知義なんどの連中が十日午后四時半から京橋でプロ分子評論家の原稿プロ画家の画稿等を、どこからか集めて来て、その夜店を開いた。挑発にロイド眼鏡の主催者はビールの空箱の上に戸板を並べ、背後には構成派風の大型の紙に『文藝市場』と大書して店をひろげる、またゝく間に用のなさそうな行人が足をとめて黒山、交通巡査までが飛んで來るといふ騒ぎ。伊藤君が先ず空箱の上に立つて『さあ、津田光造の新世紀論、原稿三枚半でいくら!』とどなると『十銭!』と答へる『オイ十銭は可哀想だもつと買へ』と言った調子で、村山知義の画が一円で売れる頃はまだ無難であつたが、すぐ真向ひの京橋署から『交通妨害似鳴るから』と注意されてとうとう警察横に移る、新進作家菅忠雄の原稿五枚半で二十銭でたゝき売られた後で『さあ今度は『堺利彦の原稿三枚いくら』『五銭』と呼ぶ奴があつたが、遂に三円五十銭、これが当夜の最高値を呼んだものゝ『お次は松竹のスター栗島澄子の亭主池田義信の原稿、いくら』忽ち十五銭で売り飛ばされる、中には値段をつけて姿を消す奴がある、『そんならおれが買ってやらう』と五十歳余りの職人が構成派の絵を不思議そうに見て持ってゆく、売行芳しくないと見るや『岡田三郎と間宮茂輔、山田清三郎、こみでいくら』と来るでも午后八時店を閉めるまでは大枚百四十五円の売上があつた『この調子だと今に同業をもくろむ奴が出るよ』と一同早くも先きの心配をする程の上景気だった

しかも場所が「京橋の警察署横」というのが何とも北明らしい。だいたい今の金額に換算すると一晩で100万円くらいの売上でしょうか。『この調子だと今に同業をもくろむ奴が出る』ということはその後なくかえって既成文壇人からは顰蹙を買ったわけですが、今のコミケまたは文フリ等の直接販売のイベント思想そのものです。

このずばり「文藝市場」(ずばりマーケット!)と名を打った雑誌看板の北明の「文藝市場社」はその後も様々な新機軸を打ち出しますが、北明だけでなく村山知義井東憲も執筆者として参加した「變態十二史」シリーズは限定五百部のサブスクリプション制販売が6000件に近い申仕込みがあり「文藝市場」自体がなかなか捌けずに経営難に陥っていた文藝市場社の窮地を救ったとも言われています。

梅原北明と『文藝市場』

少し戻してその文藝市場者の成立について。北明は先の「デカメロン」翻訳で一山当てたことで、新聞記者をやめて、今東光「文党」と同じく菊池寛「文藝春秋」横光川端「文藝時代」などの既成文壇へのカウンター誌を画策します。「露西亜大革命史」も翻訳したことで交流の深かったプロレタリア系作家作家らを中心に六十余名集結させて「文藝市場」を大正14(1925)年11月創刊し文藝市場社の起こします

もっともこれが左翼誌かというとそんなことはありません。実際、北明自身の背骨にイデオロギー的な要素はなく後年村山知義からこんなこと言われます。

彼の死後、彼を可成り左翼的な信念を持っていた人として評価した人があるが、私が見る所で彼にはそんな考えは全くない。プロ作家の中に友人が多い、というが、それは彼がいくらか反骨的で、反抗的な気持ちがあったからで、その後の第二次世界大戦中の彼の態度を見れば、彼が根無し草だったことがわかるだろう

——村山知義「文藝市場の頃」

「その後の第二次世界大戦中の彼の態度」とは所謂「転向」問題もなく無思想で通過できたことを指しているわけですが、この部分は追って第二回ででも触れます。ただ村山知義という人は(少年期クリスチャンであったピューリタン的性向のせいなのか)周囲に対して少し辛辣に書きすぎているきらい(村山「演劇的自叙伝」読むと様々な人への批評(悪口?)が多い)があり、ここでも北明に対して一貫して冷淡でありますが、北明はむしろ人に好かれたエピソードが多数あります。おそらく北明の持つ「反骨」とだけと言い切れぬものが、同人の尾高三郎から「焼け糞出版」と言われるような、後も先も顧みない全くの無意味な悪戯に命をかけるような「悪童性」が人を惹きつけたようです(そしてそれは「マヴォ」のドイツ仕込みの前衛の「怪童」からコミュニズムへと放物線を描いた村山知義とは相容れぬ何かであり、彼らの関係はこの文藝市場のみで終了しています)。

その悪戯の針が振り切れすぎて、悪ノリにまで到るれべるのフザケかたをして、今に生きていれば高炎上リスクを持っている北明ですが、『文藝市場』創刊号も「不真面目なゴシップ的要素」満載で『文壇全部嘘新聞』なる「虚構新聞」記事が初号に見開一頁を割いて、花袋岡本一平辻潤が春画売買容疑で取調べられている横で、菊池寛邸全焼して「文壇きっての金貸し」上司小剣が目黒で惨殺されるなど、当時から底抜けにフザケきって既成権威に喧嘩売り放題で、

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当時の参加していたプロ陣営からも「創刊号がひどすぎる」と「あんなのものに有頂天になっていそうにな点も感じられるから、一言いましめて置く」と山田清三郎からも叱られる始末です。

もっとも単におフザケ雑誌かというとそれだけでは終わらないことがわかる「宣言文」が巻頭に添えられています。こちら誰が起草したかは明確ではないですが、北明起草だろうと勝手に確定してお待たせしました。本日のbib/i公開まず一本目です。

文藝市場』大正14年(1925)年11月

『文藝市場宣言』

フォントサイズが途中大きいのも創刊号の体裁(創刊号以外はフォントサイズ統一されますが)に則りましたが「不真面目なゴシップ的要素」満載の雑誌の宣言が案外にシビアさに驚きますし、直裁で正論です。

文藝市場はこの愚かな迷信を破つて藝術を商品として徹底させるために生れた。これは藝術に對する冒瀆でない。資本主義社會に於ては商品でないものは一切存在する意味がないのだ。

北明のその大正末期という時代の中では驚嘆するレベルの「市場主義」宣言は、さきの「殺人會社」からテキ屋のバナナのように「生原稿を叩き売り」してしまう姿勢まである、一貫した商才です。ただ「宵越しの銭が持たねえ」の散財癖も含めて儲けには恬淡であり、何と云いますか、むしろ犯罪すれすれのハイリスク・ハイリータンの賭博の興奮を追い求めいるように、出した出版物の廻りで北明は徹底してレイズ(掛け金をつり上げ)していきます。それは例えば『文藝市場』の後継誌『グロテスク』三號目が発禁を食らえば、その処分を逆手に取って黒枠の『グロテスク』死亡広告をすぐに打って出て、官憲をからかいます。

グロテスク新年號 死亡御通知
愚息『グロテスク』新年号儀サンザン母親に生みの苦しみを味わせ、漸く出産致せし甲斐もなく、急性発禁病の為め、昭和三年十二月二十八日を以て「長兄グロテスク十二月号」の後を追い永眠仕り候、夭折する子は美しい、とは子を失った親の愚息とは存じ候へども、お察し下され度候。

一時期は帝国ホテルの数間借り切ってタイプライター雇って後述筆記したりしたり、官憲が踏み込んでくることがうるさくて適わないからと帝都を走り巡らす車の中で執筆を行つたなど逸話も出回っているくらいですが、その結果、北明の息子梅原正紀がこんなことを書いています。

(数々の艶本を出版することで)金もはいったが、それを上回るくらい北明は乱費した。したがって艶本業者としては財を成さなかった。
 発禁や投獄は覚悟のうえで採算を無視して出版するので北明物に読者の支持は集まり、この次北明は何を出版するのかと楽しみにしている読者が多かった。

逮捕後の取り調べで警視総監が直々にやってきてこっそり「次の企画は何か」と聞いた北明ファンだったという嘘か真かの逸話もあり、一時期あまりにも発禁本を繰り返すので警察官が北明の事務所に常駐するなどという異常な措置がなされた際も、数ヶ月後にはその警察官が文藝市場社の刊行本の発送の手伝いに汗流していたりとか。これは先の北明の「悪童」ならではの魅力なのか。

余談ですが、以前職場での私の同僚でとにかく「猥談」ばかり喋る男がいて、度が過ぎているために何でそんなにその手の話がそんなに好きなのかを一度聞いたところ、彼は所謂「転勤族」で北は仙台から南は沖縄まで全国各地に引っ越しを繰り返し転校続きだったのだそうですが、彼がその経験で学んだものとして「エロは何処に行っても通じる」という半ば極論で処世訓があり、現にそれで転校生でもいじめられることもなく過ごしたという話を思い出します。

何はともあれ、そういう梅原北明の発行する周辺の「逸話」が「弾幕」として張り巡らされるこの戦前期内務省図書課相手にしたバブリッシング工程そのものを含めてイベント化し。ネタ=祝祭コンテンツに転化する手際は北明の他に類を見ません。あの戦前期エログロナンセンスの暢気さから情勢急転する時代状況の強権圧力の中だからこそ、その文脈に「検閲」という官憲処理を加えてネタコンテンツ化してくる北明に対して当局は手を焼き、懲りない「出版狂人」に映り当局には「正気の狂人」と言わしめたわけです。

そしてここで対官憲して北明ということだけでは、言い尽くせない部分として、つまり先の警視総監の話ではないですが、官憲側も彼の読者であり彼の動向を固唾をのんで見守る観客であったという点です。彼が戦時下軍部要請の仕事をいくつかこなしてますが、彼の地下出版のサブスクリプションモデルの会員には、会社員はもとより、大学教授、高級軍人、検事など、いわゆる戦時下のエスタブリッシュメント側が大勢含まれていて、その「北明ファン」=つまり公人ではなく私人のパイプで彼が圧政の戦時下も命脈を繋いだという事実があります。

これはまたもう少し次回も北明のビジネスモデルを掘り下げて考えてたいと思っており、その際にもう少し細かく書きたいと思いますが、地下出版で行き詰まった彼はなんと関西で女子校の英語教師をしたり靖国神社の社史編纂をしたり、戦中欧米の最新科学雑誌を軍部要請で海賊版翻訳をしたり、軍ルートで仕入れたアルコールを東大農学部農芸化学を専攻している学者を巻き込んでウィスキーを密造したりと、したたかに生き延びています。まさに「惡なら惡でよし、その中を力强く泳いで行けア其れでいいのだ」という態度です。

ここでさらに珍しい彼の初期小説作品をいくつか。その「市場主義」性『文藝市場』に発表した小品をbib/i公開2本目参ります。

梅原北明『火の用心』大正15(1926)年4月

『火の用心』

これは短いものですのでざっと読んで欲しいわけですが、この短篇をループで繋げてみれば、ここに梅原北明の人生の縮図そのものです。ブタ箱から出て路頭に迷いワンチャンスから博打智恵を絞って一瞬でのし上がる、そしてもしかするとまたブタ箱かもしれない。最後の一文この詐欺には無自覚である彼の感じる策略家の勝利への陶酔感はもうビジネス的成功としての歓喜なわですが、ここは「殺人會社」と彼の哲学は変わってません。


彼は現代の一特色を形づくるネオ・サタニストを以て自任してゐた。

もう一つ北明という人を象徴するシーンで彼を捕まえた巡査の家に詐欺に這入って再待った歳の述懐が、

此れは失策つた!惡い所へ踏み込んだ、と直覺したが、その刹那に毎時の糞度胸が出て、危く平勢を裝ふことが出來た。

まさにこの完全強者を目の前にした刹那での「糞度胸」が「悪童」の「悪童」たる所以だと思われ、その彼一流の「糞度胸」が地下出版の帝王であり発禁本の道化であり神出鬼没の悪党であり変化自在の義賊としてのある種の梅原北明神話を形成する原動力になったに違いなく、読者に託されていた。奴なら何かしでかしてくれると。

梅原北明『ぺてん商法』昭和21年(1946)年12月5日

『ぺてん商法』

こちらは昭和21(1946)年発見されたので遺作となっておりますが、正確には昭和10(1935)年頃の旧作発見というものです。こちらも先の「火の用心」に近い「テキ屋」的な詐欺商法への知恵比べ的な関心と深い共感を示すような作品となっていますが、追記として、「I・A生」なる人物が梅原の訃報に接しての動揺が触れられておりますので、そちらも同時に掲載しました。

梅原が去る5月に突然死んだと花房四郎君から通知を受取つたときには些か愕然とした。夢のやうな氣がした。それまでよきにつけ、惡しきにつけいろ〳〵と交際を持ち續けて來た僕だつた。あの男の事であるから、もう慾は云はずにせめて四五年は生かして置きたかつた。何かあッと云ふような大きな仕事をしたに違ひない

梅原北明なるエンターテナーとしての「公の敵」

梅原北明が「梅原北明」になる以前の貴重な証言として戦後日本野球連盟会長も務めた鈴木竜二が伝える逸話があります。本名梅原貞康時代、早稲田大学英文科中退後「靑年大学」なる雑誌社や新聞社の外務省詰記者等を転々としながら、5月1日のメーデーに参加した梅原貞康はこう活写さています。

大行進軍の中、緑色のロイド眼鏡に怪しげなるタキシード男、労働歌の高唄から警官と小競合いを初めて、遂に検束された。だが、新聞記者という六号文字の肩書きが、どんだ拾い物をして直ぐ帰された。菜葉服の多いメーデーのにタキシードを着た男の検束が、まず珍なる景物詩であったが、この男が、彼、梅原北明!

—『グロテスク』1930(昭和5)年1月 特集「人を喰った男」

なんとも北明の面目躍如たるアジテーター振りが目に浮かびます。勞働者の作業服(菜葉服)の中ただ一人タキシード姿で警官と罵り合いをしている北明!。ここでまた社主恒例の現代の戦後洋楽POPシーンへ勝手に翻訳してしまうと、HIPIHOPシーンで懷かしきかのPublic Enemy のフレイヴァー・フレイヴ(Flavor flav)の「煽り屋」っぷりを想起してしまい以下を最後に共有しておきます。

言わずもがなのパブリック・エナミーに関しては以下の記事などご参考ください。
社会派ヒップホップの先駆者、パブリック・エナミーの衝撃

こわもてライムまくし立てるメインラッパーの”チャックD”の横で変な踊りして合いの手いれているグラサン時計野郎がフレイヴァー・フレイヴです。

またこの「Public Enemy = 公の敵」というのは梅原北明を言い得て妙ではないかと我ながら思うところですが、北明は間違いなく1920年代から30年代にかけて「公の敵」であり、またそれを演じていたエンターテイナーでした。上記「火の用心」「ぺてん商法」ともに演じ手と観客がいる構図を維持しながらも、このYoutube”Fight The Power”PVのようなワアっと沸く群集の元、パフォーマー(パブリッシャー)=トラック(コンテンツ)=オーディエンス(読者)の一体感は戦前の梅原北明周辺には確かにあったに違いないのです。

Our freedom of speech is freedom or death
We got to fight the powers that be
Lemme hear you say
Fight the power

つづきがトルタル6号で!

さて、久しぶりなのに相変わらずの長文でかつ、結果的にエピソードの羅列に終始してしまいましたが、つまりそういう「逸話」弾幕の多い梅原北明という出版パフォーマーに関してまだまだ語り切れていない部分が深くあります。しかし本件、昨今の電子セルフパブリッシング界隈にも等しく何かのヒントを与えるネタかと認識しておりますので、よって今少し深掘りを加えていこうと思っております。

今回は先に予告しました「20世紀跨ぎ生まれ「X」とその世代試論」のβ版として公開してしまいますが、追って「X」と同時代人として生きた人々の様々な「放物線」のバリアントを纏めてまいろうと思っておりますので斯うご期待!

【参考文献】

【参考データ:国立国会図書館デジタルコレクション館内限定閲覧資料】

【20世紀跨ぎ生まれ世代の兄達1894ー5】二人の「江戸川亂歩」と井東憲『贋造の街』ならびにカフェ「變態光波」開店宣言【都市と變態】

さて今年はもう少し更新頻度上げようと思いつつ腰が常に重い社主ロートル持田でありますが、何も飲んだくれているだけではないのですよ!といきなりボールドで言い訳から始めましたが、變電叢書『野川隆著作集1』のストア配信は今少しお待ちくださいませ!また野川隆中期作品編纂を進めるために諸々図書館詣での日々でありますが、結局諸々脇道寄道に流れてしまう性分でありまして、その代わりと言っちゃなんですが、他の變電叢書候補として活きのいい新人(なんか矛盾的表現)を掘り出してきたので今回「變電叢書」続編を紹介したいと思います。

「變電叢書」第六篇「野川孟著作集」

第一篇 野川隆著作集1 前期詩篇・評論・エッセイ 2015年1月予定
第二篇 野川隆著作集2 中期詩篇・評論・エッセイ 2015年2月予定
第三篇 野川隆著作集3 後期詩篇・小説・評論・エッセイ 2015年3年予定
第四篇 橘不二雄『腕の欠伸』(未定)
第五篇 井東憲詩集(確定)
第六篇 野川孟著作集(未定)
 

第六篇は野川孟、これは既に過去で何遍も触れているように野川隆の兄です。六つ上なので明治28(1895)年生まれ。奇しくも平井太郎(明治27(1894)年10月21日)と一個違いの同世代です。平井太郎とは言わずもがなで江戸川乱歩ですが(来年彼もパブリックドメインになりますので彼の初期短篇は諸々準備進めておきたいところですが)野川孟も既に過去何遍も触れているように初代「江戸川亂歩」です。この点をネットで調べるとミステリ関係者が諸々調べていて、

 辻村義介 はいわゆる「もう一人の江戸川乱歩」である。乱歩が「二銭銅貨」でデビューしたのは1923年だが、その前年、雑誌『エポック』1922年11月号(通巻第二号)の巻頭に「江戸川乱歩」という筆名の人物の「アインシュタインの頌」という詩が掲載されている。この詩の作者が辻村義介という人物だとかつて推定されていた。なおノンフィクションライターの佐藤清彦氏の調査では、辻村義介は当時仲間内から「江戸川乱歩」というあだ名で呼ばれていたが、「アインシュタインの頌」の作者は辻村義介ではなく雑誌『エポック』の編集者であった野川孟およびその弟の野川隆だと推定されるという。

となっていますが、野川隆ではなく兄の孟の方であり、また推定ではなく事実です。稲垣足穂も『「GGPG」の思い出』で証言しているように「亂歩」一番乗りは野川孟です

野川の兄は新聞記者で江戸川乱歩を名乗っていた。ちょうど推理作家平井太郎の売出し中だったから江戸川乱歩は天下に二人いたわけだが、野川は「おれの兄の方が本物である」と云っていた。しかしその時その兄はハルピン方面に去っていた。

稲垣足穂『「GGPG」の思い出』「稲垣足穂全集 第11巻 菟東雑記」2001年8月 筑摩書房

ちなみに「ハルピン」は多分足穂の思い違いでこの頃は朝鮮の北鮮日報記者となって半島に渡っています。そのまま敗戦まで朝鮮半島に居を構えていますが、こちらは『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二巻第三集の編集後記でも「野川孟に手紙を出し度い人は左記へ 朝鮮 清津府敷島町 北鮮日報社内」との記載があります。

朝鮮に渡った段階で創作から手を引いた(バスから降りた)ようでその後の足跡が諸々調べていても不明だったのですが、まさかのネットで発見しました!有難いことに林哲夫氏のブログ(daily-sumus2「脈80号 特集 作家・川崎彰彦」)記事で戦後の足跡が書かれていました(感謝!)。それによると野川孟は戦時は何とか生き延びたようで、終戦後愛知県八日市市滋賀県八日市町(現東近江市) (※1月28日修正 FBページからご指摘いただきました!ありがとうございます!)に引き揚げています。当地で京都新聞支局長等を勤めたようで、そのご子息は野川洸という名の詩人作家であり、川崎彰彦五木寛之と早稲田一文同窓で五木寛之の先のWikipediaでもこんな記載があります。

「こがね虫たちの夜」(1969年)は学生時代の、同学の友人高杉晋吾、三木卓、川崎彰彦、野川洸らとの生活をモデルにしたもの

ただし、ここまで、調べがついているのですが、未だ野川孟の没年月日が不明です。そのためにパブリックドメインとして變電叢書化できるかがまだ不明で現在誠意調査中です。この野川孟は思春期の隆に絶大な文化的影響を与えた隆の「師」と呼んでもいい人物であり『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』起稿作品も非常に優れており実は野川隆なんかより上手なんではないかとさえ思えています。当時の欧州新興美術の博識をベースにした評論他、気品ある都会的な詩や小説、またたとえば以下の学術参考として画像参照してしまいますが、

野川孟「銀座街頭の夜」『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第二集収録

野川孟「銀座街頭の夜」『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第二集収録、大正14(1925)年2月

のような弟顔負けの実験詩(孟の若い頃に(「May’13th 22」の記載あり)手慰みで書いたか?)残している他、僕がとくに気に入ったのは『リンジヤ・ロックの生理水』なる小品で、これは誠に都市の夢幻たるリリシズム溢れるSF風(?)作で、これは隆だけでなく野川家は孟も何とか復刊(というかやはり初編纂)したい!一応様々なルートと使って探査中ですが第四篇予定の橘不二雄とは違い、人生行路の痕跡は戦後でもいくつか残っているので何とか判明するかとおもいますので乞うご期待!当然「亂歩」時代からまとめる予定ですよ!

「變電叢書」第五篇「井東憲詩集」

でもう一人これは完全にパブリックドメインであることが判明していいるので復刊させます。野川孟と同年の明治28(1895)年8月27日生まれの詩人です、以下が都立広尾図書館で全頁プリントアウトしてきた詩集表紙ですが

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Oh..表紙名前隠れてしまっていますので中表紙のこちら
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この中表紙の何がいいって「帝国図書館」の角印と丸印で、丸印の方には「帝圖(図の旧字)」と「昭和二・四・七」と見えます。昭和2年3月20日印刷と奥付で見えますから、刷り上がってすぐ内務省検閲に持ち込んだんすかねえ。

さてその名は井東憲。本名伊藤憲。この作家が誠に破天荒な生き様で、東京神楽坂生まれ静岡育ち、17歳(明治44(1911)年)で家出して旅芸人にまざって放浪し19歳まで浅草を遊蕩、結果性病に罹って一念発起し政治家目指して21歳(大正5(1916)年)で明治大学法学科に進学。そこで文學にこじれ古今東西の文學作品を読み漁り、22歳(大正6(1917)年)で大杉栄と出会いアナキズム研究へ、26歳(大正10(1921)年)で『変態心理』(!)の記者となり、『勞働運動』で詩人デビュー。31歳(大正15/昭和元(1926)年)静岡で一度目の結婚したものの東京では詩人英美子と不倫、その間かの梅原北明と『變態十二史シリーズ』に参加し『變態人情史』『變態作家史』(ともにNDLデジコレインターネット公開中)を発し(なお『變態十二史シリーズ』第二巻はマヴォ村山知義『變態藝術史』)、32歳(昭和2(1927)年)に上海渡航、同年英美子との子が生まれ、その子が実は戦後日本人ギタリストとして初めてカーネギーホールに立った世界的ギタリスト中林淳眞であることなど知る由もなく、翌昭和3(1928)年に井東憲は英美子との関係を清算。全日本無產者藝術同盟(ナップ)加盟、34歳で静岡の本妻とも離婚、上海渡航しのちの上海中国ものの嚆矢となる『上海夜話』発行、その後詩小説ルポタージュ翻訳と様々な作品を矢継ぎ早に世に出し、銀座の新興中華研究所所長を勤め、48歳、昭和20(1945)年6月20日。静岡空襲で焼夷弾被弾。8月5日に終戦間際に死去。(上記略歴『井東憲:人と作品』井東憲研究会編参照)

「兄」の世代(1894ー95)

『20世紀跨ぎ生まれ世代』の兄である井東憲と野川孟のまた「二代目」江戸川亂歩たる平井太郎(明治27(1894)年10月21日)この他もざっと眺めて観たところやはり大変面白い。まずは詩人でピックアップしておくと金子光晴(明治28(1895)年12月25日)、西脇順三郎(明治27(1894)年1月20日)、まあここら辺はWikipedeiaの年号調査で出てきますが、あれ?もしかしてさては?と個別に調べたところ、「日本未來派宣言」の平戸廉吉(明治27(1894)年12月9日)、またかの「エロエロ草紙」酒井潔(明治28(1895)年)らも同世代です。驚きました。(また「マッサン」竹鶴政孝も、明治27(1894)年6月20日生まれだったので驚きました。)

しかし、これはさては長らく僕が知りたいと求めていた「震源地」は兄達の方か?この野川隆・村山知義・小林秀雄らの理智的な優等生らしさとも違う、もっと野蛮であり所謂エログロナンセンスのデロリとした「狂味」。と同時に以前、変電社最初期幻(?)の「変電社日記」レビュー「2012-12-31『日本歓楽郷案内』酒井潔」にて書いた「あの歓楽街あの歓楽街と遊歩する酒井の影を追いながら馥郁たる夜の都市を徘徊している」ような「気分」。(なおこの酒井潔『日本歓楽郷案内』は彩流社で完全復刻さらには中公文庫で復刊されると快挙がありましたよ!)

川上澄生と古賀春江

さらに同世代を調べていたら、ドンぴしゃりでこの空気を象徴する画家が二人も突き止めました。ああそうかこことも同世代だったのか!と感慨ひとしおで、個人的に大好物な二人ですが、川上澄生(明治28(1895)年4月10日)と古賀春江:(明治28(1895)年6月18日)。
この二人の同時代の絵を紹介したいわけですが、川上澄生の方は 昭和47(1972)年9月1日までご存命であったために、まだパブリックドメインではないので転載はしないでおきますが、どうぞググってみてくださいませ。

川上澄生『銀座「新東京百景」』昭和4(1929) 年作 東京都現代美術館所蔵

ああ!なんと都市の華やいでいることよ!名曲シュガーベイブ「DOWN TOWN」のイントロが聞こえてきそうだ!
美しいピンク&ブルーに染まるトワイライトの銀座に深く酩酊しながら徘徊したい気分にさせます。こちら所謂創作版画黎明期の名作です。(版画で言えば今度小泉癸巳男も紹介したいところですが、ああやはり明治26(1893)年6月生まれですから彼も同時代の空気を刷ったわけか。)

そしてもう一枚紹介したいのが古賀春江。古賀春江はパブリックドメインなのでそのまま貼りますが、

古賀春江『窓外の化粧』昭和5(1930) 年作 神奈川県立近代美術館所蔵

古賀春江『窓外の化粧』昭和5(1930) 年作 神奈川県立近代美術館所蔵

かの川端康成「末期の眼」(『一草一花 (講談社文芸文庫)』収録)にて「カメレオン」と称された前衛画家です。そのシュールレアリスム期のちょっとクレイジーな(この絵を見る度に「春の陽気で変になった人」を僕は思い浮かべる)高速度回転の躁期の中で冷たい汗を流し続けているような不吉な陽気さとでも言いましょうか。実際に古賀は神経梅毒による進行麻痺が発症する直前期の何か病的な霊感の中で一気呵成に描いていたシュールレアリスム風(実際はキリコ的「形而上絵画」に近いと云われていますが)絵画です。 この3年後の昭和8(1933)年9月10日)に亡くなってますが、その壮絶な最期を晩年親交があった川端康成が先の「末期の眼」で描いています。

この画風も全く違う絵画の上に描かれた美しくて何処か分裂病質な「都市」を思い浮かべていただければ、その「イカレた」井東憲の風味が存分に解るであろうということでお待たせしましたでんでんコンバーターbib/iによる井東憲の詩の紹介します。こちらは「井東憲詩集」にも収録されていますが、野川隆中期調査の中で『日本詩人』という詩誌調査中にたまたま発見した初出の方をオーサリングしました。原文は変わらないながらルビ点の相違がいくつかあります。

井東憲『贋造の街』大正14(1925)年4月10日

井東憲『贋造の街』

いいですねえ。不吉で飄逸。この中で

あの幻想狂の、意識的構成派の畫家は、私のことを……もつとも、そのかけてゐたセルロイドの眼鏡は、ほんの間に合わせに、夜店で買つたものだが……女に捨てられた怜悧な蜻蛉にたとへた。

「意識的構成派の畫家」とは間違いなく村山知義のことですね。本当に皆が近くに居たのだと。もう一丁は『井東憲詩集』から短いものを。

井東憲『變態光波』昭和2(1927)年3月20日

井東憲『變態光波』

おし決めた。将来變電社カフェ「變態光波」を開こう。(變電社第8宣言)。なお井東憲他作品はこちらでもいくつか紹介されていますので是非ご参照ください。しかし、古賀春江も画論や随筆の他「詩」を多く残しており、これ次回、平戸廉吉と古賀春江で變電叢書七・八篇とするのもありやも。

變電社社主 持田泰

【謹賀新年】第二期變電社ロンチ宣言と正月余談として勝承夫『駅伝を讃えて』と野川隆『旋風』フォークゲリラ【變電社第7宣言】

平成27(2015)年明けましてお目出度うございます。社主・持田です。昨年末の變電叢書『野川隆著作集1』発刊は幸い多くの皆様からのいいね!ならびにシェアご支援のお陰で想定以上に多くの方にDLいただけたようで、誠に感謝しております。「年内無料配布」の約束通り無料版EPUBのDLは停止しましたが、校正漏れもやはりいくつか発見しましたので修正後正式版のストア配布まで少々お待ち下さい。サイト上でbib/iでの公開は当分続けますのでWebで御覧くださいませ!

また昨年末からの社業務報告となりますが、まずはパブリシティとして、12月29日発売の宣伝会議2月号に毎度おなじみの池田敬二氏「歌う」宣伝工作により志村一隆氏記事として掲載されました!久しぶりの快挙万歳!

宣伝会議2月号記事掲載池田隊長歌う勇姿写真もあるよ!

宣伝会議2月号記事掲載池田隊長歌う勇姿写真もあるよ!

しかしこう掲載されたにも係わらず「変電社」をこけおどし旧字の「變電社」表記へと12月23日70年周忌弔い復刊の際に変更していますが、こちら正式社名変更というよりは「変電社」も「變電社」もどっちでもOKの屈託ない精神で参りたいと思います。つまりSEO的にも。また手書きで書く場合を恐れて。

また、唐突ではありますが私持田は長らく「社主代理」として振る舞ってまいりましたが、これも昨年12月23日復刊の際に「代理」を外させていただき、勝手ながら「社主」として立つことにいたしました。『野川隆著作集1』のようにEPUBパブリッシングを今後も実践していくのであれば、「発行人」としての責任曖昧化を防ぐ意味もあります。よって變電社社主持田、2015年は「覚悟」の年ってやつです。本年も引き続きご愛顧賜らんことをよろしくお願いいたします。

そしてこれにより唐突ですが第一期「変電社」を解散としますそして第二期「變電社」社中を緩募いたします。同時に結社趣意を改めまして新たな第二期第一宣言にあたる變電社第七宣言といたします。

變電社第七宣言

まあなんのことはない宣言の態での今年の抱負にすぎませんが、まず變(変)電社の紹介文を以下のものから

「変電社」は結社です。スタンスは「電子書籍読者」です。ざっくり言うと「変な電子書籍っていろいろあるから読んでみようや」結社です。転がっているデジタルアーカイブスをいろいろdiggin’して電子「古書」としてサルベージしたら面白いんじゃないかと思っている人の準備会です。

以下へと修正を加えました。

變電社は転がっているデジタルアーカイブスをいろいろdiggin’して「電子古書」としてサルベージ復刊を目指すインディペンデント・レーベルです。

つまり準備はもう済んだのだ!気合いのデジタル・パブリッシャー宣言です。記念すべき野川隆集から「變電叢書」をロンチしたとおり(まだ非売でありますが)、今後變電社は電子「叢書」刊行を実践してまいります。

なわけで最近ご無沙汰の国立国会図書館歴史音源れきおんから「記事の気分」としてのBGM(スマホでは聴けないけど)ですが、今回は「流行唄:港はなれて」(西岡水朗[作詞]奥山貞吉[作曲・編曲]松平晃[実演家]/製作者(レーベル):コロムビア(戦前)発売年月日:1933-08)でどうぞ。なんか正月っぽくて良い。

「變電叢書」刊行予告

  • 第一篇 野川隆著作集1 前期詩篇・評論・エッセイ 2015年1月予定
  • 第二篇 野川隆著作集2 中期詩篇・評論・エッセイ 2015年2月予定
  • 第三篇 野川隆著作集3 後期詩篇・小説・評論・エッセイ 2015年3年予定
  • 第四篇 橘不二雄『腕の欠伸』(未定)

四篇は変電社復刊宣言(第6宣言)予告しております橘不二雄ですが、こちらが所謂「オーファンワークス」のためまだ皆目見当がついておりませんが年始に諸々調査アクション実施予定です。「變電叢書」可能なら2015年内に第五篇〜気合いで十篇くらいまで出せればいいなと思っております。もしかすれば『朝から夜中まで』もしくは青空文庫未収録の『過渡期の横光』作品アンソロジーを出すかもしれませんし、さらには『技師ガーリン』を復活(!)ラインナップさせるかもしれまんしまったく別の作品にフォーカスするかもしれません。実は『白山の野郎ども』調査の結果新たに面白い経歴の詩人らが発掘されていて、

白山詩人1号2

前回の白山詩人第一号奥付から今回は追加で黄色の枠の二名です。「角田竹夫」「勝承夫」なる人物ですが、こちら二人ともやはり「20世紀跨ぎ生まれ世代」の「白山の野郎ども」系譜の洋大詩人の一人です。ともにアバンギャルド系ではない詩派ですが、角田竹夫『微笑拒絶』がNDLデジコレでは「インターネット公開(許諾)」で閲覧可能です。またこちらで詳細がありますが、没年情報現状不明です(これは許諾ということは、著作権利相続者の許可を取っているというこですが)。そして角田は実は先の變電叢書『野川隆集』でも登場してきており、

“●竹の小路で(角田竹夫)
 どうも困る。角田君はまだ「新詩人」時代の臭味を脱して居ない。新しく「出發して」くれることは有難たいが、かう云ふ詩を棄てて突進してもらひたい。”

變電叢書『野川隆著作集1』「太平洋詩人二月号の詩」

と野川隆に叱られている詩人でもあります。そしてこの角田と、上の『白山詩人』「會友」欄にありますが黄色枠入れてませんが岡村二一と赤枠の岡本潤多田文三らと『紀元』という詩誌を作っていたのが、もう一人の人物である「勝承夫」またの名を「宵島俊吉」です。
勝承夫 Wikipedia
この方ももちろん「20世紀跨ぎ生まれの世代」であり、東洋大学出身「白山の野郎ども」の詩人であり、おそらくこの「會友」の中で最も世間的に成功した人物ではないでしょうか。戦後文部省音楽教育分野にプロパーとして数々の校歌の作詞家として活躍され、また「日本音楽著作権協会会長」(JASRACですよ!JASRAC!)であり、また本日青山学院大学初優勝を果たしました「箱根駅伝」にも関わりがあり、以下Wikipedia引用ですが、

昭和28年(1953年)に「駅伝を讃えて」を、読売新聞紙上に発表。この詩文は、箱根駅伝第60回大会を記念して詩碑として刻まれ、往路ゴール・復路スタートの地点である芦ノ湖の湖畔で見ることができる。

のだそうです。こちらいつものでんでんコンバーター to bib/i で引用公開してしまおうかと思ったのですが、JASRACが恐いので變電社はPDではないものの引用は学術調査利用以外は載せない方向で考えておりますので、ググっていただければと思います。市井の駅伝ファンサイトを参考ください。

またこちらのブログで誠に詳細に渡り「勝承夫」の事実を丹念に調査記載していただいており、戦前東洋大詩人調査の後発隊としては非常に勉強になり助かりかつ感動いたしました。
猫面冠者「番外編:“若き天才詩人”宵島俊吉(=勝承夫)」2009/09/04 00:07
かの木山捷平が勝承夫をあこがれて入学してきたというのだから驚きです。「今で云へば、三島由紀夫と太宰治を一緒にしたやうな人気があった」と井伏鱒二に語らしめるような人物であったとは!そしてまさか僕の個人的ランニングコース多摩川・浅川合流地点にある都立日野高校校歌の作詞家であったとは!

もっとも「勝承夫=宵島俊吉」は戦後東洋大理事長になるなど大いに立身出世され1981(昭和56)年8月3日までご存命であったために、残念ながら(?)オーファンでもなく、パブリックドメインではありませんので「變電叢書」として出すことが難しそうです。よってNDLデジコレの「インターネット公開」コンテンツはありませんが、「図書館送信限定」「国立国会図書館限定」では読めるようです。今度また都立図書館国会図書館行った際は閲覧してみようかと思います。

野川隆と勝承夫

しかし一個の詩誌に参加した面子をながめて、それぞれの詩人の人生行路がまざまざと映し出されてくると、なんとも感慨深くありますが、かような三島太宰と並び稱されたようなカリスマヤングポエットの右旋回の軌跡描いた先に着地した「校歌」詩人・JASLAC会長・大学理事長として天寿を全うした生もあれば、「藝術革命派から革命藝術家へ」左旋回の放物線を描きながら落ち延びるように満洲に渡り獄死に近い形で没した生もあったわけです。

今回の變電叢書『野川隆著作集1』追って諸々フォロー解説していきたいと思っておりますが、掲載誌毎編年体式に並べたせいでかの「G・G・P・G」時代の「最前衛」期が一番最初に詰まってしまっているせいで相当に濃い感じの『著作集1』になってます。

もっともここらは相当にすっ飛んだ頃の野川の無頼っぷりが解るとともに、研究者以外は人目に触れることもなくただ書庫に眠り続けているだけの詩であり非常に貴重であり個人的には大変面白いわけですが、今回の『著作集1』の後半部分には野川中期へ離陸し始めた頃の平明な詩も治めています。

章で云うと、『文藝解放』『太平洋詩人』『銅鑼』の大正15年~昭和2年にかけての時期で、野川が起稿している記念すべき『文藝解放』第一号は来なかった大正16年1月1日発行予定であった事実も非常に面白い、その昭和2年春には過去の前衛期の難解さを総括して「橋よ燒けろ」発言を書いていたりもします。

そして中期への離陸が決定的となるのが草野心平『銅鑼』(ここには生前の宮澤賢治や八木重吉も詩を発表しています)に寄せた「旋風」であり、野川隆の同人参加を草野心平が非常に喜んでいる後書きなども殘っていますが、前期野川からは想像のつかない平明でまっすぐなプロテストソングを歌い始めています。

ここで「歌う」と書いたのは、まさにその方向へ野川がシフトしようとし始めていた経緯などはまた中期野川の著作集2への準備のために後日書きますが、そんな「旋風」を毎度の池田ゲバラ隊長が早速歌ってくれております!
Check this out!

この「歌う」方面へ詩を持っていこうとした野川と、やはり「歌う」方面に活路を見いだした勝との、まるで左右鏡合わせのような二人の細かい生の比較検証は逐次触れてまいりたいとも思いますが、それが『野川隆著作集2』の準備ともなるはずです。

「變電叢書」紙刊行予告

さて脇道それましたが、なにはともあれ今回の變電叢書第一篇『野川隆著作集1』近日bccksでの展開の際に新書サイズで紙も刷る予定です。今回もカバーデザイン担当の牧瀬”アリアリ”洋氏が最高のを仕上げていただき誠にありがとうございました。背表紙・裏表紙入れるとこんなにイカす!

イカす牧瀬洋デザイン

イカす牧瀬洋デザイン

まさに僕の期待を超えるクールなデザインでMerzであり、この戦前の「新興藝術派叢書」的なものを所望したところそれを超えるいかすモダンなデザインで社主大満足です。

新興芸術派叢書 復刻 10 『街のナンセンス』龍胆寺 雄 ゆまに書房刊2000年

新興芸術派叢書 復刻 10 『街のナンセンス』龍胆寺 雄 ゆまに書房刊2000年

実際に野川隆詩集が当時発行されていればこのテイストであったに違いないと思えており以下『極東ロシアのモダニズム1918ー1928』町田市立国際版画美術館図録画像の比較検証のために転載しますが、

小野十三郎詩集「半分開いた窓」岡本潤詩集「夜から朝へ」 『極東ロシアのモダニズム1918ー1928』町田市立国際版画美術館図録 2002年より

小野十三郎詩集「半分開いた窓」岡本潤詩集「夜から朝へ」
『極東ロシアのモダニズム1918ー1928』町田市立国際版画美術館図録 2002年より

村山知義役トラー詩集「燕の書」萩原恭二郎詩集「死刑宣告」 『極東ロシアのモダニズム1918ー1928』町田市立国際版画美術館図録 2002年より

村山知義役トラー詩集「燕の書」萩原恭二郎詩集「死刑宣告」
『極東ロシアのモダニズム1918ー1928』町田市立国際版画美術館図録 2002年より

この「變電叢書」が古本屋に上記詩集と並んでいても遜色ない(!?)ではないか!と心から歓喜しておりますが、よって變電叢書三巻までを抱え持って2015年5月4日(月祝)開催「第二十回文学フリマ東京」で限定50冊つづくらいで出店しようかな!と企んでます!オーサリングも間に合うか!またも時間との勝負になりましたが、なにはともあれストア配布までもう少々お待ち下さいませ。

本年もよろしくお願い申し上げます。

變電社社主 持田泰