改訂版野川隆集成1

改訂變電叢書『野川隆集成1』+増補【野川隆評伝:前期 Gの震動—1879〜(1901〜1927)】 第0章 DNA期 曾祖父・野川豊寿 叔父・野川湖東・父・野川二郎、兄・野川達

Spread the love

唐突ですが、再開します。變電社です。持田です。なんと最終更新から7年近く月日が流れてしまった。我ながら驚愕しています。平成は失われたまま令和になっている中で、いろいろあって私は現在、長野県上田に住んでいます。青々と萌え出る新緑の山国に日々感動を覚えています。

ところで、このスリープ期間アウトプットは端的にサボっていたのは事実ではあれ、野川隆調査は個別に進捗していました。といったわけでそろそろ開封いたします!

実は、昨年2022年に野川隆の長兄弘氏のご子孫の方々(別々のルートで2名の親族の方)から貴重な情報をいただきました。まず心からの感謝の意を表します。野川隆の血族の方からご連絡いただけるとは...。サイトを公開維持していた甲斐がございました。本当に再起動のいい機会をいただけたとも思っています。ありがとうございました。

こちらの頂いた情報を契機に私の方でさらなる調査した結果、詳細まで判明した部分があり、前期評伝から継続する前に野川一族に関する細かい部分で改訂したい。ただ先にいくつか増補メモとして「第0章 DNA期」を以下を公開します。

改訂變電叢書『野川隆集成 1』

まず、一旦前期著作集を改訂します。

「著作集」の改訂なのですが、今回から「集成」にしました。

理由はどうもKindleで改訂版更新しようとすると、誤字脱字修正箇所が多いため改めてリパッケージしたパブリッシングがいいだろうと判断しました(前回購入いただいた皆様すいません!)。今集成では前回漏れた作品を収録しましたが、やはり野川創作「SFポエム」たる所以の妙な記号や数式、また縦書きテキストの中に横書き、逆さと、これは版ミスなのか?表現なのか?さえ判断つかないようなもの含むため今回公開分はあくまでβ版無料です。ストア展開はもう少々お待ちください。

では一旦評伝の増補公開です。

「明治」の20th Century Boyz(増補改訂)

野川一族のルーツ

野川隆は明治34年4月23日に生まれる。明治34年すなわち1901年。つまり「20世紀の幕明け」の年である。この年「迪宮裕仁親王」後の昭和天皇(※1)もその6日後、4月29日に生まれる。皇太子御生誕の号外が北海道から台湾まで津々浦々に舞い、隆の誕生から一週間もしないうちに日本は祝賀ムード一色に染まった。タイトルを20th Century Boyz(20世紀少年たち)としたのは、昭和天皇と同世代という部分を強調したかったがためである(※2)。

『少年世界』1901年6月
『少年世界』1901年6月「皇孫御降臨」祝賀記事
国立国会図書館デジタルコレクション:https://dl.ndl.go.jp/pid/1800833/1/91

父は野川二郎(1852−1914)。その時第一高等学校医学部教授であり、数えで五十である。奇しくも父二郎も明治天皇と同年1852年生まれであり、そして明治帝崩御1912年から僅か2年後に没した(※3)。母は東京府麻布出身の、かつて宮中女官であった芳子(よし:1865−1937)。その二人の九番目の男児にあたる。二郎が教鞭を持つ第一高等学校医学部はその後千葉医大専門学校、現在の千葉大学医学部であり、その医学部校舎と目と鼻の先の「千葉縣千葉町千葉六百二八番地」(現千葉市本町一丁目)が隆の出生地となる(※4)。

野川隆・父二郎のルーツは現在の岐阜県である美濃国大野郡数屋村(現本巣郡)、さらに辿れば二郎の祖父である野川豊寿(信右衛門)が尾張藩世臣の藩医であった。尾張藩は名古屋城を居城として濃尾平野の中央に位置し、美濃、三河及び信濃の各一部を治めた徳川御三家中の筆頭格である。江戸後期の寛成10(1798)年頃に豊寿は藩を至仕(引退)して数屋村に転居した。ここから美濃岐阜の地における野川一族の歴史が始まる(※5)。

数屋村まで名古屋城から距離にして43キロ強。朝城を出れば夕には着く距離ではあるものの、なぜ豊寿が「農村に身を隠すようにして移り住んだかは不明」(高橋:1999)である。そのまま豊寿は数屋村を終生の地とし、医術で地域民を救うかたわら、遠州流華道の初代宗匠として「松班斉一和」とも号し、地域の文化発展に寄与した(※6)。

野川一族は当地の医家として野川痴堂(本名:秀平)が続いた。この痴堂(秀平)が二郎の父(隆の祖父)にあたる。痴堂は敷地内に野川私塾を開設し漢籍・漢詩・南画などを教えた。さらに幕末期に三代目野川湘東(本名:杏平 1839−1917)が継ぐ。湘東(杏平)は二郎の兄(隆の叔父)にあたるが、湘東(杏平)(※7)は野川一族の中でもさらに特異な位置を占める。

野川湘東
野川隆の叔父野川湘東(杏平)

12歳で加納範儒に漢学を学び、大垣藩医江馬活堂(1806-91)に医術を学び、長崎に渡りオランダ人軍医アントニウス・ボードウィン(1820−85)(※8)から西洋医術(蘭学)も体得した後、帰郷し家業を継いだが、明治期になり西洋医学を広く学べるようになると再び出奔し、後に東京帝国大学初代医学部長・医学部付属病院初代病院長ともなる桐原玄海こと花岡真節(1839−84)(※9)、また順天堂大学の礎を築いた佐倉順天堂に佐藤泰然(1804-72)(※10)に眼科医療を学び帰郷。数屋村に眼科として野川医院を開設した。

また専門医学のみならず文化教養面でも、野川一族の倣いで、漢籍・漢詩・南画・俳句・茶道に通じ(※11)、華道では豊寿と同じく遠州流第七世の宗匠でもあり「松琴斎一双」とも号した。湘東は幕末から明治にかけて東西問わず学問を貪欲に吸収した人物であるが、門下に日本画家高木春堂、洋画家杉山元輝、彫刻家矢野判三など多くの人材を輩出した。中でも、幼少期に野川私塾にて湘東より薫陶を受けたのが、後の世界的数学者となる高木貞治(1875−1960)である(※12)。

そもそもで高木貞治の一族と野川一族は古くから親密な関係にあった。野川豊寿が尾張藩を抜けて数屋村に転居した際に、高木貞治の曾祖父初代高木勘吉(※13)が便宜を図り数屋村の家屋敷を提供したという。その後も敷地を半分に区切って野川家と高木家は隣家として共に生活を営んでいた。貞治は当然の流れとして痴堂の野川私塾に通った。

そのため、野川隆も同郷の親族同等のつきあいのある高木貞治の名前はもちろん周囲からよく聞いていたろう。奇しくも隆が誕生した1901年ドイツ留学から帰国した高木貞治に幼少期会っていた可能性も高い。後に足穗に「私のロバチェフスキー空間も実は野川によって教えられた」と言わしめた難解な数式を変幻自在に駆使する「數理派」(※14)詩人に至ったのも、高木貞治の少なからぬ影響があると観てもいいだろう。

脚注

  • 2022年に野川隆の長兄にあたる弘氏のご子孫の方々と繋がる幸運を得て、数々の貴重な証言を直接頂いている。
  1. 後の昭和天皇は5月5日「裕仁」と命名 称号は「迪宮」となる。
  2. これについては別記事(note)で書いたこともあるが生煮えで出してしまったので現在非公開にしているが、少し熟考が温まってきたのでこちらも改めて更新して公開する。
  3. 明治天皇 嘉永5(1852)年9月22日(11月3日) – 明治45(1912)年7月30日 -Wikipedia
    なお、昭和天皇は大正天皇の長男であり明治天皇は父ではなく祖父にあたる。
  4. 西田勝『近代日本の戦争と文学』(法政大学出版局2007)p209参照。他でもこの著作から初期野川一族に関する貴重な情報を得た。
  5. 高橋彰太郎『社会科学習における人物指導の研究(中)高木貞治の幼少期に影響を与えた人々』(『聖徳学園岐阜教育大学紀要』1999.9)
    https://dl.ndl.go.jp/pid/1387580/1/4
    この紀要論文にかなり詳しく野川一族の数屋村転居に関する記述と湘東と高木貞治との関係性が取り上げられている。
  6. 『本巣町史 通史編』(本巣町 1975)
    https://dl.ndl.go.jp/pid/9569363/1/538
    注記に『華道、正風遠州流、遠州流花渕源集』からの引用として「松班斉一和(初代) 本名野川豊寿、濃州大野郡数屋村 寛政十年本松斉一得宗匠の免許を得て医業のかたわら当流の発展に寄輿せられた」とある。
  7. 本巣市の先人・偉人として市役所サイトでもPDFチラシが配付されている。画像はこのPDFから複写した。
    野川湖東紹介PDF(本巣市役所)
  8. アントニウス・ボードウィン(Anthonius Franciscus Bauduin, 1820−85) – Wikipedia
  9. 桐原玄海(桐原真節・花岡真節)は、元将軍侍医であり、シーボルト(P.F. von Siebold, 1796-1866)、ボンベ(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort, 1829-1908)から西洋医術を学んでいる。
    参考:https://www.arakawa-yasuaki.com/information/hanaoka-shinsetsu.html
  10. 佐藤泰然-Wikipedia
  11. 横山文淵『福寿美談 : 精神修養』麒麟学院(1915)に湘東の漢詩が冒頭に掲載されている。
    https://dl.ndl.go.jp/pid/910724/1/8
  12. 高木貞治-Wikipedia
  13. 貞治は三代目勘吉の養子のため実の曾祖父ではない点は断りを入れておく。
  14. このあたりの詩風については評伝「【野川隆評伝】第三章 疾走期 震災と「Gの發音の震動數と波形」たる『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』、橋本健吉、稲垣足穂、暴れる玉村善之助」参照

父・二郎と隆の幼年期

父・二郎の話に戻す。二郎は東京大学医学部第3回生で、その同窓に森林太郎(鷗外)がいた。この年医学部進学者は僅か71名。全国から集結した明治「近代」のエリート中のエリートである。二郎はその後細菌学の医学博士号を得て、福島県立医学校校長兼県立病院院長として赴任する。

医事新聞 (医事新聞社1882年2月)
医事新聞 (医事新聞社1882年2月)に森林太郎が陸軍に野川二郎が福島病院へと赴任先が記載されている。
国立国会図書館デジタルコレクション:https://dl.ndl.go.jp/pid/1533181/1/9

和歌山県立医学高校長兼県立病院院長、宮城県立石巻病院院長を経てから、明治27(1894)年第一高等学校医学部(のちの千葉医学専門学校。戦後千葉大学医学部前身)に着任することになる(※1)。
官報 1895年02月01日
官報 明治24(1895)年2月1日に第一高等学校教授として高等官七等の叙任されている。
国立国会図書館デジタルコレクション:https://dl.ndl.go.jp/pid/2946746/1/2

二郎は第一高等学校医学部で解剖学や顕微鏡使用法での教鞭を持ち、その千葉時代に隆を含む4人の子をもうけているが、明治35(1902)年12月その職を辞した。依願退職である(※2)。

官報1902年2月
官報1902(明治35)年12月25日に「依願免本官」記載がある。
国立国会図書館デジタルコレクション:https://dl.ndl.go.jp/pid/2949148/1/5

二郎の祖父である豊寿が名門徳川御三家尾張藩の藩医という「官」を至仕し数屋村へ隠遁した姿を彷彿とさせるものがあり、また兄・杏平(湘東)も幕末明治の日本を東奔西走した後やはり故郷の地に戻ったように、二郎も郷里数屋村近くの大垣市俵町に大垣病院を開業する。日本は日清戦争を経て日露対決を目の前にして日英同盟を締結した年である。隆はまだ二歳にも満たない。

隆はその大垣という地で中学(旧制)卒業するまで過ごすことになる。この地の大垣招魂社(現・濃飛護國神社)に日露戦(1904−05)で戦病死した岐阜県出身者2552名が合祀されたのが明治37(1904)年。またそれを機に社殿拡張改築の機運が高まり、岐阜県下在郷軍人会の手で集められた寄付金によって新招魂社が竣工されたのが明治42(1909)年(※3)。隆が幼年期にこの社の竣工式を観にいったのかは不明である。が、式典で賑わう街頭を子供の眼で眺めたにちがいない。また大垣病院では復員した傷痍軍人ら姿を多数眼にしただろう。なおその日露戦争に二郎同窓の鷗外、また長兄弘(ひろむ)は京都大学医学部卒業後、陸軍軍医となり、やはり従軍している。

明治43(1910)年韓国併合。翌明治44(1911)年1月幸徳事件(大逆事件)。証拠不十分のまま結審され幸徳秋水を含む多数の社会主義者・無政府主義者が処刑される。その年の暮に大垣病院が不審火で全焼する事件が起きる(※4)。野川隆10歳。翌45(1912)年7月29日に明治天皇崩御し「明治」という大帝の時代が終わる。「明治」とともに併走した「エリート」たる二郎は「明治」を追うようにして大正3(1914)年1月に死去。享年61歳。

同年六月に大垣医院の再建のため長兄・弘は陸軍を離れ大垣市に戻る。が、蓋を開けてみれば創立以来重ね続けてきた莫大な借金があることが判明し病院の再建を断念する。弘はその返済と野川家の家計のために日本統治化からまだ間もない朝鮮総督府の「鮮人救療医」として中華民国吉林省延吉県竜井村に大正5(1916)年中国大陸に渡る。その後大正7年(1918年)4月間島慈恵病院院長に任命され、大正11(1922)年野川隆が大学進学のため上京する際に、母よしをその地まで送っている。その後も朝鮮京畿道立開城医院長などを歴任し定年後も昭和12(1937)年に弘は現地で「野川医院」を開設した。

脚注

  1. この第一高等学校医学部教授時代に使用したとおぼしき教科書が国立国会図書館デジタルコレクションにある。奥付の発行人に「岐阜県平民 野川二郎」の記載と「千葉縣千葉町千葉六百二八番地」の野川隆の本籍住所の記載がある。 野川二郎『局処解剖学』(積成社 明治30(1897)年9月)国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/833554/2
  2. 官報1902年12月25日 国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2949148/5 なお先掲の西田勝『近代日本の戦争と文学』(法政大学出版局2007)では「8ヶ月後」とあるが官報の記載の方を採用した。
  3. その後昭和14(1939)年に「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」(昭和14年3月15日内務省令第12號)による同年4月1日の官報告示を以って内務省指定の「濃飛護國神社」と改称される。濃飛護國神社 – Wikipedia
  4. 十和田操「野川隆の青春」『作品 野川隆記念号』(作文社 1974)p7内で十和田は「次兄と三兄と四兄は、いずれも医学博士で、長兄の博士とともに大垣病院を手伝っていたが、先年病院の大火災の折、焼死したりしている」と、長兄弘も手伝っていたという記載があるが、軍医である弘は別の土地にいて、大垣病院を再建するために軍務を辞して戻ってきたという西田勝『近代日本の戦争と文学』の論を採用する。なお十和田は「次兄と三兄と四兄は、いずれも医学博士」とし、西田は「兄のうち三人が医師」であったとしているが、野川延吉(長兄弘の子息)の著書で「相次ぐ二男・三男の病死」と記載あり。
    野川延吉『一医師の戦中戦後記―真実の自由と平和を求めて』(創英社/三省堂書店 2005)
    後述もするが2023年2月に弘氏のご子孫より一族が眠る墓石の写真提供いただき、次兄彬は大垣病院設立以前の1890没年と判明し、年代的にも医師として病院を手伝うことは不可能と判断する。また三兄周が1906年没、四兄維は1917年没と判明しており、父二郎が病院開設1903年以後、三兄周・四兄維の二人の兄が手伝っていた可能性は残り、十和田の伝聞は記憶違いで西田のさす「兄三名医師」は「弘・宗・維」と現状判断する。

兄たち

野川隆の他の兄たちに触れる。10歳で父を亡くした隆にとって、兄たちは生活、経済面の援助だけでなく、精神面でも多大な影響を与えた。先も記載したように野川家では、9人の兄弟のうち先に記したように4兄まで医師であるが、さらにその下に4人の兄がいた。2016年の調査の際は不明な部分が残っていた野川一族の系譜が2022年に長兄野川弘氏の子孫の方々から貴重な情報を頂いたことでかなりの部分は判明した。以下が野川一族の系図である。

野川一族系図

  • 曾祖父:野川豊寿(信右衛門)17??-18?? 寛政10(1798)年に尾張藩医を至仕し美濃大野郡数屋村に転居。
  • 祖父:秀平(痴堂)18??-18?? 医業を継ぎ数屋村で漢籍・漢詩・南画を教える野川私塾を開設
  • 祖母:ふさ 18??-18??
  • 叔父:杏平(湘東)1839−1917 東西医術の体得みならず、漢籍・漢詩・南画・俳句・茶道に通じた。遠州流第七世の宗匠「松琴斎一双」。郷土数屋村に眼科医として野川医院を開設した。高木貞治にも大きな影響を与える。
  • 父:二郎 1852−1914 医師。細菌学医学博士。漢詩や絵画も描き「滴水」と号す。東大医学部卒。森林太郎鷗外同窓(第三回生)。
  • 母:芳子(よし)1865−1937 東京府麻布生 元宮中女官。
  • 長男:弘 18??-1941 医師。元陸軍軍医。京大医学部卒。大垣病院継ぐも再建断念。「朝鮮総督府鮮人救療医」として中華民国吉林省延吉県竜井村に野川医院を開設。その龍井村で死去。弘の子息に延吉氏がいる(※1)。
  • 次男:彬 18??-1890 病死?
  • 三男:周 18??-1906 病死?
  • 四男:維 18??-1917 病死?
  • 五男:圭 18??-19?? 外国商館員。東洋大中退後の隆に横浜税関の勤務先を世話。
  • 長女:たず 18??-19?? 湘東(杏平)の三女を養女に迎える。
  • 六男:澂 1893-19?? 小説家。玉村善之助(方久斗)発行の『高原』に作品発表し、編集人へ(その後、澂の帰郷と入れ替わる形で孟が編集人となる)。『高原』編集後記に同人村雲毅一(大樸子)1893-1957 の友人と紹介されているため、この同年か少し上くらいか?(※2)
  • 七男:孟 1895-1976 朝日新聞記者。『高原』『エポック』『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』同人編集に関わり作品論評も多数発表。朝鮮に渡り北鮮日報記者に。引き揚げ後は滋賀県八日市町(現東近江市)に居住し京都新聞支局長。子息は野川洸(みつる)1933-1999(※3)
  • 八男:達 189?-1920 洋画家・俳優。帝劇で観客であった達が舞台上の高木徳子に見初められ一座へ。結核で夭折。
  • 九男:隆 1901-1944 作家・詩人。
  • 次女:福(ふく)19??-19?? 二郎実子では長女。念願に女児であるものの幼少時に夭折。

野川一族の子孫にあたる方々から貴重な情報をいただいことで野川家は男児ばかりと以前の評伝は記したが、女児もいたことがわかった。一人は湘東の娘を養女として、もう一人は隆の歳下に末娘がいたが、幼少期に夭折している。

長兄の博士は病院崩壊後、開業医として上海に渡った。N(筆者注:野川隆)には今(筆者注:当時の日記の日付「1919年6月13日(金)」)残っているの兄は、上海の兄は別として四人いる。その内で私がNの家で紹介された二人の兄は五男と八男でみな芸術家である。一人は演劇家で下の兄は洋画家であり、俳優である。芸術家も哲学者のように人嫌いをするが、会ってみると正直で気持ちがよい。

——十和田操「野川隆の青春」『作品 野川隆記念号』作文社 昭和49(1974)年(※4)

「開業医として上海に渡った」となっているがこれは十和田の勘違いで先に記したように渡った先は朝鮮である。「下の兄」うち八兄・達は、東京で洋画学生をしていた頃に話題の高木徳子の舞台を観に帝劇に行った。その徳子に舞台の上から見初められ楽屋に引っ張り込まれ、あれよあれよという間に、一座に加わることになった。この高木徳子(1891一1919)とは、大正期の一大ムーヴメント「浅草オペラ」でアメリカ流のダンスで火をつけ、トウシューズで踊った日本最初のダンサーとして知られるが、僅か28歳で夭折している(※5)。

その一座で俳優活動での無理が祟り肺を冒し達も翌大正9(1920)年に死去した。隆は「この兄の将来に」「大変大きく期待をかけて」いたというが、達に関しても国会図書館デジタルコレクションの中にいくつか痕跡を残している。演劇活動の中で活動写真にも関わっていたようだ。『活動画報』1918年10月と1919年3月の『活動之世界』で帰山教正監督『深山の乙女』(天活會社1919)の紹介記事に字幕図案者としてクレジットされている(※6)。

『活動之世界』(1919−03)帰山教正監督『深山の乙女』広告
『活動之世界』(活動之世界社1919年3月)帰山教正監督『深山の乙女』広告
国立国会図書館デジタルコレクション:https://dl.ndl.go.jp/pid/2380248/1/46

脚注

  1. 弘の子息の野川延吉は大正8(1919)年生。遠藤周作『海と毒薬』昭和32(1957)年でモデルとなる「九州大学生体解剖事件」の戦犯容疑で昭和22(1947)年巣鴨拘置所に拘留。昭和23(1948)年横浜第一軍事法定にて有罪の宣告をうけ、昭和28(1953)年仮出所。 九州大学生体解剖事件 – Wikipedia なお野川延吉が乳児期に育った中華民国吉林省延吉県竜井村で大学進学前の野川隆とスナップショットがある。大正9(1920)年3月頃撮影。一九歳の頃の野川隆が写っている。(前掲:西田勝『近代日本の戦争と文学』(法政大学出版局2007)p211参照)。 野川延吉『一医師の戦中戦後記―真実の自由と平和を求めて』(創英社/三省堂書店 2005)
  2. 筆者は「五男・澂」としたが、加藤弘子『大正期の玉村方久斗(2)』での「長兄」としている。 「長兄の野川澂は『高原』第4号(大正10年8月)に創作を発表した後、同誌第5号(大正10年8月)から第7号(同年11月)まで編集人の一人に加わっていた。その弟野川孟は、その後を引き継ぎ『高原』(大正11年1月)から澂に代わって編集に加わった。これが大正11年(1922)年7月に廃刊になり、その後の『エポック』になるのである」加藤弘子『大正期の玉村方久斗(2)』(東京都現代美術館紀要 1998)p5 長兄は医院再建を断念し中国大陸に渡った「弘」であることは他文献で判明しており、次兄・三兄・四兄は既に亡くなっているので、この「野川澂」は十和田操が伝える「五兄」の「演劇家」でないかと推定した。最も日本にいた兄のうち一番年長であることは変わりがない。
  3. 野川洸は川崎彰彦と滋賀県八日市時代同窓で芝浦工大進学上京後、五木寛之と出会うことになる。五木寛之「こがね虫たちの夜」(1969)は友人高杉晋吾、三木卓、川崎彰彦、野川洸らとの学生時代をモデルにしている。五木寛之 – Wikipedia/川崎彰彦『ぼくの早稲田時代』(右文書院 2005)参照
  4. 前掲十和田操「野川隆の青春」『作品 野川隆記念号』(作文社 1974)参照
  5. 高木徳子 – Wikipedia
  6. またNDLで達の俳句も見つかった。戦前岐阜俳人の物故者メモリアル誌のようである。『追憶』赭土社(1930) https://dl.ndl.go.jp/pid/1104146/1/9

一旦今回はここまで!ですが

先にも書いたように全体評伝も各時代時代の側面を深掘りしてかなり書き直したいため、再開契機に引き続き記事更新すすめます。今回親族の方から貴重な証言ならびにお写真まで提供いただいているため、「更新」こそが私の使命です。

またせっかくサイトあるので何かしらつらつらと社主日記でも書いてみてもいいかもしれない、とか魔も差しており、また變電社としての活動再開するならば昨年暮れのデジコレ大幅リニュアール(遂にはじまった「個人送信」のインパクト)における利用レポートも書いてみたいとも考えています。

またこうデジタル調査環境ならびにChatGPTなどAI技術の進捗で、実は世界におけるパブリックドメイン機械翻訳&紹介も進めてもいいのではないか?(「翻訳大国」とか言われていながらかなりの基礎文献が未訳のままであり、今後このあたりが邦訳開拓されることもないだろう)と「深淵」を覗き込みはじめていますが、なにはともあれ再起動させていただきます。

そして

追悼としての謝辞

2016年著作集電子刊行の際に謝辞にも名を書かせていただいた二人の方が鬼籍に入られた。野川隆研究第一人者・西田勝先生が、2021年7月31日に逝去された。翌2022年7月23日に、講演録の編集で携わっていただいた古田靖氏が若くして急逝された。古田靖氏は初期変電社中として記事いも書いていただき直接に様々なアドバイスも頂き、その急逝の報に今なお驚愕しています。ここに謹んで哀悼の意を表します。直接間接にわたり深くご支援賜り、誠にありがとうございました。改めてここに篤くお礼を申し上げます。
ご冥福をお祈りいたします。

變電社 社主 持田泰 2023年5月

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください