さて前回
【ジブリ『風立ちぬ』記念】ホリタツ堀辰雄で青空文庫を中心にブクログ棚こさえた【映画はまだ観てない】その1
においては一段目堀辰雄作品だけの紹介でタイムアップしてしましましたが、今回「その2」を続けたいと思います。そして前回は観てなかったのですがようやくジブリ『風立ちぬ』を観てきました!
なるほど!こういう映画だったか!正直これ賛否は割れる映画だと思います。個人的批評は置いておきます。ただ感想だけは書いておきたいと思うのですが、細かい話はネタばれになるので避けつつ、僕が日頃より趣味範囲としている関東大震災(1923)から支那事変(1937)にかけての、美しく不穏な近代がとてもよく表現されており、その世界同時性、かつ飛行機に限らず乗り物おける移動シーンの過剰さも含めて、見事なまでに「あの時代」の「あの空気」が描かれてていたかと思います。
これも前に紹介した「本棚遊び」における青空文庫棚インタビューの際に「変な表現ですが青空文庫の中における「現代文学」はどこか」という話題で触れたのですが、青空文庫には「1923年(関東大震災)から1937年(日支事変)の約15年間が一番脂が乗っている30〜40代だった作家ら」が大勢収蔵されています。そういったわけで青空文庫の時代背景を知るための最高の参考映画ではないでしょうか。また「青空文庫的に限らずですが、時代的にもイキのいいところっていうとそこら辺の年代」です。それこそ「地面が波打ってるかのような」疾風怒濤の「時代」ですから何にせよ面白くないわけがないのです。
その意味で個人的にはちょっとしたシークエンスだけでも胸躍り続けた126分でしたが、先ほども書いたように賛否は割れると思います。争点はおそらくは「菜穂子」の物語上での取扱い方とか(ちなみにこの「里美菜穂子」は堀辰雄の「菜穂子」とは違う「菜穂子」でした)終盤における構成上強引とも取れる突っ走り感だとは思うのですが、またある一定の角度から批判も出るだろうと思っていたら宮崎駿監督、韓国の「風立ちぬ」批判に反論(MSN産経ニュース2013.7.27 15:17)など「案の定」と申しますか(またこれに宮崎駿監督も真面目に応答していたりしますが)。
しかし今回僕がこさえたホリタツ堀辰雄棚でも、堀辰雄作品におけるソーシャルグラフから開始して文壇才子佳人恋話を経て途中様々な堀辰雄批評をはさみ最後は現代韓国において末代まで忌み嫌われる「親日派」金文輯まで辿りつきましたから「時代」というのは皆が思っているほど「部分」だけで切り取れやしないなと改めて思い至った次第です。
2段目「芥川龍之介」晩年の代表作を中心に青空文庫棚
さてようやくブクログ棚2段目を始めます。ここはやはり堀辰雄とは切っても切れない「師」芥川龍之介 を放り込みました。ジブリ映画の方には無論芥川が出てくることはないわけですが、あの序盤の重要シーン「関東大震災」に関して『大正十二年九月一日の大震に際して』等で震災直後の焦土の東京への感想や「大学図書館で焼けてしまった本」を嘆いていたりします。そして有名な辞世の句「ぼんやりとした不安」を残して自死を遂げたのは映画内年号の1927年(昭和2年)であるせいか、その「不安」は濃厚に漂う映画だったかと思います(しかしあの「効果音」の薄気味悪さったらなかった)。
棚に戻って駆け足でまいります。取り上げた作品は芥川最晩期の鬼気迫る作品『或阿呆の一生』『歯車』から初めてますが、その「鬼気」よりも芥川晩年の「軽井沢の恋」にフォーカスします。なぜなら堀辰雄はその目撃者であり、前回でも触れましたが『聖家族』『物語の女』(『菜穂子』第一章)で物語化しています。そしてその思いの片鱗はいくつかの芥川の晩年作品・またその恋の相手である片山廣子(棚三段目)の作品にも残っており、それがまずは『或阿呆の一生』37章
三十七 越し人
彼は彼と才力の上にも格闘出来る女に遭遇した。が、「越し人」等の抒情詩を作り、僅わづかにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍つた、かがやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。—『或阿呆の一生』芥川龍之介
薄暗い作中で唯一清涼な感情が溢れた章ですが、この「越し人」等の「抒情詩」とは『明星』1925年3月号に発表された芥川の詩で古式則った「旋頭歌」という形で歌われたものです。これは青空文庫の芥川作品には収録されていません。とはいえこの時代ですからだいたいがWebでみつかるので、素晴らしき有志のブログにてアップされていたのでこちら敬意をこめつつ紹介させていただきます。
ここの芥川『越しびと』第9番目の歌、
うつけたるこころをもちて街ながめをり。
日ざかりの馬糞にひかる蝶のしづけさ。
それに対座する片山廣子の短歌があります。
日の照りの一めんにおもし路のうへ
馬糞にうごく青き蝶のむれ
そしてこの二人を眺めていた堀辰雄が『物語の女』(『菜穂子』)でこう描写することになります。
砂の白く乾いた道の上には私たちの影すらほとんど落ちない位だった。ところどころに馬糞ばふんが光っていた。そうしてその上にはいくつも小さな白い蝶がむらがっていた。—『菜穂子』堀辰雄
芥川に「才力の上にも格闘出来る女に遭遇した」とまで言わしめた片山廣子は何者かというと、明治の外交官吉田次郎を父に持ち、日銀理事片山貞治郎の妻であり(後に未亡人)、佐佐木信綱門下の歌人であり、ペンネーム「松村みね子」でアイルランド文学・ケルト幻想文学の日本への翻訳・紹介者でもあった大正期きっての才女です。またその典雅な立ち振る舞いを知った芥川龍之介と室生犀星はこの出色な片山夫人を「山梔子(くちなし)夫人」 (口数の少ない上品さを「口無し」とかけて)なんて呼んでいたりもします。ちなみに片山廣子は芥川の14歳も年上になります。そしてこの二人がいくつかの作品上で交歓しており、なのでここは同時に三段目の片山廣子棚も出してしまいます。
3段目「越し人」片山廣子/松村みね子の戦後随筆と翻訳ケルト文学棚
ここの棚では一冊『新編 燈火節』だけ紙本を混ぜました。 軽井沢で一緒だった芥川龍之介のことを思い出を綴った松村みね子名義の『黑猫』が青空文庫にないからですが、こちらもWEBで有志の方があげておりましたので敬意を込めて紹介させていただきます。作中では「A」表記ですが芥川龍之介「M」室生犀星と娘「ふさ子」と過ごした静かな晩の話を東京の自宅の迷い猫の話から淡々と思い綴るままに進んでいく良質な随筆です。
芥川死1927(昭和2)年の後、この『黑猫』を1928(昭和3)年5月刊の雑誌『若草』を残したのみで長い間片山廣子は一切の口を噤み半ばペンを折ったような生活を送っておりましたが、別の随筆『菊地さんのおもいで』でも語られるように
私は文学夫人でなくなつて普通の家の主婦になつた。カタカナの文学はもうすつかりすたれて、それに大きくなつた息子と娘を持つてゐる主婦はペンに用がなくなり、ひどく生真面目みたいな顔で暮してゐた。—『菊地さんのおもいで』片山廣子
戦前戦中をそう通過してようやく語りはじめたのが、戦後の『燈火節』です。こちらで1954年度日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しています。この中でもう一作芥川龍之介に対するアンサーソングとして『乾あんず』がある。ソロモン王とシバ女王の旧約聖書の話を題材にしていますが、その話は芥川龍之介がまず、片山廣子と邂逅していた当時1926(大正15)年7月に『三つのなぜ』でも触れられた話です。まず芥川から引用。
シバの女王は美人ではなかった。のみならず彼よりも年をとっていた。しかし珍しい才女だった。ソロモンはかの女と問答をするたびに彼の心の飛躍するのを感じた。それはどういう魔術師と星占いの秘密を論じ合う時でも感じたことのない喜びだった。彼は二度でも三度でも、――或は一生の間でもあの威厳のあるシバの女王と話していたいのに違いなかった。
けれどもソロモンは同時に又シバの女王を恐れていた。それはかの女に会っている間は彼の智慧ちえを失うからだった。少くとも彼の誇っていたものは彼の智慧かかの女の智慧か見分けのつかなくなるためだった。ソロモンはモアブ人、アンモニ人、エドミ人、シドン人、ヘテ人等の妃たちを蓄えていた。が、彼女等は何といっても彼の精神的奴隷だった。ソロモンは彼女等を愛撫あいぶする時でも、ひそかに彼女等を軽蔑けいべつしていた。しかしシバの女王だけは時には反って彼自身を彼女の奴隷にしかねなかった。
ソロモンは彼女の奴隷になることを恐れていたのに違いなかった。しかし又一面には喜んでいたのにも違いなかった。この矛盾はいつもソロモンには名状の出来ぬ苦痛だった。—『三つのなぜ』芥川龍之介
明らかにシバの女王=片山廣子であり、そのシバの女王が戦後随筆での返答しています。その『乾あんず』の一節。
旧約聖書の一節で、ここには何の花のにほひもないけれど、二人が恋をしたことは確かに本当であつたらしい。イエーツの詩にも「わが愛する君よ、われら終日おなじ思ひを語りて朝より夕ぐれとなる、駄馬が雨ふる泥沼を終日鋤き返しすき返しまた元にかへる如く、われら痴者おろかものよ、同じ思ひをひねもす語る……」詩集が今手もとにないので、はつきり覚えてゐないが、女王もこれに和して同じ歎きを歌つてゐたやうに思ふ。
彼等がひねもす物語をした客殿の牀とこは青緑みどりであつたと書いてある。あまり物もたべず、酒ものまず、ただ乾杏子をたべて、乾葡萄をたべて、涼しい果汁をすこし飲んでゐたかもしれない。女王が故郷に立つて行く日、大王の贈物を載せた数十頭の駱駝と馬と驢馬と、家来たちと、砂漠に黄いろい砂塵の柱がうづまき立つて徐々にうごいて行つた。王は物見台にのぼつて遥かに見てゐたのであらう。
女王が泊つた客殿の部屋は美しい香気が、東洋風な西洋風な、世界中の最も美しい香りを集めた香料が女王自身の息のやうに残つてゐて王を悲しませたことであらう。「わが愛するものよ、われら田舎にくだり、村里むらざとに宿らん」といふ言葉をソロモンが歌つたとすれば、それは王宮に生れてほかの世界を知らない最も富貴な人の夢であつた。あはれに無邪気な夢である。—『乾あんず』片山廣子
「恋をしたことは確かに本当であつたらしい」二人は、しかし上のソロモン王/シバ女王の話の機微を取っても熱い感情が溢れつつもプラトニックのままの関係で終わったもののようです。先ほどの芥川詩『越し人』1925(大正14)年3月では
ひたぶるに昔くやしも、わがまかずして、
垂乳根の母となりけむ、昔くやしも。
と歌い、これ超訳すると「自分と寝ることのできなかった昔にお前は子を生んだ母となってるから俺は悔しい」というような意味なのだそうでですが、この滾る思いを含めて「さやうなら。手風琴の町、さようなら、僕の抒情詩時代。」『軽井沢で』1925(大正14)年と芥川は「さやうなら」したようです。
滾る思いは片山廣子側にも当然あり芥川に熱烈な手紙を送ったりした事は現代では既に判明しておりますが、今回はペンネーム「松村みね子」翻訳でのアイルランド幻想文学を二作紹介しておきます。ともに青空文庫にありましたフィオナ・マクラウド『女王スカァアの笑い』1925(大正14)年『かなしき女王』1925(大正14)年です。
さてこの2作は連作になりますが、最強の女軍が統治する島の女王のお話で、この残虐の女王スカァアの血みどろな悲恋話ですが、『かなしき女王』あらすじを軽く紹介しますと、捕虜なった二人の男が死刑執行となる晩に、女王カァアに「恋の歌を歌え」の問われ一人の男(ウルリック)は死ぬ前にそんなバカバカしい歌を歌えるかと断り、一人(琴手コンラ)は高らかに恋の歌を歌い上げた後に、
沈黙があった。スカァアは両手で顔を支えて、燃える火を見つめていた。
スカァアは顔もあげず口をきいた。
「はげのウルリックを連れて行け」やがて彼女がいい出した、なお火をじいっと見つめる眼で「誰でもあの男を欲しい者にやるがよい、彼はなんにも恋を知らぬ。もし彼を欲しい女が一人もなければ、胸に槍を突き通して容易たやすく死なせてやれ」
「しかし、琴手コンラは、一つの事を知ったために凡すべての事を知りつくしている、もうこの上に彼の知るべき事はない、彼は我々よりも先の世界に踏み入っている、彼を砂の上に寝かして、顔を星に向け、その素肌の胸に赤い火の燃えさしを載せよ、胸が破れて死ぬように」
こうして琴手コンラは静かに死んだ、月にかがやく砂の上に倒れて、素肌のむねに赤い燃えさしと燃える火の焼け木をのせて、彼の上に光っていた星のようにしろく静かな顔をして。ー『かなしき女王』フィオナ・マクラウド
この翻訳本が第一書房から世に出たのが1925(大正14)年3月15日です。ちょうど芥川龍之介『越し人』を発表したのもその1925(大正14)年3月1日『明星』であり、当然翻訳本が簡単に出せるものではないから、たまたま発表が重なったのでしょうが「琴手コンラ」のように「一つの事を知ったために凡すべての事を知りつくしている、もうこの上に彼の知るべき事はない、彼は我々よりも先の世界に踏み入っている、彼を砂の上に寝かして、顔を星に向け、その素肌の胸に赤い火の燃えさしを載せよ、胸が破れて死ぬように」と魔法をかけられたかのようにその翌々年の1927(昭和2)年7月24日芥川は自死を遂げました。
思えば先週僕が【ジブリ『風立ちぬ』記念】ホリタツ堀辰雄で青空文庫を中心にブクログ棚こさえた【映画はまだ観てない】その1を公開した日が奇しくも7月24日芥川命日「河童忌」でありましたね。
しかし!またこんなところでタイムアップ!やはりこのブクログ棚25札を全部を一回で紹介するのはきつい!次回こそファイナルで!また先日のイベントで使用したこの堀辰雄棚の相関図スライドも出すか否か!なにはともあれ次回「3」に続けます!