不二出版「G・G・P・G」2007年復刻版購入により忘年会何個かキャンセル予定です

【ボンソアール!】稲垣足穂「とよく似た」野川隆の発射台【初期作品『しがあ一本』『靑黑いガス體』『黃色い詩』『無敵艦隊』公開】

社主代理持田です。予告通り通り久しぶり野川隆で「でんでんコンバーター×BiB/i」公開ですが、尖っていたころの前衛期野川の「G・G・P・G」創刊号「ノガワ・リュウ」時代の小品と前回紹介した村山知義の「マヴォ」に寄稿した詩をさっと紹介してまいります。

初期野川隆「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」「マヴォ」収録作品公開

さて今回の野川隆はあの「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」(=「G・G・P・G」)大正13(1924年)6月~大正15(1926)年1月頃の詩の公開です。こちらの詩誌「G・G・P・G」は2007年に不二出版にて全巻復刊されており、その時代の貴重な詩片を現代でも拝むことができるようになりました。都内公立図書館だと都立広尾図書館のみでしか蔵書なくチマチマ複写していたのですが、今回とうとう手に入れてしまった復刻版「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」32,400円税込也でございます。

不二出版「G・G・P・G」2007年復刻版購入により忘年会何個かキャンセル予定です

不二出版「G・G・P・G」2007年復刻版

ようやくこの野川隆という詩人の初期作品風貌だけでなくこの「G・G・P・G」全貌が知れました。いやあ尖ってますねえ。内外の芸術実験言語実験を貪欲旺盛に換骨奪胎せん勢いの当時20代前半の利発で都市的な不良青年らのヤングポエットぶりが炸裂しております。まずその記念すべき「G・G・P・G」初号が出るまでの経緯ですが、この彼の誕生から詩人としての登場までをざっと辿ります。なお以下履歴概略は西田勝著『近代日本の戦争と文学』「近代日本と戦争と文学」Ⅳ章『「満洲事変」から日本敗戦まで」の「7.中国農民に殉じた詩人野川隆」を参考にしております。野川の足跡をしっかりと追われており非常に参考になりました。

野川隆初期履歴

野川隆は森鴎外と東大同期で千葉大学医学部の前身にあたる第一高等学校医学部の教授であった野川二郎の九男として1901年4月23日千葉生まれます。生後8ヶ月で父が医院を開業するために一家とともに出身地であった岐阜に移ったことから、19歳で大垣中学(旧制)卒業するまで岐阜で育ちますが、14歳で父二郎が病没。軍医であった長兄弘が医院を継いだものの再建難しく、その借財を返すために長兄弘は「渡満」して中華民国間島省延吉県で野川医院を開業しており、隆も中学卒業後に一時長兄の元に母とともに身を寄せてます(なので彼にとって昭和13(1938)年の「渡満」は二度目であり、また親族の住む「大陸」であったということになります)。

翌大正10(1921)年に20歳の野川隆は上京。先の東洋大学に入学しますが1年足らずで退学。同じ頃「赤と黒」同人であり戦後も活躍した小野十三郎も同年1921年に上京し、東洋大学入学するも、わずか8ヵ月ほどで退学。同じく「赤と黒」同人であり東洋大学中退者と南天堂常連の岡本潤が詩作を始めていますが、野川隆も五兄の圭の紹介で就職した横浜税関に勤務しながら、七兄孟ら玉村善之助が創刊した海外新興藝術動向を紹介する「エポック」に『數學者の饗宴』(【大復活祭!電誌「トルタル」5号発刊記念】「野川隆の放物線Ⅱ」詩編『數學者の饗宴』『哈爾浜風物詩』他【続きはトルタルで!】にて紹介済)などを寄稿しはじめています。

その「エポック」は第6号(野川隆が訳したマックス・ウエバア訳詩集「立體詩三十八編」で一冊まるまる当てた号)を最後に途絶え、その復刊までの繋ぎとして野川隆が責任編集者として「G・G・P・G」初号が「非賣品」として世に出ます。その編集後記から。

ノガワ・リュウ『「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」第一年第一集編集後記』大正13(1924)年6月13日

『「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」第一年第一集編集後記)』

実は初号のみ野川隆は「ノガワ・リュウ」といカタカナネームで寄稿しています(※漢字の際の読みは「のがわたかし」)。そしてこの「都會の街々を動く、機械で出來た人間的な動物人形には、Gの發音の震動數と波形が氣に入つたのである」こそが「G」の産声が上がった瞬間であったわけですが、前回も軽く触れた稲垣足穂がむさぼるようの読んだのがこの大都会における雑音たる「G・G・P・G」です。以前も書きましたが高橋新吉、辻潤らの泥臭いダダよりも、都会的に洗練されたダダでありチューリッヒダダに近いと「G・G・P・G」を評した足穂ですが、さらにその時代を振り返った「GGPGの思い出」でこんなことを書いています。

野川兄弟は四谷の電車道にある細い横町を右へまがった所にある古い真四角な洋館で、そばにはキャベツ畠があり、従って彼ら兄弟はキャベツばかりをたべているとのことであった。この聞き伝えが根拠になって、私の「自分によく似た人」が出来たのである。この小話は『一千一秒物語』の中に収録されている。

稲垣足穂『「GGPG」の思い出』「稲垣足穂全集 第11巻 菟東雑記」2001年8月 筑摩書房

その「この小話は『一千一秒物語』の中に収録されている」は短いものなので全文引用させていただきますとこんな作品です。とても象徴的ですね。

自分とよく似た人
 星と三日月が糸でぶら下がっている晩、ポプラが両側にならんでいる細い道を行くと、その突きあたりに、自分と良く似た人が住んでいるという真四角な家があった。
 近づくと自分の家そっくりなので、どうもおかしいと思いながら戸口をあけて、かまわず二階へ登ってゆくと、椅子にもたれて、背をこちらに向けて本をよんでいる人があった。
「ボンソアール!」と大きな声で云うと向こうはおどろいて立ち上ってこちらを見た その人とは自分自身であった

稲垣足穂『一千一秒物語』新潮文庫 1969年12月

さて「ボンソアール!お前は俺か!」と足穂を叫ばめした野川隆その記念すべき「G・G・P・G」一作目が以下戯曲です。

ノガワ・リュウ『しがあ一本(一幕一場)』大正13(1924)年6月13日

『しがあ一本(一幕一場)』

上記「創作ばかり發表」宣言の初号においてノガワリュウ=野川隆作品はなんと戯曲から封切られたわけですが、最後「太陽はがらがらと割れて落ちる」あたりは足穂『一千一秒物語』でも星や月が「書割り」的オブジェクトとして描かれている様を彷彿とさせます。野川と足穂は途中歩む方向をそれぞれの道へと変えていくわけですが、数学や科学の知など野川隆からの影響である旨を足穂自身が明確に語っている事実は「諸君に銘記してもらいたい」by足穂。

なお本作は野川隆「G・G・P・G」掲載作品で最初の最後の戯曲となります。もっとも数年後大正終わって昭和2(1927)年に玉村善之助らと所謂「単位三科」の方の「劇場の三科」に参戦し「千万人のツアラトウストラ」という群衆劇を書いたようですが、その内容は不明です。この劇は1925年に開局されたばかりの大阪JOBKにおいてラジオドラマとしても放送されたといわれています。(五十殿利治『【改訂版】大正期新興美術運動の研究』(1998年スカイドア刊)「第十二章首都美術展から単位三科まで」上演」(P750参照)

この前衛劇をどこぞこかの劇団で上演される場合はわたくし胸熱で馳せ参じます(ご連絡お待ちしております!)つづいて2作の小品、これは並んで掲載された作品です。「青」と「黄」で並べるのはやはり作品内でも触れられるゴッホ的なるものへのオマージュかもしれません。

ノガワ・リュウ『靑黑いガス體』大正13(1924)年6月13日

『靑黑いガス體』

ノガワ・リュウ『黃色い詩』大正13(1924)年6月13日

『黃色い詩』

なお『黃色い詩』で触れられる以下

「君はHans Prinzhorn氏の”Bildnerei Der Geisteskranken”と云ふ本を讀んだかね。あれはいい本だ。一度眼を通して置き給へ。」

ノガワ・リュウ『黃色い詩』大正13(1924)年6月13日

これがなんと!ドイツ・ハイデルベルク大学のデジタルアーカイブでHans Prinzhorn”Bildnerei Der Geisteskranken“ちゃんと閲覧できるんですよ!こういうことがなにはともあれ「電子書籍」たるものの未来を繋ぐように思えてなりません。そしてハイデルベルグ大学のビューワとても使い勝手よくて泣けます。

つづいて少し「G・G・P・G」を離れて「マヴォ」に一度だけ参戦した際の野川隆の詩を紹介します。

野川隆『無敵艦隊』大正14(1925)年8月24日

『無敵艦隊』

やはーかっこいい詩を刻んできましたねえ「詩——あれはカミクズのことである」と来ますからねえ。また冒頭章の都会的なべらんめえ調で啖呵切っていくあたりが非常にクールじゃないですか。またも戦後POPSに照らし合わせてしまう私の悪い癖を発揮すると、Lou Reed- Walk on the Wild Sideが何か聞こえてきてしまいます。

ちなみに途中でフォントサイズ変えているのは「マヴォ」当該号にもそのように冒頭章と尻章以外は小さいフォントサイズ変わって掲載されていたので、それに倣いましたが、なんかここからギャンギャンとギター掻き鳴らしていそうにも思えますからパンクですねえしかもアートシーンに近場のNYパンクですねえ。しかもこちら初の「マヴォ」寄稿作品であり、その内に「G・G・P・G=ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」の異同たる「ゲエ・プリリリリリ・ギガム・プル・ゲム」とかの「Gの發音の震動數と波形」を放り込んでくるところなど憎いじゃないですか。「おう俺が「G・G・P・G」のノガワだけどよ」と「マヴォ」陣営を挑発しているかのようにも取れる詩です。まさに「白山の野郎ども」の「Walk on the Wild Side」。

変電叢書『野川隆著作選集』リリース予告

さて年末まで野川隆攻めで行く予定です。もっとも僕がどれくらいまで電子化できるか?という時間との勝負になってきました。だいたいの詩から小説、また評論類は今手元に揃えているのですが、中でも初期詩は組版上相当な難物があり、とりあえずは出せるものから「野川隆著作選集第一集」として電子放流することを目指したいと思います。

最後に大正14(1924)年11月3日に「世界詩人第一回講演会」記念写真を『世界詩人』第2巻第1号で見つけてきていますので転載します。赤丸で囲ったのは「20世紀跨ぎ生まれ世代」たるヤング野川隆の他、盟友橋本健吉(北園克衛)「世界詩人」主催ドン・ザッキー「マヴォ」村山知義ですが、野川と橋本の間には「G・G・P・G」同人であり画家「ウルガワ」こと宇留河泰呂(※この人の詩と人生行路も相当面白いので後日いろいろ詳らかにしたい)、中段真ん中にまとまって「赤と黒」萩原恭二郎壺井繁治他、下段真ん中に発禁詩集『夢と白骨との接吻』遠地輝武その横に「無産詩人」陀田勘助上段にアナーキズム詩の戦後の証言者たる「局清」こと秋山清等々。新進気鋭の一群が梁山泊のごとく一同介しております。
なおこの時期に「世界詩人叢書第6編」として野川隆『飛行競技会』という詩集を出す予定があったことが「世界詩人」の広告で知れました。こちらが発行された事実はないわけですが、仮に出ていたとしたら野川隆の初期アバンギャルド詩集として萩原恭二郎「死刑宣告」とともにもしかするれば後世に残るということもあったのかもしれません。

世界詩人第一回講演会記念撮影T141103

社主代理 持田泰

池田敬二橘不二雄90年の時を超えて共演

【速報】橘不二雄『月と列車とのダダ的關係』が90年の時を経て池田敬二氏に歌われるという快挙【変電社フォークゲリラ】

なんと!某業界では皆様おなじみの池田敬二氏が、先週【変電社復刊宣言予告】野川隆と橘不二雄と「白山の野郎ども」【橘不二雄『腕の欠伸』文化庁裁定に送り出すよ宣言】で紹介させていただいた90年前の謎の詩人橘不二雄の『月と列車とのダダ的關係』に曲つけて歌い上げていただきました!これ歴史的快挙ですよ!本当掘り出した甲斐があったってもんですよ!

なんかしみじみと秋の夜長にこうやってあの橘不二雄が歌われている現実に感動しております。ちなみに私事ではございますが本日社主代理持田泰は42歳の誕生日にあたり、勝手ながら素晴らしいバースデイソングを頂いた気分であり(※僕が誕生日であることは池田氏は知りません)、改めて変電社アクセル踏んでったろうと誓った晩であります。このたび作曲し熱唱いただいた池田敬二氏に感謝と拍手を送りたいと思います。本当ありがとうございました!引き続きどうぞ宜しくお願いいたします。

池田敬二橘不二雄90年の時を超えて共演

池田敬二橘不二雄90年の時を超えて共演

なお今回歌い上げていただいたものは先週復刊宣言予告した『腕の欠伸』収録作品から一部異同がみられる「ド・ド・ド」掲載時の作品の方です。再度学術研究的な意味で紹介します。

橘不二雄『月と列車とのダダ的關係』大正14(1925)年6月

『月と列車とのダダ的關係』

念のため再度触れておくと、橘不二雄は生没年月日とも一切不明な人物です。もし前回記事また今回の池田氏熱唱を見て何かしら情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら是非ご一報くださいませ。

現在判明している「橘不二雄」

判明している事実

  • 大正期アバンギャルド詩人として大正14(1925)年6月に『ド・ド・ド』登場
  • 詩集『腕の欠伸』をマヴォ系岡田龍夫装幀で大正14(1925)年10月に出版
  • 「近代詩歌」大正14(1925)年11月「詩壇時評」にて小野十三郎「ドンザッキー・遠地輝武・橘不二雄詩集評」の広告を発見するも内容未確認
  • おそらく詩誌「太平洋詩人」第2巻第1号 昭和2(1927)年1月号の「詩人住所録」を最後に彼の名前が詩壇から消える。住所録には「橘不二雄、市外戸塚町源兵衛一五六」と記載。現在の高田馬場の新宿諏訪町郵便局近辺。

勝手な想定

  • 誕生年想定として「20世紀跨ぎ生まれ」1900〜03年くらいの可能性
  • 東洋大学在籍(1918〜26)者であるものの中退詩人の可能性

勝手に進めていること

  • 文化庁の著作権者不明等の場合の裁定制度に申請準備
  • 学術的な意味で一部作品の公開
  • 学術的な意味でフォークゲリラ

なお池田氏には野川隆も作曲していただけるとのことなので乞うご期待!次回より年末まで野川隆ラストスパートかけてまいります。

社主代理 持田泰

【変電社復刊宣言予告】野川隆と橘不二雄と「白山の野郎ども」【橘不二雄『腕の欠伸』文化庁裁定に送り出すよ宣言】

無沙汰しております社主代理持田です。唐突に、と言いますか毎度のことですが、余談から始めますが、先日、渋谷-六本木間を結ぶ都営バスの深夜運行が連日閑古鳥が泣いて試行期間1年をまたずこの11月1日をもって最終運行日となりましたが、珍事が置きました。その際のニュースが以下。

ガラガラの深夜バス ハロウィンと重なった終了日に客最多となる皮肉 livedoorNEWS 2014年11月1日記事

 2020年の東京五輪・パラリンピックを見据え、夜の交通の利便性を高めるため、猪瀬直樹・前東京都知事が始めたが、舛添要一知事が9月末、利用者の低迷を理由に、試行期間1年の終了を待たずに廃止を決めた。
 この日は、前夜のハロウィーンと重なり、大勢の仮装した客が乗り込むなど、一晩の利用者数は皮肉にも過去最多の512人に上った。

このニュースを見たときに僕は「皮肉」は聞こえずに、しみじみと都会的メルヘンを感じていたわけですが、どちらかといえば近年にわかに盛り上がりを見せる都内のハロウィーンの喧噪に毎年嫌味のひとつでもツイートしたくなるような偏屈さを持つ中年たる自分も、このニュースでもって妙な蟠りが解けて、ゾンビやゴスロリや小鬼たちに混じってそのアルコール臭い最終バスに乗っていたかった!このバス停で「看護婦ゾンビ」と「バニーガール」が乗車しあのバス停で「バットマン」と「スーパマリオ」が下車する!ああ何往復でもしていたいな!と思わせるに充分であります。都市のネオンに酩酊しながら何往復でも。

で、話を本論に戻すと僕はこのバスというのは非常に「時代」に似ているな思えた。前回(【秋の変電書月間’14】「村山知義の強引」ゲオルク・カイゼル作/北村喜八訳『朝から夜中まで』)で取り上げた世代論「20世紀跨ぎ生まれ世代」の群像をこの「『20世紀』発バスの乗客」で捉えると、個人ではなく車両に襲いかかった「時代」のうねりが判るのではないか、と思えた次第です。

「20世紀」発のバスが出た。そのバスに始発から乗っている人も入れば途中から乗車した人もいて、また「ダダ」でバスに乗り仮装を変えて「ボリシェヴィキ」で降りた人がいる。「アナキズム」で乗り「獄死」で降りた人もいれば「大東亜文学者」で降りた人もいる。その「終着はどこだったのか?」は誰も判りはしません(まだ辿り着いていないのかもしれない)が確かに「20世紀」発のバスが出た

で、今回は久しぶりそのバスの乗客であるところの野川隆—「アヴァンギャルド」で乗り遠く「満洲協和會服」で降りた彼の作品を「でんでんコンバーター×BiB/i」公開のつもりでしたが、ここ数ヶ月の永田町(NDL)広尾(都立中央)立川(都立多摩)図書館詣での中での見えてきたもう一人の「乗客」橘不二雄に触れておきたい思います。

というのも彼の調査の結果「『20世紀』発バス」の乗客群像に、ひとつ認識が追加されつつあるので、今回の「白山の野郎ども」というサブタイトルをつけました。当初これらを「白山アヴァンギャルド」なんて勝手に呼んてみようかとも思ったのですが、とくにイズム=イストは混成でいいのではないかと。アヴァンギャリストもダダイストもアナーキストも果てはマヴォイストもネオシュプレマリスト(初期野川が名乗った)も全て引っ括めた「野郎ども」でいいのではないかと考えた。

この「野郎ども」表記は特段ふざけたわけではなく、かのポール・E. ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』でいうところの「対抗文化」の担い手としての「野郎ども」というニュアンスであり、

その学業を放り出して長髪にルパシカを着てゴム長靴で銀座上野浅草の街路を練り歩き吠えて叫んだ大正期の「野郎ども」の姿は、南天堂書店の歴史を寺島珠雄の遺作にして名著『南天堂―松岡虎王麿の大正・昭和』でも描かれています。

そして今回記事タイトルにありますように最初に宣言予告しておきます。変電社は野川隆を著作選集として復刊させた後、この橘不二雄の詩集『腕の欠伸』を正当な手続きをもってして復刊させます

「謎の詩人」橘不二雄『腕の欠伸』復刊宣言予告

腕の欠伸 : 詩集』(コマ数:31)
著者:橘不二雄
発行年:大正14(1925)年10月5日 出版社:ドドド社
国立国会図書館デジタルコレクション「近代デジタルライブラリー」

こちらやはり「インターネット公開(裁定)著作権法第67条第1項により文化庁長官裁定を受けて公開 裁定年月日: 2012/03/01」のためサムネイル公開いたしませんが、しかしこんな「文化庁裁定」という煩わしいところまで手続きをしてくれたからこそ本作と読むことができたわけですからNDLは偉大です。

なお先ほどの「正当な手続きをもってして」というのは何かというとこの「文化庁裁定」、つまり「文化庁の著作権者不明等の場合の裁定制度」を変電社も正式に利用してみようと考えています。幸いにもこの8月に随分とこの裁定制度の「相当な努力」ハードルが下がったという朗報があったわけですから、やはり乗るしかないビッグウェイブ。

『文化庁の著作権者不明等の場合の裁定制度』の「相当な努力」ってやつ

その『文化庁の著作権者不明等の場合の裁定制度』とは何ぞやということですが、軽く説明してておきます。

著作権者不明等の場合の裁定制度

上記ざっくりまとめると著作権者不明作品=オーファンワークスでも正式な手続きを踏めばその著作を国の保証のものとして出してもいいよという文化庁の制度なわけですが、以前に紹介させていただいた福井健策先生のオーファンワークス問題記事でもこう説明されている制度です。

内容は、権利者を探す努力を尽くしてそれでも見つからない作品については、文化庁が審査した上で、権利者に代わって許可を出し、補償金を供託すれば利用できるというもの。この制度、EUが導入中のものとの違いは、向こうは「探す努力をしたら使って良い」ルールで、日本は「探す努力をしたことを証明し許可を貰って使う」点。
 確かに世の中には制度を悪用する輩がいるから、政府の判断をかませる日本方式は安心だ。ただ、実はこのタイプは敷居が高い。EUでもこの形態は運用コストが高く、「利用が進まないのが欠点」と整理している。
 現に日本の裁定制度、従来の利用率は極端に低く年0~2件程度、最近若干の制度改善で利用率が上がったとはいえまだ年30件程度だ(しかも学習参考書系に偏る)。改善はされているが、潜在的なオーファン利用の需要はこんなものではないだろう。

——「そろそろ本気で「孤児作品」問題を考えよう」INTERNET Watch(2013/3/12)

その世界と比較しても結構煩わしい日本の「裁定制度」ですが、その中でもとくにハードルを高くしていた部分が以下「相当な努力」部分でした。

裁定申請を行うにあたって
 本制度は、権利者が不明な場合に利用することができる制度であることから、権利者が不明であるという事実を担保するに足りる程度の「相当な努力」を行うことが前提となります(法第67条第1項、同第103条、令第7条の7、告示第1条から第3条)。

「でした。」と記載したのは「相当な努力」がこの夏に大幅に見直しがあったわけです。 

文化庁「平成26年8月に「相当な努力」の内容を見直すとともに、「裁定の手引き」もあわせて見直し、運用の改善を図りました。PDF形式(278KB)

【見直し前の「相当な努力」】
ア)権利者の名前や住所等が掲載されている名簿・名鑑類の閲覧
イ)ネット検索サービスによる情報の検索
ウ)著作権等管理事業者等への照会
エ)利用しようとする著作物等と同種の著作物等の販売等を行う者への照会
オ)利用しようとする著作物等の分野に係る著作者団体等への照会
カ)下記のいずれかの方法で、公衆に対し広く権利者情報の提供を求める
・日刊新聞紙への掲載
・CRICのウェブサイトに30日間以上掲載
【見直し後の「相当な努力」】
①ア、イのうち適切なものを選択すればよい
②エの照会は不要とし、ウ及びオの照会をすれば
③カのうちCRICのウェブサイトでの広告について、申請に必要な掲載期間を7日以上に短縮する

閲覧照会先が選択制になりかつCRICへの「ウェブサイトでの広告」が「30日間以上掲載」を「7日以上に短縮」です。また運用の改善で「一律8,100円」とディスカウント。5年毎の更新再申請も申請者ベースで申請できるとのことなので、まあ、とりあえず、やってしまおうかと。「供託金」算出方法など、実際版元でもない人間が進めるには不明点も多いけれども、かえってずぶの素人が人体実験するにはよい先例になるのではないか?と踏んでおります。まとまった資本が必要な場合は、クラウドファンディングしてしまうのもありじゃないのかなと。なにはともあれずぶの素人なりにあらゆる手を使えばいいのであります。

といったわけで、改めまして橘不二雄『腕の欠伸』復刊宣言予告であります!ただし野川隆の後なので来年早々始動予定という意味で「予告」です

「橘不二雄」なる乗客

さて、そもそもの「橘不二雄」なる詩人ですが、実はこの「橘不二雄」は以前にドン・ザッキーを紹介(林芙美子と野村吉哉とドン・ザッキーと「詩」の時代)した際の「近デジ漁」の中でも視界に入っていて、その時は何者だかさっぱり判らず留保していた詩人です。そして実のところ文献調査をしている現在でも何者だかほぼわかっておりません

ただし同時代の「詩誌」漁りの中でようやく見えてきた輪郭として、この「橘不二雄」なる人物が「20世紀」発バスの中でもドンザッキー、野村吉哉、村山知義そして野川隆の近くに確かに座り、そして何も言わずに降車した詩人であることは判明しました。ゆえに僕は驚いているわけです。みんなそんな近くにいたのか!と。

橘不二雄が『腕の欠伸』収録作品の初出はドン・ザッキー「世界詩人」村山友義「マヴォ」であり、そしてそのマヴォ系で村山、岡田龍夫、多田文三ととも同人にも連なる「ド・ド・ド」(今回の『腕の欠伸』もドドド社で出したわけですが、雑誌初出時と異同も発見しています)。他にも『腕』未収録作品の詩片を村山、岡田、多田とともにマヴォ「後継誌」ともおぼしき「ヒロドパス」に出していたりします。どうもその時期の橘は前衛詩界隈では少し名の知れた存在で、「近代詩歌」大正14(1925)年11月「詩壇時評」にて小野十三郎が「ドンザッキー・遠地輝武・橘不二雄詩集評」を書いていることも広告から判明しました、が内容未確認です。その広告という部分で「ド・ド・ド」裏表紙記載されていた自社広から発見して個人的に驚いた箇所があります。

「ド・ド・ド」裏表紙広告

「ド・ド・ド」裏表紙広告

本来『腕の欠伸』自体もそのマヴォ系岡田龍夫装幀であるようなんです。「本来あるようなんです」というのもNDLデジコレ所蔵だと表紙消えているので、「ド・ド・ド」裏表紙の詩集広告を見るかぎりの判断でしかないわけですが、ここで一緒に村山知義訳トルラー(※前回のゲオルク・カイザーと並ぶドイツ表現派劇作家でもあるエルンスト・トラーの詩集)『燕の書』ならびに、かの萩原恭二郎『死刑宣告』といっしょに並んでいるということですから、岡田龍夫の燦然と輝くマヴォ系アヴァンギャルド装幀であることは間違いなさそうなんですね。岡田龍夫装幀がどんなものかといえばググるとこんな感じです(※なおここには並んでいませんが岡田龍夫装幀の斎藤秀雄『蒼ざめた童貞狂』はこないだ日月堂さんでシェアされておりました)。なお岡田龍夫が何者かというと、村山知義、高見沢路直らと「マヴォ」の過激分子として散々に暴れ回った戦前アヴァンギャルドの牽引者です。やはり彼も1930年代に渡満しています。がその後の行方が知れていません。

またもうひとつ重要な関係性も発見しており、以下、東洋大学系詩誌「白山詩人」第一号の奥付の会友欄に

「白山詩人」1号奥付

「白山詩人」1号奥付

橘不二雄は岡本潤小野十三郎多田文三、また野川隆と同じく「白山詩人」東洋大学系詩人だったことも判りました。もしかすればですが、橘も「20世紀跨ぎ生まれ世代」の彼等と同年代であり、また取り上げた全員と共通する「中退組」ーそれも1年足らずの早期中退組だったのかもしれない。すなわち名門「洋大」を捨て街に飛び出した「白山の野郎ども」。なお上記メンバーのうち「多田文三」もまだまだ謎の多い人物で今後調査して行きたいと考えています。

戦前「詩人大学」洋大の系譜

今では東洋大学「洋大」=名門と云われても想像つかないかもしれませんが、戦前期旧制学制期、東大、慶応、早稲田、東洋で「東京四学」と云わしめ、「白山の哲学」や「詩人大学」とも呼ばれた事実があります。東洋大学のページの東洋大学史エピソード集でも部分的に紹介もされていなくもないですが、ピントが結構ずれています。

白山文芸運動(大正7(1918)年)
大正7(1918)年、在学生によって「東洋大学文芸研究会」が創設され、のちに学外にも開放されました。公開講演会、文芸夏期講習会では、当時文壇・論壇の第一線で活躍していた、田山花袋・島崎藤村・谷崎潤一郎・有島武郎・和辻哲郎らを講師に迎えるなど、東洋大学文芸時代の到来という感がありました。そのほか『白山詩人』『白山文学』など、多くの文芸同人誌が刊行されています。現在も文京区向丘にある書店「南天堂書房」は、かつて二階に喫茶店「レバノン」、三階に出版部があり、林芙美子、草野心平、宇野千代、辻潤などの若い作家が出入りしていました。そこに東洋大学の学生も加わり、南天堂書房の二階「レバノン」は、詩人・作家を目指す若い人たちに大きな刺激を与える場所となっていました。

ここきっちり突っ込んでおくと、この大正期の南天堂二階に「レバノン」という名のレストランがあったという事実はありません。「レバノン」という店名は今東光が言い出したことで、先の『南天堂―松岡虎王麿の大正・昭和』で寺島珠雄が細かい検証の結果否定されています。またここで歌われているような「白山文芸運動(大正7(1918)年)」なるものが実質あったのかどうかという話でもありますが、同時期に大杉栄宮嶋資夫辻潤萩原恭二郎などなどアナキストダダイスト詩人作家画家主義者芸術家が集まった華やかりし頃の松岡虎王麿時代の南天堂二階にはとくに名称がなく、その後彼が夜逃げ同然でお店を手放した後の昭和期に「レバノン」という店名がついたようです。

そしてここで南天堂に「林芙美子、草野心平、宇野千代、辻潤などの若い作家が出入り」と書いているけれども、南天堂に出入りしてた頃の辻潤は40にさしかかるおっさんで「若い作家」と呼べる年齢ではないでしょうし、そしてせめて自分の大学に通った作家らを紹介した方がいいんじゃないでしょうかね。ここで取り上げている作家誰一人東洋大学に籍を置いてないじゃないですか。だったら、さきの「白山詩人」創刊号に名を連ねた「赤と黒」岡本潤、小野十三郎や「G・G・P・G」野川隆、「ド・ド・ド」橘不二雄の中退組「野郎ども」詩人でいいじゃないのかと思えます。

他東洋大から輩出されたビッグネームと言えば葛西善蔵坂口安吾木山捷平のほか、歌人前川佐美雄もいます。

1887年(明治20)年生まれの先輩各の葛西善蔵は置いたとしても、1906(明治39)年10月20日生まれの坂口安吾、1904(明治37)年3月26日生まれの木山捷平、1903(明治36)年2月5日生まれで前川佐美雄と、彼等もかの「20世紀跨ぎ生まれ世代」に遅れること数年です。安吾の初期ナンセンスファルス(笑劇)も前川佐美雄の戦前歌壇に衝撃を与えたモダニズム歌集「植物祭」も同じこの「白山の野郎ども」の山系と捉えてもよいのではないか。

つまり本郷(東大)横、白山(洋大)には、南天堂周辺たむろっていたアヴァンギャルド/アナキスト/ダダイストたるところの「野郎ども」詩人たちを発火点としたカウンターカルチャー圏が確かにあった、なんてことを考えているうちに平日21時まで開いてる広尾の中央図書館を追い出されて、プラプラと南麻布抜けて白金を通過してたら都営三田線「白金高輪」駅に行き当たり、ああそうかこの三田線乗れば「白山」まで一本だなと思い、そのまま呼ばれるようにして「その地」に行ってまいりました。

東洋大学学長井上円了像と秋の宵

東洋大学学長井上円了像と秋の宵

学内に潜り込んで見上げた初代学長井上円了銅像に「先生のところの不良中退組が残した詩片を21世紀の世に公開してみようと思います」と手を合わせたところ、先生はうんともすんと云わず静かに旧白山通りを見下ろしておられる。その道を都市的で妙ちきりんな詩を書いて喚いた90年前の「野郎ども」も下ったに違いない。閉店後の現・南天堂をパシャリして、ちょうどやって来た巣鴨駅行きのバスにのって帰った秋の晩であります(なお現在の二階には彼らが集ったレストランは無論なく学習塾?みたいになっているようです。)

現在の南天堂(閉店後)

現在の南天堂(閉店後)

しかしここまで来たのだから一篇だけ詩を紹介したい思いに。実は『腕の欠伸』収録作品とは一部異同がみられる「ド・ド・ド」掲載時の作品であり、この度は学術研究的な意味で紹介させていただきます。「僕は唾液をかすかに飮みこんで」の文が『腕の欠伸』収蔵ではありません。

橘不二雄『月と列車とのダダ的關係』大正14(1925)年6月

『月と列車とのダダ的關係』

念のため再度触れておくと、橘不二雄ほぼまったくわからない人物です。もし今回の記事を読んでに詳細が判る方がいらっしゃいましたら是非ご一報くださいませ。

現在判明している「橘不二雄」

事実

  • 大正期アバンギャルド詩人として大正14(1925)年6月に『ド・ド・ド』登場
  • 詩集『腕の欠伸』をマヴォ系岡田龍夫装幀で大正14(1925)年10月に出版
  • 「近代詩歌」大正14(1925)年11月「詩壇時評」にて小野十三郎「ドンザッキー・遠地輝武・橘不二雄詩集評」の広告を発見するも内容未確認
  • おそらく詩誌「太平洋詩人」第2巻第1号 昭和2(1927)年1月号の「詩人住所録」を最後に彼の名前が詩壇から消える。住所録には「橘不二雄、市外戸塚町源兵衛一五六」と記載。現在の高田馬場の新宿諏訪町郵便局近辺。

想定

  • 誕生年想定として「20世紀跨ぎ生まれ」1900〜03年くらいの可能性。
  • 東洋大学在籍(1918〜26)者であるものの中退詩人の可能性。
  • 次回は野川隆で

    さてここで橘不二雄は一旦置いて、次回は野川隆の初期「野郎ども」時代の初期詩編紹介に参ります!

    社主代理 持田泰