【2016年7月9日】NPO法人日本独立作家同盟セミナー講演録『サルベージ出版に挑戦 』発売開始

こんばんわ、社主”大変ご無沙汰しております“持田です。もうミドルネームに組み込んでいいくらい毎度のご無沙汰展開で恐縮です。年末年始にエンジンかけておきながら夏前まで怠けておりました!怠けきっておりました!猛省しております!猛省に慣れ親しんでおります!

ところで表題通り、昨日7月9日、前回登壇しました2016年1月30日独立作家同盟のセミナーがなんと!「講演録」として発売開始されました!何もこんな参院選の週末じゃなくとも!

7月9日遂に出てしましった!『サルベージ出版に挑戦 NPO法人日本独立作家同盟セミナー講演録』

7月9日遂に出てしまった!『サルベージ出版に挑戦 NPO法人日本独立作家同盟セミナー講演録』

なおKindleだけでなく、各電子書籍ストアで購入可能です。さすが!独立作家同盟!

群雛ポータルサイトからストア一覧あります!

群雛ポータルサイトからストア一覧あります!

なにはともあれ、まずは、こちら第二部で登壇いただいた「マガジン航」編集発行人仲俣暁生氏、国会図書館大場利康氏、毎度熱唱殿池田”ゲバラ”敬二氏、機会いただいたNPO法人日本独立作家同盟理事長鷹野凌氏、また会場裏方で様々に働いて下さった皆々様、さらには今回セミナー冊子として作成尽力いただいた株式会社ボイジャー鎌田純子氏、編集対応いただいたトルタル兄さん古田靖氏に、深く頭を垂れて感謝いたします。このように冊子として形になりましたのも、ひとえに皆様のおかげでございます。逆にむしろ「皆様のおかげ」以外何が残ろうか!

実際こちら既に何名かの読者様から「面白かった」なんて有難いお言葉をいただいており、誠に汗顔の至りなのでありますが、僕が実際語った内容といったら、サブタイトル通りの「文学中年」が「サイバー」だけでなくとも紙も含めて「ディギング」して、とりあえず電子で「サルベージ出版に挑戦」した顛末を、前夜突貫のスライド芸に籠めて、当日は幾分のアルコールの霧で誤魔化しつつ捲し立てた「偏愛」であり、単にそれだけでありますから、実際なんてことはなく、私はこうやって生きて居るのです。御年43歳。いろいろあって禁煙しましたが最近酒量が心配です!

なおタイトルの「サルベージ出版」という言葉はボイジャー鎌田氏が散々私が節々で使っていたタームをコンパクトにまとめて變電社第二期を端的に言い表していただけました。變電社とはサルベージ出版社である。素敵じゃないですか。なんか偉そうで何様のつもりって感じです!

そんなわけで今回サルベージ出版とはなんたるか定義を試みてみようかなと。単純なパブリックドメイン出版ではないというところがポイントかもしれません。

僕が常々疑問に思っている点が、セミナーでも話したとおり、また前からもいろいろ話しているとおりに、パブリックドメイン(以後PD略)一般解釈で根強くある著名人・有名作品大好き!大文豪史観なんですが、さあ今年はこんな大御所がPDになる!ってタイトルが戦後散々にリパッケージされ再生産され続けたおかげでマーケットプレイスで1円とかで並んでいる本だったりするわけですね。

無論それらがPDとなり青空文庫のような形でデジタライズされていくことの価値はあります。「公有」という形で誰のものでもあるという状態としてオンラインで解放すること(まるで「成仏」するかのような)は正しいわけですし、それが再利用され再活性化されていくことは心から賛成です。なんですが、そのマーケットプレイスや新古書店で端金で購入できるくらい再生産され続けたタイトルは半ば「公有」みたいなもんではないのか、というと語弊ありますが、手に入りやすいという意味では簡単なお話であり、既にスキャン本含めて大量にそういったKDPにおけるPD商用利用はあるわけです。よって個人的には違う方向を試みたい。

翻って、今回著作集を出させていただいた「野川隆」で考えてみます。その前にまず認識を新たにしていただきたいのは、野川隆とは完全に忘れ去られた作家であったわけではありません。にもかかわらずほぼ読めません。

戦後『昭和文学盛衰史』で高見順が深い鎮魂の念を持って触れたのを皮切りに、大岡昇平・平野謙は野川隆との思い出を語り、江口渙もプロレタリア作家同盟を振り返る回想録の中で「後世に語り伝えねばならない」と結構な分量を割いて『戦旗』非合法時代の野川について語り、また『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』盟友北園克衛も野川「SFポエム」の業績を語り、稲垣足穂も

私のロバチェフスキー空間も実は野川によって教えられたのである。
 ソヴィエトのルーニク3号が初めてもたらした月の裏面の写真にソヴィエツキー山脈の左側に「ロバチェフスキー」という地名があたえられている。でも、これに先立つ約四十年前、カザン大学の総長であり、非ユークリッド幾何學の大立者でもある人の名を、日本文学の中に取り入れたのは野川隆君であることを諸君に銘記してもらいたい。

——稲垣足穂『「GGPG」の思い出』

と語られるところの野川隆です。また『作文』という同人誌で戦後初めて「野川隆記念号」が組まれたのですが、野川渡満前の盟友たる壺井繁治がこう書いてます。

野川隆は四十四才で死んでおり、今日から見れば実に若死にであるが、早くから詩や評論を書きつづけていたので、相当の量を書いているようにわたしは思われる。詩集として刊行されているものは前記の『九篇詩集』一冊だけだが、何とかして彼の全業績をまとめる時期にきているのではなかろうか。それが完成されれば、モダニズム詩人、アバンギャルド詩人として出発し、アナキズムを経てコミュニスト詩人となった彼の仕事の中から、いろいろと面白い、現代にもじゅうぶん示唆する問題が引き出されるのではなからろうかたとえば「芸術の革命」と「革命の芸術」との関連、その統一的形成の問題は、今日、なおじゅうぶんに解決された問題とはいえぬが野川の全業績があきらかにされれば、この問題についても一つの回答があたえられるかもしれぬという期待がわたしにはもたれる。(一九七四年一月二十三日)

——壺井繁治「野川隆の思い出」『作文』1974(昭和49)年4月

この文章の日付見てのとおり1974年ですから今から42年前です。折に触れて一部では思い出され偲ばれていた野川隆とその作品でありましたが、この42年間、誰も纏めてこなかった。いや42年どころではなく、つまり戦後71年、野川隆の作品はほぼ読めなかった。

理由はなにか。端的に、その作品のほとんどが雑誌(同人誌含む)掲載物しかなく、野川隆は生前、作品集としての本が出版されていないからです。前衛期に戦前朝鮮半島で新興詩人集という形でいくつか収録されて(こちら半島在住の希有な野川隆ファンのお友達から情報いただき感謝しております!)いる他は、芥川賞候補作たる「狗寶」が収録された『満洲国各民族創作選集』、また「幻の詩集」とも言われる『九篇詩集』を私家版として少部数を満洲で発行し、それを中野重治が所持していたおかげで1952年創元社刊行『日本詩人全集』第7巻にそのうちの数編が収録されたくらいです。つまり戦前円本、戦後文学全集のように日本国内で作品集を編まれたことは一度もない。戦後新日本出版社で編纂された『日本プロレタリア文学集』全40巻+別巻『日本プロレタリア文学評論集』全7巻にも驚くことに1作品すら収録もされていません。アバンギャルド期の野川に関してはそれこそ僕の知る限りで、1957年に遠地輝武『現代詩の体験』(酒井書店)で1925年8月『世界詩人』第1號に掲載された「甲殻類建築」が部分収録されているのみ。

ようやく90年代に旧帝国植民地たる「外地」文学研究がすすみ、野川隆の渡満後の作品に関しては評論(例えば川村湊『満洲崩壊「大東亜文学」と作家たち』文藝春秋1997)の中で読めるようになる。そして2000年代に入ってから、渡満後作品は複写によるアンソロジー『日本植民地文学精選集 満洲編』(ゆまに書房2001)に収録されました。そして2000年代後半になってようやく戦前の様々な詩誌が、ゆまに書房、不二出版各社で、復刊復刻(高価)を開始してくれたこと、そして同じく2000年代に国立国会図書館デジタルコレクションなどのデジタルアーカイブで戦前の雑誌を閲覧できる環境が整ったことで、国会図書館・都立図書館・大学図書館でこの「野川隆」という人の大正期新興美術運動前衛詩運動まっただ中の作品も、素人でも掘り返すことができる環境が整ったわけです。だから実は私みたいな人間にしてみると、極めて「現代作家」なんですね。だって最近読んだんですから。こう言うと頗る語弊がありますが、何も生きている作家だけが現代作家ではありますまい。

であらばと、我「文学中年」ですから、ほじほじほじほじほじくり返しに行くわけです。またこれらパブリックドメインなんで大手を振って複写依頼して持ち帰っていいわけですから、原始的なプリントオンデマンド!なんつうて一人ほくほく顔しているわけですね。もっともそう簡単に読めるものではないブツですし、誰もが知る作家というわけでもありませんから、結果、僕一人の楽しみで終わる袋小路なわけです。どこかしらの奇特な版元さんが野川隆集を出してくれないかななんて思っても、この手間ばかりかかり、とくに現代注目集めている作家でもない作品で売れる見込みも立つもんでないわけですから、そう簡単に出すわけない。だったら我が初編纂して出版してしまえばいいじゃないか。

そういうわけで、變電社が野川隆の前期「モダニズム詩人、アバンギャルド詩人として出発し、アナキズムを経てコミュニスト詩人」までを拾遺して今回勝手に纏めて出しました。これ改めて強調しておきますが戦後・戦前通して初編纂です。

2016年1月27日amazonKDPにて變電叢書『野川隆著作集1』刊行開始です!

さる2016年1月27日amazonKDPにて變電叢書『野川隆著作集1』刊行開始!

そして今回ちゃんとEPUB化してまあ正字体のファイルで無茶をやったわけです。外字なんか使って。無論、變電社技術工作隊の皆さんのご支援や、でんでんコンバーターという最強ツール、またそもそもでKDPという電子書籍プラットフォームもあって、僕みたいな素人でもなんとか出せました。

この展開は大きいと我ながら思うわけです。なぜなら出版社に全てを委ねて待つ必要がないのだと僕自身が理解できたということです。だからナマを言うと、こういうことを各学会やら研究者がやってくれたらいいんじゃないのかと素で思っていたりもします。今後ますますこの手のものが出版社からは出てこなくなるだろうからです。

よってまとめますと、變電社が考えるサルベージ出版の勘所は三点です。

  • 戦後出版で再生産され尽くしたものは他の個人・団体に任せたい。
  • そのわりに何故か人気なくデジタル化されることがない不幸な「よい作品」は變電叢書で出したい。
  • また今まで本の形として編纂されていない雑誌掲載作品などは今後も中心に掘りたい。

そしてもう一つ追加しますと、実は一番重要で実はここを一番進めたい領域なのですが、

  • パブリックドメインに限らずオーファンワークスまでをも対象としたい。

つまりパブリックドメインは結果であり、手続きの手間がかからないってだけのラッキーアイテムとし、必要ならば調査・吟味・著作権者捜査、手続きの手間を掛けても、出す。実はパブリックドメインではない作品をどうにも再出版したくなり探り出した著作権継承者と面会してきた件がこの春にあったのですが、諸事情により電子書籍化は無理という結果になりました(だけど紙ならいいよという話に落ち着き、現在調整中です)。

といったわけで、現在いくつか改めて上記3ルールでもって改めてのサルベージ出版を鋭意企画中です。その前に野川隆中期・後記評伝もまとめていかねばであります。また兄の野川孟に関しての事後調査が進んでおり、新事実実と「評伝」更新を実行します。Coming Soon!

さて本日世間では悲喜交々の参院選祭りの日に更新いたしましたが、引き続き變電社ご愛顧たまわらんことよろしくお願い申し上げます!

變電社 社主 持田 泰

【變電叢書】『野川隆著作集1: 前期詩篇・評論・エッセイ 1922 ー 27』【KDP発売中】

2016年1月27日amazonKDPにて變電叢書『野川隆著作集1』刊行開始です!

2016年1月27日amazonKDPにて變電叢書『野川隆著作集1』刊行開始です!

こんにちは!社主持田です!

ついに變電叢書『野川隆著作集1: 前期詩篇・評論・エッセイ 1922 ー 27』が販売開始されました!

野川隆著作集1: 前期詩篇・評論・エッセイ 1922 ー 27 (變電叢書)
AmazonKDPストア http://www.amazon.co.jp/dp/B01B3I5IU

一年越しでようやく弔いができました。
思えば43歳で満洲の大地で人生を閉じた野川隆と僕は今同い年です。詩人よどうぞ安らかに。

2014年末サイトでbib/iリリースしていた無料公開版はもろもろ誤字脱字も多くクローズさせていただきました。今回の版でピックアップ作品と前期評伝(こちらもブログ版の加筆修正版です)立ち読み版を公開いたします!こちらは少々お待ちください!

もう一点今更お知らせです!今週末2016年1月30日独立作家同盟のセミナーに登壇いたします!

持田泰「變電社の試み ~『デジタルアーカイブ』『パブリックドメイン』がもたらす自己出版の可能性を探る」

1月30日独立作家同盟セミナー

イベント自体が久しぶりです!国立国会図書館デジタルコレクション他、大英図書館や年始のニューヨーク公共図書館などなど盛り上がる『パブリックドメイン』の可能性をもろもろ探ります!

第二部はなんと国会図書館・大場利康氏 マガジン航・仲俣暁生氏を迎え鼎談!今回の變電叢書リリース裏話も交えつつ、酒あり池田敬二氏パブリックドメインソング弾き語りありのパーリータイム予定です!
きっと楽しい!はずです!

土曜日お時間あれば是非遊びに来てやってくださいませ!

2016年變電社は電書パブリッシャ―として本格稼働いたします。
ひきつづきよろしくお願いいたします。

社主 持田泰

「世界文藝史上最初の試み」という原稿叩き売り現場

【20世紀跨ぎ生まれ「X」とその世代】「公敵」としてのコンテクストメイカー梅原北明『殺人會社』『文藝市場宣言』『火の用心』『ぺてん商法』【FIGHT THE POWER】

大「變」ご無沙汰しております。社主持田です。当サイトの更新ならびに念願の野川隆集のストア公開がままなっておりませんが!お待ち下さいませ!凡てはいつのも如く公私にわたる諸事情の結果の社主の「怠慢」です。近日出します(出せるはず)!

しかし今回遅れております事がもっけの幸いで、国立国会図書館デジタルコレクション館内限定データでの目次記載漏れで発見できていなかった最初期「風の詩人」「沼の水蒸気」大正11(1922)年の詩作二編を回収できましたので、前期野川隆詩片はどうやらコンプリートできた模様です。外字の他の環境によっては見られない可能性のある非常用漢字や記号整理で手間どっておりますが、また少々「野川隆とその時代」論を画策もしておりますが、なにはともあれ急ぎます。

今回は「レッド」でも「ブラック」でもなく「ピンク

といったわけでありますが、今回もやはり野川中期調査と平行しつつ、前回に続き「變態光波」の井東憲調査を諸々進めている中で、さらに傍流に流れまして(本流かもしれませんが)、まあ僕の個人的趣向として過去一貫して戦前期「赤色(コミュニズム)」や「黒色(アナキズム)」作物が多いわけですが、もっとも正確に云えば赤色」「黒色」未然のワアっと沸いた都市の渾沌渾然としたマージナルな作家らに惹かれているわけですが、今回はその流れで以前から取り上げよう思いながら放置していた「桃色(エロ)」の方を取り上げます。もっとも正確に云えばこちらも「桃色」未然のものです。なにはともあれ春であります。

実際、変電社の事に起こりにおいても「桃色」方面は重要な宿題として認識はしており、最初期2012年末の変電社日記日本歓楽郷案内』『異国風景浮世オン・パレード』を取り上げ、前回でも一部触れたように、酒井潔『エロエロ草紙』webブレイクしたのが変電社契機でもある関係でやがて触れなければぬ珍書軟派本領域とは思っていました。今回はようやく、『エロエロ草紙』作者たる酒井潔の盟友であり歳下の師でもあり、当時官憲側から「正気の狂人」と称された梅原北明を取り上げます。所謂エロ・グロ・ナンセンスの巨人でありますが、プランナープロデューサー的に立ち振る舞った北明では珍しい初期「小説」作品を中心に、NDLデジコレ紹介1本と&bib/i公開3本紹介で参ります。で、この北明調査の中で非常に重要なことを思い出ささせていただきました

【猛省!】社主がうっかり見落としていた「X」【慚愧!】

つまるとこ、今まであまりにもこの時代の巨大な登場人物「X」を見落としていたのです。その発見経緯について後段で説明いたますが、というのも僕はその人物のその事実を知っていたからなのですが、にもかかわらずぼんやりと見過ごして居たことに驚いているのです。歴史というのはなんかこう、知っていた事実を忘れる、知っていた事実を見落とすものなのか?

そもそもなぜ今頃梅原北明を取り上げるのか?と云うと、前回記事の井東憲『贋造の街』大正14(1925)というdopeでcoolな詩に中の一節

「あの幻想狂の、意識的構成派の畫家は、私のことを……もつとも、そのかけてゐたセルロイドの眼鏡は、ほんの間に合わせに、夜店で買つたものだが……女に捨てられた怜悧な蜻蛉にたとへた。」

「意識的構成派の畫家」とは間違いな村山知義のことですね。本当に皆が近くに居たのだと。

と作内に村山知義が登場してくることに、僕は軽く触れて流した。のですが、面目ないことに社主持田の勉強不足です。村山知義と井東憲はそもそも近くに居たも何も二人して「文藝市場」の同人です。以下の表紙は文藝市場第二号ですが「作品市場」で村山と井東の名が仲良く並んでおります。

村山知義と井東憲が仲良く並んで記載

村山知義と井東憲が仲良く並んで記載


そしてこの二人をつなげたのが、この表紙の中央で群集に取り囲まれている和服姿で眼鏡の男—「文藝市場」首領の梅原北明です。
 
 この梅原北明と邂逅した時のことを、後に村山が書いていまいす。

彼は顔色の蒼白い、痩せた、むしろ小男であった。極度の近眼らしく、大きな眼鏡をかけ、青蛙のような顔をした男だった。おしゃべりで、人の気持ちにかかわらず、自分の考えだけを述べ立てる人で、何かに魅かれている男のように思えた。
「おれは天ちゃんと同い年に生まれた。そうか、じゃ、君と同い年だ。一月の生れ?そうかじや同じ月だ」と初めて会った時いった。蝶ネクタイをし、古いタキシードを着ていたと思うと、ヨレヨレの着物姿であった。

——村山知義「文藝市場の頃」文藝市場復刻別冊解説 日本近代文学館

ここで「あっ」と思った。北明が村山知義と同世代であることすなわち20世紀跨ぎ生まれ世代であることの発見よりも、

「おれは天ちゃんと同い年に生まれた」

嗚呼…何故忘れていたのか?

そう私が勝手に名付けた「20世紀跨ぎ生まれ世代」を等記号で人物「X」と結べるのでした。

そう「X」=「天ちゃん」です!

もうおわかりかと思いますが、すなわち「昭和天皇」であります!北明にとってこの不敬なる「天ちゃんと同い年」が口癖だったそうですが、つまり「20世紀跨ぎ生まれ世代」とは「昭和天皇の世代」だったんですよ!「昭和の世代」ではありません。「天皇の世代」でもなく、「昭和天皇迪宮裕仁の世代」です。嗚呼!今更気がつくとは!!

北明が言うように昭和天皇迪宮裕仁は1901(明治34)年4月29日御生誕です。今も国民の祝日「昭和の日」たる4月29日。その1901(明治34)年の同年、1月15日に梅原北明、3日後18日に村山知義が生まれ、昭和の天長節(天皇誕生日)4月29日の僅か6日前23日に野川隆が生まれたわけです。

しかも僕が取り上げた他の同世代人の中で1989年(昭和64)年1月7日まであたりまえながら「昭和が終わる日」までご長命であられた。僕が生後の高度経済成長期後の昭和後期をも生き僕の知る他の同世代人物の中でももっとも親し(?)くあった人物です。どうして忘れていたのか?

さらに過去さんざん参考にさせてもらっているWikipediaの1901年誕生者リストにも昭和天皇の誕生日は明記されており、

昭和天皇記載あり

昭和天皇記載あり


4月29日同日生まれたるかの尾崎秀実はゾルゲ事件における同世代論として調査対象だったわけで、何故に昭和天皇を見落としたのか?

また棚の福田一也「昭和天皇 第一部 日露戦争と乃木希典の死」においては第二章「二十世紀の子」というタイトルまであり、その冒頭が、

 迪宮裕仁、のちの昭和天皇は、明治三十四(一九〇一)年、つまり二十世紀最初の年の四月二十九日に生まれた。 

にも係わらず、僕はうっかり見過ごしていたのであります。深い反省の中で、僕の記憶の構造に重要な欠陥があるような気がしておりますが、なにはともあれここで思い出せて良かったと安堵もしています。「野川隆とその時代」を書く前でよかった。

その世代論は近日トルタル6号にて!

この想起により僕の中では、ある点と点を線として結んだ先の「面」にまでようやく持って行けた感があります。

以前より取り上げた「世代論」は過去な記事で折々の余談として触れておりますが、
【秋の変電書月間’14】「村山知義の強引」ゲオルク・カイゼル作/北村喜八訳『朝から夜中まで』【オチとしてのウォーク・ディス・ウェイ】」
【変電社復刊宣言予告】野川隆と橘不二雄と「白山の野郎ども」【橘不二雄『腕の欠伸』文化庁裁定に送り出すよ宣言】
【謹賀新年】第二期變電社ロンチ宣言と正月余談として勝承夫『駅伝を讃えて』と野川隆『旋風』フォークゲリラ【變電社第7宣言】
【20世紀跨ぎ生まれ世代の兄達1894ー5】二人の「江戸川亂歩」と井東憲『贋造の街』ならびにカフェ「變態光波」開店宣言【都市と變態】

上のゾルゲ事件尾崎秀実の他、何人かさらに追加したい同世代人物を加えてあのジェネレーションを一度整理したいと思っております。今回はこちら予告として。次回5月リリースのトルタル6号に變電社からは「20世紀跨ぎ生まれ『X』とその世代」試論を書こうと思い立っておりますが、困ったことに現在締切間近で一文字も書いておりません!どうしよう!が景気よくやはり以下のT.RexをBGMで参りましょう! 

梅原北明について

さて、戦後かの発禁本猥褻本研究の大家であり「書痴」斉藤昌三に「軟派の出版界に君臨した二大異端者を擧げるなら、梅原北明と宮武外骨老の二人に匹敵する者はまずない。その実績に於て北明は東の大関」(斉藤昌三「三十六人の好色家―性研究家列伝 (1956年)」)と言わしめ、当時の出版法違反で発禁・罰金回数でかの外骨を圧倒的に上回るレコードを叩き出して、当局も心底手を焼いた「猥本の出版狂」です。戦後まで生き延びるものの大量に出回った廉価カストリ雑誌などの戦後出版を手がけることもなく、虱に嚙まれたが元で発疹チフスで昭和21(1946)年4月に死去しております。享年45歳。

結果、すべてパブリックドメインということで、NDLデジコレにも作品が多数眠っておりますここに本名梅原貞康から「梅原北明」として世に出た処女出版であり最初期の「惡魔主義」を標榜していた頃の非常に珍しい小説殺人会社. 前編」(アカネ書房 1924(大正13)年)が読めるのですから、NDLデジコレは偉大です。

なのですが、検閲後による伏せ字本になってますので相当に切り刻まれて(何を書いたのか?というレベルですが)よく文意が通じない所もあります。ので読んでみようと思う方はご注意ください。

梅原北明「殺人會社

殺人會社





殺人会社. 前編』(コマ数165)
著者:梅原北明
発行日:大正13(1924)年11月 出版社:アカネ書房
国立国会図書館デジタルコレクション






ちなみにこちらそもそもで「前篇」しかありません。相当クレイジーな作品で暗殺を請け負った殺し屋が、日本人移民から黒人運動家から白人レイシストと片っ端から殺戮し、沸騰する鉛の池に放り込んだり人肉缶詰にして売りさばいたりとありとあらゆる手口で処理していくという、大変に荒唐無稽な作品ですが、なんともタランティーノ映画を見るような、猛烈な勢いでまくし立ててくる「陽気な暗黒性」とでもいいますか、北明の壊れ具合が妙に解る作品です。

このの「悪魔主義全盛時代」という大層な副題の下のエピグラフを引用します。

八百八萬の神々を頭から馬鹿にしきつて人間と云ふ人間を、けだものの如くに尻にひいて、蔑けりとおした或る男が、死に臨んで此の世の中へ殘した最後の言葉は「俺は、これ限り蛆虫の世界とは絕緣してやる」
人間達「そんなら何處げ行くんです」
その男「きまつてるぢやないか?極楽へさア。そして俺は、其處の平和の攪亂者になるんだ

—「殺人會社」1924(大正13)年11月

この宣言どおり大正から昭和にかけて「平和の攪乱者」たる使命は果たしたと言える北明ですが、一方でこの中二的幼稚さとも取れる「惡魔主義」の美意識に終始しているわけではありません。黒人差別の問題と水平社の問題を同等に論じる視点などアクチュアルな問題意識があります。ただその回答に一貫する「反骨」=あらゆる「権威」への拒否のみならず、「正義」や「公正」や「善意」というものを、ある種の今でいうポリティカル・コレクトネス的なものを、せせら笑い「力」もしくは「自力」を賛美し、それはまた「市場主義」へと直結します

資本主義キャピタリズム如何どうであらうが、ナショナリズムがくたば﹅﹅﹅らうが、そんな事にはお構ひなしだ。組織そのものが金だ。コンマシヤリズムに出發してゐるのだ。斯う云つた方が一番早道かも知れぬ。純然たる會社組織だ金を儲けるための祕密結社である。だから俺達は祕密結社とは云はずに The F murder Joint Stock Company つまりF殺人會社と呼んでゐるのだ

—「殺人會社」14コマ目 1924(大正13)年11月

他にも語り手「三太郎」の台詞を抜粋していきますと、

「革命なんて厭なこつた。それより自分が自分で力强くなることに心がけりア其れで好いと僕が思ふね。つまり各に惡になればいいんだ。資本家も惡魔なら、勞働者も惡魔になりアいい。プロもブルも猫もないのだ。世の中は惡の結晶だ。虚偽と欺瞞の塊なんだ。いくら其の中で正義を叫ぶミノリティが逆立をオツ始めたつて、大勢に逆行することア不可能だ。惡なら惡でよし、その中を力强く泳いで行けア其れでいいのだ」

この反革命精神と、この「惡なら惡でよし、その中を力强く泳いで行けア其れでいいのだ」という態度は、当時で言えば大杉栄的なアナキストではあるのですが、今様で言えばまさしくリバタリアンという単語が北明を指すに最も近いと思われます。

「殺人結社秘書の秘書」「三太郎」たる語り手は当時の当時のベストセラー阿部次郎の「三太郎の日記」が由来の大正教養主義者たる「三太郎」をアメリカで殺人結社の殺人者に仕立てるという意図的な皮肉を込めたようです。

また全くの余談をしますと、その殺人會社に「馬鹿になる薬を打たれて」で初めて殺されてしまう日本人店員(組織の隠れ蓑たるドラッグストアの薬剤師)のエピソードが出てきます。この日本人が殺された日付が何故か奇妙なまでに明確に(「忘れもしない」と)記されていてそれが「1923年12月8日」です。それから28年後の41年12月8日が真珠湾攻撃なので、ここは全くの偶然でがありますが、なんかゾクリとしました。

コンテクスト・メイカーとしての梅原北明

北明数々の逸話はWkipedeiaはあまりたいしたこと書かれていないので、参考するよりググるといろいろ出てくるかと思いますが、變電社としても北明の逸話をつまびらかにしていきたいとこなのですが、ぶっちゃけ逸話が多すぎてどこから手をつけていいのかわかりません!

梅原北明が昭和戦前期の猥本出版のオルガナイザーとして伝説化するのは、自らへの出版物に対してを北明自身が身体張って文脈形成していく逸話量産裝置だからです。罰金・禁固刑を何度食らっても、金鵄勲章(きんしくんしょう)なあぬ禁止勲章授与、数十回!なんて発表して徹底して「ネタ」の弾幕を張ります。

もうそのネタ数が多すぎるので最初期だけを走り書きで書いておきます。

まず北明の名を世間に轟かしたのは先の荒唐無稽な「殺人會社」なる小説ではありません(黙殺)。彼が翻訳を手がけた世界文学史上に燦然と輝く猥褻本ボッカチオ「デカメロン」がありますが、大正14(1925)年に発行する際です。その前に戸川秋骨が翻訳した「デカメロン」が内務省図書課によって伏せ字削除の「検閲」で切り刻まれために、それを見越して「やれるものならやってみろ」とばかりに「ボッカチオ没後五百五十年祭記念出版」と名をうち、イタリア皇帝皇太后両陛下ならびにムッソリニ首相にこの日本語翻訳本を献上し、盛大なボッカチオ祭を浅草でぶち上げ、イタリア大使を呼んで散々っぱら吉原の芸者と遊ばせ、それに歓喜したイタリア大使からこの桃色接待に応える形でイタリア国家勲章をもらってしまったという逸話(またその勲章をカフェの女給に簡単にくれてしまうなど)。

また、昭和2(1927)年4月29日、先の入った昭和天皇の誕生日にあたる戦前表現で云う昭和最初の「天長節」(昭和元年は前年の12月25日で6日しかなかったので、この年が昭和天皇初の天長節)ですが、その全国祝賀ムードMAXの日に「八百屋お七二百五十年追善供養」を打って出た。この恋人逢いたさで江戸に火を放ち火刑に処された放火犯「お七」の供養を取り仕切った「施主」が梅原北明です(当日の全国紙朝刊で報道されたことで各所から上野自治会館に老若男女が集まり恋の炎に燃え焼け死んだ「お七」にセンチメンタルに涙した言われてます)。

これは明らかにタメ年の「お上」をからかう意図でフザケたので、事実その『文藝市場』誌上にて北明自身が「去る四月二十九日は、今度の聖上陛下御誕辰にわたらせらるる最初の天長節で今後毎年繰り返される我らにとっての新たなる祭日であるが、今より二百五十年前の当日は、実に情熱ある女、八百屋お七が鈴ガ森で炙刑に処された日である」とまで書いた確信犯です(しかも二百五十年ではなく二百四十五年であったところサバまで読んでます)。

また大正14(1925)年菊池寛に反旗を翻して始めた今東光『文党』(同誌には村山知義も野川隆も参加)に参加しかつ「文党歌」なるものまで作詞しして、村山知義に構成派風の目立つ看板を描かせ、銀座目抜き通りを桃太郎の歌の節に「天下に生まれた文党だ/値段が安くて面白い/既成文壇討たんとて勇んで街へ出かけたり」と大合唱しながら行進させ衆目を集めるなど、いわば街頭での「ハプニング」とそのアジテートを十八番としており、そして極めつきには先の『文藝市場』二号この表紙写真です。

「世界文藝史上最初の試み」という原稿叩き売り現場

「世界文藝史上最初の試み」という原稿叩き売り現場

この群集に取り囲まれた北明がここで何をしているかというと、「世界文藝史上最初の試み」と売り文句で不意に街頭ゲリラ的に行われた「生原稿の叩き売り」です。出典不明ながら村山知義が新聞の切り抜きスクラップの中の記事として以下を紹介していますのでそのまま引用します。非常のその空気がよくわかります。
 

枯川老の原稿、三枚で三円半也 文藝市場での逸品 二束三文で投売でも一夜の売上百五十円の大景気

『世界文芸史上最初の試み』と云ふふれ出しで、金子洋文伊藤憲梅原北明村山知義なんどの連中が十日午后四時半から京橋でプロ分子評論家の原稿プロ画家の画稿等を、どこからか集めて来て、その夜店を開いた。挑発にロイド眼鏡の主催者はビールの空箱の上に戸板を並べ、背後には構成派風の大型の紙に『文藝市場』と大書して店をひろげる、またゝく間に用のなさそうな行人が足をとめて黒山、交通巡査までが飛んで來るといふ騒ぎ。伊藤君が先ず空箱の上に立つて『さあ、津田光造の新世紀論、原稿三枚半でいくら!』とどなると『十銭!』と答へる『オイ十銭は可哀想だもつと買へ』と言った調子で、村山知義の画が一円で売れる頃はまだ無難であつたが、すぐ真向ひの京橋署から『交通妨害似鳴るから』と注意されてとうとう警察横に移る、新進作家菅忠雄の原稿五枚半で二十銭でたゝき売られた後で『さあ今度は『堺利彦の原稿三枚いくら』『五銭』と呼ぶ奴があつたが、遂に三円五十銭、これが当夜の最高値を呼んだものゝ『お次は松竹のスター栗島澄子の亭主池田義信の原稿、いくら』忽ち十五銭で売り飛ばされる、中には値段をつけて姿を消す奴がある、『そんならおれが買ってやらう』と五十歳余りの職人が構成派の絵を不思議そうに見て持ってゆく、売行芳しくないと見るや『岡田三郎と間宮茂輔、山田清三郎、こみでいくら』と来るでも午后八時店を閉めるまでは大枚百四十五円の売上があつた『この調子だと今に同業をもくろむ奴が出るよ』と一同早くも先きの心配をする程の上景気だった

しかも場所が「京橋の警察署横」というのが何とも北明らしい。だいたい今の金額に換算すると一晩で100万円くらいの売上でしょうか。『この調子だと今に同業をもくろむ奴が出る』ということはその後なくかえって既成文壇人からは顰蹙を買ったわけですが、今のコミケまたは文フリ等の直接販売のイベント思想そのものです。

このずばり「文藝市場」(ずばりマーケット!)と名を打った雑誌看板の北明の「文藝市場社」はその後も様々な新機軸を打ち出しますが、北明だけでなく村山知義井東憲も執筆者として参加した「變態十二史」シリーズは限定五百部のサブスクリプション制販売が6000件に近い申仕込みがあり「文藝市場」自体がなかなか捌けずに経営難に陥っていた文藝市場社の窮地を救ったとも言われています。

梅原北明と『文藝市場』

少し戻してその文藝市場者の成立について。北明は先の「デカメロン」翻訳で一山当てたことで、新聞記者をやめて、今東光「文党」と同じく菊池寛「文藝春秋」横光川端「文藝時代」などの既成文壇へのカウンター誌を画策します。「露西亜大革命史」も翻訳したことで交流の深かったプロレタリア系作家作家らを中心に六十余名集結させて「文藝市場」を大正14(1925)年11月創刊し文藝市場社の起こします

もっともこれが左翼誌かというとそんなことはありません。実際、北明自身の背骨にイデオロギー的な要素はなく後年村山知義からこんなこと言われます。

彼の死後、彼を可成り左翼的な信念を持っていた人として評価した人があるが、私が見る所で彼にはそんな考えは全くない。プロ作家の中に友人が多い、というが、それは彼がいくらか反骨的で、反抗的な気持ちがあったからで、その後の第二次世界大戦中の彼の態度を見れば、彼が根無し草だったことがわかるだろう

——村山知義「文藝市場の頃」

「その後の第二次世界大戦中の彼の態度」とは所謂「転向」問題もなく無思想で通過できたことを指しているわけですが、この部分は追って第二回ででも触れます。ただ村山知義という人は(少年期クリスチャンであったピューリタン的性向のせいなのか)周囲に対して少し辛辣に書きすぎているきらい(村山「演劇的自叙伝」読むと様々な人への批評(悪口?)が多い)があり、ここでも北明に対して一貫して冷淡でありますが、北明はむしろ人に好かれたエピソードが多数あります。おそらく北明の持つ「反骨」とだけと言い切れぬものが、同人の尾高三郎から「焼け糞出版」と言われるような、後も先も顧みない全くの無意味な悪戯に命をかけるような「悪童性」が人を惹きつけたようです(そしてそれは「マヴォ」のドイツ仕込みの前衛の「怪童」からコミュニズムへと放物線を描いた村山知義とは相容れぬ何かであり、彼らの関係はこの文藝市場のみで終了しています)。

その悪戯の針が振り切れすぎて、悪ノリにまで到るれべるのフザケかたをして、今に生きていれば高炎上リスクを持っている北明ですが、『文藝市場』創刊号も「不真面目なゴシップ的要素」満載で『文壇全部嘘新聞』なる「虚構新聞」記事が初号に見開一頁を割いて、花袋岡本一平辻潤が春画売買容疑で取調べられている横で、菊池寛邸全焼して「文壇きっての金貸し」上司小剣が目黒で惨殺されるなど、当時から底抜けにフザケきって既成権威に喧嘩売り放題で、

bugeisijosokangokiji

当時の参加していたプロ陣営からも「創刊号がひどすぎる」と「あんなのものに有頂天になっていそうにな点も感じられるから、一言いましめて置く」と山田清三郎からも叱られる始末です。

もっとも単におフザケ雑誌かというとそれだけでは終わらないことがわかる「宣言文」が巻頭に添えられています。こちら誰が起草したかは明確ではないですが、北明起草だろうと勝手に確定してお待たせしました。本日のbib/i公開まず一本目です。

文藝市場』大正14年(1925)年11月

『文藝市場宣言』

フォントサイズが途中大きいのも創刊号の体裁(創刊号以外はフォントサイズ統一されますが)に則りましたが「不真面目なゴシップ的要素」満載の雑誌の宣言が案外にシビアさに驚きますし、直裁で正論です。

文藝市場はこの愚かな迷信を破つて藝術を商品として徹底させるために生れた。これは藝術に對する冒瀆でない。資本主義社會に於ては商品でないものは一切存在する意味がないのだ。

北明のその大正末期という時代の中では驚嘆するレベルの「市場主義」宣言は、さきの「殺人會社」からテキ屋のバナナのように「生原稿を叩き売り」してしまう姿勢まである、一貫した商才です。ただ「宵越しの銭が持たねえ」の散財癖も含めて儲けには恬淡であり、何と云いますか、むしろ犯罪すれすれのハイリスク・ハイリータンの賭博の興奮を追い求めいるように、出した出版物の廻りで北明は徹底してレイズ(掛け金をつり上げ)していきます。それは例えば『文藝市場』の後継誌『グロテスク』三號目が発禁を食らえば、その処分を逆手に取って黒枠の『グロテスク』死亡広告をすぐに打って出て、官憲をからかいます。

グロテスク新年號 死亡御通知
愚息『グロテスク』新年号儀サンザン母親に生みの苦しみを味わせ、漸く出産致せし甲斐もなく、急性発禁病の為め、昭和三年十二月二十八日を以て「長兄グロテスク十二月号」の後を追い永眠仕り候、夭折する子は美しい、とは子を失った親の愚息とは存じ候へども、お察し下され度候。

一時期は帝国ホテルの数間借り切ってタイプライター雇って後述筆記したりしたり、官憲が踏み込んでくることがうるさくて適わないからと帝都を走り巡らす車の中で執筆を行つたなど逸話も出回っているくらいですが、その結果、北明の息子梅原正紀がこんなことを書いています。

(数々の艶本を出版することで)金もはいったが、それを上回るくらい北明は乱費した。したがって艶本業者としては財を成さなかった。
 発禁や投獄は覚悟のうえで採算を無視して出版するので北明物に読者の支持は集まり、この次北明は何を出版するのかと楽しみにしている読者が多かった。

逮捕後の取り調べで警視総監が直々にやってきてこっそり「次の企画は何か」と聞いた北明ファンだったという嘘か真かの逸話もあり、一時期あまりにも発禁本を繰り返すので警察官が北明の事務所に常駐するなどという異常な措置がなされた際も、数ヶ月後にはその警察官が文藝市場社の刊行本の発送の手伝いに汗流していたりとか。これは先の北明の「悪童」ならではの魅力なのか。

余談ですが、以前職場での私の同僚でとにかく「猥談」ばかり喋る男がいて、度が過ぎているために何でそんなにその手の話がそんなに好きなのかを一度聞いたところ、彼は所謂「転勤族」で北は仙台から南は沖縄まで全国各地に引っ越しを繰り返し転校続きだったのだそうですが、彼がその経験で学んだものとして「エロは何処に行っても通じる」という半ば極論で処世訓があり、現にそれで転校生でもいじめられることもなく過ごしたという話を思い出します。

何はともあれ、そういう梅原北明の発行する周辺の「逸話」が「弾幕」として張り巡らされるこの戦前期内務省図書課相手にしたバブリッシング工程そのものを含めてイベント化し。ネタ=祝祭コンテンツに転化する手際は北明の他に類を見ません。あの戦前期エログロナンセンスの暢気さから情勢急転する時代状況の強権圧力の中だからこそ、その文脈に「検閲」という官憲処理を加えてネタコンテンツ化してくる北明に対して当局は手を焼き、懲りない「出版狂人」に映り当局には「正気の狂人」と言わしめたわけです。

そしてここで対官憲して北明ということだけでは、言い尽くせない部分として、つまり先の警視総監の話ではないですが、官憲側も彼の読者であり彼の動向を固唾をのんで見守る観客であったという点です。彼が戦時下軍部要請の仕事をいくつかこなしてますが、彼の地下出版のサブスクリプションモデルの会員には、会社員はもとより、大学教授、高級軍人、検事など、いわゆる戦時下のエスタブリッシュメント側が大勢含まれていて、その「北明ファン」=つまり公人ではなく私人のパイプで彼が圧政の戦時下も命脈を繋いだという事実があります。

これはまたもう少し次回も北明のビジネスモデルを掘り下げて考えてたいと思っており、その際にもう少し細かく書きたいと思いますが、地下出版で行き詰まった彼はなんと関西で女子校の英語教師をしたり靖国神社の社史編纂をしたり、戦中欧米の最新科学雑誌を軍部要請で海賊版翻訳をしたり、軍ルートで仕入れたアルコールを東大農学部農芸化学を専攻している学者を巻き込んでウィスキーを密造したりと、したたかに生き延びています。まさに「惡なら惡でよし、その中を力强く泳いで行けア其れでいいのだ」という態度です。

ここでさらに珍しい彼の初期小説作品をいくつか。その「市場主義」性『文藝市場』に発表した小品をbib/i公開2本目参ります。

梅原北明『火の用心』大正15(1926)年4月

『火の用心』

これは短いものですのでざっと読んで欲しいわけですが、この短篇をループで繋げてみれば、ここに梅原北明の人生の縮図そのものです。ブタ箱から出て路頭に迷いワンチャンスから博打智恵を絞って一瞬でのし上がる、そしてもしかするとまたブタ箱かもしれない。最後の一文この詐欺には無自覚である彼の感じる策略家の勝利への陶酔感はもうビジネス的成功としての歓喜なわですが、ここは「殺人會社」と彼の哲学は変わってません。


彼は現代の一特色を形づくるネオ・サタニストを以て自任してゐた。

もう一つ北明という人を象徴するシーンで彼を捕まえた巡査の家に詐欺に這入って再待った歳の述懐が、

此れは失策つた!惡い所へ踏み込んだ、と直覺したが、その刹那に毎時の糞度胸が出て、危く平勢を裝ふことが出來た。

まさにこの完全強者を目の前にした刹那での「糞度胸」が「悪童」の「悪童」たる所以だと思われ、その彼一流の「糞度胸」が地下出版の帝王であり発禁本の道化であり神出鬼没の悪党であり変化自在の義賊としてのある種の梅原北明神話を形成する原動力になったに違いなく、読者に託されていた。奴なら何かしでかしてくれると。

梅原北明『ぺてん商法』昭和21年(1946)年12月5日

『ぺてん商法』

こちらは昭和21(1946)年発見されたので遺作となっておりますが、正確には昭和10(1935)年頃の旧作発見というものです。こちらも先の「火の用心」に近い「テキ屋」的な詐欺商法への知恵比べ的な関心と深い共感を示すような作品となっていますが、追記として、「I・A生」なる人物が梅原の訃報に接しての動揺が触れられておりますので、そちらも同時に掲載しました。

梅原が去る5月に突然死んだと花房四郎君から通知を受取つたときには些か愕然とした。夢のやうな氣がした。それまでよきにつけ、惡しきにつけいろ〳〵と交際を持ち續けて來た僕だつた。あの男の事であるから、もう慾は云はずにせめて四五年は生かして置きたかつた。何かあッと云ふような大きな仕事をしたに違ひない

梅原北明なるエンターテナーとしての「公の敵」

梅原北明が「梅原北明」になる以前の貴重な証言として戦後日本野球連盟会長も務めた鈴木竜二が伝える逸話があります。本名梅原貞康時代、早稲田大学英文科中退後「靑年大学」なる雑誌社や新聞社の外務省詰記者等を転々としながら、5月1日のメーデーに参加した梅原貞康はこう活写さています。

大行進軍の中、緑色のロイド眼鏡に怪しげなるタキシード男、労働歌の高唄から警官と小競合いを初めて、遂に検束された。だが、新聞記者という六号文字の肩書きが、どんだ拾い物をして直ぐ帰された。菜葉服の多いメーデーのにタキシードを着た男の検束が、まず珍なる景物詩であったが、この男が、彼、梅原北明!

—『グロテスク』1930(昭和5)年1月 特集「人を喰った男」

なんとも北明の面目躍如たるアジテーター振りが目に浮かびます。勞働者の作業服(菜葉服)の中ただ一人タキシード姿で警官と罵り合いをしている北明!。ここでまた社主恒例の現代の戦後洋楽POPシーンへ勝手に翻訳してしまうと、HIPIHOPシーンで懷かしきかのPublic Enemy のフレイヴァー・フレイヴ(Flavor flav)の「煽り屋」っぷりを想起してしまい以下を最後に共有しておきます。

言わずもがなのパブリック・エナミーに関しては以下の記事などご参考ください。
社会派ヒップホップの先駆者、パブリック・エナミーの衝撃

こわもてライムまくし立てるメインラッパーの”チャックD”の横で変な踊りして合いの手いれているグラサン時計野郎がフレイヴァー・フレイヴです。

またこの「Public Enemy = 公の敵」というのは梅原北明を言い得て妙ではないかと我ながら思うところですが、北明は間違いなく1920年代から30年代にかけて「公の敵」であり、またそれを演じていたエンターテイナーでした。上記「火の用心」「ぺてん商法」ともに演じ手と観客がいる構図を維持しながらも、このYoutube”Fight The Power”PVのようなワアっと沸く群集の元、パフォーマー(パブリッシャー)=トラック(コンテンツ)=オーディエンス(読者)の一体感は戦前の梅原北明周辺には確かにあったに違いないのです。

Our freedom of speech is freedom or death
We got to fight the powers that be
Lemme hear you say
Fight the power

つづきがトルタル6号で!

さて、久しぶりなのに相変わらずの長文でかつ、結果的にエピソードの羅列に終始してしまいましたが、つまりそういう「逸話」弾幕の多い梅原北明という出版パフォーマーに関してまだまだ語り切れていない部分が深くあります。しかし本件、昨今の電子セルフパブリッシング界隈にも等しく何かのヒントを与えるネタかと認識しておりますので、よって今少し深掘りを加えていこうと思っております。

今回は先に予告しました「20世紀跨ぎ生まれ「X」とその世代試論」のβ版として公開してしまいますが、追って「X」と同時代人として生きた人々の様々な「放物線」のバリアントを纏めてまいろうと思っておりますので斯うご期待!

【参考文献】

【参考データ:国立国会図書館デジタルコレクション館内限定閲覧資料】

【謹賀新年】第二期變電社ロンチ宣言と正月余談として勝承夫『駅伝を讃えて』と野川隆『旋風』フォークゲリラ【變電社第7宣言】

平成27(2015)年明けましてお目出度うございます。社主・持田です。昨年末の變電叢書『野川隆著作集1』発刊は幸い多くの皆様からのいいね!ならびにシェアご支援のお陰で想定以上に多くの方にDLいただけたようで、誠に感謝しております。「年内無料配布」の約束通り無料版EPUBのDLは停止しましたが、校正漏れもやはりいくつか発見しましたので修正後正式版のストア配布まで少々お待ち下さい。サイト上でbib/iでの公開は当分続けますのでWebで御覧くださいませ!

また昨年末からの社業務報告となりますが、まずはパブリシティとして、12月29日発売の宣伝会議2月号に毎度おなじみの池田敬二氏「歌う」宣伝工作により志村一隆氏記事として掲載されました!久しぶりの快挙万歳!

宣伝会議2月号記事掲載池田隊長歌う勇姿写真もあるよ!

宣伝会議2月号記事掲載池田隊長歌う勇姿写真もあるよ!

しかしこう掲載されたにも係わらず「変電社」をこけおどし旧字の「變電社」表記へと12月23日70年周忌弔い復刊の際に変更していますが、こちら正式社名変更というよりは「変電社」も「變電社」もどっちでもOKの屈託ない精神で参りたいと思います。つまりSEO的にも。また手書きで書く場合を恐れて。

また、唐突ではありますが私持田は長らく「社主代理」として振る舞ってまいりましたが、これも昨年12月23日復刊の際に「代理」を外させていただき、勝手ながら「社主」として立つことにいたしました。『野川隆著作集1』のようにEPUBパブリッシングを今後も実践していくのであれば、「発行人」としての責任曖昧化を防ぐ意味もあります。よって變電社社主持田、2015年は「覚悟」の年ってやつです。本年も引き続きご愛顧賜らんことをよろしくお願いいたします。

そしてこれにより唐突ですが第一期「変電社」を解散としますそして第二期「變電社」社中を緩募いたします。同時に結社趣意を改めまして新たな第二期第一宣言にあたる變電社第七宣言といたします。

變電社第七宣言

まあなんのことはない宣言の態での今年の抱負にすぎませんが、まず變(変)電社の紹介文を以下のものから

「変電社」は結社です。スタンスは「電子書籍読者」です。ざっくり言うと「変な電子書籍っていろいろあるから読んでみようや」結社です。転がっているデジタルアーカイブスをいろいろdiggin’して電子「古書」としてサルベージしたら面白いんじゃないかと思っている人の準備会です。

以下へと修正を加えました。

變電社は転がっているデジタルアーカイブスをいろいろdiggin’して「電子古書」としてサルベージ復刊を目指すインディペンデント・レーベルです。

つまり準備はもう済んだのだ!気合いのデジタル・パブリッシャー宣言です。記念すべき野川隆集から「變電叢書」をロンチしたとおり(まだ非売でありますが)、今後變電社は電子「叢書」刊行を実践してまいります。

なわけで最近ご無沙汰の国立国会図書館歴史音源れきおんから「記事の気分」としてのBGM(スマホでは聴けないけど)ですが、今回は「流行唄:港はなれて」(西岡水朗[作詞]奥山貞吉[作曲・編曲]松平晃[実演家]/製作者(レーベル):コロムビア(戦前)発売年月日:1933-08)でどうぞ。なんか正月っぽくて良い。

「變電叢書」刊行予告

  • 第一篇 野川隆著作集1 前期詩篇・評論・エッセイ 2015年1月予定
  • 第二篇 野川隆著作集2 中期詩篇・評論・エッセイ 2015年2月予定
  • 第三篇 野川隆著作集3 後期詩篇・小説・評論・エッセイ 2015年3年予定
  • 第四篇 橘不二雄『腕の欠伸』(未定)

四篇は変電社復刊宣言(第6宣言)予告しております橘不二雄ですが、こちらが所謂「オーファンワークス」のためまだ皆目見当がついておりませんが年始に諸々調査アクション実施予定です。「變電叢書」可能なら2015年内に第五篇〜気合いで十篇くらいまで出せればいいなと思っております。もしかすれば『朝から夜中まで』もしくは青空文庫未収録の『過渡期の横光』作品アンソロジーを出すかもしれませんし、さらには『技師ガーリン』を復活(!)ラインナップさせるかもしれまんしまったく別の作品にフォーカスするかもしれません。実は『白山の野郎ども』調査の結果新たに面白い経歴の詩人らが発掘されていて、

白山詩人1号2

前回の白山詩人第一号奥付から今回は追加で黄色の枠の二名です。「角田竹夫」「勝承夫」なる人物ですが、こちら二人ともやはり「20世紀跨ぎ生まれ世代」の「白山の野郎ども」系譜の洋大詩人の一人です。ともにアバンギャルド系ではない詩派ですが、角田竹夫『微笑拒絶』がNDLデジコレでは「インターネット公開(許諾)」で閲覧可能です。またこちらで詳細がありますが、没年情報現状不明です(これは許諾ということは、著作権利相続者の許可を取っているというこですが)。そして角田は実は先の變電叢書『野川隆集』でも登場してきており、

“●竹の小路で(角田竹夫)
 どうも困る。角田君はまだ「新詩人」時代の臭味を脱して居ない。新しく「出發して」くれることは有難たいが、かう云ふ詩を棄てて突進してもらひたい。”

變電叢書『野川隆著作集1』「太平洋詩人二月号の詩」

と野川隆に叱られている詩人でもあります。そしてこの角田と、上の『白山詩人』「會友」欄にありますが黄色枠入れてませんが岡村二一と赤枠の岡本潤多田文三らと『紀元』という詩誌を作っていたのが、もう一人の人物である「勝承夫」またの名を「宵島俊吉」です。
勝承夫 Wikipedia
この方ももちろん「20世紀跨ぎ生まれの世代」であり、東洋大学出身「白山の野郎ども」の詩人であり、おそらくこの「會友」の中で最も世間的に成功した人物ではないでしょうか。戦後文部省音楽教育分野にプロパーとして数々の校歌の作詞家として活躍され、また「日本音楽著作権協会会長」(JASRACですよ!JASRAC!)であり、また本日青山学院大学初優勝を果たしました「箱根駅伝」にも関わりがあり、以下Wikipedia引用ですが、

昭和28年(1953年)に「駅伝を讃えて」を、読売新聞紙上に発表。この詩文は、箱根駅伝第60回大会を記念して詩碑として刻まれ、往路ゴール・復路スタートの地点である芦ノ湖の湖畔で見ることができる。

のだそうです。こちらいつものでんでんコンバーター to bib/i で引用公開してしまおうかと思ったのですが、JASRACが恐いので變電社はPDではないものの引用は学術調査利用以外は載せない方向で考えておりますので、ググっていただければと思います。市井の駅伝ファンサイトを参考ください。

またこちらのブログで誠に詳細に渡り「勝承夫」の事実を丹念に調査記載していただいており、戦前東洋大詩人調査の後発隊としては非常に勉強になり助かりかつ感動いたしました。
猫面冠者「番外編:“若き天才詩人”宵島俊吉(=勝承夫)」2009/09/04 00:07
かの木山捷平が勝承夫をあこがれて入学してきたというのだから驚きです。「今で云へば、三島由紀夫と太宰治を一緒にしたやうな人気があった」と井伏鱒二に語らしめるような人物であったとは!そしてまさか僕の個人的ランニングコース多摩川・浅川合流地点にある都立日野高校校歌の作詞家であったとは!

もっとも「勝承夫=宵島俊吉」は戦後東洋大理事長になるなど大いに立身出世され1981(昭和56)年8月3日までご存命であったために、残念ながら(?)オーファンでもなく、パブリックドメインではありませんので「變電叢書」として出すことが難しそうです。よってNDLデジコレの「インターネット公開」コンテンツはありませんが、「図書館送信限定」「国立国会図書館限定」では読めるようです。今度また都立図書館国会図書館行った際は閲覧してみようかと思います。

野川隆と勝承夫

しかし一個の詩誌に参加した面子をながめて、それぞれの詩人の人生行路がまざまざと映し出されてくると、なんとも感慨深くありますが、かような三島太宰と並び稱されたようなカリスマヤングポエットの右旋回の軌跡描いた先に着地した「校歌」詩人・JASLAC会長・大学理事長として天寿を全うした生もあれば、「藝術革命派から革命藝術家へ」左旋回の放物線を描きながら落ち延びるように満洲に渡り獄死に近い形で没した生もあったわけです。

今回の變電叢書『野川隆著作集1』追って諸々フォロー解説していきたいと思っておりますが、掲載誌毎編年体式に並べたせいでかの「G・G・P・G」時代の「最前衛」期が一番最初に詰まってしまっているせいで相当に濃い感じの『著作集1』になってます。

もっともここらは相当にすっ飛んだ頃の野川の無頼っぷりが解るとともに、研究者以外は人目に触れることもなくただ書庫に眠り続けているだけの詩であり非常に貴重であり個人的には大変面白いわけですが、今回の『著作集1』の後半部分には野川中期へ離陸し始めた頃の平明な詩も治めています。

章で云うと、『文藝解放』『太平洋詩人』『銅鑼』の大正15年~昭和2年にかけての時期で、野川が起稿している記念すべき『文藝解放』第一号は来なかった大正16年1月1日発行予定であった事実も非常に面白い、その昭和2年春には過去の前衛期の難解さを総括して「橋よ燒けろ」発言を書いていたりもします。

そして中期への離陸が決定的となるのが草野心平『銅鑼』(ここには生前の宮澤賢治や八木重吉も詩を発表しています)に寄せた「旋風」であり、野川隆の同人参加を草野心平が非常に喜んでいる後書きなども殘っていますが、前期野川からは想像のつかない平明でまっすぐなプロテストソングを歌い始めています。

ここで「歌う」と書いたのは、まさにその方向へ野川がシフトしようとし始めていた経緯などはまた中期野川の著作集2への準備のために後日書きますが、そんな「旋風」を毎度の池田ゲバラ隊長が早速歌ってくれております!
Check this out!

この「歌う」方面へ詩を持っていこうとした野川と、やはり「歌う」方面に活路を見いだした勝との、まるで左右鏡合わせのような二人の細かい生の比較検証は逐次触れてまいりたいとも思いますが、それが『野川隆著作集2』の準備ともなるはずです。

「變電叢書」紙刊行予告

さて脇道それましたが、なにはともあれ今回の變電叢書第一篇『野川隆著作集1』近日bccksでの展開の際に新書サイズで紙も刷る予定です。今回もカバーデザイン担当の牧瀬”アリアリ”洋氏が最高のを仕上げていただき誠にありがとうございました。背表紙・裏表紙入れるとこんなにイカす!

イカす牧瀬洋デザイン

イカす牧瀬洋デザイン

まさに僕の期待を超えるクールなデザインでMerzであり、この戦前の「新興藝術派叢書」的なものを所望したところそれを超えるいかすモダンなデザインで社主大満足です。

新興芸術派叢書 復刻 10 『街のナンセンス』龍胆寺 雄 ゆまに書房刊2000年

新興芸術派叢書 復刻 10 『街のナンセンス』龍胆寺 雄 ゆまに書房刊2000年

実際に野川隆詩集が当時発行されていればこのテイストであったに違いないと思えており以下『極東ロシアのモダニズム1918ー1928』町田市立国際版画美術館図録画像の比較検証のために転載しますが、

小野十三郎詩集「半分開いた窓」岡本潤詩集「夜から朝へ」 『極東ロシアのモダニズム1918ー1928』町田市立国際版画美術館図録 2002年より

小野十三郎詩集「半分開いた窓」岡本潤詩集「夜から朝へ」
『極東ロシアのモダニズム1918ー1928』町田市立国際版画美術館図録 2002年より

村山知義役トラー詩集「燕の書」萩原恭二郎詩集「死刑宣告」 『極東ロシアのモダニズム1918ー1928』町田市立国際版画美術館図録 2002年より

村山知義役トラー詩集「燕の書」萩原恭二郎詩集「死刑宣告」
『極東ロシアのモダニズム1918ー1928』町田市立国際版画美術館図録 2002年より

この「變電叢書」が古本屋に上記詩集と並んでいても遜色ない(!?)ではないか!と心から歓喜しておりますが、よって變電叢書三巻までを抱え持って2015年5月4日(月祝)開催「第二十回文学フリマ東京」で限定50冊つづくらいで出店しようかな!と企んでます!オーサリングも間に合うか!またも時間との勝負になりましたが、なにはともあれストア配布までもう少々お待ち下さいませ。

本年もよろしくお願い申し上げます。

變電社社主 持田泰

池田敬二橘不二雄90年の時を超えて共演

【速報】橘不二雄『月と列車とのダダ的關係』が90年の時を経て池田敬二氏に歌われるという快挙【変電社フォークゲリラ】

なんと!某業界では皆様おなじみの池田敬二氏が、先週【変電社復刊宣言予告】野川隆と橘不二雄と「白山の野郎ども」【橘不二雄『腕の欠伸』文化庁裁定に送り出すよ宣言】で紹介させていただいた90年前の謎の詩人橘不二雄の『月と列車とのダダ的關係』に曲つけて歌い上げていただきました!これ歴史的快挙ですよ!本当掘り出した甲斐があったってもんですよ!

なんかしみじみと秋の夜長にこうやってあの橘不二雄が歌われている現実に感動しております。ちなみに私事ではございますが本日社主代理持田泰は42歳の誕生日にあたり、勝手ながら素晴らしいバースデイソングを頂いた気分であり(※僕が誕生日であることは池田氏は知りません)、改めて変電社アクセル踏んでったろうと誓った晩であります。このたび作曲し熱唱いただいた池田敬二氏に感謝と拍手を送りたいと思います。本当ありがとうございました!引き続きどうぞ宜しくお願いいたします。

池田敬二橘不二雄90年の時を超えて共演

池田敬二橘不二雄90年の時を超えて共演

なお今回歌い上げていただいたものは先週復刊宣言予告した『腕の欠伸』収録作品から一部異同がみられる「ド・ド・ド」掲載時の作品の方です。再度学術研究的な意味で紹介します。

橘不二雄『月と列車とのダダ的關係』大正14(1925)年6月

『月と列車とのダダ的關係』

念のため再度触れておくと、橘不二雄は生没年月日とも一切不明な人物です。もし前回記事また今回の池田氏熱唱を見て何かしら情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら是非ご一報くださいませ。

現在判明している「橘不二雄」

判明している事実

  • 大正期アバンギャルド詩人として大正14(1925)年6月に『ド・ド・ド』登場
  • 詩集『腕の欠伸』をマヴォ系岡田龍夫装幀で大正14(1925)年10月に出版
  • 「近代詩歌」大正14(1925)年11月「詩壇時評」にて小野十三郎「ドンザッキー・遠地輝武・橘不二雄詩集評」の広告を発見するも内容未確認
  • おそらく詩誌「太平洋詩人」第2巻第1号 昭和2(1927)年1月号の「詩人住所録」を最後に彼の名前が詩壇から消える。住所録には「橘不二雄、市外戸塚町源兵衛一五六」と記載。現在の高田馬場の新宿諏訪町郵便局近辺。

勝手な想定

  • 誕生年想定として「20世紀跨ぎ生まれ」1900〜03年くらいの可能性
  • 東洋大学在籍(1918〜26)者であるものの中退詩人の可能性

勝手に進めていること

  • 文化庁の著作権者不明等の場合の裁定制度に申請準備
  • 学術的な意味で一部作品の公開
  • 学術的な意味でフォークゲリラ

なお池田氏には野川隆も作曲していただけるとのことなので乞うご期待!次回より年末まで野川隆ラストスパートかけてまいります。

社主代理 持田泰

【変電社復刊宣言予告】野川隆と橘不二雄と「白山の野郎ども」【橘不二雄『腕の欠伸』文化庁裁定に送り出すよ宣言】

無沙汰しております社主代理持田です。唐突に、と言いますか毎度のことですが、余談から始めますが、先日、渋谷-六本木間を結ぶ都営バスの深夜運行が連日閑古鳥が泣いて試行期間1年をまたずこの11月1日をもって最終運行日となりましたが、珍事が置きました。その際のニュースが以下。

ガラガラの深夜バス ハロウィンと重なった終了日に客最多となる皮肉 livedoorNEWS 2014年11月1日記事

 2020年の東京五輪・パラリンピックを見据え、夜の交通の利便性を高めるため、猪瀬直樹・前東京都知事が始めたが、舛添要一知事が9月末、利用者の低迷を理由に、試行期間1年の終了を待たずに廃止を決めた。
 この日は、前夜のハロウィーンと重なり、大勢の仮装した客が乗り込むなど、一晩の利用者数は皮肉にも過去最多の512人に上った。

このニュースを見たときに僕は「皮肉」は聞こえずに、しみじみと都会的メルヘンを感じていたわけですが、どちらかといえば近年にわかに盛り上がりを見せる都内のハロウィーンの喧噪に毎年嫌味のひとつでもツイートしたくなるような偏屈さを持つ中年たる自分も、このニュースでもって妙な蟠りが解けて、ゾンビやゴスロリや小鬼たちに混じってそのアルコール臭い最終バスに乗っていたかった!このバス停で「看護婦ゾンビ」と「バニーガール」が乗車しあのバス停で「バットマン」と「スーパマリオ」が下車する!ああ何往復でもしていたいな!と思わせるに充分であります。都市のネオンに酩酊しながら何往復でも。

で、話を本論に戻すと僕はこのバスというのは非常に「時代」に似ているな思えた。前回(【秋の変電書月間’14】「村山知義の強引」ゲオルク・カイゼル作/北村喜八訳『朝から夜中まで』)で取り上げた世代論「20世紀跨ぎ生まれ世代」の群像をこの「『20世紀』発バスの乗客」で捉えると、個人ではなく車両に襲いかかった「時代」のうねりが判るのではないか、と思えた次第です。

「20世紀」発のバスが出た。そのバスに始発から乗っている人も入れば途中から乗車した人もいて、また「ダダ」でバスに乗り仮装を変えて「ボリシェヴィキ」で降りた人がいる。「アナキズム」で乗り「獄死」で降りた人もいれば「大東亜文学者」で降りた人もいる。その「終着はどこだったのか?」は誰も判りはしません(まだ辿り着いていないのかもしれない)が確かに「20世紀」発のバスが出た

で、今回は久しぶりそのバスの乗客であるところの野川隆—「アヴァンギャルド」で乗り遠く「満洲協和會服」で降りた彼の作品を「でんでんコンバーター×BiB/i」公開のつもりでしたが、ここ数ヶ月の永田町(NDL)広尾(都立中央)立川(都立多摩)図書館詣での中での見えてきたもう一人の「乗客」橘不二雄に触れておきたい思います。

というのも彼の調査の結果「『20世紀』発バス」の乗客群像に、ひとつ認識が追加されつつあるので、今回の「白山の野郎ども」というサブタイトルをつけました。当初これらを「白山アヴァンギャルド」なんて勝手に呼んてみようかとも思ったのですが、とくにイズム=イストは混成でいいのではないかと。アヴァンギャリストもダダイストもアナーキストも果てはマヴォイストもネオシュプレマリスト(初期野川が名乗った)も全て引っ括めた「野郎ども」でいいのではないかと考えた。

この「野郎ども」表記は特段ふざけたわけではなく、かのポール・E. ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』でいうところの「対抗文化」の担い手としての「野郎ども」というニュアンスであり、

その学業を放り出して長髪にルパシカを着てゴム長靴で銀座上野浅草の街路を練り歩き吠えて叫んだ大正期の「野郎ども」の姿は、南天堂書店の歴史を寺島珠雄の遺作にして名著『南天堂―松岡虎王麿の大正・昭和』でも描かれています。

そして今回記事タイトルにありますように最初に宣言予告しておきます。変電社は野川隆を著作選集として復刊させた後、この橘不二雄の詩集『腕の欠伸』を正当な手続きをもってして復刊させます

「謎の詩人」橘不二雄『腕の欠伸』復刊宣言予告

腕の欠伸 : 詩集』(コマ数:31)
著者:橘不二雄
発行年:大正14(1925)年10月5日 出版社:ドドド社
国立国会図書館デジタルコレクション「近代デジタルライブラリー」

こちらやはり「インターネット公開(裁定)著作権法第67条第1項により文化庁長官裁定を受けて公開 裁定年月日: 2012/03/01」のためサムネイル公開いたしませんが、しかしこんな「文化庁裁定」という煩わしいところまで手続きをしてくれたからこそ本作と読むことができたわけですからNDLは偉大です。

なお先ほどの「正当な手続きをもってして」というのは何かというとこの「文化庁裁定」、つまり「文化庁の著作権者不明等の場合の裁定制度」を変電社も正式に利用してみようと考えています。幸いにもこの8月に随分とこの裁定制度の「相当な努力」ハードルが下がったという朗報があったわけですから、やはり乗るしかないビッグウェイブ。

『文化庁の著作権者不明等の場合の裁定制度』の「相当な努力」ってやつ

その『文化庁の著作権者不明等の場合の裁定制度』とは何ぞやということですが、軽く説明してておきます。

著作権者不明等の場合の裁定制度

上記ざっくりまとめると著作権者不明作品=オーファンワークスでも正式な手続きを踏めばその著作を国の保証のものとして出してもいいよという文化庁の制度なわけですが、以前に紹介させていただいた福井健策先生のオーファンワークス問題記事でもこう説明されている制度です。

内容は、権利者を探す努力を尽くしてそれでも見つからない作品については、文化庁が審査した上で、権利者に代わって許可を出し、補償金を供託すれば利用できるというもの。この制度、EUが導入中のものとの違いは、向こうは「探す努力をしたら使って良い」ルールで、日本は「探す努力をしたことを証明し許可を貰って使う」点。
 確かに世の中には制度を悪用する輩がいるから、政府の判断をかませる日本方式は安心だ。ただ、実はこのタイプは敷居が高い。EUでもこの形態は運用コストが高く、「利用が進まないのが欠点」と整理している。
 現に日本の裁定制度、従来の利用率は極端に低く年0~2件程度、最近若干の制度改善で利用率が上がったとはいえまだ年30件程度だ(しかも学習参考書系に偏る)。改善はされているが、潜在的なオーファン利用の需要はこんなものではないだろう。

——「そろそろ本気で「孤児作品」問題を考えよう」INTERNET Watch(2013/3/12)

その世界と比較しても結構煩わしい日本の「裁定制度」ですが、その中でもとくにハードルを高くしていた部分が以下「相当な努力」部分でした。

裁定申請を行うにあたって
 本制度は、権利者が不明な場合に利用することができる制度であることから、権利者が不明であるという事実を担保するに足りる程度の「相当な努力」を行うことが前提となります(法第67条第1項、同第103条、令第7条の7、告示第1条から第3条)。

「でした。」と記載したのは「相当な努力」がこの夏に大幅に見直しがあったわけです。 

文化庁「平成26年8月に「相当な努力」の内容を見直すとともに、「裁定の手引き」もあわせて見直し、運用の改善を図りました。PDF形式(278KB)

【見直し前の「相当な努力」】
ア)権利者の名前や住所等が掲載されている名簿・名鑑類の閲覧
イ)ネット検索サービスによる情報の検索
ウ)著作権等管理事業者等への照会
エ)利用しようとする著作物等と同種の著作物等の販売等を行う者への照会
オ)利用しようとする著作物等の分野に係る著作者団体等への照会
カ)下記のいずれかの方法で、公衆に対し広く権利者情報の提供を求める
・日刊新聞紙への掲載
・CRICのウェブサイトに30日間以上掲載
【見直し後の「相当な努力」】
①ア、イのうち適切なものを選択すればよい
②エの照会は不要とし、ウ及びオの照会をすれば
③カのうちCRICのウェブサイトでの広告について、申請に必要な掲載期間を7日以上に短縮する

閲覧照会先が選択制になりかつCRICへの「ウェブサイトでの広告」が「30日間以上掲載」を「7日以上に短縮」です。また運用の改善で「一律8,100円」とディスカウント。5年毎の更新再申請も申請者ベースで申請できるとのことなので、まあ、とりあえず、やってしまおうかと。「供託金」算出方法など、実際版元でもない人間が進めるには不明点も多いけれども、かえってずぶの素人が人体実験するにはよい先例になるのではないか?と踏んでおります。まとまった資本が必要な場合は、クラウドファンディングしてしまうのもありじゃないのかなと。なにはともあれずぶの素人なりにあらゆる手を使えばいいのであります。

といったわけで、改めまして橘不二雄『腕の欠伸』復刊宣言予告であります!ただし野川隆の後なので来年早々始動予定という意味で「予告」です

「橘不二雄」なる乗客

さて、そもそもの「橘不二雄」なる詩人ですが、実はこの「橘不二雄」は以前にドン・ザッキーを紹介(林芙美子と野村吉哉とドン・ザッキーと「詩」の時代)した際の「近デジ漁」の中でも視界に入っていて、その時は何者だかさっぱり判らず留保していた詩人です。そして実のところ文献調査をしている現在でも何者だかほぼわかっておりません

ただし同時代の「詩誌」漁りの中でようやく見えてきた輪郭として、この「橘不二雄」なる人物が「20世紀」発バスの中でもドンザッキー、野村吉哉、村山知義そして野川隆の近くに確かに座り、そして何も言わずに降車した詩人であることは判明しました。ゆえに僕は驚いているわけです。みんなそんな近くにいたのか!と。

橘不二雄が『腕の欠伸』収録作品の初出はドン・ザッキー「世界詩人」村山友義「マヴォ」であり、そしてそのマヴォ系で村山、岡田龍夫、多田文三ととも同人にも連なる「ド・ド・ド」(今回の『腕の欠伸』もドドド社で出したわけですが、雑誌初出時と異同も発見しています)。他にも『腕』未収録作品の詩片を村山、岡田、多田とともにマヴォ「後継誌」ともおぼしき「ヒロドパス」に出していたりします。どうもその時期の橘は前衛詩界隈では少し名の知れた存在で、「近代詩歌」大正14(1925)年11月「詩壇時評」にて小野十三郎が「ドンザッキー・遠地輝武・橘不二雄詩集評」を書いていることも広告から判明しました、が内容未確認です。その広告という部分で「ド・ド・ド」裏表紙記載されていた自社広から発見して個人的に驚いた箇所があります。

「ド・ド・ド」裏表紙広告

「ド・ド・ド」裏表紙広告

本来『腕の欠伸』自体もそのマヴォ系岡田龍夫装幀であるようなんです。「本来あるようなんです」というのもNDLデジコレ所蔵だと表紙消えているので、「ド・ド・ド」裏表紙の詩集広告を見るかぎりの判断でしかないわけですが、ここで一緒に村山知義訳トルラー(※前回のゲオルク・カイザーと並ぶドイツ表現派劇作家でもあるエルンスト・トラーの詩集)『燕の書』ならびに、かの萩原恭二郎『死刑宣告』といっしょに並んでいるということですから、岡田龍夫の燦然と輝くマヴォ系アヴァンギャルド装幀であることは間違いなさそうなんですね。岡田龍夫装幀がどんなものかといえばググるとこんな感じです(※なおここには並んでいませんが岡田龍夫装幀の斎藤秀雄『蒼ざめた童貞狂』はこないだ日月堂さんでシェアされておりました)。なお岡田龍夫が何者かというと、村山知義、高見沢路直らと「マヴォ」の過激分子として散々に暴れ回った戦前アヴァンギャルドの牽引者です。やはり彼も1930年代に渡満しています。がその後の行方が知れていません。

またもうひとつ重要な関係性も発見しており、以下、東洋大学系詩誌「白山詩人」第一号の奥付の会友欄に

「白山詩人」1号奥付

「白山詩人」1号奥付

橘不二雄は岡本潤小野十三郎多田文三、また野川隆と同じく「白山詩人」東洋大学系詩人だったことも判りました。もしかすればですが、橘も「20世紀跨ぎ生まれ世代」の彼等と同年代であり、また取り上げた全員と共通する「中退組」ーそれも1年足らずの早期中退組だったのかもしれない。すなわち名門「洋大」を捨て街に飛び出した「白山の野郎ども」。なお上記メンバーのうち「多田文三」もまだまだ謎の多い人物で今後調査して行きたいと考えています。

戦前「詩人大学」洋大の系譜

今では東洋大学「洋大」=名門と云われても想像つかないかもしれませんが、戦前期旧制学制期、東大、慶応、早稲田、東洋で「東京四学」と云わしめ、「白山の哲学」や「詩人大学」とも呼ばれた事実があります。東洋大学のページの東洋大学史エピソード集でも部分的に紹介もされていなくもないですが、ピントが結構ずれています。

白山文芸運動(大正7(1918)年)
大正7(1918)年、在学生によって「東洋大学文芸研究会」が創設され、のちに学外にも開放されました。公開講演会、文芸夏期講習会では、当時文壇・論壇の第一線で活躍していた、田山花袋・島崎藤村・谷崎潤一郎・有島武郎・和辻哲郎らを講師に迎えるなど、東洋大学文芸時代の到来という感がありました。そのほか『白山詩人』『白山文学』など、多くの文芸同人誌が刊行されています。現在も文京区向丘にある書店「南天堂書房」は、かつて二階に喫茶店「レバノン」、三階に出版部があり、林芙美子、草野心平、宇野千代、辻潤などの若い作家が出入りしていました。そこに東洋大学の学生も加わり、南天堂書房の二階「レバノン」は、詩人・作家を目指す若い人たちに大きな刺激を与える場所となっていました。

ここきっちり突っ込んでおくと、この大正期の南天堂二階に「レバノン」という名のレストランがあったという事実はありません。「レバノン」という店名は今東光が言い出したことで、先の『南天堂―松岡虎王麿の大正・昭和』で寺島珠雄が細かい検証の結果否定されています。またここで歌われているような「白山文芸運動(大正7(1918)年)」なるものが実質あったのかどうかという話でもありますが、同時期に大杉栄宮嶋資夫辻潤萩原恭二郎などなどアナキストダダイスト詩人作家画家主義者芸術家が集まった華やかりし頃の松岡虎王麿時代の南天堂二階にはとくに名称がなく、その後彼が夜逃げ同然でお店を手放した後の昭和期に「レバノン」という店名がついたようです。

そしてここで南天堂に「林芙美子、草野心平、宇野千代、辻潤などの若い作家が出入り」と書いているけれども、南天堂に出入りしてた頃の辻潤は40にさしかかるおっさんで「若い作家」と呼べる年齢ではないでしょうし、そしてせめて自分の大学に通った作家らを紹介した方がいいんじゃないでしょうかね。ここで取り上げている作家誰一人東洋大学に籍を置いてないじゃないですか。だったら、さきの「白山詩人」創刊号に名を連ねた「赤と黒」岡本潤、小野十三郎や「G・G・P・G」野川隆、「ド・ド・ド」橘不二雄の中退組「野郎ども」詩人でいいじゃないのかと思えます。

他東洋大から輩出されたビッグネームと言えば葛西善蔵坂口安吾木山捷平のほか、歌人前川佐美雄もいます。

1887年(明治20)年生まれの先輩各の葛西善蔵は置いたとしても、1906(明治39)年10月20日生まれの坂口安吾、1904(明治37)年3月26日生まれの木山捷平、1903(明治36)年2月5日生まれで前川佐美雄と、彼等もかの「20世紀跨ぎ生まれ世代」に遅れること数年です。安吾の初期ナンセンスファルス(笑劇)も前川佐美雄の戦前歌壇に衝撃を与えたモダニズム歌集「植物祭」も同じこの「白山の野郎ども」の山系と捉えてもよいのではないか。

つまり本郷(東大)横、白山(洋大)には、南天堂周辺たむろっていたアヴァンギャルド/アナキスト/ダダイストたるところの「野郎ども」詩人たちを発火点としたカウンターカルチャー圏が確かにあった、なんてことを考えているうちに平日21時まで開いてる広尾の中央図書館を追い出されて、プラプラと南麻布抜けて白金を通過してたら都営三田線「白金高輪」駅に行き当たり、ああそうかこの三田線乗れば「白山」まで一本だなと思い、そのまま呼ばれるようにして「その地」に行ってまいりました。

東洋大学学長井上円了像と秋の宵

東洋大学学長井上円了像と秋の宵

学内に潜り込んで見上げた初代学長井上円了銅像に「先生のところの不良中退組が残した詩片を21世紀の世に公開してみようと思います」と手を合わせたところ、先生はうんともすんと云わず静かに旧白山通りを見下ろしておられる。その道を都市的で妙ちきりんな詩を書いて喚いた90年前の「野郎ども」も下ったに違いない。閉店後の現・南天堂をパシャリして、ちょうどやって来た巣鴨駅行きのバスにのって帰った秋の晩であります(なお現在の二階には彼らが集ったレストランは無論なく学習塾?みたいになっているようです。)

現在の南天堂(閉店後)

現在の南天堂(閉店後)

しかしここまで来たのだから一篇だけ詩を紹介したい思いに。実は『腕の欠伸』収録作品とは一部異同がみられる「ド・ド・ド」掲載時の作品であり、この度は学術研究的な意味で紹介させていただきます。「僕は唾液をかすかに飮みこんで」の文が『腕の欠伸』収蔵ではありません。

橘不二雄『月と列車とのダダ的關係』大正14(1925)年6月

『月と列車とのダダ的關係』

念のため再度触れておくと、橘不二雄ほぼまったくわからない人物です。もし今回の記事を読んでに詳細が判る方がいらっしゃいましたら是非ご一報くださいませ。

現在判明している「橘不二雄」

事実

  • 大正期アバンギャルド詩人として大正14(1925)年6月に『ド・ド・ド』登場
  • 詩集『腕の欠伸』をマヴォ系岡田龍夫装幀で大正14(1925)年10月に出版
  • 「近代詩歌」大正14(1925)年11月「詩壇時評」にて小野十三郎「ドンザッキー・遠地輝武・橘不二雄詩集評」の広告を発見するも内容未確認
  • おそらく詩誌「太平洋詩人」第2巻第1号 昭和2(1927)年1月号の「詩人住所録」を最後に彼の名前が詩壇から消える。住所録には「橘不二雄、市外戸塚町源兵衛一五六」と記載。現在の高田馬場の新宿諏訪町郵便局近辺。

想定

  • 誕生年想定として「20世紀跨ぎ生まれ」1900〜03年くらいの可能性。
  • 東洋大学在籍(1918〜26)者であるものの中退詩人の可能性。
  • 次回は野川隆で

    さてここで橘不二雄は一旦置いて、次回は野川隆の初期「野郎ども」時代の初期詩編紹介に参ります!

    社主代理 持田泰

    【夏の変電書フェア’14】「野川隆の放物線」小品『田舎驛にて』『作品第三』【でんでんコンバーター×BiB/iでEPUB初公開】

    さて前回に続きガチの「夏の変電書フェア」で参りますが、さらにガチです夏休み中の変電社社主代理持田です。今回は終戦記念日8月15日にもちなみまして、改めまして渡満作家野川隆にフォーカスし「野川隆の放物線」というタイトルに思いを込めて進めたいと思いますが、改めて彼の軌跡を高見順の一文から。

    文春文庫さんへ復刊希望。またそろそろPDなので電子書籍化を目論んでいます。

    文春文庫さんへ復刊希望。またそろそろPDなので変電社としては電子書籍化を目論んでいますよ!

     
    この北園克衛と『ゲエ・ギム・ギガム・プルルル・ギムゲム』をやっていた野川隆は藝術左翼から左翼藝術へと轉換して『ナップ』に参加、のちに満洲で捕らえられて獄死した。私はここで野川隆の靈に脱帽するとともに、生きている北園克衛の操守にも脱帽せざる得ないのである。

    —高見順『昭和文学盛衰史

    言わずもがなの北園克衛は戦後も「VOU」や「プラスティックポエム」で世界的にも有名な前衛詩人ですが、その北園が本名「橋本健吉」時代に詩誌『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』(GGPG)を一緒に作っていたのが今回の野川隆です。1923年関東大震災直前期から昭和初期に一斉に湧いて出た前衛詩運動ならびに新興美術運動のラッシュの中で、稲垣足穂村山知義とそうそうたる面子が寄稿した日本のアバンギャルド芸術運動史でも重要な位置を占める詩誌です。そこから作家人生をスタートさせた野川は「藝術左翼から左翼藝術へと轉換して『ナップ』」へ至り、運動瓦解後、1938(昭和13)年秋に満洲に渡ります。高見はまた別のところでも、

     私はまた、満洲で死んだ野川隆のことを思い出すのである、これは敗戦前に死んだのであるが、しかし、これも自然死ではなかった。野川隆は私のこの回顧記に、昭和初期のダダ的詩人として登場しているが、のちに、いわゆる藝術革命派から革命藝術家になってナップに参加した。その活動中に逮捕され、釋放後、満洲に渡った。その満洲でふたたび治安維持法違反の疑いで検挙され、獄中で発病、病院に移されたが、そのときはもう再起不能であった。昭和19年歿、四十四歳。

    —高見順『昭和文学盛衰史

    そういったわけで野川隆、上記人生経路を経て1944年に没していますので著作権は切れておりますが、現代においてはマイナー過ぎるようで青空文庫には当然収録されておらず、また当然一般流通の電子書籍にあるわけなく、そもそも紙でも現在入手しやすいもので『満洲の光と影 (コレクション戦争×文学)』収録の戦前芥川賞候補作『狗宝』と、少し前に出た川村湊『満洲崩壊―「大東亜文学」と作家たち』の野川隆の章で数編の詩が紹介されていくらいです。

    しかしさすが国立国会図書館デジコレでは読めます。もっとも読めるには読めても、在満作家アンソロジーかそのまま雑誌に掲載作品が多いために、他の著作者との関係上、国立国会図書館本館利用か、図書館送信サービス利用館でしか読むことができません(国立国会図書館デジタルコレクション「野川隆」検索結果)。

    「インターネット公開」がない!残念!

    「インターネット公開」がない!残念!

    で外部から見ようとすると以下のようになります。

    「この資料は、国立国会図書館および図書館送信参加館の館内でご覧いただけます。複写箇所が特定できる場合は、遠隔複写サービスもご利用いただけます(歴史的音源、電子書籍・電子雑誌を除く)。」

    「この資料は、国立国会図書館および図書館送信参加館の館内でご覧いただけます。複写箇所が特定できる場合は、遠隔複写サービスもご利用いただけます(歴史的音源、電子書籍・電子雑誌を除く)。」

    とはいえ個人的趣味として先日の図書館送信サービスに取材(【行って来たよ!】国立国会図書館図書館向けデジタル化資料送信サービス体験レポ【美味しいマカロニ】【また行って来たよ!】続・国立国会図書館図書館向けデジタル化資料送信サービス体験レポ【いつも陽気で】)以来、実はポロポロと野川隆作品を複写サービス利用で持ち帰っており、結構數の作品コピーが手元にあります。

    で、こちらを長らく紹介したいなと思ってはいたものの、上記理由によって、いつのもように国立国会図書館デジコレサイトに飛ばしてオンライン誘導させてもコンテンツが読めませんから、これは弱った「変電書」ではないなと。にもかかわらず、複写サービスコピー用紙からレビューを書いてしまった暁には、当変電社サイトは単に「複写してまでも読みたい近現代文学マニアックおじさんブログ」として侘しい一生を終えるのではないかと。※「既にそうだろう」という誹りは受け付けておりません。

    なので変電社社主代理としてここで「名折れてたまるか」ということで一念発起し、コピー用紙からテキストを起こして、でんでんコンバーターにてEPUB生成し、さらにはBiB/iをサイト導入し、変電社サイト内部で作品をビューワー上で読める環境を構築しました!やったぞ!バンザイ!野川隆が電子書籍.epubで読めるのは変電社だけ!手打ちなのでどれも短いんですけれども!まとめて近日KDPで変電叢書『野川隆選集』として配布しようかと企んでおります!Coming Soon!

    ※なおあらためて、でんでんコンバーター高瀬 ‏@lost_and_found 氏ならびに、BiB/i松島まっつん @satorumurmur 氏、お二人の素晴らしいお仕事に対して最敬礼を送らさせて頂きます。

    野川隆「電子書籍」レビュー

    さて野川隆「電書」レビューを開始したいと思いますが、まず先の高見順が戦前の昭和文学史を振り返る連載の中で「野川隆は藝術左翼から左翼藝術へと轉換して『ナップ』に参加、のちに満洲で捕らえられて獄死」と数回に渡り熱く語るところの背景に触れておきます。一言で云えば、この人生行程こそが、あの時代の若い表現者たちのある端的な「典型」であったということです。

    アバンギャルド詩の街のチンピラからナップの「闘士」へ。そして検挙逮捕されて運動を挫折し、マルクス主義を完全に捨て「転向」し釈放されるものもいれば「主義は捨てないが実践運動には参加しない」という「準転向」という形で釈放されるものがいる。で後者は「内地はうるさいから」と満洲へ落ちのびる者もいる。例えば戦後「現代画廊」主であり「気まぐれ美術館」美術エッセイで熱狂的な読者も多い洲之内徹も同じく、左翼活動から転向し情報将校として軍部に雇われ1938年秋(野川と同じ頃)に大陸に渡っています。野川より年齢は10歳下になりますが、彼は軍属として日中戦地で働いて生きて内地の土を踏んだので、その当時の作品を書き残しいくつかの作品は戦後芥川賞候補になっています。

    そういった視点から「野川隆」という砲弾が20年代アバンギャルド運動の砲台から高く発射され大きな弧を描いて遠く海を超えて遥か北満の大地に確かに着弾したという事実を作品から追ってみたいと考えています。今は忘れ去れた「野川隆の放物線」です。まずはその着弾地点から。

    野川隆『田舎驛にて

    『田舎驛にて』


    野川隆『田舎驛にて』






    掲載誌『北窗. 3(2/3)』p94~98(50コマ目)
    発行日:昭和16(1941-05) 
    出版社:満鉄哈爾浜図書館
    国立国会図書館デジタルコレクション
    ※「国立国会図書館/図書館送信参加館内公開」コンテンツのため複写サービス利用



    この非常に短い5頁ほどの小品『田舎驛にて』が掲載された『北窗(ほくそ)』の発行元が満鉄哈爾浜(ハルピン)図書館ですが、こちらに関してはその図書館長である竹内正一の『哈爾賓入城』は以前にレビューを書きました。その同時代の作品となります。それでありながら竹内正一が描かなかったところの満洲の生活者が確かに写されています。生活者は満人(中国人)だけでなく書き手自身である日本人をも指しています。「噯、噯、老頭兒呀!這邊來、來々!」と支那(中国)語を巧みに操る「私」(竹内の作品にはロシア語巧みに使う日本人は出てきましたが、中国語喋る日本人は一人も出てきません)は、「合作社」の仕事をしている「協和會服」を着た日本人です。 この「合作社」とは何かというと、神戸大学付属図書館新聞記事文庫にやはりいい記事がありました。

    誕生近き興農合作社 新京にて 島崎特派員(大阪朝日新聞 1940.3.2-3)

    誕生近き興農合作社 新京にて 島崎特派員(大阪朝日新聞 1940.3.2-3)

    誕生近き興農合作社 人口の八割を占める農民大衆を、半封建的な旧機構の桎梏から解放して、新体制の下に理想農村を創造しようという建国精神具現のための農村協同組合たる農事合作社と、高利貸資本の重圧から農民を救出しようという主旨の下に設立された近代的金融機関としての金融合作社、この両合作社を統合して、新たに興農合作社を作ることになったのである —誕生近き興農合作社 新京にて島崎特派員(大阪朝日新聞 1940.3.2-3)

    いわゆる満人貧農による協同組合を組織して生産力を向上させ彼らの貧困救済をはかる運動が「合作社」です。 また「私」が着ている「協和會服」とは何かと云うと、満洲国政府と表裏となって「五族協和」の「王道楽土」の建設の実現を図るための政治教化団体「満州国協和会」というものがあり(※言わずもがなで甘粕正彦が総務部長)その正装が「協和會服」です。国民服、人民服(中山服)とよく似たものですが、Googleイメージ検索でこんな感じのものですが、「協和会服」より「協和服」の方がひっかかりますね

    野川隆は此の「合作社」運動の中で再度治安維持法違反嫌疑で投獄されます。2008年にでっち上げであったことも証明された満鉄調査部事件の第二次検挙されたメンバーの一人として連座していた(もしくはその煽りの中での逮捕)ようです。
    ※2014年8月13日訂正追記:上記はその後の調査で私の完全なる勘違いであることが判明です。野川隆は以下引用の1941年11月4日「合作社事件」における「50名余の運動関係者が検挙」のうちの一人です(参考:川村湊『満洲崩壊―「大東亜文学」と作家たち』)

    橘樸の影響を受けていた『満州評論』編集長・佐藤大四郎は、1937年1月以降、北満州の浜江省綏化県で、貧農を農事合作社(協同組合)に組織して生産力を向上させ彼らの救済をはかる運動に従事していた。満州国協和会中央本部実践科主任・平賀貞夫らの逮捕からこの運動は日本人「前歴者」が結集したことで関東憲兵隊(関東軍司令官隷下の軍令憲兵。憲兵司令官指揮下ではない)に目をつけられ、共産主義運動の嫌疑で佐藤のほか協和会の鈴木小兵衛、満鉄調査部の花房森・佐藤晴生など50名余の運動関係者が検挙された(合作社事件、1941年11月)。

    なお、この満鉄調査部事件/合作社事件のWikipediaでも記載されている。

    満鉄調査部は、1939年の拡充に伴う人員増強により、日本内地で活動の場を失った左翼からの転向者が多数就職していた。彼らは、内地ではもはや不可能となったマルクス主義的方法による社会調査・分析に従事しており、そのことが関東軍の憲兵隊を中心とする満州国治安当局からの監視の目を強めさせることになった。

    これは先の洲之内徹なんかも全く同じ任務で陸軍の情報将校として中国北東部に着任しています。その彼の仕事ぶりが芥川賞候補作『棗の木の下』『砂』(「洲之内徹文学集成」収録)でも読めます。余談ですが、芥川賞選考会では「不道徳」の誹りを受けたものです。日本人が戦時下中国大陸で何をしてきたのか、また戦場が実に日常と地続きであることがこういう作品を読むといたく分かります。

    さて『田舎驛』作品に話を戻したいと思いますが、まず文末から。(八・三・二六)と記載があります。これは「康徳8年3月26日」のことであろうと予測され、「康徳」は満洲国の年号で建国から8年、昭和で16年、西暦で1941年の3月26日。で、どんな年であったかというと、日中戦争は前線の拡大化泥沼化の一途を辿る一方で、対米交渉も完全に行き詰まり、援蒋ルートの遮断と「油」のために「南進」へと急速に転がり落ちていく時代です。まさにその年の冬12月8日未明、日本帝国海軍航空隊が真珠湾を奇襲し太平洋戦争が勃発します。ある意味日本が「詰んでしまった」年です。

    そんな時代の北満の大地で「協和會服」を身にまとい「合作社」で従事する「私」の鉄道三等客車の中でのちささやかなエピソードになります。ここに戦争の影はありません。大陸における戦時下の満洲国農村近辺での日常があります。「私」は「親切な日本人」です。あの時代でなお大勢居たであろう無名の「親切な日本人」の中の一人です。そんな「私」でも意図せずして満人モラルを「結局、まあ、文化水準が低いんですね、……」と漏らし、すぐ「教育が普及してないんですね」と言い直します。しかし「さうですな。全くですァ、教育ちうもんがまるきり無いんやからなァ」に日本人乗客「五十男」の同意されてどこか叱られた気分になります(しかし現在の中国に対する言説でもこういう会話が普通に飛び交っていることを考えると、我々はこの73年の間に何か学べたことはあったのでしょうか)。そして駅についた時に馬車の取り合いで満人が大混雑するホームを眺めるだけしかできない「私」に「五十男」がこう云う

    「これですァ!……」とさつきからすつかり機嫌をよくしてお喋りになつた五十男は私の肩を手袋の指先で突ついて云ふのである。「なつちよらんですなァ、交通道徳ちうもんがないんやから……」  そして大きく左右に肩をゆすぶりフェルトの長靴をがに股にざりざりと五六歩すすませると、突然しゃがれた聲でどなつた。 「こら、こら、どかんかい!……なんや、なんや、ほら、ならべ、ならべ、ならばんかい!……」  それから、これはまた恐ろしく身體つきに似合はぬ小さな手提カバンを右手で中空にひとふりすると矢庭に群衆のなかに跳びこんで、皮につゝまれた黒光する兩肩でさかんにぐいぐいと押しこくりながら人間の波間を前方へとおよいで行つた。

    —野川隆『田舎驛にて

    この「五十男」が満人に対して「教育指導」を行わんとするところの日本人の文化的「横暴」を「私」は呆然と見送ります。その見送られた「横暴」はそのまま北東中国戦地また南洋の戦地で繰り広げられたわけですが、この「私」の「置いていかれてしまった感」は痛切です。「協和會服」を纏い「合作社」的理想を抱えた「親切な日本人」が北満の寒空の田舎駅で21世紀の今でなお、ぼんやりと佇んでいるかのように思えてなりません。 さて着弾地点における野川隆に続いて、今度は発射台の野川隆を紹介します。

    野川隆『作品第三(宇宙・人間及想像)

    『作品第三(宇宙・人間及想像)』


    野川隆『作品第三(宇宙・人間及想像)』






    掲載誌『エポック. (1月號)(4)』p52~59(33コマ目)
    発行日:大正12年(1923-01)
    出版社:エポック社
    国立国会図書館デジタルコレクション
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    この掲載誌『エポック』はこれは先の『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』(GGPG)発刊が同じエポック社からその年の6月なのですが、その前身にあたる野川隆・孟兄弟、大正期新興美術運動の中心的人物玉村善之助らと一緒に出したもので、目次を見ると、「ダダ・ダダ」「未來派の宣言に就いて」などなど当時の欧州で盛んに破裂していた新興芸術運動の紹介から評論・翻訳など展開しています。その中で野川隆が22歳の頃に書いたとおぼしきものが、この『作品第三(宇宙・人間及想像)』です。

    以前ドン・ザッキーを取り上げた際(林芙美子と野村吉哉とドン・ザッキーと「詩」の時代 【レビュアー:持田泰】)にも書きましたが、あの時代特有の「誇大妄想」感溢れる「内面」が迸るように吐露され、その「藝術左翼」サイドから果敢に何か触れようと「狂」じていて、そゆえにリリシズム溢れています。ただ「若い作品」です。

    ちょうど同じ頃、1923(大正13)年7月かの小林秀雄がプレ批評家時代に『一つの脳髄』という小説を残していますが、個人的にその印象と良く似てるなと思ったところ、実は小林秀雄の誕生日が1902(明治35)年4月11日で、野川隆が1901(明治34)年4月23日なので二人は同世代でした。同じ世代の「若い詩人」たちにとって高度に回転した「自意識の球体」の出口の無さの神経衰弱の果てに、出会ってしまうナニモノかがおそらくは彼等のリアリティの担保になったのだと思う訳ですが、おそらくそこが「どん詰り」であることに二人は気づいたかのような終わり方です。

    しかしこの『作品第三(宇宙・人間及想像)』の22歳の「砲台」からから『田舎驛にて』の40歳の「着弾地点」を思うと、野川隆という作家は本当に遠くまで飛んだなあとその射程距離に驚きます。

    「野川隆は藝術左翼から左翼藝術へと轉換して『ナップ』に参加、のちに満洲で捕らえられて獄死」

    上記一文の中に託された放物線は野川の他作品でもっと細かく辿れます。実は今回他にエポック時代から満洲で生前唯一残した非売品の詩集『九篇詩集』(※なお聞く所では「50万円以上」で取引される幻の超ド級レアアイテム)収録の詩編もいくつかEPUB化しておりますが、今回こちらの記事が長くなってしまっているので、今月8月に発行される(はず!)の電誌トルタル五号にて変電社「野川隆」特集として公開させていただきます!是非ともCheck This Out!

    今後もテキスト起こしてEPUB化宣言(変電社第五宣言)

    さて、前回に続き一人の作家に張り付いて、なお今回は国立国会図書館複写サービスからテキスト起こしてepub化までしたわけですが、今後も短いものであれば「でんでんコンバーター×BiB/i公開」を実施したいと考えています。なぜならば、昨今のデジタル化インターネッツ化の荒波の中で、さもすれば「パブリックドメイン」がなんのかんのと話題になりがら、端で見ていると、どうも簡単な形で、つまり戦後書籍化されててデータ化容易なものから青空文庫などで公開されていて、それはもちろんまったくもって良いこと有難いことでありながら、そこにあったはずの価値付けや文脈が一切なく並ぶことに対しては、変電社社主代理として前回の「過渡期の横光」記事でも違和感を表明しました。

    今回も非常にボリューミーなレビューになりましたが、以後も、コンテンツを語る時にコンテクスト抜きで語れてしまう時代への反逆精神、すなわち「偏愛」でもってして、自ら「変な電子書籍」の作成してまでも、皆様に紹介したいと思います。

    最後に、今回まとめた野川隆の作品、またそれ以外複写コピーで読んで感銘をうけたものの長いのでテキスト起こしを断念した諸作品含めて、その作品に宿りし「野川隆の靈」対して、私も末席ながら「脱帽」をさせていただきます。

    社主代理 持田泰

    変電社公式SUZURIショップOPENだよ!

    【変電社リブート宣言3回目】変電社公式SUZURIショップはじめました



    社主代理持田です。やはり引き続き趣味と仕事をこっそり兼ねたるということで、
    変電社リブート宣言3回目と称して変電社公式SUZURIショップ始めました!

    変電社公式SUZURIショップOPENだよ!

    変電社公式SUZURIショップOPENだよ!

    以下の近デジコンテンツから戦前プロ文センス炸裂のTシャツやトートやマグカップができましたぜ!

    プロレタリア漫画カット集





    プロレタリア漫画カット集』(コマ数44)
    出版社:日本労働組合自由連合協議会
    発行日:昭和8(1933)
    国立国会図書館デジタル化資料「近代デジタルライブラリー」






    パブリックドメイン利用で様々なチャレンジを今後もし続けてまいりますが、いいカットや挿絵は実はまだまだありますので、こちらのショップでどんどんアイテムを増やしていく所存です。

    ちなみに変電社ロゴ作成いただいたイラストレイター松野美穂さんSUZURIショップでは変電社ロゴグッズ他トルタルロゴグッズ販売中ですよ!Check this out!!

    松野さんSUZIRIショップも要チェック!

    松野さんSUZIRIショップも要チェック!

    しかしそろそろちゃんと変電書レビューも書きますよ!

    【変電社リブート宣言2回目】変電社公式ブクログ棚はじめました

    変電社reboot2
    無沙汰のくせに景気よく変電社流アホカスタマイズ画像から再開しましたが、最近炭水化物ダイエットに嵌り米食べてません社主代理持田です。
    2月更新以来またこちら止まっておりますが、春先にマガジン航への投稿記事(NDL所蔵古書をプリントオンデマンドで2014年5月8日)なんかは出してますが、いかんせんアウトプット労力を惜しむ癖に一旦書き始めると無駄に長文になるという「人見知りの癖に話が長い」的な誰も得しないスタイルのせいで日々の生活に逃げておりました。

    でももー逃げへん、やったる。趣味と仕事をこっそり兼ねたる。ということで




    変電社公式本棚

    ブクログで過去変電社ブログで紹介したコンテンツで棚作ってみました。
    以前に“BOOKSHOPLOVER” 和氣氏にところで青空文庫棚こさえてのインタビュー(変電社社主代理の持田泰さんは青空文庫から選んだ25冊で「都市と旅とその時代」を語る)や、当ブログでジブリ「風立ちぬ」記念棚を途中で座礁させて棄て逃げるなどの真似をしましたが、今回は変電社本筋でもある国立国会図書館デジタルコレクションとGooglePlayブックス慶応図書館コンテンツのオリジナル登録で棚であります。

    本日は話短めにこれくらいですが、改めてこの棚組んでみて思ったのですが、当変電社既に活動を続けて3年近く経とうというのに、なんとまだ国立国会図書館デジタルコレクションとGooglePlayブックス慶応図書館コンテンツで21アイテムしか紹介していない。まして電子書籍に関して言えば18冊!これはやるやる活動詐欺だと思われます。面目ありません。社主代理持田週末飲み潰れてないでほんの少しづつ更新したいと思います。

    しかしこう棚に並べると見事に「古本屋」みたいでよいじゃないかと。「電子古書」という概念を追い求めて決起イベントまでしたのですから、たかだか18冊しか置いてない古本屋はみすぼらしい。のでもっと増やしたろうと思います!何はともあれ「査定」は結構な数しているのでもっと気軽に公開開始いたします!乞うご期待!

    【今更ながら】『変電社春の大決起集会:秋葉原蜂起』大総括レポート

     

    ご無沙汰すぎです!変電社社主代理持田です!
    さる5月8日水曜日「変電社春の大決起集会」ご報告もままならぬまま時間ばかり過ぎて完全にタイミング逸しております!本当に面目ありません!

    まず一言総括で言えば。

    本当に楽しすぎたから

    変電社善き門出となりました!参加頂いた社中の皆様!もろもろご尽力いただいた皆様誠にありがとうございました!

    この勢いで第二回第三回と各地蜂起へ続け!



    Video streaming by Ustream
    変電社『第1回春の大決起集会:秋葉原蜂起』その1
    ちなみに「その3」「その4」ありますが、「その2」は諸事情により欠番です。持田の前置きまどっろこしいので21分からみていただくと「変電書」紹介始まります。変電社の活動ならびに空気がどんなものか分かっていただけるかと。楽しそうだな!と思った方は今後も開催されるであろう変電社イベントにお気軽に遊びに来てください。変電社Fbページにいいね!も社中も随時募集中です!なお今回のイベントは電誌トルタル編集長古田靖氏ルポも別途上げていただける?はずなので乞うご期待!

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