【野川隆評伝】第三章 疾走期 震災と「Gの發音の震動數と波形」たる『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』、橋本健吉、稲垣足穂、暴れる玉村善之助

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社主持田です。ようやく!ようやく前期評伝完結!

もっとも中期評伝・後期評伝に続きますが、とりあえずは野川隆二十六歳までの前衛期までは細かく足跡を追いました。

  1. 【野川隆評伝:前期】Gの震動—1901〜1927 第一章 揺籃期 父・野川二郎、友・十和田操、兄・野川澂『高原』周辺
  2. 【野川隆評伝】第二章 覚醒期【「江戸川亂歩」としての兄・野川孟、『エポック』周辺、末弟・野川隆の登場

そして今回が「第三章 疾走期」です!本記事だけで15,000字越えてますのでお暇な時でよしなに!

さあ急げ一年越し念願の野川隆著作集1coming soon!とりあえずKDPでまいります。

末弟・野川隆と関東大震災

大正十一(一九二二)年秋、野川隆は六兄の圭の紹介で横浜税関に勤めながら、八兄・達の残した絵具で絵(おそらくは「ルソー」風の)を描き、七兄・孟が玉村善之助の元で創刊した海外新興美術雑誌『エポック』に詩作の寄稿をはじめていた。

この頃隆が何処に住んでいたのかは定かではない。が、その前に俳優を志して転がり込んでいた先の芝日吉坂の十和田操の下宿からは既に出ており、後述する隆の油絵は関東大震災の際に横浜駅の荷物預かり所で焼失しているから、職場の横浜税関(現:神奈川県横浜市中区海岸通一ノ一)の近郊であったろうと思われる。

隆の『エポック』時代の発表作品は、詩は四篇、小説一篇、飜訳一冊。まず大正十一(一九二二)年十一月第二号に詩三編「數學者の饗宴」「沼の水蒸気」「風の詩人」、翌号一二月第三号に詩「知見の虹」、翌号大正十二(一九二三)年一月第四號に初の小説「作品第三(宇宙・人間及想像)」を発表。翌二月の第五号は『輓近藝術特集號』と名を打った新興美術絵画の紹介のみで創作欄はなく、その翌三月第六号で、野川隆の初の訳詩集「立體詩三十八篇」が一冊まるまる当てられる(1)。

マックス・ウエバア『立体派詩集 “CUBIST POEMS”』の全訳「立體詩三十八篇」1923年3月
マックス・ウエバア『立体派詩集 “CUBIST POEMS”』の全訳「立體詩三十八篇」1923年3月

この訳詩はロシア系アメリカ人マックス・ウエバア『立体派詩集 “CUBIST POEMS”』の全訳であり、壺井繁治によれば萩原恭次郎『死刑宣告』(大正十四(一九二五)年)の詩作に影響を与えたと言われる。同じ様に反響が高かった村山知義訳詩エルンスト・トルラー『燕の書』が大正十四(一九二五)年のことであるからそれよりも二年早い。これは新興芸術全般にアンテナの高い孟が選別し隆に訳させたものだろう。前述したように孟は編集の裏方に徹し、まるで隆の舞台を整えるかのように毎号に隆に何かを書かせている。

この頃、隆は外国帰りの未亡人にしつこくつきまとわれる今で言えばストーカー事件が起きるが、稲垣足穂が二十代の野川隆を振り返り「奇異な感を抱かせるような美少年であった。たとえれば平安朝の童子か御所人形を思わせるかおであった」と述べ、また平野謙が三十代の隆を振り返り「はじめて野川隆を見たわけだが、その若々しい美青年ぶりに一驚した」と記した「野川隆=美青年」逸話の最初の事件である(2)。

そのストーキングに業を煮やした隆は税関を辞め横浜から十和田の東京の下宿先に一旦身を寄せる計画を企てる。十和田の証言によれば、横浜を出奔したのが大正十二(一九二三)年八月三十一日。十和田の下宿に着いたその翌日、疲れ果て眠りこけていた二人は床下から突き上げられた。

関東大震災。大正十二(一九二三)年九月一日十一時五十八分に発生したこの震災で一九〇万人が被災し、一〇万五〇〇〇人余が死亡または行方不明、建物全壊が一〇万九千余棟、その後の火災による全焼が二一万二〇〇〇余棟に及んだ。

彼らの下宿のある芝日吉坂周辺は地震後の火災を免れた。前日の横浜からの出奔こそが隆に命拾いになったとも考えられるかもしれない。震災は東京よりも横浜の方が深刻だった。現に隆が二科展に出品する予定であった数点の絵画は、預けていた荷物とももに横浜駅で焼失した。また隆の勤め先の税関が位置する横浜港に、田山花袋の友人が震災の瞬間居合わせた際の状況をこう語る。

もう汽船は出やうとして、見送りのものも皆な階梯を下りて、気の早いものは、ハンカチを出して、それを振らうとしてゐたところさ。そこにぐらぐらとやってきた來たんだからね。それも、君、ひどいんだ。とても立ってなんかゐられないんだ。いや、振返ると、あの待合所の煉瓦がガラガラと崩れてゐるじゃないか。あっちは東京よりはぐつどひどかつたさうだが、実際さうだろう。見る見るいろいろなものが崩潰して了つたからね。何でも埠頭を走つてゐる自動車も二三臺人を乗せたまゝ海に落ちてつは言ふからね。何しろ、皆慌てゝ了つて、何うすることもできないんだ……。その中、あちこちが火になつた。そこからも此處からも烟が颺つた。

——田山花袋『東京震災記』(3)

またその火災の後、横浜税関は避難民から襲撃を受けていた。

横浜は東京よりも被害がひどかった。一瞬のうちに全戸はほとんど全壊して、猛火に包まれた。何万人という避難民が横浜港の波止場近くの空地になだれこんだ。夕方になったが食う物がない。誰かが税関の倉庫の中には食料が一杯詰め込まれてあるといい出した。だが手を下す者はなく、空しく眺めていた。その時立憲労働党山口正憲という男が「税関を襲え!」と先に立ち、その女房と子分十数人がそのあとに続いた。それに勢いを得た避難民は、ときの声をあげて倉庫を襲い、戸を破って、ありたっけの食料をひきずり出して分配した。その立憲労働党というのは、いつも赤鉢巻で赤旗を振って街頭演説などをやっている左翼の真似ごとをする右翼の暴力団だということだ。あとの祟りを恐れた山口はその略奪を朝鮮人になすりつけ「朝鮮人が爆弾で倉庫を破壊して食料を強奪した」と、赤鉢巻、赤旗で、焼跡を宣伝して歩いた。この赤鉢巻、赤旗で社会主義者と混同されて、朝鮮人と社会主義者がいっしょになって、爆弾を投げて放火略奪をして歩くというデマが広がった。

——村山知義「演劇的自叙伝2」(4)

このデマは被災地に急速に広がりを見せていた。後に一九三〇年代諷刺詩団体「サンチョ・クラブ」を隆と結成する壺井繁治もこんな目に遭っている。

翌日わたしは牛込弁天町かの居出の下宿に避難した。彼は早稲田の法学部を卒業後も学生時代の下宿に陣取り、そこから海軍省に通っていた。その避難先でも朝鮮人が家々の井戸に毒物を投げ込みまわっているとか、社会主義者が暴動を起こそうとしているとかいう噂で持ちきりだった。つぎの日の昼ごろ居出と連れ立って矢来下から江戸川橋の方へ歩いていった。そして橋の手前に設けられた戒厳屯所を通り過ぎると、「こらっ!待て!」と呼び止められた。驚いて振り返ると、剣付鉄砲を肩に担った兵士が、 「貴様!朝鮮人だろう?」とわたしの方へ詰め寄ってきた。わたしはその時、長髪に水色のルパーシカ姿だった。それは戒厳勤務についている兵士の注意を特別に惹いたのだろう。その時それほど気にしていなかった自分の異様な姿にあらためて気がつき愕然とした。わたしは衛兵の威圧的な訊問にドギマギしながらも、自分は日本人であることを何度も強調し、これから先輩を訪ねるところだから、怪しいと思ったらそこまでついてきてくれといった。

——壺井繁治「激流の魚 壺井繁治自伝」(5)

隆が十和田がその震災直後をどう過ごしたのか。その詳細は不明だが、当然この流言は耳に入っていたにちがいない。九月四日、亀戸警察署に保護の名目で朝鮮人とともに拘留されていた南葛労働会川合義虎、純労働者組合長平沢計七ら十三名が、九月四日から五日にかけて習志野騎兵第十三連隊によって刺殺される事件が起きる(6)。九月十六日には大杉栄、伊藤野枝、大杉の六歳の甥橘宗一三名憲兵隊特高課に連行後、憲兵隊司令部内で絞殺された(7)。

この事件が露見し世間で騒がれ始めた頃、隆は東京社(現ハースト婦人画報社)児童雑誌「コドモノクニ」の編集を手伝うことになり、十和田の下宿を出る(8)。

脚注

  1. その一年後に大正十三(一九二四)年に篠崎初太郎訳マックス・ウエバア『立体派詩集』が大阪の異端社から出ている。
  2. 先に記述した夭折した八兄の達も帝劇の客席に座る彼を舞台上から見初めた高木徳子が楽屋に引っ張り込みそのままか彼女の一座にねじ込んでしまったという逸話もあるように野川家が極めて「美形」の一族であったことがわかる。 平野謙「晴天乱流 野川隆のこと」『文藝』 河出書房新社 1974 稲垣足穂「「GGPG」の思い出」『稲垣足穂全集 第11巻』筑摩書房 2001
  3. 田山花袋『東京震災記』大正十三(一九二四)年博文館(復刻 1991)
  4. 村山知義「演劇的自叙伝2」東邦出版社 1971 この引用箇所は村山が江口渙の震災報告を再掲載している。
  5. 壺井繁治「激流の魚 壺井繁治自伝」立風書房 1974
  6. 亀戸事件 – Wikipedia
  7. 甘粕事件 – Wikipedia
  8. 実際に携わったのかは不明であるが、この仕事を通して隆は村山知義と初対面している可能性が高い。村山知義は『演劇的自叙伝』において、明治三十四(1901)年生まれ同年である野川隆に関する記述が極端に少ない。『少年戦旗』編集方針に対する妻壽子の批判の相手として出てくるくらいである。明治期に医師の息子として生まれともに父を早くになくし、また大正から昭和という同時代の青春をともにアバンギャルドからボリシェビキへの放物線を明確に描き、村山『マヴォ』野川『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』お互いに作品を寄稿し、様々な同じ誌面で名前を並べ、また戦争末期にはともに満洲に居たという事実(かたや死にかたや生き残る)にもかかわらず、村山知義は野川隆には一貫して冷淡である。前衛藝術運動ピークにあたる大正十四(1925)年『劇場の三科』に関する記述で中ですら、玉村善之助を描いていながらその横にいたはずの野川隆を描いていない。 村山知義 – Wikipedia

『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』

『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第一年第一集1924年6月、第二年第一集(1925年1月)、第二年第三集(1925年3月)
『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第一年第一集1924年6月、第二年第一集(1925年1月)、第二年第三集(1925年3月)

翌大正十三(一九二四)年六月『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』を玉村善之助とともに創刊する。発行元はエポック社。雑誌『エポック』の方は震災の年の大正十二(一九二三)年三月の第六号マックス・ウエバア『立体派詩集』を最後に中断している。当時パトロンの玉村の財政が逼迫していたようだ。その年の春頃から前兆地震が関東で頻発して、関西出身の玉村は非常に不安を覚えていた。そこでその年の八月二十六日、玉村は深川から千駄ヶ谷穏田の家へ引き移った。

 恰好の家だと尾崎が知らせて呉れたのは、青山六丁目を神宮参道のほうへ、その中凹みを少しばかり先に行って右折したところにあった。崖下の背の低い二階建てで、べったりと尻持をついたやうな不格好な家だった。でもこゝへとりあえず下町から引移ってきたわたしは、ほんの五日あまりのところであの震災の火災をまぬがれたのだつた。

——玉村方久斗「随筆集世の中」昭和十四(一九三九)年

玉村も、また同居人の七兄・孟も運良く難を逃れたのである。東京市深川地区は震災直後の火災でほぼ全域が焼失し、死者・行方不明者の数は四〇〇〇人余りに上っている。同じく運良く横浜から逃れていた隆は、この頃この玉村の千駄ヶ谷穏田の家に転がり込んだようである。

隆と別れた十和田は兵役のため東京を離れていて一年ぶりに東京に戻った時に、偶然『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』の奇妙な名前の雑誌を手に取る。「野川隆」の名前が掲載されていて「詩のようなもの」を書いている。

これで見ると、あの野川は、青山神宮前の玉村邸に寄宿しているのかも知れないと思った。大垣の野川の兄の劇作家(筆者注:おそらく澂だろう)は昔東京時代に玉村氏とかなり深い交友があったことを聞いていたので、そう考えたのである。数日後電話してかれに会いに行くと、巨人の玉村画伯も出て来て、京都弁の早口で「ゲエ・ギム」の構想を語り、同人数名に名をならべて、きみもぜひ同人に加わらんかと誘われたが、具合がわるいので、才能も暇もないからと辞退して来た。お蝶さんというこれこそ真に夢二式の瑞々しい夫人も同座していた。

——十和田操「野川隆の青春」『作品 野川隆記念号』作文社 昭和四十九(一九七四)年

玉村が先の随筆の中で、震災前の深川の家に「岐阜産の若もの二人」が同居していて、震災直前に穏田の家への引っ越しを手伝ったことを伝えているが、この二人に隆は含まれていないようだ。十和田の証言が確かならば、隆は震災時は十和田と被災し、その後に玉村の穏田の家で寄宿をはじめていることになるからだ。深川の家には七兄・孟が同居していたことは間違いないので、孟がその一人と予想できるまでも、もう一人別の「岐阜産の若もの」が住んでいたことになる(1)。事実その頃の玉村の家には多くの若者たちが集まっていた。

 どうしたはづみでそうなったのか、畫筆をとつて業としてゐたわたしの周圍にそのころ畑ちがひの文學志望の若者が同居したり寄り集つてきてゐた。これらの若ものはきまつて長髪にラツパズボンといふいでたちであつたし、藝術家氣質の多い文藝道を口にしながら過激な社會問題に關心を持つものの如くであつたし、もう一つそのころの新興藝術運動などと、新興とか運動とかそれだけで過激思想の同義語に一とからげに當局からにらまらてゐたから、さうした呼稱をしてゐたわたしたちも注意人物視されてゐたのであらう。

——玉村方久斗「随筆集世の中」昭和十四(一九三九)年

もっとも「長髪にラツパズボンといふいでたち」の若者の一人として隆が居たには違いない(2)。一方で、七兄・孟の方は大正一三(一九二四)年秋頃には玉村邸を出ていた。

 一九二四のことであった。目黒駅に近い上大崎の、教会の隣りに味もそっけもない木造の洋館があった。私はその二階の二十畳ほどの一室にトランクと未だ封を切らないペパアミント一瓶をもって移っていった。その一階の薄暗い部屋にこの空室を教えてくれた野川孟が住んでいた。私がこの人物に会ったという偶然が、私の一生のコオスを非常に面白いものにしてしまったのである。このことを思うたびに、おかしくなり、一人の人間の運命のたわいもなさに思わず吹き出すのである。若し私が彼と会うことがなかったとしたら、当然に、私はどこかの法律事務所にはいるか、適当な新聞社の政治部の記者になるか、どちらかを選ぶつもりでいた。 しかし、すべては全くコペルニクス転回というのをやってしまったのである。野川孟は私の頭から六法全書的知識をすっかり抜き出して、そのかわりにバウムガルデン風の美学を煙草の煙といっしょに詰めて呉れたわけである。

——北園克衛「「G・G・P・G・」から「VOU」まで」昭和二十六(一九五一)年一月

上大崎の部屋で煙草の煙を吹かしながら「バウムガルデン風の美学」を語る孟が北園克衛こと橋本健吉を『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』に引っ張り込むのである。孟はその北園(橋本健吉)か編集に加わった『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』大正十四(一九二五)年一月に詩二編と評論一本を書き、翌月二月に「リンジヤ・ロックの生理水」なるSF風小説を最後に日本を発った(3)。

脚注

  1. 玉村の記憶違いとも考えられるが、以下参照。 玉村方久斗「随筆集世の中」高見沢木版社 1939
  2. 萬万朝に井荻の玉村邸の写真掲載されるが真ん中に立つ長髪の若者が野川隆と思われる。
  3. 孟は朝鮮でその大正十四(一九二五)年に北鮮日報の記者となるが、大正十二(一九二三)年に橋本健吉はこの紙面で「カライドスコープ」なる詩を発表しているようだ。北鮮日報側にそういう感度の受け口があったことが窺える。

「都會の街々を動く、機械で出來た人間的な動物人形には、Gの發音の震動數と波形が氣に入つた」

高見順が戦後にこんなことを書いている(1)

ホテルの部屋で、寝そべりながら、皆で雑談しているうちに、青柳が、ふと、自分が早稲田の学生時分、『散文精神の内的壊體である』をやっていたと言ったのである。 「君はダダイストだったのか」 と私は言った。『散文精神の内的壊體である』というこの奇妙な名前のダダ雑誌を、私は知っていた。私自身、その頃、ダダイストをもって任じていたからである。 「僕はあの頃『廻轉時代』というのをやっていた」 と私が言うと、 「ああ、『廻轉時代』——あった、あった」 と尾崎一雄が言った。 「ゲエ・ギム・ガムなんてのもあったな」 と青柳優が言った。 「そうそう、ゲエ・ギム・ガム・プルルル・ギンガム」 と私が言うと、 「みんな違っている、ゲエ・ギム・ギガム・プルルル・ギムゲム」 博覧強記の倉橋弥一が言った。これは今日の北園克衛、当時の橋本健吉がやっていた雑誌の名である。全回に「文黨」執筆者のひとりとして上げた野川隆はこの『ゲエ・ギム・ギガム・プルルル・ギムゲム』の同人である。ほかに、稲垣足穂、石野重三、田中啓介、平岩混児が同人であった。 「あの時分は、マヴォとか、ダムダムとか、ド・ド・ドだとか、ドンだとか、妙な名前の——これはみんな、ダダ系の雑誌だが、妙な名前の同人雑誌が多かったけど、同人雑誌というものも実に多かったな」 と青柳が言うと、倉橋弥一が、 「現在、何かを書いている連中で、あの時分の同人雑誌やってないのは、先ずないといっていい」

——高見順『昭和文学盛衰史』

高見順は続けて、梅原北明『文藝市場』大正十四(一九二五)年四月号「同人雑誌関係者一覧表」を取り上げ、当時の同人誌を数え上げている。全国に「雑誌名一六四種、関係者千百四十名」にも上った大正期同人誌文化の隆盛であった。『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』という「舌でも嚙みそうな風変わりな名前の詩の雑誌」(2)もその中の一誌である。もっとも当初は先の『エポック』休刊の中継ぎ的に創刊されたものであった。隆自身が『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』創刊号の編集後記でこう伝える。

 文藝美術誌「エポツク」は何れ最近に再刊し度い思つて居る——で、それまでの連絡をつけるために、「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」を出すことにした。「エポツク」では、しきりに海外の新藝術の紹介に努めたが、これでは、それをしないで、創作ばかり發表する。 〜中略〜 「エポック」が再刊されても、併し、この「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」は、このまゝ繼續して發行しようと思つて居る。此の名前に就いて直きに意味を聞きたがる人があるが、そんな必要はない。(少なくとも私の一個の解釋に依れば、)音樂的な感覺でわかつて呉れゝば可い。(蛇足を附け加へるならば、)都會の街々を動く、機械で出來た人間的な動物人形には、Gの發音の震動數と波形が氣に入つたのである。

ーー『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第一年第一集 大正十三(一九二四)年六月十三日

孟の手引きにより翌大正十四(1925)年一月から発行兼編集人に橋本健吉(北園克衛)が加わったことで、より「Gの發音の震動數と波形」を増幅させることになる。その号から月刊での発行になり隆も橋本も独特な詩風の作品を矢継ぎ早に発表する。さらに四月には神戸にエポック社の支社を置き、関西方面にも影響を与えはじめていた。

野川君は当時、東洋大学に籍を置いていて、私の神戸における旧友平岩多計雄も同大学生だったところから、日本画家玉村方久斗が金主で、同家に書生として野川が編集していた『GGPG』に関係することになったわけである。

——稲垣足穂『GGPG』の思い出」

隆が東洋大学にまだ籍があったのかどうかは不明であるが、関西出身の同級生経由で稲垣足穂が同年五月から同人参加する。この時期、足穂の他、当時『マヴォ』で盛んに暴れ廻っていた村山知義、三科参画していた九段画廊の画家・中原実(3)、戦後グラフィックデザイナー・宇留河泰呂(4)、モダニスト建築家・山越邦彦(5)、など詩人以外も多くの美術家・建築家が寄稿する大正期新興美術運動の一角を占める勢力になるのである。

脚注

  1. 高見順はこの「昭和文学盛衰史」の中で幾度か野川隆に触れていて、その鎮魂の念の深さに興味を持ち、筆者は今回の野川隆の追跡を始めた経緯がある。 「この北園克衛と『ゲエ・ギム・ギガム・プルルル・ギムゲム』をやっていた野川隆は藝術左翼から左翼藝術へと轉換して『ナップ』に参加、のちに満洲で捕らえられて獄死した。私はここで野川隆の靈に脱帽するとともに、生きている北園克衛の操守にも脱帽せざる得ないのである」 高見順『昭和文学盛衰史』文藝春秋新社 1958 高見順 – Wikipedia
  2. 壺井繁治「野川隆の思い出」『作品 野川隆記念号』作文社 1974壺井繁治 – Wikipedia
  3. 中原実 なかはら・みのる 一八九三〜一九九〇 大正七(一九一八)年ハーバード大学卒後、渡仏し、ランス陸軍の歯科医を務めながら美術を学び大正十二(一九二三)年帰国。二科展入選。アクション、単位三科を結成,画廊〈九段〉を開設するなど,大正期新興美術運動の中心的存在 中原実 – コトバンク
  4. 宇留河泰呂 うるがわ・やすろ 一九〇一〜一九八六 本名・宮崎辰親、パン・ウルガワ。金子光晴とも交流があり、上海芸術大学教壇にたち、パリを中心にグラフィック・デザイナーとして活動した後帰国。資生堂で帰国記念展を開催。昭和二十八(1953)年応募ポスターにより第1回日宣伝美賞を受賞
  5. 山越邦彦 やまこし・くにひこ 一九〇〇〜一九八〇 日本建築界の先鋭的モダニストとして活躍。玉村善之助の杉並区井荻の新居を設計『出た三科式の家一軒<妖怪の家>かと噂に上る」と新聞「萬朝報」大正十四(一九二五)年年九月二五日記事掲載。 山越邦彦 – Wikipedia

「インテリギブレ・フライトハイト」の野郎ども

橋本健吉(北園克衞)は後年こう振り返る。


私たちは「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」」という文芸雑誌を発行した。すでに私たち未来派、表現派、立体派については精通していたし、構成派やダダ、についても知っていた。高橋新吉らのダダあどうも汚くて面白くなかった。村山知義をリイダアとする意識的構成主義はその頃のジャーナリズムをよろこばせた。三科の造形運動は、ダダと構成主義の狂暴な突風となって強烈なスキャンダルを矢つぎばやに生みだした。かれらは、地震のために到るところに捨てられた鉄骨や廃品で、芸術のスキャンダルをつくったが、そこは政治、経済、社会に対する鋭い抵抗が諷刺が露骨にあらわれていた。この三科の一群のなかからMAVOという雑誌が創刊された。しかしその詩作品はまだ文学運動以前のものといってよかった。私たちは、MAVOとは全くちがった角度で詩を考えはじめていた。何よりも先ずその態度が知的で自由であることだ。私たちはそれをロシア語やフランス語やイギリス語でなく、ドイツ語でインテリギブレ・フライトハイトと呼んでいた。

北園克衛「昭和史の前衛運動」昭和三十二(一九五七)年三月

また同人の稲垣足穂も

「野川(孟・隆)兄弟は四谷の電車通うらの鍵手の入った所にある真四角な二階館に住んでいるとのことでした。空地にキャベツを作っていて、キャベツばかり食べているとのこと。この四角い家の話によって、私は一千一秒の中にある「自分のよく似た人」を着想しました。私は辻や高橋に代表される泥くさいダダを好みません。チュリヒ的なダダも日本に在ったということで「G・G・P・G」はもっと世間に知ってもらいたいと思っています」

—「稲垣足穂からの手紙」中野嘉一『前衛運動史の研究』沖積舎 2003

辻潤や高橋新吉のやもすれば禅問答めいてくる「日本的ダダ」に対して、足穂の言う「チューリッヒ・ダダ」、橋本の言う「インテリギブレ・フライトハイト」=知的な自由を目指した『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』一派は、都会的に洗練された知性派としてのエコールを形成していく。

未知の人から原稿が大分集まつた。ひどく愉快だ。 ただG・G・P・Gを誤つて解釈してゐる人が大部分であるのは残念である。それから模倣が多い。現在のG・G・P・Gの形式はまだまだほんの幾何學的一點に過ぎない。どうか、本家本元をひつくり返すようなギムゲミズムの作品が現はれて貰いたい。 誤られ易い、「藝術の普遍的必要性」と「作家の個性」とか云つた概念なぞ振り捨てて來給へ。だが、兎に角、オリジナルであって——、もがいてもどうにもならない。あの見苦しい文壇を驚かしてもらひたいものである。 私たちに氣にいられようとして作つたものも困るではないか。

ーー『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第六集 大正十四(1925)年六月一日

隆の言う「ギムゲミズム」においてどんな詩作が試みられていたか。その際だった例として「バアド・マンa氏の曲乘飛行」を上げよう。

「バアド・マンa氏の曲乘飛行」大正十四(一九二五)年六月
「バアド・マンa氏の曲乘飛行」大正十四(一九二五)年六月

驚くなかれ。この「数式でもない数式」が二十代野川隆の「詩」なのである。現代数学や理論物理学の知見をふんだんに取り込んだ実験詩——日本だけでなく世界文学史上においても極めて特異な「SFポエム」(北園克衛)が前衛期野川隆の作風であった。

 私のロバチェフスキー空間も実は野川によって教えられたのである。 ソヴィエトのルーニク3号が初めてもたらした月の裏面の写真にソヴィエツキー山脈の左側に「ロバチェフスキー」という地名があたえられている。でも、これに先立つ約四十年前、カザン大学の総長であり、非ユークリッド幾何學の大立者でもある人の名を、日本文学の中に取り入れたのは野川隆君であることを諸君に銘記してもらいたい。

——稲垣足穂『「GGPG」の思い出』(1)

大正十四(1925)年になるとこの珍妙な詩を書く「GGPGの野川隆」として名が知れ渡り、『マヴォ』(詩「無敵艦隊」大正十四(一九二五)年八月)『世界詩人』(詩「甲殻類建築」大正十四(一九二五)年八月)『文黨』(詩「海賊または食蟲植物」大正十五(一九二六)年一月)など、『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』以外の詩誌・文芸誌に前衛詩や翻訳詩を様々に発表していく。(2)

その頃の野川隆を橋本健吉(北園克衛)がこう綴る。

 ネオ・シュプリマチスト野川隆は玉村善之助の家に厄介にならなければならん程、窮迫のドン底に在るが、毎日、外国行きの旅費や、飛行機學校の學費の計算ばかりして居る。ゴオルデン・バッドを吸ひながら、ルート・マイナス・1劇塲臺本を執筆中。

——『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第四號 大正十四(一九二五)年四月

時代の上で「尖った」感性を抱えた若き詩人は、この頃は玉村善之助宅エポック社でポスターやビラの図案製作などして日々の小遣いを稼ぎながら詩や評論を紡いでいた(2)。

脚注

  1. 稲垣足穂「「GGPG」の思い出」『稲垣足穂全集 第11巻』筑摩書房 2001
  2. この頃、井上康文「華麗な十字街」(大正十五(一九二六)年六月)の図案なども手がけている。

絶頂の『劇場の三科』

大正十三(一九二四)年木下秀一郎(1)が起案し当時の新興美術勢力各派、旧未来派美術協会、旧アクション、旧第一作家同盟、マヴォ、が大同団結を企て「三科」(2)が結成される。旧第一作家同盟の中心メンバーたる(左派離脱後も『エポック』に「D・S・D意匠部」の広告が出していたが、自然解消されたようだ)玉村善之助はその「三科」に合流し、これが「劇場の三科」へと結実する。

この「劇場の三科」とは言うなれば、一九一六年トリスタン・ツァラらがチューリッヒで起こした「ダダの夕べ」模した大正期日本版の前衛舞台であり、大正期新興美術運動の一つの頂点である。「三科」自体は中心的な人物が旗を振って進行したものではなく、震災復興で沸く街を暴れ回っていた美術家・詩人たちが自然発生的に「劇場にまではみ出して行った」(3)。翌大正十四(一九二五)年五月三〇日六時三〇分に築地小劇場でその舞台がついに開演される。

実際この「劇場の三科」とはどのようなものであったか。高見順はこう記している。

『劇場の三科』というのを築地小劇場で行って、表現派の芝居などよりもっと猛烈な劇の上演やダダの詩の朗読の間に、突然オートバイを舞台の上に走らせたり、鉄板を叩いたりして、人々の度胆を抜いた。こうして劇場革命を行うという訳である。

—高見順『昭和文学盛衰史』

ダダ的挑発を繰り返し観衆の「度肝を抜いた」数々の演目で玉村善之助『トロンボン・ブーツ・パーク・タンテラ』『莫児比涅海賊貴族古加乙温』が大トリを飾り、その中で「メカフォーンを持った演劇機構者」として「野川隆」もこの舞台に立っている。隆は「劇場の三科」をその後こう評している。

  「劇場の三科」總評 最初の試みとしては成功である。 だが、槪して、誰も、劇作家としては畫家であり過ぎ、舞台装置者、劇場藝術家として畫家でなさ過ぎた。それが豫期しなかつた、無意識的に現はれた現象であつたが故に、失敗に數へられなければならない。 どの劇もどの劇もみな一樣に悒鬱で、舞臺が暗〔ママ〕い。恰度、ロマノフ王朝末期のロシアのシムボリズムのそれみたいだ。「亡び行くインテリゲンチャの悲哀」と云う奴だ。 まどろつかしくて、落ちついてゐると人は云ふが實際はひどく性急な俺に適しないものがあつた。 嗅覚的要素の導入も失敗であつた、と云へる。 私自身の手傳つた劇に就いては、云ふのを差し控える。

『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第八號 大正十四(一九二五)年八月

また既成演劇界の「劇場の三科」黙殺に対しては「有名な文士や定評ある劇作家たちは殆ど見に來なかつた。彼等が如何に無氣力で怠惰で不勉强であるか。そんなことでは、君たちはつひに「文學」から一歩も出られないだらう」と罵っている。

またこの八月号で、エポック社が千駄ヶ谷穏田から西荻窪井荻上井草に移転通知を出している。この井荻もやはり玉村善之助の新居で『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』同人で建築家の山越邦彦に依頼して設計されたものだ。おりしも「劇場の三科」「三科会員作品展覧會」を経ている中での七月の建設だったために「出た三科式の家一軒<妖怪の家>かと噂に上る」と大正十四(一九二五)年九月二十五日の「萬朝報」で報じられた。

井荻の玉村善之助邸1925年9月「萬朝報」
井荻の玉村善之助邸1925年9月「萬朝報」

また昭和三(一九二八)年『主婦の友』の住宅特集でも写真入りで掲載され「内外ともに大部分が城壁の木筋、効果と平面割は時分で、立面はもとより専門家Y氏を煩はした處女作、そこで失敗を云ふならこの平面割りに、度地慣れないうらみをのこしてゐる」と玉村自身が語っている。

その後「三科」運動が空中分解するのが築地小劇場から半年も経たない大正十四(一九二五)年九月。「三科」の初の公募展である第二回展覧会の前にアクション神原泰(4)の除名から始まり、会期中にマヴォ陣営から解散声明が出された。

それを報じた九月二十三日の『萬朝報』では「三科騒動の真相報告と演劇の会」開催予告も掲載される。この中のプログラムに「村山知義氏等の断末魔まで亂舞を演じようとの趣向」の他に「野川隆の講演」も混じっていた。しかし上野警察署から中止を命じたために結局開催されずに終わる(5)。やはり高見順がその内紛中の三科展を見ている。

 私は、その大もめの日に、会場の自治会館に偶然行ったが——いや、偶然ではなかったかもしれぬ。三科に出品した(そして、たしか落選した)ダダイストの友人(と言っても私と同じ一高生)に誘われて、行ったのだが、その友人から何か騒動があるらしいと聞いて、面白半分に行ったように思われる。その辺は忘れたが、忘れられないのは、巨漢の玉村善之助(のちの日本画家玉村方久斗)がハンマー投げの鎖を振り回して大暴れに暴れていた姿だ。「末期的智識階級」のひとりだった私には、それが何か痛快極まるものに感じられた。

——高見順『昭和文学盛衰史』

脚注

  1. 木下秀一郎 – コトバンク
  2. 三科 | 現代美術用語辞典ver.2.0 – Artscape
  3. 「展覧會の三科と劇場の三科」『みづゑ』二四五號 大正十四年(1925)七月号
  4. 神原泰 – Wikipedia
  5. 五十殿利治『大正期新興美術運動の研究』1997 スカイドア 本著は「劇場の三科」に関する記述だけでなく大正期新興美術運動の中での野川隆に関する貴重な情報を得ることができた。

祭りの後の『劇場の三科』

この「三科」が解散された後に、継続する形で中原実・玉村善之助らを中心として大正一五(一九二六)年五月に「単位三科」が企画された。昭和二(一九二七)年六月には「単位三科」による再び「劇場の三科」も上演されることになる。

その中で野川隆は再び登壇し、自演舞踏『果敢なる運動 1鉄衣を着た踊り 2工場の踊り』披露した他、群衆劇『千万人のツアラトウストラ 廿五景』発表した。東京展を終了すると大阪に巡回し、この野川隆「千万人のツアラトウストラ」(1)は開局されたばかりの大阪JOBKにおいてラジオドラマとして放送された。

玉村 善之助「劇場の三科」ポスター1927(昭和2)年
玉村 善之助「劇場の三科」ポスター1927(昭和2)年

しかし単位三科における「劇場の三科」は確かに「祭りの後」の空気であった。大正前衛詩・新興美術運動は一回目の「劇場の三科」の大正十四(一九二五)年が沸騰のピークであり、その年はおりしも普通選挙法にのセットで治安維持法が公布された年である。欧州ではイタリアでムッソリーニが独裁宣言し、ドイツでヒトラーが『我が闘争』第1巻を発表する。ソ連ではトロツキーが失脚し第十四回共産党大会においてスターリンの「一国社会主議論」が採択された(1)。そして翌、大正十五(一九二六)年十二月二十五日大正天皇が崩御。隆と同じ明治三十四(一九〇一)年生まれで隆の誕生日から六日後に生まれた摂政宮裕仁が即位。元号は「昭和」と改元された。

この北園克衛と『ゲエ・ギム・ギガム・プルルル・ギムゲム』をやっていた野川隆は藝術左翼から左翼藝術へと轉換

——高見順「昭和文学盛衰史」

そのたった六日で終わる昭和元年の翌昭和二(一九二七)年一月、大正が継続することを前提として「大正十六(一九二七)年一月一日発行」と記載された『文藝解放』というタブロイド紙が出る。

『文藝解放』1927年1月
『文藝解放』1927年1月

その同人として旧『赤と黒』壺井繁治・小野十三郎・萩原恭次郎アナキストメンバーらともに名を連ねた隆は、全匿名記事の中で唯一の記名「野川隆」で詩を一篇を発表している。

  嗅覚

五群 結合 排列 合同 平行 連續 破けた靴には釘を打ち 破けた胸には彈をぶちこむ へつへ 風がびゆうと吹いてるなかを 移動して行くのは細胞の集合體ぢや 犬ではないか 犬ではあるが うまさうな哺乳類ではないか 足の裏の豆ツつぶで地球にさはり 眼は空間を吸ひ込む貝殻のかけら 黑いきれのひらひらの下で 科學とは それは何か——と 犬の鼻にでも聞いてみろ

『文藝解放』第一巻第一號 昭和二(1927)年一月一日

既にこの段階で前衛期の難解で理智的な詩風を棄てている。その数ヶ月後の三月には明確な訣別宣言とも呼べる「生命を賭して生命する」を『太平洋詩人』に発表した。

 平明でなければならぬ。 單純でなければならぬ。 果敢でなければならぬ。 此の事は勿論餘りに生理的なことである。 だが、生命の事實が生理的であることを要求するのである。 これを否定する者は、愚劣きはまる煩悶と懐疑の遊戯にふけろ。 死んでしまへ。 〜中略〜 僕は過去の作品を全部排出してしまひたい。出版することに依つて區切りをつけたいと思つて居る。勿論、最初から「藝術欲望の性質に對する研究的文献」であつたのだが、がそれが享樂靑年どもに感應してしまつた——と云ふことが不愉快きはまることである。 橋よ燒けろ。

「生命を賭して生命する」『太平洋詩人』第二巻第三號 昭和二(一九二七)年三月

そして昭和二(一九二七)年六月『銅鑼』に「蚤の卵に就いて」という短い評論が掲載される。

 文藝はつひに文藝である、從つて、如何なる思想の支配も受けない。——かう彼等は云ひたいのである。試みに此の言葉をそのまま受けついでみよう。『如何なる思想の支配も受けない藝術』——これは無政府的藝術であると云へる。『それなら何も、無政府主義藝術と云はなくてもいいだらう。』と彼等は得意になつて輕卒に云ふ。僕たちは答へる。『處が大いに必要がある。君たちはブルヂユア根性と奴れい根性の支配をうけた藝術しか持ち合はさないからだ。』 だいたい、藝術と思想とが別箇に存在あるかの如く考へることが見當違ひなのであつた。 『狸はつひに狸である。』 『ビール瓶はつひにビール瓶である。』 『蚤の卵はつひに蚤の卵である。』 そして、蚤の卵は蚤から生まれなかつた、とでも云ふのか。そして、また、つひには蚤にはならぬ、とでも云ふのか。 〜中略〜 僕たちが現在如何に努力しようとも、搾取と支配の影響なしに制作することは絕對に出來ぬ。だから、今日云ふ所の純粹藝術は盡くブルヂユア藝術でしかないのは當然である。實に恐ろしく不純藝術であつたのだ。ブルヂユアの宣傳につとめて居るのだ。そして云ふ。『僕は僕だ。』この位ひ愚劣な事はない。これは個性と習慣とを混同した低腦なタイプに屬する蚤の卵である。蚤の卵をひねりつぶせ。

——『銅鑼』第十一號 昭和二(一九二七)年六月

この文章の同月、隆は先述した「単位三科」の二回目の「劇場の三科」に加わったわけであるが、玉村善之助、中原実らの昭和初期のシュールレアリスムへの変容していく「単位三科」のもつ知的で洗練された前衛美術の空気の中で、隆は何を深く思い、考えていたのかは定かではない。ここから長い沈黙期に入る。そして翌大正三(一九二八)年、寄宿先である玉村善之助家の妻「お蝶」と井荻の家から駆け落ちをするのである。

(第一部Gの震動・完)

脚注

  1. 五十殿利治前著で本劇は『時間表と群衆の力学について』と改題の可能性があることを伝えている。
  2. 大正十四(一九二五)年は、大日本雄辯會講談社(現・講談社)が楽天的立身出世主義を謳う「面白くてためになる」大衆娯楽雑誌『キング』創刊した年でもある。翌大正十五(一九二六)年十二月 改造社が『現代日本文学全集』を刊行し、昭和の幕開けとともに円本時代が到来する。

“【野川隆評伝】第三章 疾走期 震災と「Gの發音の震動數と波形」たる『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』、橋本健吉、稲垣足穂、暴れる玉村善之助” への1件の返信

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