【夏の変電書フェア’14】「野川隆の放物線」小品『田舎驛にて』『作品第三』【でんでんコンバーター×BiB/iでEPUB初公開】

さて前回に続きガチの「夏の変電書フェア」で参りますが、さらにガチです夏休み中の変電社社主代理持田です。今回は終戦記念日8月15日にもちなみまして、改めまして渡満作家野川隆にフォーカスし「野川隆の放物線」というタイトルに思いを込めて進めたいと思いますが、改めて彼の軌跡を高見順の一文から。

文春文庫さんへ復刊希望。またそろそろPDなので電子書籍化を目論んでいます。

文春文庫さんへ復刊希望。またそろそろPDなので変電社としては電子書籍化を目論んでいますよ!

 
この北園克衛と『ゲエ・ギム・ギガム・プルルル・ギムゲム』をやっていた野川隆は藝術左翼から左翼藝術へと轉換して『ナップ』に参加、のちに満洲で捕らえられて獄死した。私はここで野川隆の靈に脱帽するとともに、生きている北園克衛の操守にも脱帽せざる得ないのである。

—高見順『昭和文学盛衰史

言わずもがなの北園克衛は戦後も「VOU」や「プラスティックポエム」で世界的にも有名な前衛詩人ですが、その北園が本名「橋本健吉」時代に詩誌『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』(GGPG)を一緒に作っていたのが今回の野川隆です。1923年関東大震災直前期から昭和初期に一斉に湧いて出た前衛詩運動ならびに新興美術運動のラッシュの中で、稲垣足穂村山知義とそうそうたる面子が寄稿した日本のアバンギャルド芸術運動史でも重要な位置を占める詩誌です。そこから作家人生をスタートさせた野川は「藝術左翼から左翼藝術へと轉換して『ナップ』」へ至り、運動瓦解後、1938(昭和13)年秋に満洲に渡ります。高見はまた別のところでも、

 私はまた、満洲で死んだ野川隆のことを思い出すのである、これは敗戦前に死んだのであるが、しかし、これも自然死ではなかった。野川隆は私のこの回顧記に、昭和初期のダダ的詩人として登場しているが、のちに、いわゆる藝術革命派から革命藝術家になってナップに参加した。その活動中に逮捕され、釋放後、満洲に渡った。その満洲でふたたび治安維持法違反の疑いで検挙され、獄中で発病、病院に移されたが、そのときはもう再起不能であった。昭和19年歿、四十四歳。

—高見順『昭和文学盛衰史

そういったわけで野川隆、上記人生経路を経て1944年に没していますので著作権は切れておりますが、現代においてはマイナー過ぎるようで青空文庫には当然収録されておらず、また当然一般流通の電子書籍にあるわけなく、そもそも紙でも現在入手しやすいもので『満洲の光と影 (コレクション戦争×文学)』収録の戦前芥川賞候補作『狗宝』と、少し前に出た川村湊『満洲崩壊―「大東亜文学」と作家たち』の野川隆の章で数編の詩が紹介されていくらいです。

しかしさすが国立国会図書館デジコレでは読めます。もっとも読めるには読めても、在満作家アンソロジーかそのまま雑誌に掲載作品が多いために、他の著作者との関係上、国立国会図書館本館利用か、図書館送信サービス利用館でしか読むことができません(国立国会図書館デジタルコレクション「野川隆」検索結果)。

「インターネット公開」がない!残念!

「インターネット公開」がない!残念!

で外部から見ようとすると以下のようになります。

「この資料は、国立国会図書館および図書館送信参加館の館内でご覧いただけます。複写箇所が特定できる場合は、遠隔複写サービスもご利用いただけます(歴史的音源、電子書籍・電子雑誌を除く)。」

「この資料は、国立国会図書館および図書館送信参加館の館内でご覧いただけます。複写箇所が特定できる場合は、遠隔複写サービスもご利用いただけます(歴史的音源、電子書籍・電子雑誌を除く)。」

とはいえ個人的趣味として先日の図書館送信サービスに取材(【行って来たよ!】国立国会図書館図書館向けデジタル化資料送信サービス体験レポ【美味しいマカロニ】【また行って来たよ!】続・国立国会図書館図書館向けデジタル化資料送信サービス体験レポ【いつも陽気で】)以来、実はポロポロと野川隆作品を複写サービス利用で持ち帰っており、結構數の作品コピーが手元にあります。

で、こちらを長らく紹介したいなと思ってはいたものの、上記理由によって、いつのもように国立国会図書館デジコレサイトに飛ばしてオンライン誘導させてもコンテンツが読めませんから、これは弱った「変電書」ではないなと。にもかかわらず、複写サービスコピー用紙からレビューを書いてしまった暁には、当変電社サイトは単に「複写してまでも読みたい近現代文学マニアックおじさんブログ」として侘しい一生を終えるのではないかと。※「既にそうだろう」という誹りは受け付けておりません。

なので変電社社主代理としてここで「名折れてたまるか」ということで一念発起し、コピー用紙からテキストを起こして、でんでんコンバーターにてEPUB生成し、さらにはBiB/iをサイト導入し、変電社サイト内部で作品をビューワー上で読める環境を構築しました!やったぞ!バンザイ!野川隆が電子書籍.epubで読めるのは変電社だけ!手打ちなのでどれも短いんですけれども!まとめて近日KDPで変電叢書『野川隆選集』として配布しようかと企んでおります!Coming Soon!

※なおあらためて、でんでんコンバーター高瀬 ‏@lost_and_found 氏ならびに、BiB/i松島まっつん @satorumurmur 氏、お二人の素晴らしいお仕事に対して最敬礼を送らさせて頂きます。

野川隆「電子書籍」レビュー

さて野川隆「電書」レビューを開始したいと思いますが、まず先の高見順が戦前の昭和文学史を振り返る連載の中で「野川隆は藝術左翼から左翼藝術へと轉換して『ナップ』に参加、のちに満洲で捕らえられて獄死」と数回に渡り熱く語るところの背景に触れておきます。一言で云えば、この人生行程こそが、あの時代の若い表現者たちのある端的な「典型」であったということです。

アバンギャルド詩の街のチンピラからナップの「闘士」へ。そして検挙逮捕されて運動を挫折し、マルクス主義を完全に捨て「転向」し釈放されるものもいれば「主義は捨てないが実践運動には参加しない」という「準転向」という形で釈放されるものがいる。で後者は「内地はうるさいから」と満洲へ落ちのびる者もいる。例えば戦後「現代画廊」主であり「気まぐれ美術館」美術エッセイで熱狂的な読者も多い洲之内徹も同じく、左翼活動から転向し情報将校として軍部に雇われ1938年秋(野川と同じ頃)に大陸に渡っています。野川より年齢は10歳下になりますが、彼は軍属として日中戦地で働いて生きて内地の土を踏んだので、その当時の作品を書き残しいくつかの作品は戦後芥川賞候補になっています。

そういった視点から「野川隆」という砲弾が20年代アバンギャルド運動の砲台から高く発射され大きな弧を描いて遠く海を超えて遥か北満の大地に確かに着弾したという事実を作品から追ってみたいと考えています。今は忘れ去れた「野川隆の放物線」です。まずはその着弾地点から。

野川隆『田舎驛にて

『田舎驛にて』


野川隆『田舎驛にて』






掲載誌『北窗. 3(2/3)』p94~98(50コマ目)
発行日:昭和16(1941-05) 
出版社:満鉄哈爾浜図書館
国立国会図書館デジタルコレクション
※「国立国会図書館/図書館送信参加館内公開」コンテンツのため複写サービス利用



この非常に短い5頁ほどの小品『田舎驛にて』が掲載された『北窗(ほくそ)』の発行元が満鉄哈爾浜(ハルピン)図書館ですが、こちらに関してはその図書館長である竹内正一の『哈爾賓入城』は以前にレビューを書きました。その同時代の作品となります。それでありながら竹内正一が描かなかったところの満洲の生活者が確かに写されています。生活者は満人(中国人)だけでなく書き手自身である日本人をも指しています。「噯、噯、老頭兒呀!這邊來、來々!」と支那(中国)語を巧みに操る「私」(竹内の作品にはロシア語巧みに使う日本人は出てきましたが、中国語喋る日本人は一人も出てきません)は、「合作社」の仕事をしている「協和會服」を着た日本人です。 この「合作社」とは何かというと、神戸大学付属図書館新聞記事文庫にやはりいい記事がありました。

誕生近き興農合作社 新京にて 島崎特派員(大阪朝日新聞 1940.3.2-3)

誕生近き興農合作社 新京にて 島崎特派員(大阪朝日新聞 1940.3.2-3)

誕生近き興農合作社 人口の八割を占める農民大衆を、半封建的な旧機構の桎梏から解放して、新体制の下に理想農村を創造しようという建国精神具現のための農村協同組合たる農事合作社と、高利貸資本の重圧から農民を救出しようという主旨の下に設立された近代的金融機関としての金融合作社、この両合作社を統合して、新たに興農合作社を作ることになったのである —誕生近き興農合作社 新京にて島崎特派員(大阪朝日新聞 1940.3.2-3)

いわゆる満人貧農による協同組合を組織して生産力を向上させ彼らの貧困救済をはかる運動が「合作社」です。 また「私」が着ている「協和會服」とは何かと云うと、満洲国政府と表裏となって「五族協和」の「王道楽土」の建設の実現を図るための政治教化団体「満州国協和会」というものがあり(※言わずもがなで甘粕正彦が総務部長)その正装が「協和會服」です。国民服、人民服(中山服)とよく似たものですが、Googleイメージ検索でこんな感じのものですが、「協和会服」より「協和服」の方がひっかかりますね

野川隆は此の「合作社」運動の中で再度治安維持法違反嫌疑で投獄されます。2008年にでっち上げであったことも証明された満鉄調査部事件の第二次検挙されたメンバーの一人として連座していた(もしくはその煽りの中での逮捕)ようです。
※2014年8月13日訂正追記:上記はその後の調査で私の完全なる勘違いであることが判明です。野川隆は以下引用の1941年11月4日「合作社事件」における「50名余の運動関係者が検挙」のうちの一人です(参考:川村湊『満洲崩壊―「大東亜文学」と作家たち』)

橘樸の影響を受けていた『満州評論』編集長・佐藤大四郎は、1937年1月以降、北満州の浜江省綏化県で、貧農を農事合作社(協同組合)に組織して生産力を向上させ彼らの救済をはかる運動に従事していた。満州国協和会中央本部実践科主任・平賀貞夫らの逮捕からこの運動は日本人「前歴者」が結集したことで関東憲兵隊(関東軍司令官隷下の軍令憲兵。憲兵司令官指揮下ではない)に目をつけられ、共産主義運動の嫌疑で佐藤のほか協和会の鈴木小兵衛、満鉄調査部の花房森・佐藤晴生など50名余の運動関係者が検挙された(合作社事件、1941年11月)。

なお、この満鉄調査部事件/合作社事件のWikipediaでも記載されている。

満鉄調査部は、1939年の拡充に伴う人員増強により、日本内地で活動の場を失った左翼からの転向者が多数就職していた。彼らは、内地ではもはや不可能となったマルクス主義的方法による社会調査・分析に従事しており、そのことが関東軍の憲兵隊を中心とする満州国治安当局からの監視の目を強めさせることになった。

これは先の洲之内徹なんかも全く同じ任務で陸軍の情報将校として中国北東部に着任しています。その彼の仕事ぶりが芥川賞候補作『棗の木の下』『砂』(「洲之内徹文学集成」収録)でも読めます。余談ですが、芥川賞選考会では「不道徳」の誹りを受けたものです。日本人が戦時下中国大陸で何をしてきたのか、また戦場が実に日常と地続きであることがこういう作品を読むといたく分かります。

さて『田舎驛』作品に話を戻したいと思いますが、まず文末から。(八・三・二六)と記載があります。これは「康徳8年3月26日」のことであろうと予測され、「康徳」は満洲国の年号で建国から8年、昭和で16年、西暦で1941年の3月26日。で、どんな年であったかというと、日中戦争は前線の拡大化泥沼化の一途を辿る一方で、対米交渉も完全に行き詰まり、援蒋ルートの遮断と「油」のために「南進」へと急速に転がり落ちていく時代です。まさにその年の冬12月8日未明、日本帝国海軍航空隊が真珠湾を奇襲し太平洋戦争が勃発します。ある意味日本が「詰んでしまった」年です。

そんな時代の北満の大地で「協和會服」を身にまとい「合作社」で従事する「私」の鉄道三等客車の中でのちささやかなエピソードになります。ここに戦争の影はありません。大陸における戦時下の満洲国農村近辺での日常があります。「私」は「親切な日本人」です。あの時代でなお大勢居たであろう無名の「親切な日本人」の中の一人です。そんな「私」でも意図せずして満人モラルを「結局、まあ、文化水準が低いんですね、……」と漏らし、すぐ「教育が普及してないんですね」と言い直します。しかし「さうですな。全くですァ、教育ちうもんがまるきり無いんやからなァ」に日本人乗客「五十男」の同意されてどこか叱られた気分になります(しかし現在の中国に対する言説でもこういう会話が普通に飛び交っていることを考えると、我々はこの73年の間に何か学べたことはあったのでしょうか)。そして駅についた時に馬車の取り合いで満人が大混雑するホームを眺めるだけしかできない「私」に「五十男」がこう云う

「これですァ!……」とさつきからすつかり機嫌をよくしてお喋りになつた五十男は私の肩を手袋の指先で突ついて云ふのである。「なつちよらんですなァ、交通道徳ちうもんがないんやから……」  そして大きく左右に肩をゆすぶりフェルトの長靴をがに股にざりざりと五六歩すすませると、突然しゃがれた聲でどなつた。 「こら、こら、どかんかい!……なんや、なんや、ほら、ならべ、ならべ、ならばんかい!……」  それから、これはまた恐ろしく身體つきに似合はぬ小さな手提カバンを右手で中空にひとふりすると矢庭に群衆のなかに跳びこんで、皮につゝまれた黒光する兩肩でさかんにぐいぐいと押しこくりながら人間の波間を前方へとおよいで行つた。

—野川隆『田舎驛にて

この「五十男」が満人に対して「教育指導」を行わんとするところの日本人の文化的「横暴」を「私」は呆然と見送ります。その見送られた「横暴」はそのまま北東中国戦地また南洋の戦地で繰り広げられたわけですが、この「私」の「置いていかれてしまった感」は痛切です。「協和會服」を纏い「合作社」的理想を抱えた「親切な日本人」が北満の寒空の田舎駅で21世紀の今でなお、ぼんやりと佇んでいるかのように思えてなりません。 さて着弾地点における野川隆に続いて、今度は発射台の野川隆を紹介します。

野川隆『作品第三(宇宙・人間及想像)

『作品第三(宇宙・人間及想像)』


野川隆『作品第三(宇宙・人間及想像)』






掲載誌『エポック. (1月號)(4)』p52~59(33コマ目)
発行日:大正12年(1923-01)
出版社:エポック社
国立国会図書館デジタルコレクション
※「国立国会図書館/図書館送信参加館内公開」コンテンツのため複写サービス利用


この掲載誌『エポック』はこれは先の『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』(GGPG)発刊が同じエポック社からその年の6月なのですが、その前身にあたる野川隆・孟兄弟、大正期新興美術運動の中心的人物玉村善之助らと一緒に出したもので、目次を見ると、「ダダ・ダダ」「未來派の宣言に就いて」などなど当時の欧州で盛んに破裂していた新興芸術運動の紹介から評論・翻訳など展開しています。その中で野川隆が22歳の頃に書いたとおぼしきものが、この『作品第三(宇宙・人間及想像)』です。

以前ドン・ザッキーを取り上げた際(林芙美子と野村吉哉とドン・ザッキーと「詩」の時代 【レビュアー:持田泰】)にも書きましたが、あの時代特有の「誇大妄想」感溢れる「内面」が迸るように吐露され、その「藝術左翼」サイドから果敢に何か触れようと「狂」じていて、そゆえにリリシズム溢れています。ただ「若い作品」です。

ちょうど同じ頃、1923(大正13)年7月かの小林秀雄がプレ批評家時代に『一つの脳髄』という小説を残していますが、個人的にその印象と良く似てるなと思ったところ、実は小林秀雄の誕生日が1902(明治35)年4月11日で、野川隆が1901(明治34)年4月23日なので二人は同世代でした。同じ世代の「若い詩人」たちにとって高度に回転した「自意識の球体」の出口の無さの神経衰弱の果てに、出会ってしまうナニモノかがおそらくは彼等のリアリティの担保になったのだと思う訳ですが、おそらくそこが「どん詰り」であることに二人は気づいたかのような終わり方です。

しかしこの『作品第三(宇宙・人間及想像)』の22歳の「砲台」からから『田舎驛にて』の40歳の「着弾地点」を思うと、野川隆という作家は本当に遠くまで飛んだなあとその射程距離に驚きます。

「野川隆は藝術左翼から左翼藝術へと轉換して『ナップ』に参加、のちに満洲で捕らえられて獄死」

上記一文の中に託された放物線は野川の他作品でもっと細かく辿れます。実は今回他にエポック時代から満洲で生前唯一残した非売品の詩集『九篇詩集』(※なお聞く所では「50万円以上」で取引される幻の超ド級レアアイテム)収録の詩編もいくつかEPUB化しておりますが、今回こちらの記事が長くなってしまっているので、今月8月に発行される(はず!)の電誌トルタル五号にて変電社「野川隆」特集として公開させていただきます!是非ともCheck This Out!

今後もテキスト起こしてEPUB化宣言(変電社第五宣言)

さて、前回に続き一人の作家に張り付いて、なお今回は国立国会図書館複写サービスからテキスト起こしてepub化までしたわけですが、今後も短いものであれば「でんでんコンバーター×BiB/i公開」を実施したいと考えています。なぜならば、昨今のデジタル化インターネッツ化の荒波の中で、さもすれば「パブリックドメイン」がなんのかんのと話題になりがら、端で見ていると、どうも簡単な形で、つまり戦後書籍化されててデータ化容易なものから青空文庫などで公開されていて、それはもちろんまったくもって良いこと有難いことでありながら、そこにあったはずの価値付けや文脈が一切なく並ぶことに対しては、変電社社主代理として前回の「過渡期の横光」記事でも違和感を表明しました。

今回も非常にボリューミーなレビューになりましたが、以後も、コンテンツを語る時にコンテクスト抜きで語れてしまう時代への反逆精神、すなわち「偏愛」でもってして、自ら「変な電子書籍」の作成してまでも、皆様に紹介したいと思います。

最後に、今回まとめた野川隆の作品、またそれ以外複写コピーで読んで感銘をうけたものの長いのでテキスト起こしを断念した諸作品含めて、その作品に宿りし「野川隆の靈」対して、私も末席ながら「脱帽」をさせていただきます。

社主代理 持田泰

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