『満州短編小説集』滿洲有斐閣(1942)「作者の言葉」69頁(38コマ)より

【野川隆生誕114年記念】芥川賞第14回候補作『狗寶』『作者の言葉』ならびに前回未収録最初期エポック時代詩作『風と詩人』公開【變電叢書近日リリース宣言】

唐突ですが、社主持田です。

本日4月23日は野川隆114歳の誕生日にあたります。

野川隆著作集を公開をを目指しておりますが、公私にわたる多忙ゆえに手間取っておりまして非常にお待ちいただいている皆様、また「詩人の魂」に面目ないところですが、近日必ず出しますのでしばしお待ち下さいませ。

本日は後期野川の一つの到達地点で戦前期芥川賞第14回候補作にもなった短篇「狗寶」の公開と、野川の一つの源流たる最初期『エポック』時代の試作「風と詩人」を公開いたします。

野川隆『狗寶』昭和16(1941)年下期年5月

『狗寶』

ちなみに日本の常用漢字にない

ウイ

ウイ

なる名の登場人物に関しては外字を使用しておりますが、昨晩唐突に公開を思い立ってお手伝いいただいた變電社技術工作隊原田晶文波野發作先生スペシャルサンクス引き続きヨロシクお願いいたします。

初期詩作から一気に後期に飛ぶと、こうまで作風が変わったのかと全く驚愕するころであります。後日もう少しこちらの作品レビューに触れたいと思いますが、今回は野川自身によりレビューで。

野川隆『作者の言葉』康徳9・昭和12(1942)3月

『作者の言葉』

野川が内地から逃れるようにして渡った「外地」中国大陸で何かを見出し、さらに手応えを得て、以前も紹介した彼の『哈爾賓風物詩』の「エミグラントに生きる」精神よりさらに大陸の深く深く潜行していく詩人の後ろ姿を見るようであります。

なおその後の野川の足跡は同年太平洋戦争勃発直前にあたる11月「合作社事件」の一斉検挙された50余名のうちの一人として収監され、その後、奉天監獄での過酷な環境の中で衰弱し、仮出獄が認められたが昭和19(1944)年12月23日奉天医大病院で死去したことは既に伝えております。「潜行」を図ることがほとんど出来ないままに世を去りました。

今回も「放物線」の距離を測るべく、最初期も同時に紹介いたします。

野川隆『風と詩人』大正11(1922)年11月

『風と詩人』

こちらは前回の「野川隆著作集1」公開時にはどうしても探し出せず収録断念した作品ですが、国立国会図書館デジタルコレクションの目次データ漏れていたために検索に引っかからなかったのですが、後日ようやく見つけ出せました。最初期の「沼の水蒸気」も回収できておりますので、著作集には追加させますのでお待ちください。

きさまは、きさまの書くどの詩よりもつと深刻な、
自殺した狂人の(血みどろの死骸)といふあさましい詩劇を演るが、いい!

この「風」の最後の捨て台詞は意味深でありますが、予言的であったとは全く思いません。野川隆晩期は間違いなく狂気とは違う方面へ向いておりましたので。もっとも疾風怒濤の時代が幕開けんとした1922年。その後の彼は前期詩編でもわかりますように、「靜かな詩」を捨て「外のあらあらしい風が、星とともに」ある世界へと離陸していきます。彼はその後も何かを振り捨てるように作風を変えていきますがそれが彼の放物線です。引き続き詳らかにしてまいりますが、本日はこれにて!

以上、あっさりとですが、どうしても本日4月23日中には何かを公開しないことには!という意地だけで、仕事明けに渋谷のカフェで温めていた作品公開を敢行いたしました!どうぞご賞味ください。

また近日トルタルでも野川隆の生きた時代と世代論を公開していきますので、こちらも乞うご期待!

詩人の魂に。
お誕生日おめでとうございます。
そしてどうぞ安らかに。

持田 泰

「世界文藝史上最初の試み」という原稿叩き売り現場

【20世紀跨ぎ生まれ「X」とその世代】「公敵」としてのコンテクストメイカー梅原北明『殺人會社』『文藝市場宣言』『火の用心』『ぺてん商法』【FIGHT THE POWER】

大「變」ご無沙汰しております。社主持田です。当サイトの更新ならびに念願の野川隆集のストア公開がままなっておりませんが!お待ち下さいませ!凡てはいつのも如く公私にわたる諸事情の結果の社主の「怠慢」です。近日出します(出せるはず)!

しかし今回遅れております事がもっけの幸いで、国立国会図書館デジタルコレクション館内限定データでの目次記載漏れで発見できていなかった最初期「風の詩人」「沼の水蒸気」大正11(1922)年の詩作二編を回収できましたので、前期野川隆詩片はどうやらコンプリートできた模様です。外字の他の環境によっては見られない可能性のある非常用漢字や記号整理で手間どっておりますが、また少々「野川隆とその時代」論を画策もしておりますが、なにはともあれ急ぎます。

今回は「レッド」でも「ブラック」でもなく「ピンク

といったわけでありますが、今回もやはり野川中期調査と平行しつつ、前回に続き「變態光波」の井東憲調査を諸々進めている中で、さらに傍流に流れまして(本流かもしれませんが)、まあ僕の個人的趣向として過去一貫して戦前期「赤色(コミュニズム)」や「黒色(アナキズム)」作物が多いわけですが、もっとも正確に云えば赤色」「黒色」未然のワアっと沸いた都市の渾沌渾然としたマージナルな作家らに惹かれているわけですが、今回はその流れで以前から取り上げよう思いながら放置していた「桃色(エロ)」の方を取り上げます。もっとも正確に云えばこちらも「桃色」未然のものです。なにはともあれ春であります。

実際、変電社の事に起こりにおいても「桃色」方面は重要な宿題として認識はしており、最初期2012年末の変電社日記日本歓楽郷案内』『異国風景浮世オン・パレード』を取り上げ、前回でも一部触れたように、酒井潔『エロエロ草紙』webブレイクしたのが変電社契機でもある関係でやがて触れなければぬ珍書軟派本領域とは思っていました。今回はようやく、『エロエロ草紙』作者たる酒井潔の盟友であり歳下の師でもあり、当時官憲側から「正気の狂人」と称された梅原北明を取り上げます。所謂エロ・グロ・ナンセンスの巨人でありますが、プランナープロデューサー的に立ち振る舞った北明では珍しい初期「小説」作品を中心に、NDLデジコレ紹介1本と&bib/i公開3本紹介で参ります。で、この北明調査の中で非常に重要なことを思い出ささせていただきました

【猛省!】社主がうっかり見落としていた「X」【慚愧!】

つまるとこ、今まであまりにもこの時代の巨大な登場人物「X」を見落としていたのです。その発見経緯について後段で説明いたますが、というのも僕はその人物のその事実を知っていたからなのですが、にもかかわらずぼんやりと見過ごして居たことに驚いているのです。歴史というのはなんかこう、知っていた事実を忘れる、知っていた事実を見落とすものなのか?

そもそもなぜ今頃梅原北明を取り上げるのか?と云うと、前回記事の井東憲『贋造の街』大正14(1925)というdopeでcoolな詩に中の一節

「あの幻想狂の、意識的構成派の畫家は、私のことを……もつとも、そのかけてゐたセルロイドの眼鏡は、ほんの間に合わせに、夜店で買つたものだが……女に捨てられた怜悧な蜻蛉にたとへた。」

「意識的構成派の畫家」とは間違いな村山知義のことですね。本当に皆が近くに居たのだと。

と作内に村山知義が登場してくることに、僕は軽く触れて流した。のですが、面目ないことに社主持田の勉強不足です。村山知義と井東憲はそもそも近くに居たも何も二人して「文藝市場」の同人です。以下の表紙は文藝市場第二号ですが「作品市場」で村山と井東の名が仲良く並んでおります。

村山知義と井東憲が仲良く並んで記載

村山知義と井東憲が仲良く並んで記載


そしてこの二人をつなげたのが、この表紙の中央で群集に取り囲まれている和服姿で眼鏡の男—「文藝市場」首領の梅原北明です。
 
 この梅原北明と邂逅した時のことを、後に村山が書いていまいす。

彼は顔色の蒼白い、痩せた、むしろ小男であった。極度の近眼らしく、大きな眼鏡をかけ、青蛙のような顔をした男だった。おしゃべりで、人の気持ちにかかわらず、自分の考えだけを述べ立てる人で、何かに魅かれている男のように思えた。
「おれは天ちゃんと同い年に生まれた。そうか、じゃ、君と同い年だ。一月の生れ?そうかじや同じ月だ」と初めて会った時いった。蝶ネクタイをし、古いタキシードを着ていたと思うと、ヨレヨレの着物姿であった。

——村山知義「文藝市場の頃」文藝市場復刻別冊解説 日本近代文学館

ここで「あっ」と思った。北明が村山知義と同世代であることすなわち20世紀跨ぎ生まれ世代であることの発見よりも、

「おれは天ちゃんと同い年に生まれた」

嗚呼…何故忘れていたのか?

そう私が勝手に名付けた「20世紀跨ぎ生まれ世代」を等記号で人物「X」と結べるのでした。

そう「X」=「天ちゃん」です!

もうおわかりかと思いますが、すなわち「昭和天皇」であります!北明にとってこの不敬なる「天ちゃんと同い年」が口癖だったそうですが、つまり「20世紀跨ぎ生まれ世代」とは「昭和天皇の世代」だったんですよ!「昭和の世代」ではありません。「天皇の世代」でもなく、「昭和天皇迪宮裕仁の世代」です。嗚呼!今更気がつくとは!!

北明が言うように昭和天皇迪宮裕仁は1901(明治34)年4月29日御生誕です。今も国民の祝日「昭和の日」たる4月29日。その1901(明治34)年の同年、1月15日に梅原北明、3日後18日に村山知義が生まれ、昭和の天長節(天皇誕生日)4月29日の僅か6日前23日に野川隆が生まれたわけです。

しかも僕が取り上げた他の同世代人の中で1989年(昭和64)年1月7日まであたりまえながら「昭和が終わる日」までご長命であられた。僕が生後の高度経済成長期後の昭和後期をも生き僕の知る他の同世代人物の中でももっとも親し(?)くあった人物です。どうして忘れていたのか?

さらに過去さんざん参考にさせてもらっているWikipediaの1901年誕生者リストにも昭和天皇の誕生日は明記されており、

昭和天皇記載あり

昭和天皇記載あり


4月29日同日生まれたるかの尾崎秀実はゾルゲ事件における同世代論として調査対象だったわけで、何故に昭和天皇を見落としたのか?

また棚の福田一也「昭和天皇 第一部 日露戦争と乃木希典の死」においては第二章「二十世紀の子」というタイトルまであり、その冒頭が、

 迪宮裕仁、のちの昭和天皇は、明治三十四(一九〇一)年、つまり二十世紀最初の年の四月二十九日に生まれた。 

にも係わらず、僕はうっかり見過ごしていたのであります。深い反省の中で、僕の記憶の構造に重要な欠陥があるような気がしておりますが、なにはともあれここで思い出せて良かったと安堵もしています。「野川隆とその時代」を書く前でよかった。

その世代論は近日トルタル6号にて!

この想起により僕の中では、ある点と点を線として結んだ先の「面」にまでようやく持って行けた感があります。

以前より取り上げた「世代論」は過去な記事で折々の余談として触れておりますが、
【秋の変電書月間’14】「村山知義の強引」ゲオルク・カイゼル作/北村喜八訳『朝から夜中まで』【オチとしてのウォーク・ディス・ウェイ】」
【変電社復刊宣言予告】野川隆と橘不二雄と「白山の野郎ども」【橘不二雄『腕の欠伸』文化庁裁定に送り出すよ宣言】
【謹賀新年】第二期變電社ロンチ宣言と正月余談として勝承夫『駅伝を讃えて』と野川隆『旋風』フォークゲリラ【變電社第7宣言】
【20世紀跨ぎ生まれ世代の兄達1894ー5】二人の「江戸川亂歩」と井東憲『贋造の街』ならびにカフェ「變態光波」開店宣言【都市と變態】

上のゾルゲ事件尾崎秀実の他、何人かさらに追加したい同世代人物を加えてあのジェネレーションを一度整理したいと思っております。今回はこちら予告として。次回5月リリースのトルタル6号に變電社からは「20世紀跨ぎ生まれ『X』とその世代」試論を書こうと思い立っておりますが、困ったことに現在締切間近で一文字も書いておりません!どうしよう!が景気よくやはり以下のT.RexをBGMで参りましょう! 

梅原北明について

さて、戦後かの発禁本猥褻本研究の大家であり「書痴」斉藤昌三に「軟派の出版界に君臨した二大異端者を擧げるなら、梅原北明と宮武外骨老の二人に匹敵する者はまずない。その実績に於て北明は東の大関」(斉藤昌三「三十六人の好色家―性研究家列伝 (1956年)」)と言わしめ、当時の出版法違反で発禁・罰金回数でかの外骨を圧倒的に上回るレコードを叩き出して、当局も心底手を焼いた「猥本の出版狂」です。戦後まで生き延びるものの大量に出回った廉価カストリ雑誌などの戦後出版を手がけることもなく、虱に嚙まれたが元で発疹チフスで昭和21(1946)年4月に死去しております。享年45歳。

結果、すべてパブリックドメインということで、NDLデジコレにも作品が多数眠っておりますここに本名梅原貞康から「梅原北明」として世に出た処女出版であり最初期の「惡魔主義」を標榜していた頃の非常に珍しい小説殺人会社. 前編」(アカネ書房 1924(大正13)年)が読めるのですから、NDLデジコレは偉大です。

なのですが、検閲後による伏せ字本になってますので相当に切り刻まれて(何を書いたのか?というレベルですが)よく文意が通じない所もあります。ので読んでみようと思う方はご注意ください。

梅原北明「殺人會社

殺人會社





殺人会社. 前編』(コマ数165)
著者:梅原北明
発行日:大正13(1924)年11月 出版社:アカネ書房
国立国会図書館デジタルコレクション






ちなみにこちらそもそもで「前篇」しかありません。相当クレイジーな作品で暗殺を請け負った殺し屋が、日本人移民から黒人運動家から白人レイシストと片っ端から殺戮し、沸騰する鉛の池に放り込んだり人肉缶詰にして売りさばいたりとありとあらゆる手口で処理していくという、大変に荒唐無稽な作品ですが、なんともタランティーノ映画を見るような、猛烈な勢いでまくし立ててくる「陽気な暗黒性」とでもいいますか、北明の壊れ具合が妙に解る作品です。

このの「悪魔主義全盛時代」という大層な副題の下のエピグラフを引用します。

八百八萬の神々を頭から馬鹿にしきつて人間と云ふ人間を、けだものの如くに尻にひいて、蔑けりとおした或る男が、死に臨んで此の世の中へ殘した最後の言葉は「俺は、これ限り蛆虫の世界とは絕緣してやる」
人間達「そんなら何處げ行くんです」
その男「きまつてるぢやないか?極楽へさア。そして俺は、其處の平和の攪亂者になるんだ

—「殺人會社」1924(大正13)年11月

この宣言どおり大正から昭和にかけて「平和の攪乱者」たる使命は果たしたと言える北明ですが、一方でこの中二的幼稚さとも取れる「惡魔主義」の美意識に終始しているわけではありません。黒人差別の問題と水平社の問題を同等に論じる視点などアクチュアルな問題意識があります。ただその回答に一貫する「反骨」=あらゆる「権威」への拒否のみならず、「正義」や「公正」や「善意」というものを、ある種の今でいうポリティカル・コレクトネス的なものを、せせら笑い「力」もしくは「自力」を賛美し、それはまた「市場主義」へと直結します

資本主義キャピタリズム如何どうであらうが、ナショナリズムがくたば﹅﹅﹅らうが、そんな事にはお構ひなしだ。組織そのものが金だ。コンマシヤリズムに出發してゐるのだ。斯う云つた方が一番早道かも知れぬ。純然たる會社組織だ金を儲けるための祕密結社である。だから俺達は祕密結社とは云はずに The F murder Joint Stock Company つまりF殺人會社と呼んでゐるのだ

—「殺人會社」14コマ目 1924(大正13)年11月

他にも語り手「三太郎」の台詞を抜粋していきますと、

「革命なんて厭なこつた。それより自分が自分で力强くなることに心がけりア其れで好いと僕が思ふね。つまり各に惡になればいいんだ。資本家も惡魔なら、勞働者も惡魔になりアいい。プロもブルも猫もないのだ。世の中は惡の結晶だ。虚偽と欺瞞の塊なんだ。いくら其の中で正義を叫ぶミノリティが逆立をオツ始めたつて、大勢に逆行することア不可能だ。惡なら惡でよし、その中を力强く泳いで行けア其れでいいのだ」

この反革命精神と、この「惡なら惡でよし、その中を力强く泳いで行けア其れでいいのだ」という態度は、当時で言えば大杉栄的なアナキストではあるのですが、今様で言えばまさしくリバタリアンという単語が北明を指すに最も近いと思われます。

「殺人結社秘書の秘書」「三太郎」たる語り手は当時の当時のベストセラー阿部次郎の「三太郎の日記」が由来の大正教養主義者たる「三太郎」をアメリカで殺人結社の殺人者に仕立てるという意図的な皮肉を込めたようです。

また全くの余談をしますと、その殺人會社に「馬鹿になる薬を打たれて」で初めて殺されてしまう日本人店員(組織の隠れ蓑たるドラッグストアの薬剤師)のエピソードが出てきます。この日本人が殺された日付が何故か奇妙なまでに明確に(「忘れもしない」と)記されていてそれが「1923年12月8日」です。それから28年後の41年12月8日が真珠湾攻撃なので、ここは全くの偶然でがありますが、なんかゾクリとしました。

コンテクスト・メイカーとしての梅原北明

北明数々の逸話はWkipedeiaはあまりたいしたこと書かれていないので、参考するよりググるといろいろ出てくるかと思いますが、變電社としても北明の逸話をつまびらかにしていきたいとこなのですが、ぶっちゃけ逸話が多すぎてどこから手をつけていいのかわかりません!

梅原北明が昭和戦前期の猥本出版のオルガナイザーとして伝説化するのは、自らへの出版物に対してを北明自身が身体張って文脈形成していく逸話量産裝置だからです。罰金・禁固刑を何度食らっても、金鵄勲章(きんしくんしょう)なあぬ禁止勲章授与、数十回!なんて発表して徹底して「ネタ」の弾幕を張ります。

もうそのネタ数が多すぎるので最初期だけを走り書きで書いておきます。

まず北明の名を世間に轟かしたのは先の荒唐無稽な「殺人會社」なる小説ではありません(黙殺)。彼が翻訳を手がけた世界文学史上に燦然と輝く猥褻本ボッカチオ「デカメロン」がありますが、大正14(1925)年に発行する際です。その前に戸川秋骨が翻訳した「デカメロン」が内務省図書課によって伏せ字削除の「検閲」で切り刻まれために、それを見越して「やれるものならやってみろ」とばかりに「ボッカチオ没後五百五十年祭記念出版」と名をうち、イタリア皇帝皇太后両陛下ならびにムッソリニ首相にこの日本語翻訳本を献上し、盛大なボッカチオ祭を浅草でぶち上げ、イタリア大使を呼んで散々っぱら吉原の芸者と遊ばせ、それに歓喜したイタリア大使からこの桃色接待に応える形でイタリア国家勲章をもらってしまったという逸話(またその勲章をカフェの女給に簡単にくれてしまうなど)。

また、昭和2(1927)年4月29日、先の入った昭和天皇の誕生日にあたる戦前表現で云う昭和最初の「天長節」(昭和元年は前年の12月25日で6日しかなかったので、この年が昭和天皇初の天長節)ですが、その全国祝賀ムードMAXの日に「八百屋お七二百五十年追善供養」を打って出た。この恋人逢いたさで江戸に火を放ち火刑に処された放火犯「お七」の供養を取り仕切った「施主」が梅原北明です(当日の全国紙朝刊で報道されたことで各所から上野自治会館に老若男女が集まり恋の炎に燃え焼け死んだ「お七」にセンチメンタルに涙した言われてます)。

これは明らかにタメ年の「お上」をからかう意図でフザケたので、事実その『文藝市場』誌上にて北明自身が「去る四月二十九日は、今度の聖上陛下御誕辰にわたらせらるる最初の天長節で今後毎年繰り返される我らにとっての新たなる祭日であるが、今より二百五十年前の当日は、実に情熱ある女、八百屋お七が鈴ガ森で炙刑に処された日である」とまで書いた確信犯です(しかも二百五十年ではなく二百四十五年であったところサバまで読んでます)。

また大正14(1925)年菊池寛に反旗を翻して始めた今東光『文党』(同誌には村山知義も野川隆も参加)に参加しかつ「文党歌」なるものまで作詞しして、村山知義に構成派風の目立つ看板を描かせ、銀座目抜き通りを桃太郎の歌の節に「天下に生まれた文党だ/値段が安くて面白い/既成文壇討たんとて勇んで街へ出かけたり」と大合唱しながら行進させ衆目を集めるなど、いわば街頭での「ハプニング」とそのアジテートを十八番としており、そして極めつきには先の『文藝市場』二号この表紙写真です。

「世界文藝史上最初の試み」という原稿叩き売り現場

「世界文藝史上最初の試み」という原稿叩き売り現場

この群集に取り囲まれた北明がここで何をしているかというと、「世界文藝史上最初の試み」と売り文句で不意に街頭ゲリラ的に行われた「生原稿の叩き売り」です。出典不明ながら村山知義が新聞の切り抜きスクラップの中の記事として以下を紹介していますのでそのまま引用します。非常のその空気がよくわかります。
 

枯川老の原稿、三枚で三円半也 文藝市場での逸品 二束三文で投売でも一夜の売上百五十円の大景気

『世界文芸史上最初の試み』と云ふふれ出しで、金子洋文伊藤憲梅原北明村山知義なんどの連中が十日午后四時半から京橋でプロ分子評論家の原稿プロ画家の画稿等を、どこからか集めて来て、その夜店を開いた。挑発にロイド眼鏡の主催者はビールの空箱の上に戸板を並べ、背後には構成派風の大型の紙に『文藝市場』と大書して店をひろげる、またゝく間に用のなさそうな行人が足をとめて黒山、交通巡査までが飛んで來るといふ騒ぎ。伊藤君が先ず空箱の上に立つて『さあ、津田光造の新世紀論、原稿三枚半でいくら!』とどなると『十銭!』と答へる『オイ十銭は可哀想だもつと買へ』と言った調子で、村山知義の画が一円で売れる頃はまだ無難であつたが、すぐ真向ひの京橋署から『交通妨害似鳴るから』と注意されてとうとう警察横に移る、新進作家菅忠雄の原稿五枚半で二十銭でたゝき売られた後で『さあ今度は『堺利彦の原稿三枚いくら』『五銭』と呼ぶ奴があつたが、遂に三円五十銭、これが当夜の最高値を呼んだものゝ『お次は松竹のスター栗島澄子の亭主池田義信の原稿、いくら』忽ち十五銭で売り飛ばされる、中には値段をつけて姿を消す奴がある、『そんならおれが買ってやらう』と五十歳余りの職人が構成派の絵を不思議そうに見て持ってゆく、売行芳しくないと見るや『岡田三郎と間宮茂輔、山田清三郎、こみでいくら』と来るでも午后八時店を閉めるまでは大枚百四十五円の売上があつた『この調子だと今に同業をもくろむ奴が出るよ』と一同早くも先きの心配をする程の上景気だった

しかも場所が「京橋の警察署横」というのが何とも北明らしい。だいたい今の金額に換算すると一晩で100万円くらいの売上でしょうか。『この調子だと今に同業をもくろむ奴が出る』ということはその後なくかえって既成文壇人からは顰蹙を買ったわけですが、今のコミケまたは文フリ等の直接販売のイベント思想そのものです。

このずばり「文藝市場」(ずばりマーケット!)と名を打った雑誌看板の北明の「文藝市場社」はその後も様々な新機軸を打ち出しますが、北明だけでなく村山知義井東憲も執筆者として参加した「變態十二史」シリーズは限定五百部のサブスクリプション制販売が6000件に近い申仕込みがあり「文藝市場」自体がなかなか捌けずに経営難に陥っていた文藝市場社の窮地を救ったとも言われています。

梅原北明と『文藝市場』

少し戻してその文藝市場者の成立について。北明は先の「デカメロン」翻訳で一山当てたことで、新聞記者をやめて、今東光「文党」と同じく菊池寛「文藝春秋」横光川端「文藝時代」などの既成文壇へのカウンター誌を画策します。「露西亜大革命史」も翻訳したことで交流の深かったプロレタリア系作家作家らを中心に六十余名集結させて「文藝市場」を大正14(1925)年11月創刊し文藝市場社の起こします

もっともこれが左翼誌かというとそんなことはありません。実際、北明自身の背骨にイデオロギー的な要素はなく後年村山知義からこんなこと言われます。

彼の死後、彼を可成り左翼的な信念を持っていた人として評価した人があるが、私が見る所で彼にはそんな考えは全くない。プロ作家の中に友人が多い、というが、それは彼がいくらか反骨的で、反抗的な気持ちがあったからで、その後の第二次世界大戦中の彼の態度を見れば、彼が根無し草だったことがわかるだろう

——村山知義「文藝市場の頃」

「その後の第二次世界大戦中の彼の態度」とは所謂「転向」問題もなく無思想で通過できたことを指しているわけですが、この部分は追って第二回ででも触れます。ただ村山知義という人は(少年期クリスチャンであったピューリタン的性向のせいなのか)周囲に対して少し辛辣に書きすぎているきらい(村山「演劇的自叙伝」読むと様々な人への批評(悪口?)が多い)があり、ここでも北明に対して一貫して冷淡でありますが、北明はむしろ人に好かれたエピソードが多数あります。おそらく北明の持つ「反骨」とだけと言い切れぬものが、同人の尾高三郎から「焼け糞出版」と言われるような、後も先も顧みない全くの無意味な悪戯に命をかけるような「悪童性」が人を惹きつけたようです(そしてそれは「マヴォ」のドイツ仕込みの前衛の「怪童」からコミュニズムへと放物線を描いた村山知義とは相容れぬ何かであり、彼らの関係はこの文藝市場のみで終了しています)。

その悪戯の針が振り切れすぎて、悪ノリにまで到るれべるのフザケかたをして、今に生きていれば高炎上リスクを持っている北明ですが、『文藝市場』創刊号も「不真面目なゴシップ的要素」満載で『文壇全部嘘新聞』なる「虚構新聞」記事が初号に見開一頁を割いて、花袋岡本一平辻潤が春画売買容疑で取調べられている横で、菊池寛邸全焼して「文壇きっての金貸し」上司小剣が目黒で惨殺されるなど、当時から底抜けにフザケきって既成権威に喧嘩売り放題で、

bugeisijosokangokiji

当時の参加していたプロ陣営からも「創刊号がひどすぎる」と「あんなのものに有頂天になっていそうにな点も感じられるから、一言いましめて置く」と山田清三郎からも叱られる始末です。

もっとも単におフザケ雑誌かというとそれだけでは終わらないことがわかる「宣言文」が巻頭に添えられています。こちら誰が起草したかは明確ではないですが、北明起草だろうと勝手に確定してお待たせしました。本日のbib/i公開まず一本目です。

文藝市場』大正14年(1925)年11月

『文藝市場宣言』

フォントサイズが途中大きいのも創刊号の体裁(創刊号以外はフォントサイズ統一されますが)に則りましたが「不真面目なゴシップ的要素」満載の雑誌の宣言が案外にシビアさに驚きますし、直裁で正論です。

文藝市場はこの愚かな迷信を破つて藝術を商品として徹底させるために生れた。これは藝術に對する冒瀆でない。資本主義社會に於ては商品でないものは一切存在する意味がないのだ。

北明のその大正末期という時代の中では驚嘆するレベルの「市場主義」宣言は、さきの「殺人會社」からテキ屋のバナナのように「生原稿を叩き売り」してしまう姿勢まである、一貫した商才です。ただ「宵越しの銭が持たねえ」の散財癖も含めて儲けには恬淡であり、何と云いますか、むしろ犯罪すれすれのハイリスク・ハイリータンの賭博の興奮を追い求めいるように、出した出版物の廻りで北明は徹底してレイズ(掛け金をつり上げ)していきます。それは例えば『文藝市場』の後継誌『グロテスク』三號目が発禁を食らえば、その処分を逆手に取って黒枠の『グロテスク』死亡広告をすぐに打って出て、官憲をからかいます。

グロテスク新年號 死亡御通知
愚息『グロテスク』新年号儀サンザン母親に生みの苦しみを味わせ、漸く出産致せし甲斐もなく、急性発禁病の為め、昭和三年十二月二十八日を以て「長兄グロテスク十二月号」の後を追い永眠仕り候、夭折する子は美しい、とは子を失った親の愚息とは存じ候へども、お察し下され度候。

一時期は帝国ホテルの数間借り切ってタイプライター雇って後述筆記したりしたり、官憲が踏み込んでくることがうるさくて適わないからと帝都を走り巡らす車の中で執筆を行つたなど逸話も出回っているくらいですが、その結果、北明の息子梅原正紀がこんなことを書いています。

(数々の艶本を出版することで)金もはいったが、それを上回るくらい北明は乱費した。したがって艶本業者としては財を成さなかった。
 発禁や投獄は覚悟のうえで採算を無視して出版するので北明物に読者の支持は集まり、この次北明は何を出版するのかと楽しみにしている読者が多かった。

逮捕後の取り調べで警視総監が直々にやってきてこっそり「次の企画は何か」と聞いた北明ファンだったという嘘か真かの逸話もあり、一時期あまりにも発禁本を繰り返すので警察官が北明の事務所に常駐するなどという異常な措置がなされた際も、数ヶ月後にはその警察官が文藝市場社の刊行本の発送の手伝いに汗流していたりとか。これは先の北明の「悪童」ならではの魅力なのか。

余談ですが、以前職場での私の同僚でとにかく「猥談」ばかり喋る男がいて、度が過ぎているために何でそんなにその手の話がそんなに好きなのかを一度聞いたところ、彼は所謂「転勤族」で北は仙台から南は沖縄まで全国各地に引っ越しを繰り返し転校続きだったのだそうですが、彼がその経験で学んだものとして「エロは何処に行っても通じる」という半ば極論で処世訓があり、現にそれで転校生でもいじめられることもなく過ごしたという話を思い出します。

何はともあれ、そういう梅原北明の発行する周辺の「逸話」が「弾幕」として張り巡らされるこの戦前期内務省図書課相手にしたバブリッシング工程そのものを含めてイベント化し。ネタ=祝祭コンテンツに転化する手際は北明の他に類を見ません。あの戦前期エログロナンセンスの暢気さから情勢急転する時代状況の強権圧力の中だからこそ、その文脈に「検閲」という官憲処理を加えてネタコンテンツ化してくる北明に対して当局は手を焼き、懲りない「出版狂人」に映り当局には「正気の狂人」と言わしめたわけです。

そしてここで対官憲して北明ということだけでは、言い尽くせない部分として、つまり先の警視総監の話ではないですが、官憲側も彼の読者であり彼の動向を固唾をのんで見守る観客であったという点です。彼が戦時下軍部要請の仕事をいくつかこなしてますが、彼の地下出版のサブスクリプションモデルの会員には、会社員はもとより、大学教授、高級軍人、検事など、いわゆる戦時下のエスタブリッシュメント側が大勢含まれていて、その「北明ファン」=つまり公人ではなく私人のパイプで彼が圧政の戦時下も命脈を繋いだという事実があります。

これはまたもう少し次回も北明のビジネスモデルを掘り下げて考えてたいと思っており、その際にもう少し細かく書きたいと思いますが、地下出版で行き詰まった彼はなんと関西で女子校の英語教師をしたり靖国神社の社史編纂をしたり、戦中欧米の最新科学雑誌を軍部要請で海賊版翻訳をしたり、軍ルートで仕入れたアルコールを東大農学部農芸化学を専攻している学者を巻き込んでウィスキーを密造したりと、したたかに生き延びています。まさに「惡なら惡でよし、その中を力强く泳いで行けア其れでいいのだ」という態度です。

ここでさらに珍しい彼の初期小説作品をいくつか。その「市場主義」性『文藝市場』に発表した小品をbib/i公開2本目参ります。

梅原北明『火の用心』大正15(1926)年4月

『火の用心』

これは短いものですのでざっと読んで欲しいわけですが、この短篇をループで繋げてみれば、ここに梅原北明の人生の縮図そのものです。ブタ箱から出て路頭に迷いワンチャンスから博打智恵を絞って一瞬でのし上がる、そしてもしかするとまたブタ箱かもしれない。最後の一文この詐欺には無自覚である彼の感じる策略家の勝利への陶酔感はもうビジネス的成功としての歓喜なわですが、ここは「殺人會社」と彼の哲学は変わってません。


彼は現代の一特色を形づくるネオ・サタニストを以て自任してゐた。

もう一つ北明という人を象徴するシーンで彼を捕まえた巡査の家に詐欺に這入って再待った歳の述懐が、

此れは失策つた!惡い所へ踏み込んだ、と直覺したが、その刹那に毎時の糞度胸が出て、危く平勢を裝ふことが出來た。

まさにこの完全強者を目の前にした刹那での「糞度胸」が「悪童」の「悪童」たる所以だと思われ、その彼一流の「糞度胸」が地下出版の帝王であり発禁本の道化であり神出鬼没の悪党であり変化自在の義賊としてのある種の梅原北明神話を形成する原動力になったに違いなく、読者に託されていた。奴なら何かしでかしてくれると。

梅原北明『ぺてん商法』昭和21年(1946)年12月5日

『ぺてん商法』

こちらは昭和21(1946)年発見されたので遺作となっておりますが、正確には昭和10(1935)年頃の旧作発見というものです。こちらも先の「火の用心」に近い「テキ屋」的な詐欺商法への知恵比べ的な関心と深い共感を示すような作品となっていますが、追記として、「I・A生」なる人物が梅原の訃報に接しての動揺が触れられておりますので、そちらも同時に掲載しました。

梅原が去る5月に突然死んだと花房四郎君から通知を受取つたときには些か愕然とした。夢のやうな氣がした。それまでよきにつけ、惡しきにつけいろ〳〵と交際を持ち續けて來た僕だつた。あの男の事であるから、もう慾は云はずにせめて四五年は生かして置きたかつた。何かあッと云ふような大きな仕事をしたに違ひない

梅原北明なるエンターテナーとしての「公の敵」

梅原北明が「梅原北明」になる以前の貴重な証言として戦後日本野球連盟会長も務めた鈴木竜二が伝える逸話があります。本名梅原貞康時代、早稲田大学英文科中退後「靑年大学」なる雑誌社や新聞社の外務省詰記者等を転々としながら、5月1日のメーデーに参加した梅原貞康はこう活写さています。

大行進軍の中、緑色のロイド眼鏡に怪しげなるタキシード男、労働歌の高唄から警官と小競合いを初めて、遂に検束された。だが、新聞記者という六号文字の肩書きが、どんだ拾い物をして直ぐ帰された。菜葉服の多いメーデーのにタキシードを着た男の検束が、まず珍なる景物詩であったが、この男が、彼、梅原北明!

—『グロテスク』1930(昭和5)年1月 特集「人を喰った男」

なんとも北明の面目躍如たるアジテーター振りが目に浮かびます。勞働者の作業服(菜葉服)の中ただ一人タキシード姿で警官と罵り合いをしている北明!。ここでまた社主恒例の現代の戦後洋楽POPシーンへ勝手に翻訳してしまうと、HIPIHOPシーンで懷かしきかのPublic Enemy のフレイヴァー・フレイヴ(Flavor flav)の「煽り屋」っぷりを想起してしまい以下を最後に共有しておきます。

言わずもがなのパブリック・エナミーに関しては以下の記事などご参考ください。
社会派ヒップホップの先駆者、パブリック・エナミーの衝撃

こわもてライムまくし立てるメインラッパーの”チャックD”の横で変な踊りして合いの手いれているグラサン時計野郎がフレイヴァー・フレイヴです。

またこの「Public Enemy = 公の敵」というのは梅原北明を言い得て妙ではないかと我ながら思うところですが、北明は間違いなく1920年代から30年代にかけて「公の敵」であり、またそれを演じていたエンターテイナーでした。上記「火の用心」「ぺてん商法」ともに演じ手と観客がいる構図を維持しながらも、このYoutube”Fight The Power”PVのようなワアっと沸く群集の元、パフォーマー(パブリッシャー)=トラック(コンテンツ)=オーディエンス(読者)の一体感は戦前の梅原北明周辺には確かにあったに違いないのです。

Our freedom of speech is freedom or death
We got to fight the powers that be
Lemme hear you say
Fight the power

つづきがトルタル6号で!

さて、久しぶりなのに相変わらずの長文でかつ、結果的にエピソードの羅列に終始してしまいましたが、つまりそういう「逸話」弾幕の多い梅原北明という出版パフォーマーに関してまだまだ語り切れていない部分が深くあります。しかし本件、昨今の電子セルフパブリッシング界隈にも等しく何かのヒントを与えるネタかと認識しておりますので、よって今少し深掘りを加えていこうと思っております。

今回は先に予告しました「20世紀跨ぎ生まれ「X」とその世代試論」のβ版として公開してしまいますが、追って「X」と同時代人として生きた人々の様々な「放物線」のバリアントを纏めてまいろうと思っておりますので斯うご期待!

【参考文献】

【参考データ:国立国会図書館デジタルコレクション館内限定閲覧資料】

【20世紀跨ぎ生まれ世代の兄達1894ー5】二人の「江戸川亂歩」と井東憲『贋造の街』ならびにカフェ「變態光波」開店宣言【都市と變態】

さて今年はもう少し更新頻度上げようと思いつつ腰が常に重い社主ロートル持田でありますが、何も飲んだくれているだけではないのですよ!といきなりボールドで言い訳から始めましたが、變電叢書『野川隆著作集1』のストア配信は今少しお待ちくださいませ!また野川隆中期作品編纂を進めるために諸々図書館詣での日々でありますが、結局諸々脇道寄道に流れてしまう性分でありまして、その代わりと言っちゃなんですが、他の變電叢書候補として活きのいい新人(なんか矛盾的表現)を掘り出してきたので今回「變電叢書」続編を紹介したいと思います。

「變電叢書」第六篇「野川孟著作集」

第一篇 野川隆著作集1 前期詩篇・評論・エッセイ 2015年1月予定
第二篇 野川隆著作集2 中期詩篇・評論・エッセイ 2015年2月予定
第三篇 野川隆著作集3 後期詩篇・小説・評論・エッセイ 2015年3年予定
第四篇 橘不二雄『腕の欠伸』(未定)
第五篇 井東憲詩集(確定)
第六篇 野川孟著作集(未定)
 

第六篇は野川孟、これは既に過去で何遍も触れているように野川隆の兄です。六つ上なので明治28(1895)年生まれ。奇しくも平井太郎(明治27(1894)年10月21日)と一個違いの同世代です。平井太郎とは言わずもがなで江戸川乱歩ですが(来年彼もパブリックドメインになりますので彼の初期短篇は諸々準備進めておきたいところですが)野川孟も既に過去何遍も触れているように初代「江戸川亂歩」です。この点をネットで調べるとミステリ関係者が諸々調べていて、

 辻村義介 はいわゆる「もう一人の江戸川乱歩」である。乱歩が「二銭銅貨」でデビューしたのは1923年だが、その前年、雑誌『エポック』1922年11月号(通巻第二号)の巻頭に「江戸川乱歩」という筆名の人物の「アインシュタインの頌」という詩が掲載されている。この詩の作者が辻村義介という人物だとかつて推定されていた。なおノンフィクションライターの佐藤清彦氏の調査では、辻村義介は当時仲間内から「江戸川乱歩」というあだ名で呼ばれていたが、「アインシュタインの頌」の作者は辻村義介ではなく雑誌『エポック』の編集者であった野川孟およびその弟の野川隆だと推定されるという。

となっていますが、野川隆ではなく兄の孟の方であり、また推定ではなく事実です。稲垣足穂も『「GGPG」の思い出』で証言しているように「亂歩」一番乗りは野川孟です

野川の兄は新聞記者で江戸川乱歩を名乗っていた。ちょうど推理作家平井太郎の売出し中だったから江戸川乱歩は天下に二人いたわけだが、野川は「おれの兄の方が本物である」と云っていた。しかしその時その兄はハルピン方面に去っていた。

稲垣足穂『「GGPG」の思い出』「稲垣足穂全集 第11巻 菟東雑記」2001年8月 筑摩書房

ちなみに「ハルピン」は多分足穂の思い違いでこの頃は朝鮮の北鮮日報記者となって半島に渡っています。そのまま敗戦まで朝鮮半島に居を構えていますが、こちらは『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二巻第三集の編集後記でも「野川孟に手紙を出し度い人は左記へ 朝鮮 清津府敷島町 北鮮日報社内」との記載があります。

朝鮮に渡った段階で創作から手を引いた(バスから降りた)ようでその後の足跡が諸々調べていても不明だったのですが、まさかのネットで発見しました!有難いことに林哲夫氏のブログ(daily-sumus2「脈80号 特集 作家・川崎彰彦」)記事で戦後の足跡が書かれていました(感謝!)。それによると野川孟は戦時は何とか生き延びたようで、終戦後愛知県八日市市滋賀県八日市町(現東近江市) (※1月28日修正 FBページからご指摘いただきました!ありがとうございます!)に引き揚げています。当地で京都新聞支局長等を勤めたようで、そのご子息は野川洸という名の詩人作家であり、川崎彰彦五木寛之と早稲田一文同窓で五木寛之の先のWikipediaでもこんな記載があります。

「こがね虫たちの夜」(1969年)は学生時代の、同学の友人高杉晋吾、三木卓、川崎彰彦、野川洸らとの生活をモデルにしたもの

ただし、ここまで、調べがついているのですが、未だ野川孟の没年月日が不明です。そのためにパブリックドメインとして變電叢書化できるかがまだ不明で現在誠意調査中です。この野川孟は思春期の隆に絶大な文化的影響を与えた隆の「師」と呼んでもいい人物であり『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』起稿作品も非常に優れており実は野川隆なんかより上手なんではないかとさえ思えています。当時の欧州新興美術の博識をベースにした評論他、気品ある都会的な詩や小説、またたとえば以下の学術参考として画像参照してしまいますが、

野川孟「銀座街頭の夜」『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第二集収録

野川孟「銀座街頭の夜」『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第二集収録、大正14(1925)年2月

のような弟顔負けの実験詩(孟の若い頃に(「May’13th 22」の記載あり)手慰みで書いたか?)残している他、僕がとくに気に入ったのは『リンジヤ・ロックの生理水』なる小品で、これは誠に都市の夢幻たるリリシズム溢れるSF風(?)作で、これは隆だけでなく野川家は孟も何とか復刊(というかやはり初編纂)したい!一応様々なルートと使って探査中ですが第四篇予定の橘不二雄とは違い、人生行路の痕跡は戦後でもいくつか残っているので何とか判明するかとおもいますので乞うご期待!当然「亂歩」時代からまとめる予定ですよ!

「變電叢書」第五篇「井東憲詩集」

でもう一人これは完全にパブリックドメインであることが判明していいるので復刊させます。野川孟と同年の明治28(1895)年8月27日生まれの詩人です、以下が都立広尾図書館で全頁プリントアウトしてきた詩集表紙ですが

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Oh..表紙名前隠れてしまっていますので中表紙のこちら
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この中表紙の何がいいって「帝国図書館」の角印と丸印で、丸印の方には「帝圖(図の旧字)」と「昭和二・四・七」と見えます。昭和2年3月20日印刷と奥付で見えますから、刷り上がってすぐ内務省検閲に持ち込んだんすかねえ。

さてその名は井東憲。本名伊藤憲。この作家が誠に破天荒な生き様で、東京神楽坂生まれ静岡育ち、17歳(明治44(1911)年)で家出して旅芸人にまざって放浪し19歳まで浅草を遊蕩、結果性病に罹って一念発起し政治家目指して21歳(大正5(1916)年)で明治大学法学科に進学。そこで文學にこじれ古今東西の文學作品を読み漁り、22歳(大正6(1917)年)で大杉栄と出会いアナキズム研究へ、26歳(大正10(1921)年)で『変態心理』(!)の記者となり、『勞働運動』で詩人デビュー。31歳(大正15/昭和元(1926)年)静岡で一度目の結婚したものの東京では詩人英美子と不倫、その間かの梅原北明と『變態十二史シリーズ』に参加し『變態人情史』『變態作家史』(ともにNDLデジコレインターネット公開中)を発し(なお『變態十二史シリーズ』第二巻はマヴォ村山知義『變態藝術史』)、32歳(昭和2(1927)年)に上海渡航、同年英美子との子が生まれ、その子が実は戦後日本人ギタリストとして初めてカーネギーホールに立った世界的ギタリスト中林淳眞であることなど知る由もなく、翌昭和3(1928)年に井東憲は英美子との関係を清算。全日本無產者藝術同盟(ナップ)加盟、34歳で静岡の本妻とも離婚、上海渡航しのちの上海中国ものの嚆矢となる『上海夜話』発行、その後詩小説ルポタージュ翻訳と様々な作品を矢継ぎ早に世に出し、銀座の新興中華研究所所長を勤め、48歳、昭和20(1945)年6月20日。静岡空襲で焼夷弾被弾。8月5日に終戦間際に死去。(上記略歴『井東憲:人と作品』井東憲研究会編参照)

「兄」の世代(1894ー95)

『20世紀跨ぎ生まれ世代』の兄である井東憲と野川孟のまた「二代目」江戸川亂歩たる平井太郎(明治27(1894)年10月21日)この他もざっと眺めて観たところやはり大変面白い。まずは詩人でピックアップしておくと金子光晴(明治28(1895)年12月25日)、西脇順三郎(明治27(1894)年1月20日)、まあここら辺はWikipedeiaの年号調査で出てきますが、あれ?もしかしてさては?と個別に調べたところ、「日本未來派宣言」の平戸廉吉(明治27(1894)年12月9日)、またかの「エロエロ草紙」酒井潔(明治28(1895)年)らも同世代です。驚きました。(また「マッサン」竹鶴政孝も、明治27(1894)年6月20日生まれだったので驚きました。)

しかし、これはさては長らく僕が知りたいと求めていた「震源地」は兄達の方か?この野川隆・村山知義・小林秀雄らの理智的な優等生らしさとも違う、もっと野蛮であり所謂エログロナンセンスのデロリとした「狂味」。と同時に以前、変電社最初期幻(?)の「変電社日記」レビュー「2012-12-31『日本歓楽郷案内』酒井潔」にて書いた「あの歓楽街あの歓楽街と遊歩する酒井の影を追いながら馥郁たる夜の都市を徘徊している」ような「気分」。(なおこの酒井潔『日本歓楽郷案内』は彩流社で完全復刻さらには中公文庫で復刊されると快挙がありましたよ!)

川上澄生と古賀春江

さらに同世代を調べていたら、ドンぴしゃりでこの空気を象徴する画家が二人も突き止めました。ああそうかこことも同世代だったのか!と感慨ひとしおで、個人的に大好物な二人ですが、川上澄生(明治28(1895)年4月10日)と古賀春江:(明治28(1895)年6月18日)。
この二人の同時代の絵を紹介したいわけですが、川上澄生の方は 昭和47(1972)年9月1日までご存命であったために、まだパブリックドメインではないので転載はしないでおきますが、どうぞググってみてくださいませ。

川上澄生『銀座「新東京百景」』昭和4(1929) 年作 東京都現代美術館所蔵

ああ!なんと都市の華やいでいることよ!名曲シュガーベイブ「DOWN TOWN」のイントロが聞こえてきそうだ!
美しいピンク&ブルーに染まるトワイライトの銀座に深く酩酊しながら徘徊したい気分にさせます。こちら所謂創作版画黎明期の名作です。(版画で言えば今度小泉癸巳男も紹介したいところですが、ああやはり明治26(1893)年6月生まれですから彼も同時代の空気を刷ったわけか。)

そしてもう一枚紹介したいのが古賀春江。古賀春江はパブリックドメインなのでそのまま貼りますが、

古賀春江『窓外の化粧』昭和5(1930) 年作 神奈川県立近代美術館所蔵

古賀春江『窓外の化粧』昭和5(1930) 年作 神奈川県立近代美術館所蔵

かの川端康成「末期の眼」(『一草一花 (講談社文芸文庫)』収録)にて「カメレオン」と称された前衛画家です。そのシュールレアリスム期のちょっとクレイジーな(この絵を見る度に「春の陽気で変になった人」を僕は思い浮かべる)高速度回転の躁期の中で冷たい汗を流し続けているような不吉な陽気さとでも言いましょうか。実際に古賀は神経梅毒による進行麻痺が発症する直前期の何か病的な霊感の中で一気呵成に描いていたシュールレアリスム風(実際はキリコ的「形而上絵画」に近いと云われていますが)絵画です。 この3年後の昭和8(1933)年9月10日)に亡くなってますが、その壮絶な最期を晩年親交があった川端康成が先の「末期の眼」で描いています。

この画風も全く違う絵画の上に描かれた美しくて何処か分裂病質な「都市」を思い浮かべていただければ、その「イカレた」井東憲の風味が存分に解るであろうということでお待たせしましたでんでんコンバーターbib/iによる井東憲の詩の紹介します。こちらは「井東憲詩集」にも収録されていますが、野川隆中期調査の中で『日本詩人』という詩誌調査中にたまたま発見した初出の方をオーサリングしました。原文は変わらないながらルビ点の相違がいくつかあります。

井東憲『贋造の街』大正14(1925)年4月10日

井東憲『贋造の街』

いいですねえ。不吉で飄逸。この中で

あの幻想狂の、意識的構成派の畫家は、私のことを……もつとも、そのかけてゐたセルロイドの眼鏡は、ほんの間に合わせに、夜店で買つたものだが……女に捨てられた怜悧な蜻蛉にたとへた。

「意識的構成派の畫家」とは間違いなく村山知義のことですね。本当に皆が近くに居たのだと。もう一丁は『井東憲詩集』から短いものを。

井東憲『變態光波』昭和2(1927)年3月20日

井東憲『變態光波』

おし決めた。将来變電社カフェ「變態光波」を開こう。(變電社第8宣言)。なお井東憲他作品はこちらでもいくつか紹介されていますので是非ご参照ください。しかし、古賀春江も画論や随筆の他「詩」を多く残しており、これ次回、平戸廉吉と古賀春江で變電叢書七・八篇とするのもありやも。

變電社社主 持田泰

【謹賀新年】第二期變電社ロンチ宣言と正月余談として勝承夫『駅伝を讃えて』と野川隆『旋風』フォークゲリラ【變電社第7宣言】

平成27(2015)年明けましてお目出度うございます。社主・持田です。昨年末の變電叢書『野川隆著作集1』発刊は幸い多くの皆様からのいいね!ならびにシェアご支援のお陰で想定以上に多くの方にDLいただけたようで、誠に感謝しております。「年内無料配布」の約束通り無料版EPUBのDLは停止しましたが、校正漏れもやはりいくつか発見しましたので修正後正式版のストア配布まで少々お待ち下さい。サイト上でbib/iでの公開は当分続けますのでWebで御覧くださいませ!

また昨年末からの社業務報告となりますが、まずはパブリシティとして、12月29日発売の宣伝会議2月号に毎度おなじみの池田敬二氏「歌う」宣伝工作により志村一隆氏記事として掲載されました!久しぶりの快挙万歳!

宣伝会議2月号記事掲載池田隊長歌う勇姿写真もあるよ!

宣伝会議2月号記事掲載池田隊長歌う勇姿写真もあるよ!

しかしこう掲載されたにも係わらず「変電社」をこけおどし旧字の「變電社」表記へと12月23日70年周忌弔い復刊の際に変更していますが、こちら正式社名変更というよりは「変電社」も「變電社」もどっちでもOKの屈託ない精神で参りたいと思います。つまりSEO的にも。また手書きで書く場合を恐れて。

また、唐突ではありますが私持田は長らく「社主代理」として振る舞ってまいりましたが、これも昨年12月23日復刊の際に「代理」を外させていただき、勝手ながら「社主」として立つことにいたしました。『野川隆著作集1』のようにEPUBパブリッシングを今後も実践していくのであれば、「発行人」としての責任曖昧化を防ぐ意味もあります。よって變電社社主持田、2015年は「覚悟」の年ってやつです。本年も引き続きご愛顧賜らんことをよろしくお願いいたします。

そしてこれにより唐突ですが第一期「変電社」を解散としますそして第二期「變電社」社中を緩募いたします。同時に結社趣意を改めまして新たな第二期第一宣言にあたる變電社第七宣言といたします。

變電社第七宣言

まあなんのことはない宣言の態での今年の抱負にすぎませんが、まず變(変)電社の紹介文を以下のものから

「変電社」は結社です。スタンスは「電子書籍読者」です。ざっくり言うと「変な電子書籍っていろいろあるから読んでみようや」結社です。転がっているデジタルアーカイブスをいろいろdiggin’して電子「古書」としてサルベージしたら面白いんじゃないかと思っている人の準備会です。

以下へと修正を加えました。

變電社は転がっているデジタルアーカイブスをいろいろdiggin’して「電子古書」としてサルベージ復刊を目指すインディペンデント・レーベルです。

つまり準備はもう済んだのだ!気合いのデジタル・パブリッシャー宣言です。記念すべき野川隆集から「變電叢書」をロンチしたとおり(まだ非売でありますが)、今後變電社は電子「叢書」刊行を実践してまいります。

なわけで最近ご無沙汰の国立国会図書館歴史音源れきおんから「記事の気分」としてのBGM(スマホでは聴けないけど)ですが、今回は「流行唄:港はなれて」(西岡水朗[作詞]奥山貞吉[作曲・編曲]松平晃[実演家]/製作者(レーベル):コロムビア(戦前)発売年月日:1933-08)でどうぞ。なんか正月っぽくて良い。

「變電叢書」刊行予告

  • 第一篇 野川隆著作集1 前期詩篇・評論・エッセイ 2015年1月予定
  • 第二篇 野川隆著作集2 中期詩篇・評論・エッセイ 2015年2月予定
  • 第三篇 野川隆著作集3 後期詩篇・小説・評論・エッセイ 2015年3年予定
  • 第四篇 橘不二雄『腕の欠伸』(未定)

四篇は変電社復刊宣言(第6宣言)予告しております橘不二雄ですが、こちらが所謂「オーファンワークス」のためまだ皆目見当がついておりませんが年始に諸々調査アクション実施予定です。「變電叢書」可能なら2015年内に第五篇〜気合いで十篇くらいまで出せればいいなと思っております。もしかすれば『朝から夜中まで』もしくは青空文庫未収録の『過渡期の横光』作品アンソロジーを出すかもしれませんし、さらには『技師ガーリン』を復活(!)ラインナップさせるかもしれまんしまったく別の作品にフォーカスするかもしれません。実は『白山の野郎ども』調査の結果新たに面白い経歴の詩人らが発掘されていて、

白山詩人1号2

前回の白山詩人第一号奥付から今回は追加で黄色の枠の二名です。「角田竹夫」「勝承夫」なる人物ですが、こちら二人ともやはり「20世紀跨ぎ生まれ世代」の「白山の野郎ども」系譜の洋大詩人の一人です。ともにアバンギャルド系ではない詩派ですが、角田竹夫『微笑拒絶』がNDLデジコレでは「インターネット公開(許諾)」で閲覧可能です。またこちらで詳細がありますが、没年情報現状不明です(これは許諾ということは、著作権利相続者の許可を取っているというこですが)。そして角田は実は先の變電叢書『野川隆集』でも登場してきており、

“●竹の小路で(角田竹夫)
 どうも困る。角田君はまだ「新詩人」時代の臭味を脱して居ない。新しく「出發して」くれることは有難たいが、かう云ふ詩を棄てて突進してもらひたい。”

變電叢書『野川隆著作集1』「太平洋詩人二月号の詩」

と野川隆に叱られている詩人でもあります。そしてこの角田と、上の『白山詩人』「會友」欄にありますが黄色枠入れてませんが岡村二一と赤枠の岡本潤多田文三らと『紀元』という詩誌を作っていたのが、もう一人の人物である「勝承夫」またの名を「宵島俊吉」です。
勝承夫 Wikipedia
この方ももちろん「20世紀跨ぎ生まれの世代」であり、東洋大学出身「白山の野郎ども」の詩人であり、おそらくこの「會友」の中で最も世間的に成功した人物ではないでしょうか。戦後文部省音楽教育分野にプロパーとして数々の校歌の作詞家として活躍され、また「日本音楽著作権協会会長」(JASRACですよ!JASRAC!)であり、また本日青山学院大学初優勝を果たしました「箱根駅伝」にも関わりがあり、以下Wikipedia引用ですが、

昭和28年(1953年)に「駅伝を讃えて」を、読売新聞紙上に発表。この詩文は、箱根駅伝第60回大会を記念して詩碑として刻まれ、往路ゴール・復路スタートの地点である芦ノ湖の湖畔で見ることができる。

のだそうです。こちらいつものでんでんコンバーター to bib/i で引用公開してしまおうかと思ったのですが、JASRACが恐いので變電社はPDではないものの引用は学術調査利用以外は載せない方向で考えておりますので、ググっていただければと思います。市井の駅伝ファンサイトを参考ください。

またこちらのブログで誠に詳細に渡り「勝承夫」の事実を丹念に調査記載していただいており、戦前東洋大詩人調査の後発隊としては非常に勉強になり助かりかつ感動いたしました。
猫面冠者「番外編:“若き天才詩人”宵島俊吉(=勝承夫)」2009/09/04 00:07
かの木山捷平が勝承夫をあこがれて入学してきたというのだから驚きです。「今で云へば、三島由紀夫と太宰治を一緒にしたやうな人気があった」と井伏鱒二に語らしめるような人物であったとは!そしてまさか僕の個人的ランニングコース多摩川・浅川合流地点にある都立日野高校校歌の作詞家であったとは!

もっとも「勝承夫=宵島俊吉」は戦後東洋大理事長になるなど大いに立身出世され1981(昭和56)年8月3日までご存命であったために、残念ながら(?)オーファンでもなく、パブリックドメインではありませんので「變電叢書」として出すことが難しそうです。よってNDLデジコレの「インターネット公開」コンテンツはありませんが、「図書館送信限定」「国立国会図書館限定」では読めるようです。今度また都立図書館国会図書館行った際は閲覧してみようかと思います。

野川隆と勝承夫

しかし一個の詩誌に参加した面子をながめて、それぞれの詩人の人生行路がまざまざと映し出されてくると、なんとも感慨深くありますが、かような三島太宰と並び稱されたようなカリスマヤングポエットの右旋回の軌跡描いた先に着地した「校歌」詩人・JASLAC会長・大学理事長として天寿を全うした生もあれば、「藝術革命派から革命藝術家へ」左旋回の放物線を描きながら落ち延びるように満洲に渡り獄死に近い形で没した生もあったわけです。

今回の變電叢書『野川隆著作集1』追って諸々フォロー解説していきたいと思っておりますが、掲載誌毎編年体式に並べたせいでかの「G・G・P・G」時代の「最前衛」期が一番最初に詰まってしまっているせいで相当に濃い感じの『著作集1』になってます。

もっともここらは相当にすっ飛んだ頃の野川の無頼っぷりが解るとともに、研究者以外は人目に触れることもなくただ書庫に眠り続けているだけの詩であり非常に貴重であり個人的には大変面白いわけですが、今回の『著作集1』の後半部分には野川中期へ離陸し始めた頃の平明な詩も治めています。

章で云うと、『文藝解放』『太平洋詩人』『銅鑼』の大正15年~昭和2年にかけての時期で、野川が起稿している記念すべき『文藝解放』第一号は来なかった大正16年1月1日発行予定であった事実も非常に面白い、その昭和2年春には過去の前衛期の難解さを総括して「橋よ燒けろ」発言を書いていたりもします。

そして中期への離陸が決定的となるのが草野心平『銅鑼』(ここには生前の宮澤賢治や八木重吉も詩を発表しています)に寄せた「旋風」であり、野川隆の同人参加を草野心平が非常に喜んでいる後書きなども殘っていますが、前期野川からは想像のつかない平明でまっすぐなプロテストソングを歌い始めています。

ここで「歌う」と書いたのは、まさにその方向へ野川がシフトしようとし始めていた経緯などはまた中期野川の著作集2への準備のために後日書きますが、そんな「旋風」を毎度の池田ゲバラ隊長が早速歌ってくれております!
Check this out!

この「歌う」方面へ詩を持っていこうとした野川と、やはり「歌う」方面に活路を見いだした勝との、まるで左右鏡合わせのような二人の細かい生の比較検証は逐次触れてまいりたいとも思いますが、それが『野川隆著作集2』の準備ともなるはずです。

「變電叢書」紙刊行予告

さて脇道それましたが、なにはともあれ今回の變電叢書第一篇『野川隆著作集1』近日bccksでの展開の際に新書サイズで紙も刷る予定です。今回もカバーデザイン担当の牧瀬”アリアリ”洋氏が最高のを仕上げていただき誠にありがとうございました。背表紙・裏表紙入れるとこんなにイカす!

イカす牧瀬洋デザイン

イカす牧瀬洋デザイン

まさに僕の期待を超えるクールなデザインでMerzであり、この戦前の「新興藝術派叢書」的なものを所望したところそれを超えるいかすモダンなデザインで社主大満足です。

新興芸術派叢書 復刻 10 『街のナンセンス』龍胆寺 雄 ゆまに書房刊2000年

新興芸術派叢書 復刻 10 『街のナンセンス』龍胆寺 雄 ゆまに書房刊2000年

実際に野川隆詩集が当時発行されていればこのテイストであったに違いないと思えており以下『極東ロシアのモダニズム1918ー1928』町田市立国際版画美術館図録画像の比較検証のために転載しますが、

小野十三郎詩集「半分開いた窓」岡本潤詩集「夜から朝へ」 『極東ロシアのモダニズム1918ー1928』町田市立国際版画美術館図録 2002年より

小野十三郎詩集「半分開いた窓」岡本潤詩集「夜から朝へ」
『極東ロシアのモダニズム1918ー1928』町田市立国際版画美術館図録 2002年より

村山知義役トラー詩集「燕の書」萩原恭二郎詩集「死刑宣告」 『極東ロシアのモダニズム1918ー1928』町田市立国際版画美術館図録 2002年より

村山知義役トラー詩集「燕の書」萩原恭二郎詩集「死刑宣告」
『極東ロシアのモダニズム1918ー1928』町田市立国際版画美術館図録 2002年より

この「變電叢書」が古本屋に上記詩集と並んでいても遜色ない(!?)ではないか!と心から歓喜しておりますが、よって變電叢書三巻までを抱え持って2015年5月4日(月祝)開催「第二十回文学フリマ東京」で限定50冊つづくらいで出店しようかな!と企んでます!オーサリングも間に合うか!またも時間との勝負になりましたが、なにはともあれストア配布までもう少々お待ち下さいませ。

本年もよろしくお願い申し上げます。

變電社社主 持田泰

【變電叢書発刊】『野川隆著作集1前期詩篇・評論・エッセイ 1922ー27』【年内無料配布中】

變電叢書『野川隆著作集1前期詩篇・評論・エッセイ 1922ー27』

2016年1月27日追記:無料版公開終了しました!

2016年1月27日遂に刊行!野川隆著作集1: 前期詩篇・評論・エッセイ 1922 ー 27 (變電叢書) 野川 隆
2016年1月27日遂に刊行! 野川隆著作集1: 前期詩篇・評論・エッセイ 1922 ー 27 (變電叢書) Amazon KDP

期間限定『野川隆著作集1前期詩篇・評論・エッセイ 1922ー27』EPUB無料配布版

 EPUB無料配布版ダウンロード以下↓よりどうぞ
2015年1月1日追記:無料配布期間終了しました!
正式版ストア配布をご購入ください。

無料配布版注記事項

  • あくまで無料配布版のため、今回頑張ってはいるものの「校正漏れ」はありえます。あらかじめご了承ください。
  • ファイルがおかしいであるとか、明らかな誤字脱字とおぼしきものを発見した際はこちらのコメント欄にご一報くださいませ。

今後の展開予定

  • 綿密に校正完遂した「野川隆著作集1」正式版にて年明けに各電子書籍ストアでの有料配布を予定しています。
  • 「野川隆著作集1」に続き『戦旗』コミュニスト活動期から「サンチョクラブ」の中期を中心とした「著作集2」・渡満後の合作社時代、かの「九篇詩集」や「狗寶」を収録した後期「著作集3」で発行予定です。
  • 今回惜しむらく組版が厄介すぎて収録断念した詩作品収録も含めて電子書籍でななく紙版にしたもの全三巻次回春の文フリで出店販売(したい)

何はともあれこの度日付変更直前となりましたが、宣言通り、2014年12月23日野川隆沒後70年の命日にあたる本日「野川隆著作集」を世にに出すことができました。

各方面各領域の皆様からのご支援ご指導がなければ実現できなかったことと存じます。改めてここに皆様への謝意を表します。

本書を詩人の魂に捧げます。

變電社 社主 持田 泰

不二出版「G・G・P・G」2007年復刻版購入により忘年会何個かキャンセル予定です

【ボンソアール!】稲垣足穂「とよく似た」野川隆の発射台【初期作品『しがあ一本』『靑黑いガス體』『黃色い詩』『無敵艦隊』公開】

社主代理持田です。予告通り通り久しぶり野川隆で「でんでんコンバーター×BiB/i」公開ですが、尖っていたころの前衛期野川の「G・G・P・G」創刊号「ノガワ・リュウ」時代の小品と前回紹介した村山知義の「マヴォ」に寄稿した詩をさっと紹介してまいります。

初期野川隆「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」「マヴォ」収録作品公開

さて今回の野川隆はあの「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」(=「G・G・P・G」)大正13(1924年)6月~大正15(1926)年1月頃の詩の公開です。こちらの詩誌「G・G・P・G」は2007年に不二出版にて全巻復刊されており、その時代の貴重な詩片を現代でも拝むことができるようになりました。都内公立図書館だと都立広尾図書館のみでしか蔵書なくチマチマ複写していたのですが、今回とうとう手に入れてしまった復刻版「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」32,400円税込也でございます。

不二出版「G・G・P・G」2007年復刻版購入により忘年会何個かキャンセル予定です

不二出版「G・G・P・G」2007年復刻版

ようやくこの野川隆という詩人の初期作品風貌だけでなくこの「G・G・P・G」全貌が知れました。いやあ尖ってますねえ。内外の芸術実験言語実験を貪欲旺盛に換骨奪胎せん勢いの当時20代前半の利発で都市的な不良青年らのヤングポエットぶりが炸裂しております。まずその記念すべき「G・G・P・G」初号が出るまでの経緯ですが、この彼の誕生から詩人としての登場までをざっと辿ります。なお以下履歴概略は西田勝著『近代日本の戦争と文学』「近代日本と戦争と文学」Ⅳ章『「満洲事変」から日本敗戦まで」の「7.中国農民に殉じた詩人野川隆」を参考にしております。野川の足跡をしっかりと追われており非常に参考になりました。

野川隆初期履歴

野川隆は森鴎外と東大同期で千葉大学医学部の前身にあたる第一高等学校医学部の教授であった野川二郎の九男として1901年4月23日千葉生まれます。生後8ヶ月で父が医院を開業するために一家とともに出身地であった岐阜に移ったことから、19歳で大垣中学(旧制)卒業するまで岐阜で育ちますが、14歳で父二郎が病没。軍医であった長兄弘が医院を継いだものの再建難しく、その借財を返すために長兄弘は「渡満」して中華民国間島省延吉県で野川医院を開業しており、隆も中学卒業後に一時長兄の元に母とともに身を寄せてます(なので彼にとって昭和13(1938)年の「渡満」は二度目であり、また親族の住む「大陸」であったということになります)。

翌大正10(1921)年に20歳の野川隆は上京。先の東洋大学に入学しますが1年足らずで退学。同じ頃「赤と黒」同人であり戦後も活躍した小野十三郎も同年1921年に上京し、東洋大学入学するも、わずか8ヵ月ほどで退学。同じく「赤と黒」同人であり東洋大学中退者と南天堂常連の岡本潤が詩作を始めていますが、野川隆も五兄の圭の紹介で就職した横浜税関に勤務しながら、七兄孟ら玉村善之助が創刊した海外新興藝術動向を紹介する「エポック」に『數學者の饗宴』(【大復活祭!電誌「トルタル」5号発刊記念】「野川隆の放物線Ⅱ」詩編『數學者の饗宴』『哈爾浜風物詩』他【続きはトルタルで!】にて紹介済)などを寄稿しはじめています。

その「エポック」は第6号(野川隆が訳したマックス・ウエバア訳詩集「立體詩三十八編」で一冊まるまる当てた号)を最後に途絶え、その復刊までの繋ぎとして野川隆が責任編集者として「G・G・P・G」初号が「非賣品」として世に出ます。その編集後記から。

ノガワ・リュウ『「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」第一年第一集編集後記』大正13(1924)年6月13日

『「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」第一年第一集編集後記)』

実は初号のみ野川隆は「ノガワ・リュウ」といカタカナネームで寄稿しています(※漢字の際の読みは「のがわたかし」)。そしてこの「都會の街々を動く、機械で出來た人間的な動物人形には、Gの發音の震動數と波形が氣に入つたのである」こそが「G」の産声が上がった瞬間であったわけですが、前回も軽く触れた稲垣足穂がむさぼるようの読んだのがこの大都会における雑音たる「G・G・P・G」です。以前も書きましたが高橋新吉、辻潤らの泥臭いダダよりも、都会的に洗練されたダダでありチューリッヒダダに近いと「G・G・P・G」を評した足穂ですが、さらにその時代を振り返った「GGPGの思い出」でこんなことを書いています。

野川兄弟は四谷の電車道にある細い横町を右へまがった所にある古い真四角な洋館で、そばにはキャベツ畠があり、従って彼ら兄弟はキャベツばかりをたべているとのことであった。この聞き伝えが根拠になって、私の「自分によく似た人」が出来たのである。この小話は『一千一秒物語』の中に収録されている。

稲垣足穂『「GGPG」の思い出』「稲垣足穂全集 第11巻 菟東雑記」2001年8月 筑摩書房

その「この小話は『一千一秒物語』の中に収録されている」は短いものなので全文引用させていただきますとこんな作品です。とても象徴的ですね。

自分とよく似た人
 星と三日月が糸でぶら下がっている晩、ポプラが両側にならんでいる細い道を行くと、その突きあたりに、自分と良く似た人が住んでいるという真四角な家があった。
 近づくと自分の家そっくりなので、どうもおかしいと思いながら戸口をあけて、かまわず二階へ登ってゆくと、椅子にもたれて、背をこちらに向けて本をよんでいる人があった。
「ボンソアール!」と大きな声で云うと向こうはおどろいて立ち上ってこちらを見た その人とは自分自身であった

稲垣足穂『一千一秒物語』新潮文庫 1969年12月

さて「ボンソアール!お前は俺か!」と足穂を叫ばめした野川隆その記念すべき「G・G・P・G」一作目が以下戯曲です。

ノガワ・リュウ『しがあ一本(一幕一場)』大正13(1924)年6月13日

『しがあ一本(一幕一場)』

上記「創作ばかり發表」宣言の初号においてノガワリュウ=野川隆作品はなんと戯曲から封切られたわけですが、最後「太陽はがらがらと割れて落ちる」あたりは足穂『一千一秒物語』でも星や月が「書割り」的オブジェクトとして描かれている様を彷彿とさせます。野川と足穂は途中歩む方向をそれぞれの道へと変えていくわけですが、数学や科学の知など野川隆からの影響である旨を足穂自身が明確に語っている事実は「諸君に銘記してもらいたい」by足穂。

なお本作は野川隆「G・G・P・G」掲載作品で最初の最後の戯曲となります。もっとも数年後大正終わって昭和2(1927)年に玉村善之助らと所謂「単位三科」の方の「劇場の三科」に参戦し「千万人のツアラトウストラ」という群衆劇を書いたようですが、その内容は不明です。この劇は1925年に開局されたばかりの大阪JOBKにおいてラジオドラマとしても放送されたといわれています。(五十殿利治『【改訂版】大正期新興美術運動の研究』(1998年スカイドア刊)「第十二章首都美術展から単位三科まで」上演」(P750参照)

この前衛劇をどこぞこかの劇団で上演される場合はわたくし胸熱で馳せ参じます(ご連絡お待ちしております!)つづいて2作の小品、これは並んで掲載された作品です。「青」と「黄」で並べるのはやはり作品内でも触れられるゴッホ的なるものへのオマージュかもしれません。

ノガワ・リュウ『靑黑いガス體』大正13(1924)年6月13日

『靑黑いガス體』

ノガワ・リュウ『黃色い詩』大正13(1924)年6月13日

『黃色い詩』

なお『黃色い詩』で触れられる以下

「君はHans Prinzhorn氏の”Bildnerei Der Geisteskranken”と云ふ本を讀んだかね。あれはいい本だ。一度眼を通して置き給へ。」

ノガワ・リュウ『黃色い詩』大正13(1924)年6月13日

これがなんと!ドイツ・ハイデルベルク大学のデジタルアーカイブでHans Prinzhorn”Bildnerei Der Geisteskranken“ちゃんと閲覧できるんですよ!こういうことがなにはともあれ「電子書籍」たるものの未来を繋ぐように思えてなりません。そしてハイデルベルグ大学のビューワとても使い勝手よくて泣けます。

つづいて少し「G・G・P・G」を離れて「マヴォ」に一度だけ参戦した際の野川隆の詩を紹介します。

野川隆『無敵艦隊』大正14(1925)年8月24日

『無敵艦隊』

やはーかっこいい詩を刻んできましたねえ「詩——あれはカミクズのことである」と来ますからねえ。また冒頭章の都会的なべらんめえ調で啖呵切っていくあたりが非常にクールじゃないですか。またも戦後POPSに照らし合わせてしまう私の悪い癖を発揮すると、Lou Reed- Walk on the Wild Sideが何か聞こえてきてしまいます。

ちなみに途中でフォントサイズ変えているのは「マヴォ」当該号にもそのように冒頭章と尻章以外は小さいフォントサイズ変わって掲載されていたので、それに倣いましたが、なんかここからギャンギャンとギター掻き鳴らしていそうにも思えますからパンクですねえしかもアートシーンに近場のNYパンクですねえ。しかもこちら初の「マヴォ」寄稿作品であり、その内に「G・G・P・G=ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」の異同たる「ゲエ・プリリリリリ・ギガム・プル・ゲム」とかの「Gの發音の震動數と波形」を放り込んでくるところなど憎いじゃないですか。「おう俺が「G・G・P・G」のノガワだけどよ」と「マヴォ」陣営を挑発しているかのようにも取れる詩です。まさに「白山の野郎ども」の「Walk on the Wild Side」。

変電叢書『野川隆著作選集』リリース予告

さて年末まで野川隆攻めで行く予定です。もっとも僕がどれくらいまで電子化できるか?という時間との勝負になってきました。だいたいの詩から小説、また評論類は今手元に揃えているのですが、中でも初期詩は組版上相当な難物があり、とりあえずは出せるものから「野川隆著作選集第一集」として電子放流することを目指したいと思います。

最後に大正14(1924)年11月3日に「世界詩人第一回講演会」記念写真を『世界詩人』第2巻第1号で見つけてきていますので転載します。赤丸で囲ったのは「20世紀跨ぎ生まれ世代」たるヤング野川隆の他、盟友橋本健吉(北園克衛)「世界詩人」主催ドン・ザッキー「マヴォ」村山知義ですが、野川と橋本の間には「G・G・P・G」同人であり画家「ウルガワ」こと宇留河泰呂(※この人の詩と人生行路も相当面白いので後日いろいろ詳らかにしたい)、中段真ん中にまとまって「赤と黒」萩原恭二郎壺井繁治他、下段真ん中に発禁詩集『夢と白骨との接吻』遠地輝武その横に「無産詩人」陀田勘助上段にアナーキズム詩の戦後の証言者たる「局清」こと秋山清等々。新進気鋭の一群が梁山泊のごとく一同介しております。
なおこの時期に「世界詩人叢書第6編」として野川隆『飛行競技会』という詩集を出す予定があったことが「世界詩人」の広告で知れました。こちらが発行された事実はないわけですが、仮に出ていたとしたら野川隆の初期アバンギャルド詩集として萩原恭二郎「死刑宣告」とともにもしかするれば後世に残るということもあったのかもしれません。

世界詩人第一回講演会記念撮影T141103

社主代理 持田泰

池田敬二橘不二雄90年の時を超えて共演

【速報】橘不二雄『月と列車とのダダ的關係』が90年の時を経て池田敬二氏に歌われるという快挙【変電社フォークゲリラ】

なんと!某業界では皆様おなじみの池田敬二氏が、先週【変電社復刊宣言予告】野川隆と橘不二雄と「白山の野郎ども」【橘不二雄『腕の欠伸』文化庁裁定に送り出すよ宣言】で紹介させていただいた90年前の謎の詩人橘不二雄の『月と列車とのダダ的關係』に曲つけて歌い上げていただきました!これ歴史的快挙ですよ!本当掘り出した甲斐があったってもんですよ!

なんかしみじみと秋の夜長にこうやってあの橘不二雄が歌われている現実に感動しております。ちなみに私事ではございますが本日社主代理持田泰は42歳の誕生日にあたり、勝手ながら素晴らしいバースデイソングを頂いた気分であり(※僕が誕生日であることは池田氏は知りません)、改めて変電社アクセル踏んでったろうと誓った晩であります。このたび作曲し熱唱いただいた池田敬二氏に感謝と拍手を送りたいと思います。本当ありがとうございました!引き続きどうぞ宜しくお願いいたします。

池田敬二橘不二雄90年の時を超えて共演

池田敬二橘不二雄90年の時を超えて共演

なお今回歌い上げていただいたものは先週復刊宣言予告した『腕の欠伸』収録作品から一部異同がみられる「ド・ド・ド」掲載時の作品の方です。再度学術研究的な意味で紹介します。

橘不二雄『月と列車とのダダ的關係』大正14(1925)年6月

『月と列車とのダダ的關係』

念のため再度触れておくと、橘不二雄は生没年月日とも一切不明な人物です。もし前回記事また今回の池田氏熱唱を見て何かしら情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら是非ご一報くださいませ。

現在判明している「橘不二雄」

判明している事実

  • 大正期アバンギャルド詩人として大正14(1925)年6月に『ド・ド・ド』登場
  • 詩集『腕の欠伸』をマヴォ系岡田龍夫装幀で大正14(1925)年10月に出版
  • 「近代詩歌」大正14(1925)年11月「詩壇時評」にて小野十三郎「ドンザッキー・遠地輝武・橘不二雄詩集評」の広告を発見するも内容未確認
  • おそらく詩誌「太平洋詩人」第2巻第1号 昭和2(1927)年1月号の「詩人住所録」を最後に彼の名前が詩壇から消える。住所録には「橘不二雄、市外戸塚町源兵衛一五六」と記載。現在の高田馬場の新宿諏訪町郵便局近辺。

勝手な想定

  • 誕生年想定として「20世紀跨ぎ生まれ」1900〜03年くらいの可能性
  • 東洋大学在籍(1918〜26)者であるものの中退詩人の可能性

勝手に進めていること

  • 文化庁の著作権者不明等の場合の裁定制度に申請準備
  • 学術的な意味で一部作品の公開
  • 学術的な意味でフォークゲリラ

なお池田氏には野川隆も作曲していただけるとのことなので乞うご期待!次回より年末まで野川隆ラストスパートかけてまいります。

社主代理 持田泰

【変電社復刊宣言予告】野川隆と橘不二雄と「白山の野郎ども」【橘不二雄『腕の欠伸』文化庁裁定に送り出すよ宣言】

無沙汰しております社主代理持田です。唐突に、と言いますか毎度のことですが、余談から始めますが、先日、渋谷-六本木間を結ぶ都営バスの深夜運行が連日閑古鳥が泣いて試行期間1年をまたずこの11月1日をもって最終運行日となりましたが、珍事が置きました。その際のニュースが以下。

ガラガラの深夜バス ハロウィンと重なった終了日に客最多となる皮肉 livedoorNEWS 2014年11月1日記事

 2020年の東京五輪・パラリンピックを見据え、夜の交通の利便性を高めるため、猪瀬直樹・前東京都知事が始めたが、舛添要一知事が9月末、利用者の低迷を理由に、試行期間1年の終了を待たずに廃止を決めた。
 この日は、前夜のハロウィーンと重なり、大勢の仮装した客が乗り込むなど、一晩の利用者数は皮肉にも過去最多の512人に上った。

このニュースを見たときに僕は「皮肉」は聞こえずに、しみじみと都会的メルヘンを感じていたわけですが、どちらかといえば近年にわかに盛り上がりを見せる都内のハロウィーンの喧噪に毎年嫌味のひとつでもツイートしたくなるような偏屈さを持つ中年たる自分も、このニュースでもって妙な蟠りが解けて、ゾンビやゴスロリや小鬼たちに混じってそのアルコール臭い最終バスに乗っていたかった!このバス停で「看護婦ゾンビ」と「バニーガール」が乗車しあのバス停で「バットマン」と「スーパマリオ」が下車する!ああ何往復でもしていたいな!と思わせるに充分であります。都市のネオンに酩酊しながら何往復でも。

で、話を本論に戻すと僕はこのバスというのは非常に「時代」に似ているな思えた。前回(【秋の変電書月間’14】「村山知義の強引」ゲオルク・カイゼル作/北村喜八訳『朝から夜中まで』)で取り上げた世代論「20世紀跨ぎ生まれ世代」の群像をこの「『20世紀』発バスの乗客」で捉えると、個人ではなく車両に襲いかかった「時代」のうねりが判るのではないか、と思えた次第です。

「20世紀」発のバスが出た。そのバスに始発から乗っている人も入れば途中から乗車した人もいて、また「ダダ」でバスに乗り仮装を変えて「ボリシェヴィキ」で降りた人がいる。「アナキズム」で乗り「獄死」で降りた人もいれば「大東亜文学者」で降りた人もいる。その「終着はどこだったのか?」は誰も判りはしません(まだ辿り着いていないのかもしれない)が確かに「20世紀」発のバスが出た

で、今回は久しぶりそのバスの乗客であるところの野川隆—「アヴァンギャルド」で乗り遠く「満洲協和會服」で降りた彼の作品を「でんでんコンバーター×BiB/i」公開のつもりでしたが、ここ数ヶ月の永田町(NDL)広尾(都立中央)立川(都立多摩)図書館詣での中での見えてきたもう一人の「乗客」橘不二雄に触れておきたい思います。

というのも彼の調査の結果「『20世紀』発バス」の乗客群像に、ひとつ認識が追加されつつあるので、今回の「白山の野郎ども」というサブタイトルをつけました。当初これらを「白山アヴァンギャルド」なんて勝手に呼んてみようかとも思ったのですが、とくにイズム=イストは混成でいいのではないかと。アヴァンギャリストもダダイストもアナーキストも果てはマヴォイストもネオシュプレマリスト(初期野川が名乗った)も全て引っ括めた「野郎ども」でいいのではないかと考えた。

この「野郎ども」表記は特段ふざけたわけではなく、かのポール・E. ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』でいうところの「対抗文化」の担い手としての「野郎ども」というニュアンスであり、

その学業を放り出して長髪にルパシカを着てゴム長靴で銀座上野浅草の街路を練り歩き吠えて叫んだ大正期の「野郎ども」の姿は、南天堂書店の歴史を寺島珠雄の遺作にして名著『南天堂―松岡虎王麿の大正・昭和』でも描かれています。

そして今回記事タイトルにありますように最初に宣言予告しておきます。変電社は野川隆を著作選集として復刊させた後、この橘不二雄の詩集『腕の欠伸』を正当な手続きをもってして復刊させます

「謎の詩人」橘不二雄『腕の欠伸』復刊宣言予告

腕の欠伸 : 詩集』(コマ数:31)
著者:橘不二雄
発行年:大正14(1925)年10月5日 出版社:ドドド社
国立国会図書館デジタルコレクション「近代デジタルライブラリー」

こちらやはり「インターネット公開(裁定)著作権法第67条第1項により文化庁長官裁定を受けて公開 裁定年月日: 2012/03/01」のためサムネイル公開いたしませんが、しかしこんな「文化庁裁定」という煩わしいところまで手続きをしてくれたからこそ本作と読むことができたわけですからNDLは偉大です。

なお先ほどの「正当な手続きをもってして」というのは何かというとこの「文化庁裁定」、つまり「文化庁の著作権者不明等の場合の裁定制度」を変電社も正式に利用してみようと考えています。幸いにもこの8月に随分とこの裁定制度の「相当な努力」ハードルが下がったという朗報があったわけですから、やはり乗るしかないビッグウェイブ。

『文化庁の著作権者不明等の場合の裁定制度』の「相当な努力」ってやつ

その『文化庁の著作権者不明等の場合の裁定制度』とは何ぞやということですが、軽く説明してておきます。

著作権者不明等の場合の裁定制度

上記ざっくりまとめると著作権者不明作品=オーファンワークスでも正式な手続きを踏めばその著作を国の保証のものとして出してもいいよという文化庁の制度なわけですが、以前に紹介させていただいた福井健策先生のオーファンワークス問題記事でもこう説明されている制度です。

内容は、権利者を探す努力を尽くしてそれでも見つからない作品については、文化庁が審査した上で、権利者に代わって許可を出し、補償金を供託すれば利用できるというもの。この制度、EUが導入中のものとの違いは、向こうは「探す努力をしたら使って良い」ルールで、日本は「探す努力をしたことを証明し許可を貰って使う」点。
 確かに世の中には制度を悪用する輩がいるから、政府の判断をかませる日本方式は安心だ。ただ、実はこのタイプは敷居が高い。EUでもこの形態は運用コストが高く、「利用が進まないのが欠点」と整理している。
 現に日本の裁定制度、従来の利用率は極端に低く年0~2件程度、最近若干の制度改善で利用率が上がったとはいえまだ年30件程度だ(しかも学習参考書系に偏る)。改善はされているが、潜在的なオーファン利用の需要はこんなものではないだろう。

——「そろそろ本気で「孤児作品」問題を考えよう」INTERNET Watch(2013/3/12)

その世界と比較しても結構煩わしい日本の「裁定制度」ですが、その中でもとくにハードルを高くしていた部分が以下「相当な努力」部分でした。

裁定申請を行うにあたって
 本制度は、権利者が不明な場合に利用することができる制度であることから、権利者が不明であるという事実を担保するに足りる程度の「相当な努力」を行うことが前提となります(法第67条第1項、同第103条、令第7条の7、告示第1条から第3条)。

「でした。」と記載したのは「相当な努力」がこの夏に大幅に見直しがあったわけです。 

文化庁「平成26年8月に「相当な努力」の内容を見直すとともに、「裁定の手引き」もあわせて見直し、運用の改善を図りました。PDF形式(278KB)

【見直し前の「相当な努力」】
ア)権利者の名前や住所等が掲載されている名簿・名鑑類の閲覧
イ)ネット検索サービスによる情報の検索
ウ)著作権等管理事業者等への照会
エ)利用しようとする著作物等と同種の著作物等の販売等を行う者への照会
オ)利用しようとする著作物等の分野に係る著作者団体等への照会
カ)下記のいずれかの方法で、公衆に対し広く権利者情報の提供を求める
・日刊新聞紙への掲載
・CRICのウェブサイトに30日間以上掲載
【見直し後の「相当な努力」】
①ア、イのうち適切なものを選択すればよい
②エの照会は不要とし、ウ及びオの照会をすれば
③カのうちCRICのウェブサイトでの広告について、申請に必要な掲載期間を7日以上に短縮する

閲覧照会先が選択制になりかつCRICへの「ウェブサイトでの広告」が「30日間以上掲載」を「7日以上に短縮」です。また運用の改善で「一律8,100円」とディスカウント。5年毎の更新再申請も申請者ベースで申請できるとのことなので、まあ、とりあえず、やってしまおうかと。「供託金」算出方法など、実際版元でもない人間が進めるには不明点も多いけれども、かえってずぶの素人が人体実験するにはよい先例になるのではないか?と踏んでおります。まとまった資本が必要な場合は、クラウドファンディングしてしまうのもありじゃないのかなと。なにはともあれずぶの素人なりにあらゆる手を使えばいいのであります。

といったわけで、改めまして橘不二雄『腕の欠伸』復刊宣言予告であります!ただし野川隆の後なので来年早々始動予定という意味で「予告」です

「橘不二雄」なる乗客

さて、そもそもの「橘不二雄」なる詩人ですが、実はこの「橘不二雄」は以前にドン・ザッキーを紹介(林芙美子と野村吉哉とドン・ザッキーと「詩」の時代)した際の「近デジ漁」の中でも視界に入っていて、その時は何者だかさっぱり判らず留保していた詩人です。そして実のところ文献調査をしている現在でも何者だかほぼわかっておりません

ただし同時代の「詩誌」漁りの中でようやく見えてきた輪郭として、この「橘不二雄」なる人物が「20世紀」発バスの中でもドンザッキー、野村吉哉、村山知義そして野川隆の近くに確かに座り、そして何も言わずに降車した詩人であることは判明しました。ゆえに僕は驚いているわけです。みんなそんな近くにいたのか!と。

橘不二雄が『腕の欠伸』収録作品の初出はドン・ザッキー「世界詩人」村山友義「マヴォ」であり、そしてそのマヴォ系で村山、岡田龍夫、多田文三ととも同人にも連なる「ド・ド・ド」(今回の『腕の欠伸』もドドド社で出したわけですが、雑誌初出時と異同も発見しています)。他にも『腕』未収録作品の詩片を村山、岡田、多田とともにマヴォ「後継誌」ともおぼしき「ヒロドパス」に出していたりします。どうもその時期の橘は前衛詩界隈では少し名の知れた存在で、「近代詩歌」大正14(1925)年11月「詩壇時評」にて小野十三郎が「ドンザッキー・遠地輝武・橘不二雄詩集評」を書いていることも広告から判明しました、が内容未確認です。その広告という部分で「ド・ド・ド」裏表紙記載されていた自社広から発見して個人的に驚いた箇所があります。

「ド・ド・ド」裏表紙広告

「ド・ド・ド」裏表紙広告

本来『腕の欠伸』自体もそのマヴォ系岡田龍夫装幀であるようなんです。「本来あるようなんです」というのもNDLデジコレ所蔵だと表紙消えているので、「ド・ド・ド」裏表紙の詩集広告を見るかぎりの判断でしかないわけですが、ここで一緒に村山知義訳トルラー(※前回のゲオルク・カイザーと並ぶドイツ表現派劇作家でもあるエルンスト・トラーの詩集)『燕の書』ならびに、かの萩原恭二郎『死刑宣告』といっしょに並んでいるということですから、岡田龍夫の燦然と輝くマヴォ系アヴァンギャルド装幀であることは間違いなさそうなんですね。岡田龍夫装幀がどんなものかといえばググるとこんな感じです(※なおここには並んでいませんが岡田龍夫装幀の斎藤秀雄『蒼ざめた童貞狂』はこないだ日月堂さんでシェアされておりました)。なお岡田龍夫が何者かというと、村山知義、高見沢路直らと「マヴォ」の過激分子として散々に暴れ回った戦前アヴァンギャルドの牽引者です。やはり彼も1930年代に渡満しています。がその後の行方が知れていません。

またもうひとつ重要な関係性も発見しており、以下、東洋大学系詩誌「白山詩人」第一号の奥付の会友欄に

「白山詩人」1号奥付

「白山詩人」1号奥付

橘不二雄は岡本潤小野十三郎多田文三、また野川隆と同じく「白山詩人」東洋大学系詩人だったことも判りました。もしかすればですが、橘も「20世紀跨ぎ生まれ世代」の彼等と同年代であり、また取り上げた全員と共通する「中退組」ーそれも1年足らずの早期中退組だったのかもしれない。すなわち名門「洋大」を捨て街に飛び出した「白山の野郎ども」。なお上記メンバーのうち「多田文三」もまだまだ謎の多い人物で今後調査して行きたいと考えています。

戦前「詩人大学」洋大の系譜

今では東洋大学「洋大」=名門と云われても想像つかないかもしれませんが、戦前期旧制学制期、東大、慶応、早稲田、東洋で「東京四学」と云わしめ、「白山の哲学」や「詩人大学」とも呼ばれた事実があります。東洋大学のページの東洋大学史エピソード集でも部分的に紹介もされていなくもないですが、ピントが結構ずれています。

白山文芸運動(大正7(1918)年)
大正7(1918)年、在学生によって「東洋大学文芸研究会」が創設され、のちに学外にも開放されました。公開講演会、文芸夏期講習会では、当時文壇・論壇の第一線で活躍していた、田山花袋・島崎藤村・谷崎潤一郎・有島武郎・和辻哲郎らを講師に迎えるなど、東洋大学文芸時代の到来という感がありました。そのほか『白山詩人』『白山文学』など、多くの文芸同人誌が刊行されています。現在も文京区向丘にある書店「南天堂書房」は、かつて二階に喫茶店「レバノン」、三階に出版部があり、林芙美子、草野心平、宇野千代、辻潤などの若い作家が出入りしていました。そこに東洋大学の学生も加わり、南天堂書房の二階「レバノン」は、詩人・作家を目指す若い人たちに大きな刺激を与える場所となっていました。

ここきっちり突っ込んでおくと、この大正期の南天堂二階に「レバノン」という名のレストランがあったという事実はありません。「レバノン」という店名は今東光が言い出したことで、先の『南天堂―松岡虎王麿の大正・昭和』で寺島珠雄が細かい検証の結果否定されています。またここで歌われているような「白山文芸運動(大正7(1918)年)」なるものが実質あったのかどうかという話でもありますが、同時期に大杉栄宮嶋資夫辻潤萩原恭二郎などなどアナキストダダイスト詩人作家画家主義者芸術家が集まった華やかりし頃の松岡虎王麿時代の南天堂二階にはとくに名称がなく、その後彼が夜逃げ同然でお店を手放した後の昭和期に「レバノン」という店名がついたようです。

そしてここで南天堂に「林芙美子、草野心平、宇野千代、辻潤などの若い作家が出入り」と書いているけれども、南天堂に出入りしてた頃の辻潤は40にさしかかるおっさんで「若い作家」と呼べる年齢ではないでしょうし、そしてせめて自分の大学に通った作家らを紹介した方がいいんじゃないでしょうかね。ここで取り上げている作家誰一人東洋大学に籍を置いてないじゃないですか。だったら、さきの「白山詩人」創刊号に名を連ねた「赤と黒」岡本潤、小野十三郎や「G・G・P・G」野川隆、「ド・ド・ド」橘不二雄の中退組「野郎ども」詩人でいいじゃないのかと思えます。

他東洋大から輩出されたビッグネームと言えば葛西善蔵坂口安吾木山捷平のほか、歌人前川佐美雄もいます。

1887年(明治20)年生まれの先輩各の葛西善蔵は置いたとしても、1906(明治39)年10月20日生まれの坂口安吾、1904(明治37)年3月26日生まれの木山捷平、1903(明治36)年2月5日生まれで前川佐美雄と、彼等もかの「20世紀跨ぎ生まれ世代」に遅れること数年です。安吾の初期ナンセンスファルス(笑劇)も前川佐美雄の戦前歌壇に衝撃を与えたモダニズム歌集「植物祭」も同じこの「白山の野郎ども」の山系と捉えてもよいのではないか。

つまり本郷(東大)横、白山(洋大)には、南天堂周辺たむろっていたアヴァンギャルド/アナキスト/ダダイストたるところの「野郎ども」詩人たちを発火点としたカウンターカルチャー圏が確かにあった、なんてことを考えているうちに平日21時まで開いてる広尾の中央図書館を追い出されて、プラプラと南麻布抜けて白金を通過してたら都営三田線「白金高輪」駅に行き当たり、ああそうかこの三田線乗れば「白山」まで一本だなと思い、そのまま呼ばれるようにして「その地」に行ってまいりました。

東洋大学学長井上円了像と秋の宵

東洋大学学長井上円了像と秋の宵

学内に潜り込んで見上げた初代学長井上円了銅像に「先生のところの不良中退組が残した詩片を21世紀の世に公開してみようと思います」と手を合わせたところ、先生はうんともすんと云わず静かに旧白山通りを見下ろしておられる。その道を都市的で妙ちきりんな詩を書いて喚いた90年前の「野郎ども」も下ったに違いない。閉店後の現・南天堂をパシャリして、ちょうどやって来た巣鴨駅行きのバスにのって帰った秋の晩であります(なお現在の二階には彼らが集ったレストランは無論なく学習塾?みたいになっているようです。)

現在の南天堂(閉店後)

現在の南天堂(閉店後)

しかしここまで来たのだから一篇だけ詩を紹介したい思いに。実は『腕の欠伸』収録作品とは一部異同がみられる「ド・ド・ド」掲載時の作品であり、この度は学術研究的な意味で紹介させていただきます。「僕は唾液をかすかに飮みこんで」の文が『腕の欠伸』収蔵ではありません。

橘不二雄『月と列車とのダダ的關係』大正14(1925)年6月

『月と列車とのダダ的關係』

念のため再度触れておくと、橘不二雄ほぼまったくわからない人物です。もし今回の記事を読んでに詳細が判る方がいらっしゃいましたら是非ご一報くださいませ。

現在判明している「橘不二雄」

事実

  • 大正期アバンギャルド詩人として大正14(1925)年6月に『ド・ド・ド』登場
  • 詩集『腕の欠伸』をマヴォ系岡田龍夫装幀で大正14(1925)年10月に出版
  • 「近代詩歌」大正14(1925)年11月「詩壇時評」にて小野十三郎「ドンザッキー・遠地輝武・橘不二雄詩集評」の広告を発見するも内容未確認
  • おそらく詩誌「太平洋詩人」第2巻第1号 昭和2(1927)年1月号の「詩人住所録」を最後に彼の名前が詩壇から消える。住所録には「橘不二雄、市外戸塚町源兵衛一五六」と記載。現在の高田馬場の新宿諏訪町郵便局近辺。

想定

  • 誕生年想定として「20世紀跨ぎ生まれ」1900〜03年くらいの可能性。
  • 東洋大学在籍(1918〜26)者であるものの中退詩人の可能性。
  • 次回は野川隆で

    さてここで橘不二雄は一旦置いて、次回は野川隆の初期「野郎ども」時代の初期詩編紹介に参ります!

    社主代理 持田泰

    【秋の変電書月間’14】「村山知義の強引」ゲオルク・カイゼル作/北村喜八訳『朝から夜中まで』【オチとしてのウォーク・ディス・ウェイ】

    9月です。めっきり秋です。よって【夏の変電書フェア’14】は終了とし【秋の変電書月間’14】となりますが、いつだってガチだぜの社主代理持田です。今回はビッグネーム「村山知義」の「強引」としてゲオルク・カイゼル作/北村喜八訳『朝から夜中まで』の戯曲を紹介いたします。今回の記事は寄り道が多くて格段と長いのでご覚悟をば!

    ゲオルク・カイゼル『朝から夜中まで・クラウデイウス

    朝から夜中まで表紙





    朝から夜中まで・クラウデイウス』(コマ数105)
    泰西戯曲選集 第10巻
    著者:ゲオルク・カイゼル 翻訳:北村喜八
    発行日:大正13(1924)年5月 出版社:新潮社
    国立国会図書館デジタルコレクション





    さてこの『朝から夜中まで』とは築地小劇場での大正13(1924)年12月で公演され、その舞台装置を村山知義が手がけたことで「日本最初の構成派舞台装置」と小山内薫らに絶賛され連日立ち見が出る程の評判をさらった舞台です。その台本として使われたのが上述のゲオルク・カイゼル作/北村喜八訳『朝から夜中まで』になります。

    村山知義展が一昨年にやっていましたので『朝から夜中まで』というタイトルを知っている方もいるかと思いますが、実は現在このゲオルク・カイゼル=ゲオルク・カイザー翻訳作品が日本の通常書籍ではほぼ流通しておりません。

    が!やってくれますNDL!開いててよかったNDL!国立国会図書館デジコレではちゃんと読めますよ!

    その前に今回「村山知義の強引」というタイトルにしているところの村山知義については、Wikipedia-村山知義を参照ください。しかし文学史ってどうして「オッサン」になってからの写真を代表的な著者肖像として使うのか。夭折した作家の方が人気出るよって理由の大半がこれなような気がしてなりません。

    ちなみに余談ですが、村山知義の生まれは1901(明治34)年1月18日で、前回(※【大復活祭!電誌「トルタル」5号発刊記念】「野川隆の放物線Ⅱ」詩編『數學者の饗宴』『哈爾浜風物詩』他【続きはトルタルで!】)の野川隆の生まれも同年1901年の4月23日です。ちょっとこの「同世代」を調べたら非常に面白かったので一気に羅列していきますが、以下は読み飛ばしていただいても構いません。本論とは関係なく個人的に「ある群像」を捉えたいなという試みです。

    余談としての「世代」論

    まず村山知義、野川隆と同じ20世紀が幕挙げた1901(明治34)年組に、以前に紹介(※林芙美子と野村吉哉とドン・ザッキーと「詩」の時代 【レビュアー:持田泰】)した『世界詩人』「ドン・ザッキー」こと都崎友雄も1901年7月11日、林芙美子「元夫」野村吉哉も1901年11月15日、野川と「サンチョ・クラブ」戦友でもある「池袋モンパルナス」小熊秀雄が9月9日、「ダダイスト新吉」高橋新吉1月28日、アナーキスト「黒き犯人」岡本潤が7月5日。ビッグネームでは『檸檬』梶井基次郎2月17日。

    少し前後して翌1902(明治35)年組では小林秀雄が1902年4月11日、「サンチョ」に参加もした中野重治も1月25日、野川の『ゲエ・ギム・ギガム・プルルル・ギムゲム(GGPG)』盟友「橋本健吉」こと北園克衛も10月29日、『改造』懸賞評論論で小林二席に続いて三席になった『詩と試論』春山行夫も7月1日。

    少し兄貴の1900(明治33)年組では、「GGPG」同人『一千一秒』稲垣足穂は1900年12月26日で一個上、「マヴォ」同人『雨になる朝』尾形亀之助も12月12日、同じく「マヴォ」同人カリカチュア画家柳瀬正夢も1月12日、満洲大連「亞」同人『三半規管喪失』北川冬彦も6月3日、もう少し兄さん1899(明治32)年組では、「赤と黒」同人『死刑宣告』萩原恭次郎1899年5月23日、「のらくろ」田河水泡こと小林秀雄の年上の義弟(妹の旦那)高見沢路直2月10日 (※なぜかWikipedia上では「前衛芸術集団『マヴォ』に参加し高見沢路直と名乗っていたものの深入りはせず」と書かれているのですが実際はマヴォの中でもバリバリのアヴァンギャリスト)、もう少し上ると「亞」同人『軍艦茉莉』安西冬衛1898(明治31)年3月9年、未来派「アクション」神原泰1898年(誕生月日不明)とここらは少し兄さん。

    また戦後的ビッグネームだと川端康成は1899(明治32)年6月14日 横光利一1898年(明治31)年3月17日、今東光1898(明治31)年3月26日と少し先輩、林芙美子1903(明治36)年12月31日、小林多喜二1903年(明治36年)12月1日で少し後輩。また『新青年』系だと横溝正史1902年5月24日、久生十蘭1902年4月6日、小栗虫太郎1901年3月14日。林不忘/牧逸馬/谷譲次こと長谷川海太郎が1900年1月17日。

    この「世代」の名は?

    これみな前後あれど19世紀から20世紀へと跨いだ時期に生まれた面々です。豊作どころかまあなんというかああ「戦前」とはこの世代だったか!ということです。この私が安直に「20世紀跨ぎ生まれの世代」と呼んでいるこの世代を一言で言い表す言葉はあるのかないのか調べても出てこないんですね(※もしありましたらどなたかご教示ください)。1912〜26年大正期生まれの所謂「大正世代」「戦中派」の一回り上の世代にあたりますが、ここに確かな世代共通な空気が濃厚にあることが解ります。パリのアメリカ人たるところの「失われた世代」にあたるような世界的同時性の何モノかの感覚を最初に浴びた世代です。

    1901年生まれであれば、幼少期4歳で日露戦先勝、9歳で大逆事件&韓国併呑、11歳で明治から大正期へ、13歳で欧州世界大戦、16歳ロシア革命、17歳米騒動、シベリア出兵、世界大戦終結、20歳原敬刺殺、21歳ソ連成立、22歳関東大震災、24歳治安維持法&普通選挙法公布と、「革命」と「戦争」の「帝国」の世代です。

    また文化社会面で言えば、13歳で宝塚少女歌劇初演、15歳で「婦人公論」創刊、浅草オペラ「世界的バラエチー一座」旗揚げ、16歳で「主婦の友」創刊、18歳カルピス発売開始、「キネマ旬報」創刊、19歳で「新青年」創刊、及び日本最初のメーデー、日本社会主義同盟結成、活動写真会社松竹、帝国キネマ設立、20歳で表現主義映画『カリガリ博士』封切られ、21歳で「週刊朝日」「サンデー毎日」「小学五年生・六年生」(小学館)創刊され、同年アインシュタイン来日、22歳で「文藝春秋」創刊、ライト原案帝国ホテル(旧館)落成、丸ビル完成、マキノ映画製作所創立、サントリー前身壽屋ウイスキー工場設立、「アサヒグラフ」創刊、23歳で昭和天皇御成婚、築地小劇場創設、現在の甲子園球場たる阪神電車甲子園大運動場完成、24歳で講談社「キング」創刊、ラジオ放送開始、25歳で改造社「現代日本文学全集」刊行「円本」ブーム、NHK=日本放送協会設立、「アサヒカメラ」創刊、新宿高野フルーツパーラー営業開始、TOYOTA=豊田自動織機製作所設立です。

    つまり彼等が育った明治後期大正年間で現代生活に直結している都市文化の基部がほぼ出揃った世代でもあります。

    本論に戻って村山知義ついて

    「村山知義の宇宙:すべて僕が沸騰する」図録

    「村山知義の宇宙:すべて僕が沸騰する」図録


    話戻して、そんな時代を通過した村山知義という名の「若い芸術家の肖像」は、Wikipedia見るより、先に触れた2012年の展覧会チラシの方がイメージ伝わりましょう。同展は村山前衛美術時代の現存する数少ない作品群だけでなく、クレーやカンディンスキー、アーキペンコらの作品なども同時に展示し彼が影響を受けたベルリン滞在時に欧州芸術運動の紹介から、帰国後国内で手掛けた様々なジャンルでの作品群を時系列に沿った形で一同に介しており、村山知義の全貌に迫る善き展覧会でした。



    20世紀の初めに生を享け、ベルリンでダダや構成主義などの新興芸術を吸収して1923年に帰国、まもなく「マヴォ(Mavo)」や「三科」といったグループの活動を通じて大正末期から昭和初期にかけて日本の近代美術に決定的な影響を与えた村山知義(1901-1977)。

    —『すべての僕が沸騰する 村山知義の宇宙』図録

    1901年20世紀幕開けの年に生まれた村山”TOM”知義ですが、20世紀初頭、沸騰する時代の日本の空気のみならず世界の空気を吸い付くして、絵画・詩・小説・演劇・舞踊・映画・批評・翻訳と領域横断的に活躍し挑発しおおいに暴れ回った戦前前衛芸術史の中でも大物中の大物です。高見順『昭和文学盛衰史』でも当時の村山を「先駆芸術の帝王者」と呼んでいます。その1920年代の活躍の中でもかの伝説のマヴォ(Mavo)での光芒に関してはここでは触れませんので、竹熊先生の電脳Mavoにて「第一回よりぬきたけくまメモ:マヴォについて」などをご参考いただければと。なおマヴォ関連で言えば詩人尾形亀之助に関しては後日論じたいところですが。

    さて今回紹介する『朝から夜中まで』その舞台装置は、時代の「小英雄(by安西冬衛)」村山知義のターニングポイントとなった作品で、村山知義のバイオグラフィを紐解くと必ず出でてきます。その舞台装置がどんなものかはググって貰えれば解るところですが、「すべての僕が沸騰する 村山知義の宇宙」展の図録が手元にありまして、こちらから画像を転載させていただきます。横に当時の彼のトレードマークであるところの「ブーベンコップ(おかっぱ頭)」とニット帽姿のポートレートが映っております。Wikipedeiaの坊主のおっさんよりこちらの方が「村山知義」ですね。尖端芸術家としての面目躍如たる「ドヤ顔」です。これは冗談で言っているのではなく、この「ドヤ顔」こそが、大正期マヴォの村山だと思うからです。この顏で戦後含めてアヴァンギャルド史に対して「ドヤ」と言っているように思えてなりません。

    村山知義のポートレートと「朝から夜中まで」舞台装置模型 (「造形」1925年4月掲載)

    村山知義のポートレートと「朝から夜中まで」舞台装置模型 (「造形」1925年4月掲載)

    この舞台装置は村山が1924年築地小劇場で本劇が上演されるのを聞きつけて演出家土方与志へ直談判して舞台の美術担当に収まったことで生まれ出たものです。もっとも当時の村山は舞台美術の一切の門外漢であったという有名な逸話も残っていますが、この時代の帝王者に相応しい「強引さ」の結果で、戦後まで続く彼の舞台関連の業績に繋がったのだとを考えると、ここが演劇人村山知義の産声だった捉えてよいわけです。

    またその「強引さ」はこの一点だけではありません。上演後すぐに小山内薫に「日本最初の構成派舞台装置」と紹介され多くの識者から喝采をさらいましたが、本原作者であるところのゲオルク・カイゼル=ゲオルク・カイザーは、表現派の劇作家です。そもそもでこのゲオルク・カイザーの情報がほとんど日本語Webにはないため、Wikipediaもまーひどいので、ちょっと遠回りになりますがまず原作者の簡単な略歴をまとめます。

    遠回りのゲオルク・カイザーについて

    Georg Kaiser,1928

    Georg Kaiser,1928

    ゲオルク・カイザー(Friedrich Carl Georg Kaiser 1878年11月25日-1945年6月4日)は、戦前エルンスト・トラーと並ぶドイツ表現主義の劇作家であり、1910—20年代ドイツ本国のみならずロンドン・ニューヨーク・東京などで彼の作品が公演されるなど、当時世界的にも人気を誇った作家で、ブレヒトらその後ドイツ演劇界のみならず、T・S・エリオット、ユージン・オニール、ソーントーン・ワイルダー、テネシー・ウィリアムズらの世界の戦後演劇界に大きな影響を与えましたが、1930年代ナチス政権化で政府協力を頑に断るカイザーは反ナチスと見なされ一切の作家活動・上演を禁止されます。彼の作品はかの1933年のナチスの焚書対象として燃やされています。

    身の危険を察知したカイザーは家族にも告げずにスイスに単身亡命し(残した家族には亡命生活の窮状を訴えながら実は愛人マリア・フォン・ミュールフェルととその娘と生活してたそうですが)創作におけるナチ体制批判として日本を舞台にした「兵士タナカ」という戯曲も発表し、日本公使館の要請でスイスでの上演が止められます(なお2008年東京芸術座で「兵士タナカ」が講演されたようです)。終戦間際にノーベル文学賞候補にもなっておりましたが、1945年5月8日ナチスドイツ敗戦後も帰国適わぬまま翌6月4日に亡命先スイスで没します。享年66歳。

    相当エキセントリックな人物であったらしく、放埒な金銭感覚のせいで人気劇作家として高収入であったにも関わらず絶え間なく借金を負い続け、起訴されて禁固刑にまでなっており、その際の陳述が「私は偉大であり、途方もなく例外的な存在であるために、法律は私には適用されない」と言い張る等なかなか飛んでます。

    代表作としては『カレーの市民』(1912)『朝から夜中まで』 (1912) 『珊瑚』から『ガス1』『ガス2』へと続くガス3部作(1917—20)などなど。そして現在の日本ではゲオルク・カイザーの作品はほぼ読めません。『盲目の女神―20世紀欧米戯曲拾遺』に「ロザムンデ・フローリス Rosamunde Floris (1936/37)」が収録されてくらいです。ちなみにガス三部作は100年後の現代日本を間違いなく風刺していますが、これまたどっかで機会あれば触れます。未訳です。

    念のためドイツ表現派について

    では、そのゲオルク・カイザーの「ドイツ表現派」とはなんぞや?というところでありますが、詳しくは表現主義ーWikipediaを参照していただければと思いますが、ドイツ・ドレスデンで結成された画家グループ「ブリュッケ Die Brücke=橋」のメンバー、キルヒナーシュミット=ロットルフヘッケルらが当時パリを凌ぐとも言われた芸術都市ベルリンに1911年に移住して活発に創作活動を展開し、同年ミュンヘンにてカンディンスキーマルクらの手によって創刊された芸術誌「青騎士:ブラウエライター der Blaue Reiter」のもとに集まった画家集団らを中心にして、20世紀初頭にドイツで爆発した芸術運動です。

    反権威、反ブルジョア、反写実、反印象を標榜し「生の飛躍エラン・ヴイタル」としての「内面」、時には「幻視」、また対象を消し去った内部規範のみの「抽象」をも含む「表出=expression」を主潮としています。「ブリュッケ」も「青騎士」ともに第一次世界大戦勃発とともに消滅しましたが、「表現主義(派)Der Expressionismus 」は音楽,文学,演劇,映画,建築に及ぶ革新的芸術の合言葉として広まり、特に表現派演劇及び映画は、第一次世界大戦後のドイツ革命を経たヴァイマル共和政下でも一つの潮流として、また戦時下スイス・チューリッヒで生まれたバルツァラらのDADA、イタリアの未来派、ソビエト革命期のロシアンアヴァンギャルドの構成派、などなどの様々なイズムが合流混成して、新即物主義=ノイエザッハリヒカイトNeue Sachlichkeit等の新派も吐き出しながら、「ヴァイマル文化」という大輪の徒花を咲かせていくわけです。なお1930年代ナチス政権下において「退廃芸術」の烙印を押されるのもこれ等の作品群です。

    戦間期欧米文化はレザネ・フォール les années follesのフランスやハリウッド・ジャズエイジのアメリカからだけでなく、ヴァイマル共和制下ドイツの芸術実験、革命期ロシアからソビエト初期にかけてのロシア・アヴァンギャルド等、様々な経路から日本へ着弾し同時代的な影響を与えています。その紹介の一翼を担ったのが村山知義です。

    村山知義とドイツ表現派

    村山知義はベルリン単身渡ったのは1922(大正11)年、21歳の頃です。後期表現派運動が一段落着き第一次世界大戦後の新たなモダニズム芸術諸派が怒濤のように渦巻くベルリンで時代の空気を吸った村山はこの「表現派」を「オワコン」と観ています。乗り越えるべき父というより長男であると。もっともベルリン時代にカイザーやトラーの表現派演劇を大量に観て感銘を受けているわけですが、帰国後の執筆で築地小劇場で「朝から夜中まで」の開幕直前1924(大正13)年11月に村山の最初単著『現在の藝術と未來の藝術』(長隆舍書店)が出ていますが、その中に「過ぎ行く表現派」という章にて本質的批判をしています。

    それゆえもし彼らがなんらカンディンスキーのいわゆる「内的要素なる精神の振動ゼーレヴィヴラチオン」が無いにものかかわらず、フォルムの面白さ、貴さ、美しさ、偉大さないしは醜さに圧倒されてある絵を創ることもまた正当にあり得る、、、、ことである。

    —「過ぎ行く表現派」p174:村山知義『現在の藝術と未來の藝術』長隆舍書店1924

    他にも1926(大正15)年2月の『構成派研究』

    未来派は旧い美学を破壊したが、表現派は新しい美学を生み出した。破壊の後に建設が来るのはいかにも当然らしいが、実はこれは、表現派が未来派よりもずっと美術の殻をぬけきれないでその中に閉じこもっていることを示している。

    —「3表現派」p14村山知義『構成派研究』中央美術社 1926

    「立体派と未来派からコマ切れの肉と神秘的なドイツのビーフステーキが切り取ってこられた。それが表現派だ」「世に表現派ほど早くその目的を達し、展覧会場の金の額縁の中や、善良なる小市民的な部屋の小さな飾物やレースや花絨緞の真中で、易々と極楽往生を遂げた派はいない」というハンガリーのカシャークの痛烈な表現派批判も紹介しています。

    ロシア構成派及び意識的構成主義について

    この「表現派」の「表現」という言葉で担保されてしまう「美術」性と、隠蔽される「無知・無意識」を嫌う村山は、それを乗り越えるものとして「意識的構成主義 Bewusste-Konstruktionismuss: Conscious-Constructionnism」を掲げるわけですが、ではその「意識的構成主義」とは何ぞ?と。

    ものすごいざっくりと説明しますと、ドイツ表現派の無対象絵画の内面表出理論が陥った静的なるカンディンスキー的「構図コンポジシオン」を乗り越えるべき「力」と「動」の表出たるところの「構成コンストルクシオン」(当時日本にいたブブノワ経由のロシア構成派理論)と、ドイツ・ハノーファーのダダ=アンチ・ダダたるところの「メルツ」のクルト・シュヴィッタース経由の「芸術」を茶化し打ち壊すパフォーマンスと所謂「コラージュ」とを「揚棄」させたいところの主義のようですが(「構成派批判」参照:村山知義『現在の藝術と未來の藝術』長隆舍書店1924)、理論的には揚棄というよりは折衷融合的といいますか敢えて言えば「マヴォイズム」としての「構成派」と認識してよいかと思いますが、

    つまり、ここで急に本題に戻りますと、村山友義のもう一つの「強引」としてカイザーが1912年発表された「表現派」戯曲の舞台芸術を彼の標榜する「構成派」芸術で組み上げたという点です。村山自身が語るところのよると、「適度な左右対称、重量と運動の全体的平衡、形と色の両方に於ける単純さ明瞭さ、充分に発揮されたる実用性、全てが必要にして且つ充分なること」規則規範的に組まれており、村山自身はこの構成派舞台装置でもってして表現派とは一線を画したという自負があった。この構成派舞台装置と表現派のの差はどういうものなのか?のいいサンプルとしてこの『朝から夜中まで』は1921年ドイツ映画です。

    幻のドイツ表現主義映画『朝から夜中まで』との比較

    既に公表後70年を経過しておりパブリックドメインという認識のもとで展開してしまいますが、かの「カリガリ博士」の翌年にあたります。一時間少々の映画なので是非ご覧あれ。サイレント映画です(音楽は後年に載せたものでしょう)。典型的な表現派演出になっています。


    『朝から夜中まで Von morgens bis mitternachts』ドイツ 1921年 69分
    原作:ゲオルク・カイザー(Georg Kaiser)
    監督:カール・ハインツ・マルティン(Karlheinz Martin)
    撮影:カール・ホフマン(Carl Hoffmann)

    なおこちら日本のみで上映され、本国ドイツその他のヨーロッパ諸国では一度も上映されなかったいわく付きの「表現主義映画」で、長年フィルムが失われたと思われていたものが東京国立近代美術館フィルムセンターで無字幕版唯一発見されたものが1968年にフランクフルトでの表現主義ゼミナールで始めてドイツで上映されたそうです。今回のこちらは1993年にミュンヘン映画博物館が復元してドイツ語字幕を加えたものになりますが。北村喜八訳『朝から夜中まで』を読んでから観ると演出相違等はいくつかありますがほぼほぼ話を追えるかと思います。

    ようやく『朝から夜中まで』あらすじ(駆け足)

    さて、ようやく本題の『朝から夜明けまで』のあらすじですが、駆け足で、ざっくりいきます。ドイツ某銀行の冴えない中年出納係の女に騙されて(勝手に勘違いした)横領持ち逃げ事件です。今で言う「中年の危機 ミッドライフ・クライシス」ものになるかと思いますが、表現派演劇は市民生活批判としての破滅欲求からの「新しい人間」像への希求ベクトルが底流にあり、その逃亡の『朝から夜中まで』の過程が劇的に描かれています。逃亡中一回自宅に戻り部屋の扉を全て開けさせてこんな述懐する「出納係」

    出納係:(あたりを見廻しながら)お母さんが窓に寄りかかっている。娘たちは、卓に向かって刺繍したり——ワグネルを弾いたりしてゐる。妻は臺所で働いてゐる。四つの壁に囲まれた——これが家庭の生活だ。共同生活の美しい和樂だ。母と——息子と——その子供とが、一つ屋根の下にゐる。惑はされやすい魔法だ。魔法は紡がれてゆく。部屋には卓があり、ランプが吊り下がっている。右手にはピアノがある。陶上煉瓦の暖炉がある。臺所では、毎日の食事が用意される。朝のコオヒ、晝はカツレツ、寢室には——寝床。惑はされやすい魔法だ。そのうちに突然——背中に——白い堅いものがくる。卓が壁の側へ押しやられる——黄ろい柩が斜に置かれる……螺釘が締められる——ランプの周りに覆ひが下げられる——一年ピアノが弾かれない———

    こう言葉を残して家族を捨て猥雑なる都市に繰り出す徹底的に蕩尽をします。エンディングはもう必然的な死なわけですが、非常にまとまった贖罪羊の象徴で終わります。興味ありましたら是非上記映画を横目に読んでみてください。今回はEPUB化しておりませんのでPDFデータでは読みがたいかと思いますが。なおこちらも将来の変電叢書復刊候補です。

    『朝から夜中まで』構成派実舞台は

    あらためて確認としてこちら(外部リンク)が『朝から夜中まで』舞台装置の再現物を観てみます。これが幕のない舞台にどーんと置いてあり観客のを舞台開始前から観客の度肝を抜いたと言われております。「舞台装置がどぐろをまいている」と。

    しかしこの階層式の舞台装置をあの劇もってどのように使用したのか?ということですが、全7幕各場面をそれぞれの装置のブロックブロックに割当、照明を当てて運用したそうです。「一段上の正面奥が、競馬場の場の審判席、二階は右手の出納係の家の場、左手がホテルの場、正面奥が救世軍の場の演壇、一階は右手が銀行の場で左手が踊場の場である。一回中央の床は銀行の場とホテルの場では街路、踊場の場では聴衆席、競馬場の場では廊下、救世軍の場では演壇へ、及びホテルの部屋から正面手前の床へ張り出された縄梯子の上で演ぜられる」。照明は「銀行が白、家が黄、踊場が赤、ホテルが緑、救世軍が赤、競馬と雪の場が青」(村山知義「『朝から夜中までの舞台装置について」)という配色です。以下参考までに実際の舞台第一場「銀行の出納口」舞台写真を「すべての僕が沸騰する:村山知義の宇宙」展図録より転載します。

    第一場「銀行の出納口」舞台写真 撮影:坂本万七 「すべての僕が沸騰する:村山知義の宇宙」展図録より転載

    第一場「銀行の出納口」舞台写真 撮影:坂本万七
    「すべての僕が沸騰する:村山知義の宇宙」展図録より転載

    この演出も含めて当時はの観客に強い衝撃を与え、多くの人の「構成派演劇」という記憶を残し、村山知義の名を演劇界に轟かしたわけです。

    その後の「村山知義の放物線」

    村山知義のその後も言わずもがなでありますが「村山知義の放物線」を追記しておきますと、GGPG野川隆と同じく「藝術左翼から左翼藝術へと轉換」し、主に左翼演劇方面で活躍しますが、野川と同じく1930(昭和5)年5月で一回目、1932(昭和7)年4月2回目治安維持法で逮捕検挙され、1933(昭和8)年12月「転向」して出獄。1934(昭和9)年所謂「転向文学」の『白夜』を発表。その後も演劇創作活動続け、再び1940(昭和15)年8月逮捕、1942(昭和17)年6月保釈され、落ちのびるように1945年3月朝鮮、7月満州へ渡り、8月朝鮮京城で終戦を迎えます。なお8月15日玉音放送時の村山知義の状況は、こちら有志のブログに詳しく記載されていましたので是非ご参照ください。→「多面体F」朝鮮に渡った村山知義 他の記事でも村山知義について非常に詳しく書かれており、諸々参考にさせていただきました!

    オチとして

    さて、今回は村山知義という「巨人」相手だけでなくドイツ表現主義劇作家ゲオルク・カイザーから戦間期前衛芸術史なども紐解いてしまい、そのあまりにも広大な領域に手こずりました本記事をそろそろ終えたい!疲れた!と書いてる私も痛切に思っておりますが、最後にオチとして。この世界的に有名な表現派演劇を構成派で組み替えた「村山知義の強引」な手並みを観た観客の最初の衝撃を、敢えて今風に解釈するとどういうものだろうな?と長らく考えていたのですが、ようやく閃きました。

    この戦後POPSに置きかえての俗な解釈を行うという野蛮さをやってのけると、つまり1977年ビルボード10位エアロスミス「Walk This Way」を1984年にカバーして世界的ヒット誘い「HIPHOP」の存在を世界に知らしめたRUN-DMCの衝撃ではなかったかと。

    上記動画を観てから、改めてこの舞台を観ると、adidasスーパースター&カンゴールハット&ゴールドチェーンのオールドスクールスタイルでMC.TOMこと村山知義がドヤ顔で舞台中央から踊り出てきそうな気がしてきませんか!

    という最後は「強引」なオチをつけて、長かった【秋の変電書月間’14】第一弾としてゲオルク・カイゼル作/北村喜八訳『朝から夜中まで』を終えたいと思います。「かえってわかりずらいオチ」の誹りは受け付けません。

    社主代理 持田泰

    参考文献

    ・村山知義研究会「村山知義の宇宙2012全ての僕が沸騰する」神奈川県立近代美術館葉山図録(2012/2/11〜3/25)
    ・村山知義『構成派研究、現在の芸術と未来の芸術』長隆舍書店(1924)復刊、本の泉社 (2002/10)
    ・五十殿利治『大正期新興美術運動の研究』スカイドア;改訂版 (1998/06)
    ・五十殿利治『日本のアヴァンギャルド芸術―“マヴォ”とその時代』青土社 (2001/07)
    ・レナート・ベンスン:小笠原豊樹訳『トラーとカイザー―ドイツ表現主義演劇』草思社(1986/4)

    【大復活祭!電誌「トルタル」5号発刊記念】「野川隆の放物線Ⅱ」詩編『數學者の饗宴』『哈爾浜風物詩』他【続きはトルタルで!】

    8月31日のこんな時間と言えば脂汗と涙の記憶しかなく夏休みの宿題などというものは児童虐待だと信じてやみません夏休み大好き社主代理持田です。さあ!とうとう開封!電誌「トルタル」大復活号でございます!本日8月31日正午リリースの際は私インドカレーを食べていたために、DL現場はこんな風景になりました!

    トルタルとカレーのある風景

    トルタルとカレーとチキンとナンのある風景

    緑色のサグカレーと良く合う!トルタル5号のダウンロードURL以下です。

    直接ダウンロード
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    またトルタルの読み方が解らない方はこちらをご参照ください。
    トルタルの読み方note
    http://bit.ly/ToruYomi

    本号が「満を持して」に相応しく非常に濃厚な復活号になっております。いつもの寄稿陣のトルタル愛溢れる連載も見逃せませんが、本号きっての目玉は『BANKSY YOU ARE AN ACCEPTABLE LEVEL OF THREAT【日本語版】』『BANKSY’S BRISTOL:HOME SWEET HOME』の翻訳者・毛利嘉孝氏、鈴木沓子氏へのインタビュー「バンクシーって誰」。

    それがたったの0円!これは端末に落とさない手はありませんよ!

    そしてもちろん今回変電社も頑張った!中表紙を野川隆の40代の肖像を利用してイラストレーター牧瀬”アリアリ”洋氏にこさえていただきました!ダダ!DADA!イカす!

    「野川隆の放物線Ⅱ

    前回記事の「野川隆電子書籍化宣言」たる「変電社第五宣言」として「野川隆の放物線」続編を寄稿しております。電子ではもちろん紙でもそう簡単に拝めない詩を10篇と「作者の言葉」を1篇、前回に続きでんでんコンバーター×BiB/iでEPUB本邦初公開としております。また彼の作品を追いながら真面目にバイオグラフィを追っております。どうぞご賞味ください。トルタルは作品はリンク紹介になるので、ビュワー画面つきで今回こちらに抜粋版を紹介いたします。

    以下トルタル5号「変電社第五宣言ー野川隆の放物線Ⅱ」(抜粋)


    野川隆「野川隆の放物線」Ⅱ 詩編

    『満州短編小説集』滿洲有斐閣(1942)「作者の言葉」69頁(38コマ)より

    『満州短編小説集』滿洲有斐閣(1942)「作者の言葉」69頁(38コマ)より

    さて野川隆「詩」を公開いたします。20年代アバンギャルド運動の砲台から高く発射され大きな弧を描いて遠く海を超えて遥か北満の大地に確かに着弾した「野川隆の放物線」ですが、今回は「詩」の側面です。

    既に今号の牧瀬洋氏イカす中表紙デザインであしらってもらっていますが、改めまして野川隆の顔写真もこちらに公開します。昭和16(1941)年7月芥川賞候補作となつた『狗寶』の頃なので、40歳の頃の野川ですが、戦後様々な形で語られる際(稲垣足穂、大岡昇平、平野謙、塙英夫、等)に若き野川の「美青年」逸話が必ず出てきます。野川隆が書生で住み込み「エポック」から一緒に活動していた玉村善之助(方久斗)家の奥さんの竹久夢二式美人と駆け落ちしたり、その後ハーフかと見紛う「邦子」夫人と再婚したりと。その玉村善之助(方久斗)の『世の中』昭和14(1939)という随筆集で語るところの「これらの若ものはきまつて長髪とラツパズボンといういでだちであつたし、藝術家気質の多い文芸道を口にしながら過激な社会問題に関心を持つものの如くであつた」若き詩人たちの肖像はまた別の機会に。

    野川隆『數學者の饗宴』大正11(1922)年11月

    『數學者の饗宴』
    大岡昇平『野川隆のこと 』より引用p15~16(9コマ目)
    掲載先「海. 13(10)(150)」発行日:昭和56年(1981-10)出版社:中央公論社
    国立国会図書館デジタルコレクション※「国立国会図書館限定」コンテンツのため複写サービス利用

    『GGPG』前身の『エポック』での掲載詩ですが、前衛期当時の野川の詩に関して非常に理知的でモダンです。文学に物理学を持ち込んだ先駆者が「稲垣足穂」だと言われているが、「非ユークリッド幾何学の大立者でもある人の名を、日本文学の中に入れたのは野川隆君であることを諸君に銘記してもらいたい」と稲垣足穂自身が「『GGPG』の思い出」で明確に語っているところです。この稲垣足穂ですが、野川隆・孟兄弟と関係が深く、以前ブログでも野川隆の兄、孟が初代「江戸川乱歩」だったという話をに少し触れましたが、それを立証しているのも彼です。

    「野川孟は最初〈江戸川乱歩〉で平井太郎の『江戸川乱歩』は第二次です。探偵小説の『江戸川乱歩』が野川隆のお株を奪ったというわけ。野川(孟・隆)兄弟は四谷の電車通うらの鍵手の入った所にある真四角な二階館に住んでいるとのことでした。空地にキャベツを作っていて、キャベツばかり食べているとのこと。この四角い家の話によって、私は一千一秒の中にある「自分のよく似た人」を着想しました。私は辻や高橋に代表される泥くさいダダを好みません。チュリヒ的なダダも日本に在ったということで「G・G・P・G」はもっと世間に知ってもらいたいと思っています」

    —中野嘉一『前衛運動史の研究』沖積舎 p381

    つまり知的に洗練された「チュリヒ的なダダ」と足穂に言わしめた『ゲエ・ギム・ギガム・プルルル・ギムゲム』(GGPG)ですが。このこの誌名について野川隆が創刊号後記にこんな言葉を残しています。

    この名前について、じきに意味を聞きたがる人があるが、そんな必要はない。少なくとも、私一個人の解釈に依れば、音楽的な感覚をわかつて呉れればよい。蛇足を付け加へるならば、都会の街々に動く、機会で出來た人間的な動物人形には、Gの発音の振動数と波形が気に入ったのである

    また、壺井繁治がその頃野川によって訳されたらしい「立体派詩集」は、あの萩原恭二郎詩集『死刑宣告』「日比谷」へ影響を与えたとも伝えています。その頃の翻訳詩をいくつか。

    〜(中略)〜


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    野川隆『哈爾浜風物詩』康徳7・昭和15(1940)年5月

    『哈爾賓風物詩』
    掲載誌『満洲観光(聯盟報). 4(5)』p12~15(8コマ目)
    発行日:昭和15(1940-05) 出版社:満州観光聯盟
    国立国会図書館デジタルコレクション※「国立国会図書館/図書館送信参加館内公開」コンテンツのため複写サービス利用

    以前も詩編一部を紹介しましたが(【行って来たよ!】国立国会図書館図書館向けデジタル化資料送信サービス体験レポ【美味しいマカロニ】)その全文になります。野川渡満後の2年目の作品であり、個人的には持田が一番お気に入りの長詩です。「哈爾賓」とは言わずもがなで満州内陸中央に位置する「ハルピン」ですが、1896年ロシアが清国に東清鉄道を敷き交通の要衝としてロシア人を初めとする人口が急激に増加し経済の発展した純然たるロシア式市街を持つ植民都市です。

    掲載誌「満洲観光」に相応しく、その「哈爾賓」観光としてその「旅情」を描きながら、その満州社会の矛盾を嗤うところの「風刺」、そしてその歴史への深い「憧憬」を、あますことなく歌い切っているように思えます。最終章で野川は「性格の異なつた哈爾賓の街に/哈爾賓らしさの要素の一つを/見逃すまひと若しも思つたら/高台のぼつて見はらすがいいのだ」と歌います。

    帝政ロシヤのきづいた街の
    生きたおもかげがそこから見られる
    天空を指す寺々のドームと
    計畫的に植えられた樹々と林の
    こんもりとしたみどりの波うつなかに
    忠靈塔の尖つたさきが
    歴史の頁を突きさしてゐる他は
    瑣末ものはその昔の
    都市計画のなかに沒入し去つて
    白系ロシヤ人の生活をきざむ
    彼等の鼓動である寺々の鐘が
    からんからんと響きわたるのだ

    —『哈爾賓風物詩』

    そして「私はかうした風景のなかに/植民地開拓のロシヤ人的な/地味で手がたいやり方を見たり/街や家の經營のなかに/生活に對する理解の仕方の/ロシヤ人らしさを見出したりして/それに眼をしばしば奪われる」と続きます。

    静かな木陰に食卓をもちだし
    自然と生活をせいいつぱいに
    たのしみながらエミグラントに生きる
    荒涼たる滿洲の曠野に
    人工的な綠園を作り
    そこを魂の故郷とさへする
    さういふ彼等を見直さねばなるまい
    新馬家溝は街はずれであるが
    ロシヤがいちばん殘つてゐるのだ
    菩提樹の林
    修道院のドーム
    如何にも田舎じみたロシヤのブフエト
    そしてロシヤ女の羊飼や
    ルパーシユカを着た牛飼などは
    旅の人々からは振向かれないが
    だからこそ
    俗臭も少ない場末だ
    私は此處に來て
    はじめて息をつく

    —『哈爾賓風物詩』

    「荒涼たる滿洲の曠野に/人工的な綠園を作り/そこを魂の故郷とさへする/さういふ彼等を見直さねばなるまい」この吐露は野川の本音ではないか、と思われます。「私は此處に來て/はじめて息をつく」と。

    〜(中略)〜


    続きは「トルタル5号」で是非どうぞ!!
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    まとめとして変電叢書『野川隆著作集』のご案内

    本年2014年は奇しくも野川隆没後70年です。今回変電社が一番乗りでEPUB化対応したからには今一度残されている野川隆の作品をかき集めて全てまとめみてやろうと目論んでおります。ここまでおつきあいいただいた方は既におわかりのように、時代時代の「キーマン」であったにもかかわらず、いまだにまともに野川隆の作品全貌をまとめられたものがないという事実にも驚きます。つまり今回これは「復刊プロジェクト」というよりは「初の編纂プロジェクト」になるわけです。なにはともあれ変電社として初のパブッリシングイベントになりますが、リリースは2014年12月23日。70年目の命日に世に出せることを目指したい所存です。乞うご期待!

    変電社社主代理 持田