【變電叢書】『野川隆著作集1: 前期詩篇・評論・エッセイ 1922 ー 27』【KDP発売中】

2016年1月27日amazonKDPにて變電叢書『野川隆著作集1』刊行開始です!

2016年1月27日amazonKDPにて變電叢書『野川隆著作集1』刊行開始です!

こんにちは!社主持田です!

ついに變電叢書『野川隆著作集1: 前期詩篇・評論・エッセイ 1922 ー 27』が販売開始されました!

野川隆著作集1: 前期詩篇・評論・エッセイ 1922 ー 27 (變電叢書)
AmazonKDPストア http://www.amazon.co.jp/dp/B01B3I5IU

一年越しでようやく弔いができました。
思えば43歳で満洲の大地で人生を閉じた野川隆と僕は今同い年です。詩人よどうぞ安らかに。

2014年末サイトでbib/iリリースしていた無料公開版はもろもろ誤字脱字も多くクローズさせていただきました。今回の版でピックアップ作品と前期評伝(こちらもブログ版の加筆修正版です)立ち読み版を公開いたします!こちらは少々お待ちください!

もう一点今更お知らせです!今週末2016年1月30日独立作家同盟のセミナーに登壇いたします!

持田泰「變電社の試み ~『デジタルアーカイブ』『パブリックドメイン』がもたらす自己出版の可能性を探る」

1月30日独立作家同盟セミナー

イベント自体が久しぶりです!国立国会図書館デジタルコレクション他、大英図書館や年始のニューヨーク公共図書館などなど盛り上がる『パブリックドメイン』の可能性をもろもろ探ります!

第二部はなんと国会図書館・大場利康氏 マガジン航・仲俣暁生氏を迎え鼎談!今回の變電叢書リリース裏話も交えつつ、酒あり池田敬二氏パブリックドメインソング弾き語りありのパーリータイム予定です!
きっと楽しい!はずです!

土曜日お時間あれば是非遊びに来てやってくださいませ!

2016年變電社は電書パブリッシャ―として本格稼働いたします。
ひきつづきよろしくお願いいたします。

社主 持田泰

『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第一年第一集1924年6月、第二年第一集(1925年1月)、第二年第三集(1925年3月)

變電叢書刊行準備【野川隆評伝:前期】Gの震動—1901〜1927  第三章 疾走期【関東大震災と「Gの發音の震動數と波形」たる『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』・橋本健吉・稲垣足穂・暴れる玉村善之助】

社主持田です。ようやく!ようやく前期評伝完結!

もっとも中期評伝・後期評伝に続きますが、とりあえずは野川隆二十六歳までの前衛期までは細かく足跡を追いました。

1:變電叢書刊行準備【野川隆評伝:前期】Gの震動—1901〜1927  第一章 揺籃期【野川二郎・十和田操・野川澂『高原』周辺】
2:變電叢書刊行準備【野川隆評伝:前期】Gの震動—1901〜1927  第二章 覚醒期【「江戸川亂歩」としての野川孟・『エポック』周辺・末弟野川隆の登場】

そして今回が「第三章 疾走期」です!本記事だけで15,000字越えてますのでお暇な時でよしなに!

さあ急げ一年越し念願の野川隆著作集1coming soon!とりあえずKDPでまいります。

末弟・野川隆と関東大震災

 大正十一(一九二二)年秋、野川隆は六兄の圭の紹介で横浜税関に勤めながら、八兄・達の残した絵具で絵(おそらくは「ルソー」風の)を描き、七兄・孟が玉村善之助の元で創刊した海外新興美術雑誌『エポック』に詩作の寄稿をはじめていた。

 この頃隆が何処に住んでいたのかは定かではない。が、その前に俳優を志して転がり込んでいた先の芝日吉坂の十和田操の下宿からは既に出ており、後述する隆の油絵は関東大震災の際に横浜駅の荷物預かり所で焼失しているから、職場の横浜税関(現:神奈川県横浜市中区海岸通一ノ一)の近郊であったろうと思われる。

 隆の『エポック』時代の発表作品は、詩は四篇、小説一篇、飜訳一冊。まず大正十一(一九二二)年十一月第二号に詩三編「數學者の饗宴」「沼の水蒸気」「風の詩人」、翌号一二月第三号に詩「知見の虹」、翌号大正十二(一九二三)年一月第四號に初の小説「作品第三(宇宙・人間及想像)」を発表。翌二月の第五号は『輓近藝術特集號』と名を打った新興美術絵画の紹介のみで創作欄はなく、その翌三月第六号で、野川隆の初の訳詩集「立體詩三十八篇」が一冊まるまる当てられる(1)。

マックス・ウエバア『立体派詩集 “CUBIST POEMS”』の全訳「立體詩三十八篇」1923年3月

マックス・ウエバア『立体派詩集 “CUBIST POEMS”』の全訳「立體詩三十八篇」1923年3月

 この訳詩はロシア系アメリカ人マックス・ウエバア『立体派詩集 “CUBIST POEMS”』の全訳であり、壺井繁治によれば萩原恭次郎『死刑宣告』(大正十四(一九二五)年)の詩作に影響を与えたと言われる。同じ様に反響が高かった村山知義訳詩エルンスト・トルラー『燕の書』が大正十四(一九二五)年のことであるからそれよりも二年早い。これは新興芸術全般にアンテナの高い孟が選別し隆に訳させたものだろう。前述したように孟は編集の裏方に徹し、まるで隆の舞台を整えるかのように毎号に隆に何かを書かせている。

 この頃、隆は外国帰りの未亡人にしつこくつきまとわれる今で言えばストーカー事件が起きるが、稲垣足穂が二十代の野川隆を振り返り「奇異な感を抱かせるような美少年であった。たとえれば平安朝の童子か御所人形を思わせるかおであった」と述べ、また平野謙が三十代の隆を振り返り「はじめて野川隆を見たわけだが、その若々しい美青年ぶりに一驚した」と記した「野川隆=美青年」逸話の最初の事件である(2)。

 そのストーキングに業を煮やした隆は税関を辞め横浜から十和田の東京の下宿先に一旦身を寄せる計画を企てる。十和田の証言によれば、横浜を出奔したのが大正十二(一九二三)年八月三十一日。十和田の下宿に着いたその翌日、疲れ果て眠りこけていた二人は床下から突き上げられた。

 関東大震災。大正十二(一九二三)年九月一日十一時五十八分に発生したこの震災で一九〇万人が被災し、一〇万五〇〇〇人余が死亡または行方不明、建物全壊が一〇万九千余棟、その後の火災による全焼が二一万二〇〇〇余棟に及んだ。

 彼らの下宿のある芝日吉坂周辺は地震後の火災を免れた。前日の横浜からの出奔こそが隆に命拾いになったとも考えられるかもしれない。震災は東京よりも横浜の方が深刻だった。現に隆が二科展に出品する予定であった数点の絵画は、預けていた荷物とももに横浜駅で焼失した。また隆の勤め先の税関が位置する横浜港に、田山花袋の友人が震災の瞬間居合わせた際の状況をこう語る。

もう汽船は出やうとして、見送りのものも皆な階梯を下りて、気の早いものは、ハンカチを出して、それを振らうとしてゐたところさ。そこにぐらぐらとやってきた來たんだからね。それも、君、ひどいんだ。とても立ってなんかゐられないんだ。いや、振返ると、あの待合所の煉瓦がガラガラと崩れてゐるじゃないか。あっちは東京よりはぐつどひどかつたさうだが、実際さうだろう。見る見るいろいろなものが崩潰して了つたからね。何でも埠頭を走つてゐる自動車も二三臺人を乗せたまゝ海に落ちてつは言ふからね。何しろ、皆慌てゝ了つて、何うすることもできないんだ……。その中、あちこちが火になつた。そこからも此處からも烟が颺つた。

——田山花袋『東京震災記』(3)

 またその火災の後、横浜税関は避難民から襲撃を受けていた。

横浜は東京よりも被害がひどかった。一瞬のうちに全戸はほとんど全壊して、猛火に包まれた。何万人という避難民が横浜港の波止場近くの空地になだれこんだ。夕方になったが食う物がない。誰かが税関の倉庫の中には食料が一杯詰め込まれてあるといい出した。だが手を下す者はなく、空しく眺めていた。その時立憲労働党山口正憲という男が「税関を襲え!」と先に立ち、その女房と子分十数人がそのあとに続いた。それに勢いを得た避難民は、ときの声をあげて倉庫を襲い、戸を破って、ありたっけの食料をひきずり出して分配した。その立憲労働党というのは、いつも赤鉢巻で赤旗を振って街頭演説などをやっている左翼の真似ごとをする右翼の暴力団だということだ。あとの祟りを恐れた山口はその略奪を朝鮮人になすりつけ「朝鮮人が爆弾で倉庫を破壊して食料を強奪した」と、赤鉢巻、赤旗で、焼跡を宣伝して歩いた。この赤鉢巻、赤旗で社会主義者と混同されて、朝鮮人と社会主義者がいっしょになって、爆弾を投げて放火略奪をして歩くというデマが広がった。

——村山知義「演劇的自叙伝2」(4)

 このデマは被災地に急速に広がりを見せていた。後に一九三〇年代諷刺詩団体「サンチョ・クラブ」を隆と結成する壺井繁治もこんな目に遭っている。

翌日わたしは牛込弁天町かの居出の下宿に避難した。彼は早稲田の法学部を卒業後も学生時代の下宿に陣取り、そこから海軍省に通っていた。その避難先でも朝鮮人が家々の井戸に毒物を投げ込みまわっているとか、社会主義者が暴動を起こそうとしているとかいう噂で持ちきりだった。つぎの日の昼ごろ居出と連れ立って矢来下から江戸川橋の方へ歩いていった。そして橋の手前に設けられた戒厳屯所を通り過ぎると、「こらっ!待て!」と呼び止められた。驚いて振り返ると、剣付鉄砲を肩に担った兵士が、
「貴様!朝鮮人だろう?」とわたしの方へ詰め寄ってきた。わたしはその時、長髪に水色のルパーシカ姿だった。それは戒厳勤務についている兵士の注意を特別に惹いたのだろう。その時それほど気にしていなかった自分の異様な姿にあらためて気がつき愕然とした。わたしは衛兵の威圧的な訊問にドギマギしながらも、自分は日本人であることを何度も強調し、これから先輩を訪ねるところだから、怪しいと思ったらそこまでついてきてくれといった。

——壺井繁治「激流の魚 壺井繁治自伝」(5)

 隆が十和田がその震災直後をどう過ごしたのか。その詳細は不明だが、当然この流言は耳に入っていたにちがいない。九月四日、亀戸警察署に保護の名目で朝鮮人とともに拘留されていた南葛労働会川合義虎、純労働者組合長平沢計七ら十三名が、九月四日から五日にかけて習志野騎兵第十三連隊によって刺殺される事件が起きる(6)。九月十六日には大杉栄、伊藤野枝、大杉の六歳の甥橘宗一三名憲兵隊特高課に連行後、憲兵隊司令部内で絞殺された(7)。

 この事件が露見し世間で騒がれ始めた頃、隆は東京社(現ハースト婦人画報社)児童雑誌「コドモノクニ」の編集を手伝うことになり、十和田の下宿を出る(8)。

脚注

  1. その一年後に大正十三(一九二四)年に篠崎初太郎訳マックス・ウエバア『立体派詩集』が大阪の異端社から出ている。
  2. 先に記述した夭折した八兄の達も帝劇の客席に座る彼を舞台上から見初めた高木徳子が楽屋に引っ張り込みそのままか彼女の一座にねじ込んでしまったという逸話もあるように野川家が極めて「美形」の一族であったことがわかる。
    平野謙「晴天乱流 野川隆のこと」『文藝』 河出書房新社 1974
    稲垣足穂「「GGPG」の思い出」『稲垣足穂全集 第11巻』筑摩書房 2001
  3. 田山花袋『東京震災記』大正十三(一九二四)年博文館(復刻 1991)
  4. 村山知義「演劇的自叙伝2」東邦出版社 1971
    この引用箇所は村山が江口渙の震災報告を再掲載している。
  5. 壺井繁治「激流の魚 壺井繁治自伝」立風書房 1974
  6. 亀戸事件 – Wikipedia
  7. 甘粕事件 – Wikipedia
  8. 実際に携わったのかは不明であるが、この仕事を通して隆は村山知義と初対面している可能性が高い。村山知義は『演劇的自叙伝』において、明治三十四(1901)年生まれ同年である野川隆に関する記述が極端に少ない。『少年戦旗』編集方針に対する妻壽子の批判の相手として出てくるくらいである。明治期に医師の息子として生まれともに父を早くになくし、また大正から昭和という同時代の青春をともにアバンギャルドからボリシェビキへの放物線を明確に描き、村山『マヴォ』野川『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』お互いに作品を寄稿し、様々な同じ誌面で名前を並べ、また戦争末期にはともに満洲に居たという事実(かたや死にかたや生き残る)にもかかわらず、村山知義は野川隆には一貫して冷淡である。前衛藝術運動ピークにあたる大正十四(1925)年『劇場の三科』に関する記述で中ですら、玉村善之助を描いていながらその横にいたはずの野川隆を描いていない。
    村山知義 – Wikipedia

『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』


 

『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第一年第一集1924年6月、第二年第一集(1925年1月)、第二年第三集(1925年3月)

『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第一年第一集1924年6月、第二年第一集(1925年1月)、第二年第三集(1925年3月)

 翌大正十三(一九二四)年六月『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』を玉村善之助とともに創刊する。発行元はエポック社。雑誌『エポック』の方は震災の年の大正十二(一九二三)年三月の第六号マックス・ウエバア『立体派詩集』を最後に中断している。当時パトロンの玉村の財政が逼迫していたようだ。その年の春頃から前兆地震が関東で頻発して、関西出身の玉村は非常に不安を覚えていた。そこでその年の八月二十六日、玉村は深川から千駄ヶ谷穏田の家へ引き移った。

 恰好の家だと尾崎が知らせて呉れたのは、青山六丁目を神宮参道のほうへ、その中凹みを少しばかり先に行って右折したところにあった。崖下の背の低い二階建てで、べったりと尻持をついたやうな不格好な家だった。でもこゝへとりあえず下町から引移ってきたわたしは、ほんの五日あまりのところであの震災の火災をまぬがれたのだつた。

——玉村方久斗「随筆集世の中」昭和十四(一九三九)年

 玉村も、また同居人の七兄・孟も運良く難を逃れたのである。東京市深川地区は震災直後の火災でほぼ全域が焼失し、死者・行方不明者の数は四〇〇〇人余りに上っている。同じく運良く横浜から逃れていた隆は、この頃この玉村の千駄ヶ谷穏田の家に転がり込んだようである。

 隆と別れた十和田は兵役のため東京を離れていて一年ぶりに東京に戻った時に、偶然『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』の奇妙な名前の雑誌を手に取る。「野川隆」の名前が掲載されていて「詩のようなもの」を書いている。

これで見ると、あの野川は、青山神宮前の玉村邸に寄宿しているのかも知れないと思った。大垣の野川の兄の劇作家(筆者注:おそらく澂だろう)は昔東京時代に玉村氏とかなり深い交友があったことを聞いていたので、そう考えたのである。数日後電話してかれに会いに行くと、巨人の玉村画伯も出て来て、京都弁の早口で「ゲエ・ギム」の構想を語り、同人数名に名をならべて、きみもぜひ同人に加わらんかと誘われたが、具合がわるいので、才能も暇もないからと辞退して来た。お蝶さんというこれこそ真に夢二式の瑞々しい夫人も同座していた。

——十和田操「野川隆の青春」『作品 野川隆記念号』作文社 昭和四十九(一九七四)年

 玉村が先の随筆の中で、震災前の深川の家に「岐阜産の若もの二人」が同居していて、震災直前に穏田の家への引っ越しを手伝ったことを伝えているが、この二人に隆は含まれていないようだ。十和田の証言が確かならば、隆は震災時は十和田と被災し、その後に玉村の穏田の家で寄宿をはじめていることになるからだ。深川の家には七兄・孟が同居していたことは間違いないので、孟がその一人と予想できるまでも、もう一人別の「岐阜産の若もの」が住んでいたことになる(1)。事実その頃の玉村の家には多くの若者たちが集まっていた。

 どうしたはづみでそうなったのか、畫筆をとつて業としてゐたわたしの周圍にそのころ畑ちがひの文學志望の若者が同居したり寄り集つてきてゐた。これらの若ものはきまつて長髪にラツパズボンといふいでたちであつたし、藝術家氣質の多い文藝道を口にしながら過激な社會問題に關心を持つものの如くであつたし、もう一つそのころの新興藝術運動などと、新興とか運動とかそれだけで過激思想の同義語に一とからげに當局からにらまらてゐたから、さうした呼稱をしてゐたわたしたちも注意人物視されてゐたのであらう。

——玉村方久斗「随筆集世の中」昭和十四(一九三九)年

 もっとも「長髪にラツパズボンといふいでたち」の若者の一人として隆が居たには違いない(2)。一方で、七兄・孟の方は大正一三(一九二四)年秋頃には玉村邸を出ていた。

 一九二四のことであった。目黒駅に近い上大崎の、教会の隣りに味もそっけもない木造の洋館があった。私はその二階の二十畳ほどの一室にトランクと未だ封を切らないペパアミント一瓶をもって移っていった。その一階の薄暗い部屋にこの空室を教えてくれた野川孟が住んでいた。私がこの人物に会ったという偶然が、私の一生のコオスを非常に面白いものにしてしまったのである。このことを思うたびに、おかしくなり、一人の人間の運命のたわいもなさに思わず吹き出すのである。若し私が彼と会うことがなかったとしたら、当然に、私はどこかの法律事務所にはいるか、適当な新聞社の政治部の記者になるか、どちらかを選ぶつもりでいた。
 しかし、すべては全くコペルニクス転回というのをやってしまったのである。野川孟は私の頭から六法全書的知識をすっかり抜き出して、そのかわりにバウムガルデン風の美学を煙草の煙といっしょに詰めて呉れたわけである。

——北園克衛「「G・G・P・G・」から「VOU」まで」昭和二十六(一九五一)年一月

 上大崎の部屋で煙草の煙を吹かしながら「バウムガルデン風の美学」を語る孟が北園克衛こと橋本健吉を『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』に引っ張り込むのである。孟はその北園(橋本健吉)か編集に加わった『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』大正十四(一九二五)年一月に詩二編と評論一本を書き、翌月二月に「リンジヤ・ロックの生理水」なるSF風小説を最後に日本を発った(3)。

脚注

  1. 玉村の記憶違いとも考えられるが、以下参照。
    玉村方久斗「随筆集世の中」高見沢木版社 1939
  2. 萬万朝に井荻の玉村邸の写真掲載されるが真ん中に立つ長髪の若者が野川隆と思われる。
  3. 孟は朝鮮でその大正十四(一九二五)年に北鮮日報の記者となるが、大正十二(一九二三)年に橋本健吉はこの紙面で「カライドスコープ」なる詩を発表しているようだ。北鮮日報側にそういう感度の受け口があったことが窺える。

「都會の街々を動く、機械で出來た人間的な動物人形には、Gの發音の震動數と波形が氣に入つた」


 

 高見順が戦後にこんなことを書いている(1)

ホテルの部屋で、寝そべりながら、皆で雑談しているうちに、青柳が、ふと、自分が早稲田の学生時分、『散文精神の内的壊體である』をやっていたと言ったのである。
「君はダダイストだったのか」
 と私は言った。『散文精神の内的壊體である』というこの奇妙な名前のダダ雑誌を、私は知っていた。私自身、その頃、ダダイストをもって任じていたからである。
「僕はあの頃『廻轉時代』というのをやっていた」
 と私が言うと、
「ああ、『廻轉時代』——あった、あった」
 と尾崎一雄が言った。
「ゲエ・ギム・ガムなんてのもあったな」
 と青柳優が言った。
「そうそう、ゲエ・ギム・ガム・プルルル・ギンガム」
 と私が言うと、
「みんな違っている、ゲエ・ギム・ギガム・プルルル・ギムゲム」
 博覧強記の倉橋弥一が言った。これは今日の北園克衛、当時の橋本健吉がやっていた雑誌の名である。全回に「文黨」執筆者のひとりとして上げた野川隆はこの『ゲエ・ギム・ギガム・プルルル・ギムゲム』の同人である。ほかに、稲垣足穂、石野重三、田中啓介、平岩混児が同人であった。
「あの時分は、マヴォとか、ダムダムとか、ド・ド・ドだとか、ドンだとか、妙な名前の——これはみんな、ダダ系の雑誌だが、妙な名前の同人雑誌が多かったけど、同人雑誌というものも実に多かったな」
 と青柳が言うと、倉橋弥一が、
「現在、何かを書いている連中で、あの時分の同人雑誌やってないのは、先ずないといっていい」

——高見順『昭和文学盛衰史』

 高見順は続けて、梅原北明『文藝市場』大正十四(一九二五)年四月号「同人雑誌関係者一覧表」を取り上げ、当時の同人誌を数え上げている。全国に「雑誌名一六四種、関係者千百四十名」にも上った大正期同人誌文化の隆盛であった。『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』という「舌でも嚙みそうな風変わりな名前の詩の雑誌」(2)もその中の一誌である。もっとも当初は先の『エポック』休刊の中継ぎ的に創刊されたものであった。隆自身が『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』創刊号の編集後記でこう伝える。


 文藝美術誌「エポツク」は何れ最近に再刊し度い思つて居る——で、それまでの連絡をつけるために、「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」を出すことにした。「エポツク」では、しきりに海外の新藝術の紹介に努めたが、これでは、それをしないで、創作ばかり發表する。
〜中略〜

「エポック」が再刊されても、併し、この「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」は、このまゝ繼續して發行しようと思つて居る。此の名前に就いて直きに意味を聞きたがる人があるが、そんな必要はない。(少なくとも私の一個の解釋に依れば、)音樂的な感覺でわかつて呉れゝば可い。(蛇足を附け加へるならば、)都會の街々を動く、機械で出來た人間的な動物人形には、Gの發音の震動數と波形が氣に入つたのである。

ーー『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第一年第一集

大正十三(一九二四)年六月十三日

 孟の手引きにより翌大正十四(1925)年一月から発行兼編集人に橋本健吉(北園克衛)が加わったことで、より「Gの發音の震動數と波形」を増幅させることになる。その号から月刊での発行になり隆も橋本も独特な詩風の作品を矢継ぎ早に発表する。さらに四月には神戸にエポック社の支社を置き、関西方面にも影響を与えはじめていた。

野川君は当時、東洋大学に籍を置いていて、私の神戸における旧友平岩多計雄も同大学生だったところから、日本画家玉村方久斗が金主で、同家に書生として野川が編集していた『GGPG』に関係することになったわけである。

——稲垣足穂『GGPG』の思い出」

 隆が東洋大学にまだ籍があったのかどうかは不明であるが、関西出身の同級生経由で稲垣足穂が同年五月から同人参加する。この時期、足穂の他、当時『マヴォ』で盛んに暴れ廻っていた村山知義、三科参画していた九段画廊の画家・中原実(3)、戦後グラフィックデザイナー・宇留河泰呂(4)、モダニスト建築家・山越邦彦(5)、など詩人以外も多くの美術家・建築家が寄稿する大正期新興美術運動の一角を占める勢力になるのである。

脚注

  1. 高見順はこの「昭和文学盛衰史」の中で幾度か野川隆に触れていて、その鎮魂の念の深さに興味を持ち、筆者は今回の野川隆の追跡を始めた経緯がある。
    「この北園克衛と『ゲエ・ギム・ギガム・プルルル・ギムゲム』をやっていた野川隆は藝術左翼から左翼藝術へと轉換して『ナップ』に参加、のちに満洲で捕らえられて獄死した。私はここで野川隆の靈に脱帽するとともに、生きている北園克衛の操守にも脱帽せざる得ないのである」
    高見順『昭和文学盛衰史』文藝春秋新社 1958
    高見順 – Wikipedia
  2. 壺井繁治「野川隆の思い出」『作品 野川隆記念号』作文社 1974壺井繁治 – Wikipedia
  3. 中原実 なかはら・みのる 一八九三〜一九九〇 大正七(一九一八)年ハーバード大学卒後、渡仏し、ランス陸軍の歯科医を務めながら美術を学び大正十二(一九二三)年帰国。二科展入選。アクション、単位三科を結成,画廊〈九段〉を開設するなど,大正期新興美術運動の中心的存在
    中原実 – コトバンク
  4. 宇留河泰呂 うるがわ・やすろ 一九〇一〜一九八六 本名・宮崎辰親、パン・ウルガワ。金子光晴とも交流があり、上海芸術大学教壇にたち、パリを中心にグラフィック・デザイナーとして活動した後帰国。資生堂で帰国記念展を開催。昭和二十八(1953)年応募ポスターにより第1回日宣伝美賞を受賞
  5. 山越邦彦 やまこし・くにひこ 一九〇〇〜一九八〇 日本建築界の先鋭的モダニストとして活躍。玉村善之助の杉並区井荻の新居を設計『出た三科式の家一軒<妖怪の家>かと噂に上る」と新聞「萬朝報」大正十四(一九二五)年年九月二五日記事掲載。
    山越邦彦 – Wikipedia

「インテリギブレ・フライトハイト」の野郎ども

 橋本健吉(北園克衞)は後年こう振り返る。


私たちは「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」」という文芸雑誌を発行した。すでに私たち未来派、表現派、立体派については精通していたし、構成派やダダ、についても知っていた。高橋新吉らのダダあどうも汚くて面白くなかった。村山知義をリイダアとする意識的構成主義はその頃のジャーナリズムをよろこばせた。三科の造形運動は、ダダと構成主義の狂暴な突風となって強烈なスキャンダルを矢つぎばやに生みだした。かれらは、地震のために到るところに捨てられた鉄骨や廃品で、芸術のスキャンダルをつくったが、そこは政治、経済、社会に対する鋭い抵抗が諷刺が露骨にあらわれていた。この三科の一群のなかからMAVOという雑誌が創刊された。しかしその詩作品はまだ文学運動以前のものといってよかった。私たちは、MAVOとは全くちがった角度で詩を考えはじめていた。何よりも先ずその態度が知的で自由であることだ。私たちはそれをロシア語やフランス語やイギリス語でなく、ドイツ語でインテリギブレ・フライトハイトと呼んでいた。

北園克衛「昭和史の前衛運動」昭和三十二(一九五七)年三月

また同人の稲垣足穂も

「野川(孟・隆)兄弟は四谷の電車通うらの鍵手の入った所にある真四角な二階館に住んでいるとのことでした。空地にキャベツを作っていて、キャベツばかり食べているとのこと。この四角い家の話によって、私は一千一秒の中にある「自分のよく似た人」を着想しました。私は辻や高橋に代表される泥くさいダダを好みません。チュリヒ的なダダも日本に在ったということで「G・G・P・G」はもっと世間に知ってもらいたいと思っています」

—「稲垣足穂からの手紙」中野嘉一『前衛運動史の研究』沖積舎 2003


 辻潤や高橋新吉のやもすれば禅問答めいてくる「日本的ダダ」に対して、足穂の言う「チューリッヒ・ダダ」、橋本の言う「インテリギブレ・フライトハイト」=知的な自由を目指した『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』一派は、都会的に洗練された知性派としてのエコールを形成していく。

未知の人から原稿が大分集まつた。ひどく愉快だ。
ただG・G・P・Gを誤つて解釈してゐる人が大部分であるのは残念である。それから模倣が多い。現在のG・G・P・Gの形式はまだまだほんの幾何學的一點に過ぎない。どうか、本家本元をひつくり返すようなギムゲミズムの作品が現はれて貰いたい。
誤られ易い、「藝術の普遍的必要性」と「作家の個性」とか云つた概念なぞ振り捨てて來給へ。だが、兎に角、オリジナルであって——、もがいてもどうにもならない。あの見苦しい文壇を驚かしてもらひたいものである。
私たちに氣にいられようとして作つたものも困るではないか。

ーー『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第六集

大正十四(1925)年六月一日

 隆の言う「ギムゲミズム」においてどんな詩作が試みられていたか。その際だった例として「バアド・マンa氏の曲乘飛行」を上げよう。

「バアド・マンa氏の曲乘飛行」大正十四(一九二五)年六月

「バアド・マンa氏の曲乘飛行」大正十四(一九二五)年六月

驚くなかれ。この「数式でもない数式」が二十代野川隆の「詩」なのである。現代数学や理論物理学の知見をふんだんに取り込んだ実験詩——日本だけでなく世界文学史上においても極めて特異な「SFポエム」(北園克衛)が前衛期野川隆の作風であった。

 私のロバチェフスキー空間も実は野川によって教えられたのである。
 ソヴィエトのルーニク3号が初めてもたらした月の裏面の写真にソヴィエツキー山脈の左側に「ロバチェフスキー」という地名があたえられている。でも、これに先立つ約四十年前、カザン大学の総長であり、非ユークリッド幾何學の大立者でもある人の名を、日本文学の中に取り入れたのは野川隆君であることを諸君に銘記してもらいたい。

——稲垣足穂『「GGPG」の思い出』(1)

 大正十四(1925)年になるとこの珍妙な詩を書く「GGPGの野川隆」として名が知れ渡り、『マヴォ』(詩「無敵艦隊」大正十四(一九二五)年八月)『世界詩人』(詩「甲殻類建築」大正十四(一九二五)年八月)『文黨』(詩「海賊または食蟲植物」大正十五(一九二六)年一月)など、『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』以外の詩誌・文芸誌に前衛詩や翻訳詩を様々に発表していく。(2)

その頃の野川隆を橋本健吉(北園克衛)がこう綴る。

 ネオ・シュプリマチスト野川隆は玉村善之助の家に厄介にならなければならん程、窮迫のドン底に在るが、毎日、外国行きの旅費や、飛行機學校の學費の計算ばかりして居る。ゴオルデン・バッドを吸ひながら、ルート・マイナス・1劇塲臺本を執筆中。

——『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第四號 大正十四(一九二五)年四月

 時代の上で「尖った」感性を抱えた若き詩人は、この頃は玉村善之助宅エポック社でポスターやビラの図案製作などして日々の小遣いを稼ぎながら詩や評論を紡いでいた(2)。

脚注

  1. 稲垣足穂「「GGPG」の思い出」『稲垣足穂全集 第11巻』筑摩書房 2001
  2. この頃、井上康文「華麗な十字街」(大正十五(一九二六)年六月)の図案なども手がけている。

絶頂の『劇場の三科』

 大正十三(一九二四)年木下秀一郎(1)が起案し当時の新興美術勢力各派、旧未来派美術協会、旧アクション、旧第一作家同盟、マヴォ、が大同団結を企て「三科」(2)が結成される。旧第一作家同盟の中心メンバーたる(左派離脱後も『エポック』に「D・S・D意匠部」の広告が出していたが、自然解消されたようだ)玉村善之助はその「三科」に合流し、これが「劇場の三科」へと結実する。

 この「劇場の三科」とは言うなれば、一九一六年トリスタン・ツァラらがチューリッヒで起こした「ダダの夕べ」模した大正期日本版の前衛舞台であり、大正期新興美術運動の一つの頂点である。「三科」自体は中心的な人物が旗を振って進行したものではなく、震災復興で沸く街を暴れ回っていた美術家・詩人たちが自然発生的に「劇場にまではみ出して行った」(3)。翌大正十四(一九二五)年五月三〇日六時三〇分に築地小劇場でその舞台がついに開演される。

 実際この「劇場の三科」とはどのようなものであったか。高見順はこう記している。

『劇場の三科』というのを築地小劇場で行って、表現派の芝居などよりもっと猛烈な劇の上演やダダの詩の朗読の間に、突然オートバイを舞台の上に走らせたり、鉄板を叩いたりして、人々の度胆を抜いた。こうして劇場革命を行うという訳である。

—高見順『昭和文学盛衰史』

 ダダ的挑発を繰り返し観衆の「度肝を抜いた」数々の演目で玉村善之助『トロンボン・ブーツ・パーク・タンテラ』『莫児比涅海賊貴族古加乙温』が大トリを飾り、その中で「メカフォーンを持った演劇機構者」として「野川隆」もこの舞台に立っている。隆は「劇場の三科」をその後こう評している。

  「劇場の三科」總評
 最初の試みとしては成功である。
 だが、槪して、誰も、劇作家としては畫家であり過ぎ、舞台装置者、劇場藝術家として畫家でなさ過ぎた。それが豫期しなかつた、無意識的に現はれた現象であつたが故に、失敗に數へられなければならない。
 どの劇もどの劇もみな一樣に悒鬱で、舞臺が暗〔ママ〕い。恰度、ロマノフ王朝末期のロシアのシムボリズムのそれみたいだ。「亡び行くインテリゲンチャの悲哀」と云う奴だ。
 まどろつかしくて、落ちついてゐると人は云ふが實際はひどく性急な俺に適しないものがあつた。
 嗅覚的要素の導入も失敗であつた、と云へる。
 私自身の手傳つた劇に就いては、云ふのを差し控える。

『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第八號 大正十四(一九二五)年八月

 また既成演劇界の「劇場の三科」黙殺に対しては「有名な文士や定評ある劇作家たちは殆ど見に來なかつた。彼等が如何に無氣力で怠惰で不勉强であるか。そんなことでは、君たちはつひに「文學」から一歩も出られないだらう」と罵っている。

 またこの八月号で、エポック社が千駄ヶ谷穏田から西荻窪井荻上井草に移転通知を出している。この井荻もやはり玉村善之助の新居で『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』同人で建築家の山越邦彦に依頼して設計されたものだ。おりしも「劇場の三科」「三科会員作品展覧會」を経ている中での七月の建設だったために「出た三科式の家一軒<妖怪の家>かと噂に上る」と大正十四(一九二五)年九月二十五日の「萬朝報」で報じられた。

井荻の玉村善之助邸1925年9月「萬朝報」

井荻の玉村善之助邸1925年9月「萬朝報」

 また昭和三(一九二八)年『主婦の友』の住宅特集でも写真入りで掲載され「内外ともに大部分が城壁の木筋、効果と平面割は時分で、立面はもとより専門家Y氏を煩はした處女作、そこで失敗を云ふならこの平面割りに、度地慣れないうらみをのこしてゐる」と玉村自身が語っている。

 その後「三科」運動が空中分解するのが築地小劇場から半年も経たない大正十四(一九二五)年九月。「三科」の初の公募展である第二回展覧会の前にアクション神原泰(4)の除名から始まり、会期中にマヴォ陣営から解散声明が出された。

 それを報じた九月二十三日の『萬朝報』では「三科騒動の真相報告と演劇の会」開催予告も掲載される。この中のプログラムに「村山知義氏等の断末魔まで亂舞を演じようとの趣向」の他に「野川隆の講演」も混じっていた。しかし上野警察署から中止を命じたために結局開催されずに終わる(5)。やはり高見順がその内紛中の三科展を見ている。

 私は、その大もめの日に、会場の自治会館に偶然行ったが——いや、偶然ではなかったかもしれぬ。三科に出品した(そして、たしか落選した)ダダイストの友人(と言っても私と同じ一高生)に誘われて、行ったのだが、その友人から何か騒動があるらしいと聞いて、面白半分に行ったように思われる。その辺は忘れたが、忘れられないのは、巨漢の玉村善之助(のちの日本画家玉村方久斗)がハンマー投げの鎖を振り回して大暴れに暴れていた姿だ。「末期的智識階級」のひとりだった私には、それが何か痛快極まるものに感じられた。

——高見順『昭和文学盛衰史』

脚注

  1. 木下秀一郎 – コトバンク
  2. 三科 | 現代美術用語辞典ver.2.0 – Artscape
  3. 「展覧會の三科と劇場の三科」『みづゑ』二四五號 大正十四年(1925)七月号
  4. 神原泰 – Wikipedia
  5. 五十殿利治『大正期新興美術運動の研究』1997 スカイドア
    本著は「劇場の三科」に関する記述だけでなく大正期新興美術運動の中での野川隆に関する貴重な情報を得ることができた。

祭りの後の『劇場の三科』

 この「三科」が解散された後に、継続する形で中原実・玉村善之助らを中心として大正一五(一九二六)年五月に「単位三科」が企画された。昭和二(一九二七)年六月には「単位三科」による再び「劇場の三科」も上演されることになる。

 その中で野川隆は再び登壇し、自演舞踏『果敢なる運動 1鉄衣を着た踊り 2工場の踊り』披露した他、群衆劇『千万人のツアラトウストラ 廿五景』発表した。東京展を終了すると大阪に巡回し、この野川隆「千万人のツアラトウストラ」(1)は開局されたばかりの大阪JOBKにおいてラジオドラマとして放送された。

玉村 善之助「劇場の三科」ポスター1927(昭和2)年

玉村 善之助「劇場の三科」ポスター1927(昭和2)年

 しかし単位三科における「劇場の三科」は確かに「祭りの後」の空気であった。大正前衛詩・新興美術運動は一回目の「劇場の三科」の大正十四(一九二五)年が沸騰のピークであり、その年はおりしも普通選挙法にのセットで治安維持法が公布された年である。欧州ではイタリアでムッソリーニが独裁宣言し、ドイツでヒトラーが『我が闘争』第1巻を発表する。ソ連ではトロツキーが失脚し第十四回共産党大会においてスターリンの「一国社会主議論」が採択された(1)。そして翌、大正十五(一九二六)年十二月二十五日大正天皇が崩御。隆と同じ明治三十四(一九〇一)年生まれで隆の誕生日から六日後に生まれた摂政宮裕仁が即位。元号は「昭和」と改元された。

この北園克衛と『ゲエ・ギム・ギガム・プルルル・ギムゲム』をやっていた野川隆は藝術左翼から左翼藝術へと轉換

——高見順「昭和文学盛衰史」

 そのたった六日で終わる昭和元年の翌昭和二(一九二七)年一月、大正が継続することを前提として「大正十六(一九二七)年一月一日発行」と記載された『文藝解放』というタブロイド紙が出る。

『文藝解放』1927年1月

『文藝解放』1927年1月

 その同人として旧『赤と黒』壺井繁治・小野十三郎・萩原恭次郎アナキストメンバーらともに名を連ねた隆は、全匿名記事の中で唯一の記名「野川隆」で詩を一篇を発表している。

  嗅覚

 五群
 結合
 排列
 合同
 平行
 連續
 破けた靴には釘を打ち
 破けた胸には彈をぶちこむ
 へつへ
 風がびゆうと吹いてるなかを
 移動して行くのは細胞の集合體ぢや
 犬ではないか
 犬ではあるが
 うまさうな哺乳類ではないか
 足の裏の豆ツつぶで地球にさはり
 眼は空間を吸ひ込む貝殻のかけら
 黑いきれのひらひらの下で
 科學とは
 それは何か——と
 犬の鼻にでも聞いてみろ

『文藝解放』第一巻第一號 昭和二(1927)年一月一日

 既にこの段階で前衛期の難解で理智的な詩風を棄てている。その数ヶ月後の三月には明確な訣別宣言とも呼べる「生命を賭して生命する」を『太平洋詩人』に発表した。

 平明でなければならぬ。
 單純でなければならぬ。
 果敢でなければならぬ。  
 此の事は勿論餘りに生理的なことである。
 だが、生命の事實が生理的であることを要求するのである。
 これを否定する者は、愚劣きはまる煩悶と懐疑の遊戯にふけろ。
 死んでしまへ。
 〜中略〜
 僕は過去の作品を全部排出してしまひたい。出版することに依つて區切りをつけたいと思つて居る。勿論、最初から「藝術欲望の性質に對する研究的文献」であつたのだが、がそれが享樂靑年どもに感應してしまつた——と云ふことが不愉快きはまることである。
 橋よ燒けろ。

「生命を賭して生命する」『太平洋詩人』第二巻第三號 昭和二(一九二七)年三月

 そして昭和二(一九二七)年六月『銅鑼』に「蚤の卵に就いて」という短い評論が掲載される。

 文藝はつひに文藝である、從つて、如何なる思想の支配も受けない。——かう彼等は云ひたいのである。試みに此の言葉をそのまま受けついでみよう。『如何なる思想の支配も受けない藝術』——これは無政府的藝術であると云へる。『それなら何も、無政府主義藝術と云はなくてもいいだらう。』と彼等は得意になつて輕卒に云ふ。僕たちは答へる。『處が大いに必要がある。君たちはブルヂユア根性と奴れい根性の支配をうけた藝術しか持ち合はさないからだ。』
 だいたい、藝術と思想とが別箇に存在あるかの如く考へることが見當違ひなのであつた。
『狸はつひに狸である。』
『ビール瓶はつひにビール瓶である。』
『蚤の卵はつひに蚤の卵である。』
 そして、蚤の卵は蚤から生まれなかつた、とでも云ふのか。そして、また、つひには蚤にはならぬ、とでも云ふのか。
〜中略〜
 僕たちが現在如何に努力しようとも、搾取と支配の影響なしに制作することは絕對に出來ぬ。だから、今日云ふ所の純粹藝術は盡くブルヂユア藝術でしかないのは當然である。實に恐ろしく不純藝術であつたのだ。ブルヂユアの宣傳につとめて居るのだ。そして云ふ。『僕は僕だ。』この位ひ愚劣な事はない。これは個性と習慣とを混同した低腦なタイプに屬する蚤の卵である。蚤の卵をひねりつぶせ。

——『銅鑼』第十一號 昭和二(一九二七)年六月

 この文章の同月、隆は先述した「単位三科」の二回目の「劇場の三科」に加わったわけであるが、玉村善之助、中原実らの昭和初期のシュールレアリスムへの変容していく「単位三科」のもつ知的で洗練された前衛美術の空気の中で、隆は何を深く思い、考えていたのかは定かではない。ここから長い沈黙期に入る。そして翌大正三(一九二八)年、寄宿先である玉村善之助家の妻「お蝶」と井荻の家から駆け落ちをするのである。

(第一部Gの震動・完)

脚注

  1. 五十殿利治前著で本劇は『時間表と群衆の力学について』と改題の可能性があることを伝えている。
  2. 大正十四(一九二五)年は、大日本雄辯會講談社(現・講談社)が楽天的立身出世主義を謳う「面白くてためになる」大衆娯楽雑誌『キング』創刊した年でもある。翌大正十五(一九二六)年十二月 改造社が『現代日本文学全集』を刊行し、昭和の幕開けとともに円本時代が到来する。
野川孟編集『エポック』1922年10月−23年3月 1〜6號

變電叢書刊行準備【野川隆評伝:前期】Gの震動—1901〜1927  第二章 覚醒期【「江戸川亂歩」としての野川孟・『エポック』周辺・末弟野川隆の登場】

こんばんわ!社主持田です。
前回【野川隆評伝:前期】Gの震動—1901〜1927  第一章 揺籃期【野川二郎・十和田操・野川澂『高原』周辺】のつづきです!ようやく野川隆デビューまで。兄弟追ってたら平日更新だというのに毎度の如く長くなってしまいましたが、なのにまだデビューまで!もっとも野川隆ならびにその兄弟伝としては、現在の日本で最も掘り下げているはずです。がんばってまいります。

次回で前期評伝は終了です!のはずです!

何はともあれ變電叢書「野川隆著作集」まで今しばらくお待ち下さい。

Gの震動——1901〜1927 前期:野川隆評伝

初代「江戸川亂歩」登場

江戸川亂歩「間島方面の宣傳戰一班」掲載『高原 十一月號』大正10(1921)年11月

江戸川亂歩「間島方面の宣傳戰一班」掲載『高原 十一月號』大正10(1921)年11月
日本近代文学館所蔵

 先の『高原』十一月号(大正十(一九二一)年)に五兄・野川澂の詩「懶惰なる哲學者」と並ぶようにしてに現代の我々には特別な名前が出てくる。江戸川乱歩。書かれたものは「間島方面の宣傳戰一班」。その正字「江戸川亂歩」名義で日本で一番最初に発表されたものは探偵小説ではなく、この評論である(1)。

 間島(かんとう)方面とは中国吉林省の一部で中国・朝鮮の国境線の豆満江に朝鮮威鏡北道にも接し朝鮮民族居住地を指す。現在は中華人民共和国吉林省東部の延辺朝鮮族自治州一帯で、中心都市は延吉。当時は明治四十三(一九一〇)年日本に併呑され日本統治時代の朝鮮半島から逃れてきた人々も住み着き、朝鮮独立運動の重要な拠点とされていた。「間島方面の宣傳戰一班」はこの地の朝鮮独立運動に関するプロパガンダ戦の実態を報告した非常にジャーナリスティックな作物である。この異質なものが大正美術のレポートと評論、また創作を中心とした『高原』誌面に唐突に掲載されたわけである。

 既に「中国吉林省」「延吉」という地名で思い当たるかもしれない。「間島方面の宣傳戰一班」冒頭に「江戸川亂歩」自身からの経緯の説明もある。

實は私は大正六年の暮、間島に這入り龍井村に止まること一年半、其の間大正八年龍井村に於ける鮮人の獨立運動を目撃し、更に朝鮮威鏡北道に於いて二年半新聞通信に携はつて居た関係上、間島及び露支国境方面の情報に接する機會が多く、且つ大正九年十月琿春事變に引續いて行われた討伐に從軍して、比較的此地方に關して語る材料を有して居る。

——江戸川亂歩「間島方面の宣傳戰一班」『高原』第一年十一月號(大正十(一九二一)年十一月)

 「龍井村」つまり「中華民国吉林省延吉県竜井村」、野川隆の長兄・弘が「朝鮮総督府鮮人救療医」として赴任された地である。稲垣足穂が後年『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』時代を振り返りこう証言している。

野川(筆者注:隆)の兄(筆者注:孟)は新聞記者で江戸川乱歩を名乗っていた。ちょうど推理作家平井太郎の売出し中だったから江戸川乱歩は天下に二人いたわけだが、野川は「おれの兄の方が本物である」と云っていた。

——稲垣足穂『「GGPG」の思い出』「稲垣足穂全集 第11巻 菟東雑記」2001年8月 筑摩書房

 「探偵小説家」としての平井太郎=江戸川乱歩が中国朝鮮国境付近に滞在した経歴もなく、また朝鮮独立運動に興味を持った形跡もない。この「もう一人の江戸川乱歩」説として「辻村義介」の名が上がることがあるが、ここで明確に断言しておく。江戸川乱歩=平井太郎「二銭銅貨」デビューの一九二三年の前に、一九二一年『高原』誌上に「間島方面の宣傳戰一班」、一九二二年『エポック』誌上で詩「アインシユタインの頌」を発表した「江戸川乱歩」とは、隆の七兄・野川孟である(2)。

 野川孟は隆の六歳上の明治二十八(一八九五)年生まれ。長兄・弘が大正五(一九一六)年中国大陸に渡った翌大正六(一九一七)年、孟は兄の手伝いのために渡ったようだ。二十二歳である。その地で「一年半」と「二年半」足かけ四年の間、彼はその中国朝鮮国境付近に居たことになる。

 前半は兄の弘の医療現場の手伝いをしていたようだが、その詳細は不明。後半「二年半」は「新聞通信に携わっていた」というからこのタイミングで彼は新聞記者であったこともわかる(3)。そして内地(日本)に大正十(一九二一)年に戻った。ちょうど隆の上京の年である。

 ここから隆が母よしを「中華民国吉林省延吉県竜井村」に送った際に、その母と入れ替わるようにして末弟・隆ともに帰国したのではないか。仮に兄弟が別の便で戻った場合でも、隆はその年に新設された「東洋大学文化学科」に四月に入学している(4)ため、三月末には東京に戻っている。また孟は大正十(一九二一)年の秋には、日本に既にいたことも分かる。何故なら孟の国内での活動が把握できるのは、この「江戸川亂歩」が最初だからである。帰国した孟は、一旦五兄・澂の東京の部屋に身を寄せていたようだ。その江戸川亂歩「間島方面の宣傳戰一班」掲載の『高原』同号に澂の「黑い子猫」という小品も発表されているが、どうやら孟とおぼしきモデルが出てくるからである。

 この小説の中で澂自身を三人称で扱ったであろう「村木」という主人公が『高原』編集の進捗で頭を悩ましているところに、その「弟」が使いから帰ってくる。同人「浦上」の家に原稿催促に行ったのである(4)。原稿は早速書くそうだという回答を貰えた気楽さから「村木」は「浦上」の家の「亞米利加種」の「白猫」が大層可愛いという雑談を始める。すると弟は「僕は博兄さんの家にゐた黑猫が一等好きだ」と答える。

「ふむ。博兄さんの所にも猫が居るのかい」
「居るんだ。眞黑な小さい猫でね。それが仲々愉快な奴なんだよ。」
 村木は嘗て自分も行つたことのある植民地の兄の家と、その窓際の日向に蹲つてゐる小さな黑猫を想像して、怖ろしく悠長な、原始的な環境を可なり羨ましく感じた。大陸の限りのない鷹揚さを、もう一度落ち着いて味はひたい氣がした。

——野川澂「黑い子猫」『高原』『高原』大正十(一九二一)年十一月号

 「博兄さん」の「植民地」の家は「大陸」にあり、その地にその「弟」が居た。この弟が長兄・弘の家に母を送って一時滞在した末弟・隆がモデルの可能性も考えられるが、この不思議な黑猫のエピソード(5)を兄弟が話し終わると

「さあ、昨日の続きを始めようかな。」
 かう云つて弟は翻訳物にとりかゝった。

 澂から孟に編集がバトンタッチされた『高原』大正十一(一九二二)年一月号に初の「野川孟」名義(江戸川亂歩ではなく)で短い飜訳詩(6)が載る。翌二月に野川孟訳のスタークヱザー「フランシスコ・ゴヤ」論のが掲載される。この時、隆は未だ東洋大学一年生であり『高原』には未だ作品は発表していない。ゆえに澂と同居している「弟」のモデルは孟と考えていいだろう。孟はこの頃二十六〜七歳であったはずだ。「黑い子猫」掲載号の編集後記に「東京都外巣鴨町三ノ二六ノ 三ツ矢方 野川澂」とある。野川兄弟が住む下宿は巣鴨とげぬき地蔵の裏手あたりにあったようだ。

脚注

  1. 平井太郎=江戸川乱歩「二銭銅貨」デビューは大正十二(一九二三)年である。
  2. 後年北園克衛は「朝日新聞記者」であった事実を述べているが、この段階で朝日新聞社であったか不明。
  3. 官報 1921年02月19日 国立国会図書館デジタルコレクション
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2954678/14
    この官報の東洋大学の学生募集の告知の記載を観る限り旧制中学卒業生無試験入学であることもわかる。
  4. 同号の編集後記に「私は下記のところへ移った。編輯に關しては一切の通信を此所へ頂きたい。東京都外巣鴨町三ノ二六ノ 三ツ矢方 野川澂宛」と記されているが、その前号十月号の編集後記に「雜誌「高原」の編輯に關することは、東京市外巣鴨一〇五二 村雲毅一方 野川澂宛」となっており、澂は十一月に友人の村雲宅から離れたことが分かるが、ともに「巣鴨」で近所である。ここで弟が原稿の催促にいった「浦上」はおそらく村雲ではないか。
  5. 「植民地の兄の家」の黑猫が居なくなり、いくら探しても見つからず、「弟」は気まぐれに家の屋根に上って望遠鏡で辺りの植民地風景の中を探していると、そこからは遠くにある、その地で一番高い建物の「總領事館」の三階建ての屋根の上で黑い動くものがいるのが見える。まさかと思って
    「それで建物のそばまで行くと、此方からは見えない側に修繕を加へて居たので、幸ひなことにずつと上まで足場が架けてあった。それを上つて行つて、庇から上の方を見ると、散々人を探しあぐませた黑い子猫がちやんと居た。屋根の棟の所でぶるぶると顫へながら、救ひを待ち焦れているやうな、それでゐて助けが來るのが當り前のやうな顔付きをして居たんだ。それから勾配な急な屋根を這うやうにして上つ行つて、到頭抱いて來てやつたよ。」
    「さうか、まるでお伽話みたいな話だが、矢張り其麽そんな所に居たんだね。」
    此処まで聞くと、村木は黑い子猫のアドヱ゛ンテュアが酷く面白くなつた。
    「全く僕も總領事館の屋根の上に居やうとは思わなかつた。」
    「どうしてそんな所へ上つたものだろう」
    「更に想像がつかないね。第一あんなに遠い所へどうして出かけて行つたか、まるで解らないよ。捕へ歸つてくる途中でも、他の違つた猫ぢやないかと思つて随分ためして見た。何となく誰かに欺されて居るやうな氣がしてね。然し全くあの黑い子猫に相違なかつたのだから不思議だよ。」
    「ふむ全く妙なことがあるものだな。」
    ——野川澂「黑い子猫」『高原』大正十(一九二一)年十一月号
    その後「村木」はその「アドヱ゛ンテュア」お伽話風に想像していくという小品である。
  6. 澂から孟に編集バトンが廻った『高原』一九二二年一月号に掲載された訳詩メリイ・コールリツヂ「街燈」で初めて「野川孟」の名が目次に並ぶ。

七兄・野川孟

 もしかすれば、七兄・孟が野川兄弟の中で最も先鋭的な人物だったかもわからない。孟がその革新性の片鱗を見せるのが『高原』大十一(一九二二)年一月号、澂から急遽編集業務を引き継いだ時である。彼はまず『高原』の誌面を抜本的に改めた。孟はこの一月号から唐突に縦組を改め横組を敢行するのである。

横組『高原 一月號』大正11(1922)年1月

横組『高原 一月號』大正11(1922)年1月 日本近代文学館所蔵 

 商業雑誌における左開きの横組レイアウトはこの孟の『高原』が国内で最も早い(1)。このヨーロッパ風レイアウトはのちに北園克衛の前衛雑誌『VOU』等の実験的組版へも決定的な影響を与える。

 編集後記「横組に就いて」と書かれた一文の中で「今度の誌面の大變化にも驚かれたと思ふ全く豫告もなく突如として變つたのであるから、此點も𦾔來の読者に對して一應お詫びしなくてはならない」と述べながら、

けれども、吾々が今思い切つて、之を行つたのはあながち奇を衒つたと云ふ譯ではない。實は同人の中でも反對乃至尚早を唱える向もあつたが、國字改良、漢字制限、ローマ字論等が唱へられて居る今日、吾々としても多少つゝこ方面に注意を向けて、我が國の文化促進に向かつ努力することが出來たならば非常にいゝだらうと考へたから思い切つて斷行する事としのである。

——野川孟「編輯者から」『高原』第二年一月號(大正十一(一九二二)年一月)

 孟はこの編集交代を機に、兄・澂の編輯時代の大正教養趣味の白樺派的傾向からの切断を試みていたようだ。

此號から私が前編輯者と代つて、主として編輯の任にあたることになつた。突然の事でもあり、形式が全く變つた事でもあり、凡ての點に於て思ふ樣に行かなかつた。が道々改善を加えて行つて、夫れこそ雜誌刊行の上で一のエポツクを劃する樣な仕事がして見たいと思つて居る

——野川孟「編輯者の交送に就いて」『高原』第二年一月號(大正十一(一九二二)年一月)

 未曾有の第一次世界大戦後にヨーロッパで爆発したアバンギャルド——立体派、未來派、表現派、ダダ、構成派、その枠を突き破って渾然一体と化した潮流に孟は精通しており、また世界史的動向に対する感度の良さは他の同人の追随を許さなかった。『高原』大正十一(一九二二)年七月号の編集後記で本号は「ロシヤ號」にしようとした旨を触れながら、

ソヰ゛エツト、ロシアの藝術に関する文献は、繪畫にしろ、文字[ママ]にしろ餘り得られないので、困って居る。殊に、ロシア未來主義者の繪畫に到つては、殆んど僕たちの眼に触れない。僕はロシアの未来主義は嘗て日本へ来たブリユリツク、ザツキンやその他の連中のやうなものではないと思つて居る

『高原』大正十一(一九二二)年七月号

 大正九(一九二〇)年四月ロシア未来派の父と言われた「ブリユリツク」=ブルリュークらが来日、一年に渡り展覧会や講演会で全国を廻りそのまま渡米するが、当時、既にマレーヴィッチが未來派からシュプレマティズムへと到るソビエトにおける新動向を認識している(2)。

 二〇代の半分を中国朝鮮国境付近で過ごすまでの経歴は不明であるが(3)、この大陸での経験からも日本の狭い画壇・文壇の枠には収まらないアクチュアリティを獲得していた。その確かな見識は、高原会同人であり『高原』パトロンたる玉村善之助や『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』編集人たる橋本健吉のちの北園克衛のその後の芸術活動に深い影響を与える。

 この編集後記で末尾に東京「深川區西平町一七 高原會内 野川孟」と記されている。この住所は玉村善之助の自宅であり、これで孟は兄の澂が岐阜の大垣に戻ったついで「大正十年十二月二十八印刷納本」日前までには玉村善之助宅に移ったことが分かる。

 先鋭的な編集方針で「白樺派的なるもの」から切断を果たした『高原』に、野川孟名義で発表している作品は、様々な展覧會評、中に革命後のソビエトポスターの解説等、編集者として活躍は多岐に渡るが、『高原』誌上に発表した作品としては、飜訳評論一篇、飜訳詩一編、創作詩四編、小説一篇のみである。

野川孟編集『高原』1922年5・6・7月號

野川孟編集『高原』1922年5・6・7月號 日本近代文学館所蔵

 そのうち最初の孟の詩作「冬の印象」では「1917年の冬 豆滿江岸に佇みて」という副題のつくように孟の植民地時代の風景を活写したものであるが、一九三〇年代後半に渡満後の末弟・野川隆の詩を彷彿とさせる。一方でいくつかの都市風景詩も残しており、以下の実験的作品はその後『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第二集(大正十四(一九二五)年二月)で再掲されているものである。

野川孟「銀座街頭の夜」『高原』1922年6月号

野川孟「銀座街頭の夜」『高原』1922年6月号

 また小説は大正十一(一九二二年)五月と六月に渡り「母」を掲載しているが、これは先の中国朝鮮国境付近の間島(かんとう)を舞台にした朝鮮独立運動のテロリストをモデルとした作品であり、一九二一年当時でこの現在の中東情勢を背景にしたような国際性を持った作品は寡聞にして知らない。いずれも横組であり先頭の文字を大きくするドロップキャップを用いるなどの工夫がある。

脚注

  1. 日本において芸術雑誌が横組誌面で編輯されるのは『美術新報』の明治三十五(一九〇二)年三月が最初であるが、それは横組とはいっても右開きの横組みであった。一九二〇年代の都市グラフ誌でも同様で横組も右開きである。
    関井光男・曽根博義・鈴木貞美「文献渉猟-22-玉村方久斗と日本のモダニズム運動-2-美術文芸誌『高原』と『エポック』」『国文学 解釈と教材の研究』(学灯社 1989.12) p160-163参照
  2. ダヴィド・ブルリューク – Wikipedia
    カジミール・マレーヴィチ – Wikipedia
    その後も孟は『高原』の次に手がけた『エポック』二・三号でウスリースキイ「ロシア詩壇の話」の飜訳を掲載し、詩の側面からロシアの新潮流を追っている。
    「即ち未來主義から一轉したロシアの詩壇は、今やイマヂニズムの形式の上でにメタフィジカルな思想が盛られつゝ藝術の奔流を眼ざしてヒタ走っている」
    ウスリースキイ「ロシア詩壇の話(二)」『エポック』三號 大正十一(一九二二年)一二月
  3. 孟の作物を見る限り英語・ドイツ語・ロシア語また中国語・朝鮮語が堪能であったようであり、外地で新聞社に携わっていた関係で、積極的に海外文献を漁っていたこともうかがえる。孟は四年半の外地生活中も第一次世界大戦の戦中戦後の様々な芸術革命の動向をリアルタイム吸収しているからである。なおその後の隆の語学能力(英語・ドイツ語・ロシア語・中国語)も、ポリグロット(多言語使用者)であった孟を倣ったのではないか。

第一作家同盟(D・S・D)から『エポック』へ

 同年『高原』七月号には、先に記したように澂の最後の作品となる飜訳『影のない男』が掲載されているが、その飜訳の扉前に第一作家同盟(略称D・S・D)の成立趣意文が載っている。

 おそらく玉村善之助が筆者と思われる趣意文は、既成日本画壇に反旗を翻した独立系青年日本画家グループ、高原會、蒼空邦畫會、赤人社、靑樹社、行樹社の五団体、総員三十四名による大正十一(一九二二年)六月の大同団結宣言である。この第一作家同盟は「未来派美術協会(一九二〇)」「アクション(一九二二)」が洋画界における反帝展・反二科のカウンターであったように、日本画壇における反帝展・院展への対抗運動であった。直後に一年間にわたり発行を続けていた『高原』を廃刊する。もとから院展離脱グループとして成立したその同人母体「高原會」も解散し、この第一作家同盟へと合流するのが、その年の九月である。

 改めてこの大正十一年(一九二二)を振り返れば、戦後不況の社会不安の中で様々な社会運動が加速度的に形成され始めた年である。

 その三月、京都の岡崎公会堂に三〇〇〇人余が集結し部落解放運動の「全国水平社」が設立、日本最初の人権宣言といわれる「水平社創立宣言」を採択された(2)。四月、賀川豊彦らが神戸で日本最初の全国的農民組合「日本農民組合」が創立され全国の小作争議を組織指導を開始した(3)。六月、農民組織化を目指していた「小作人社」に挫折した古田大次郎は社を解散し、中浜鉄らと「ギロチン社」を結成。訪日中のイギリス皇太子のテロル計画など一連の襲撃事件を企てるもいずれも失敗に終わる(4)。

 七月、日本初の革命政党「日本共産党」(第一次共産党)が堺利彦を中央委員長として山川均、荒畑寒村ら野坂参三、徳田球一、佐野学、鍋山貞親、赤松克麿らとコミンテルン(第三インター)日本支部として秘かに創立された(3)。九月、所謂「アナ・ボル論争」が大阪天王寺公会堂にて行われた日本労働組合総連合の結成大会で両者の対立が頂点に達し、以後アナキズムが衰退していく(4)。

 この時勢の中で第一作家同盟も左翼芸術運動の色彩が当初から色濃く、岡本唐貴『日本プロレタリア美術史』の中で日本画におけるプロレタリア美術運動の幕開けとして位置づけている(6)が、メンバー全員がその運動に共鳴していたわけではない。

 『高原』パトロンであり高原會の中心であった玉村善之助自身もその思想とは距離を置いており、「烏合の衆」たる彼らは結成直後から内部分裂の兆しがあった。第一回展を翌十月東京と京都において開催するに及んで破綻は明確になり、その左派同盟員の脱退に到る。玉村は第一作家同盟第二期を率いることになるが、同月の十月、玉村善之助は「経営者」として「エポック社」設立。同居人たる野川孟を「編集人」として新興美術雑誌『エポック』を創刊する。そこでプロレタリア芸術運動の建設の直前たる「破壊芸術」として「表現派傾向」に留まる趣旨を玉村善之助自身が語る。

 ここで孟は縦横無尽に「雜誌刊行の上で一のエポツクを劃する樣な仕事」を実行することになる。そしてこの孟の「地ならし」が出来た上で作品を初めて発表したのが、末弟の野川隆である。澂が関係を作り、孟が可能性を吹き込み、隆がその上で創作を生んだわけである。

脚注

  1. 改めてこの大正十一年(一九二二)とその前後を振り返れば、時代が旧世界から新世界へと急激なシフトチェンジを示す様々な出来事で満ちている。
     二月にワシントン会議で海軍軍縮条約が調印され一万トン以上の主力艦建造が日本含む列強間で制限された。これを機にアメリカ・イギリス・フランス・日本の四カ国条約が締結され、一九〇二年以来約20年間にわたって日本の様々な外交政策の基盤であった日英同盟の満期となり終了する。
     大戦後世界的経済不況の社会不安の中イタリアでは、ムッソリーニは、一九二二年一〇月クーデターを起しローマに進軍を始める。国王はムッソリーニに組閣を命じ、ここで史上初のファシスト政権が誕生する。
     多額の賠償金で苦しむドイツは一九二三年フランス・ベルギーに工業地帯ルール地方を占拠された結果、パン1個が1兆マルクにも及ぶ空前のハイパーインフレが発生。ドイツ中産階級は凋落。その不満は国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の擡頭を許す。同年ヒトラーは「ミュンヘン一揆」を敢行し逮捕投獄。獄中で「我が闘争」を執筆することになる。
     ソビエトでは病で倒れたレーニンの不安をよそにスターリンが実権を掌握、一九二一年一二月ソビエト連邦が成立する。
  2. ギロチン社 – コトバンク
  3. 全国水平社 – Wikipedia
  4. 日本農民組合 – コトバンク
  5. 第一次共産党 (日本) – Wikipedia
  6. アナ・ボル論争 – コトバンク
  7. 岡本唐貴『日本プロレタリア美術史』造形社 1972

アインシュタインと末弟・野川隆のデビュー

野川孟編集『エポック』1922年10月−23年3月 1〜6號

野川孟編集『エポック』1922年10月−23年3月1〜6號 国立国会図書館デジタルコレクション所蔵

 『エポック』は僅か6号で終わった短命な雑誌であったが(1)、見開き一体の大胆で鮮烈なカバーデザインを最終刊まで手がけたが玉村である。

玉村善之助『エポック』第5號1923年2月表紙・裏表紙

玉村善之助『エポック』第5號1923年2月表紙・裏表紙


玉村善之助『エポック』第4號1923年1月表紙・裏表紙

玉村善之助『エポック』第4號1923年1月表紙・裏表紙

孟の編集方針は第一号編集後記でこう書いている。

本號は最初𦾔「高原」の體裁及内容を踏襲つもりであつたが、中途から全然新たな事業として遂行して行くことゝとして、一切第一歩から踏み出すことゝした。(中略)従來「高原」は美術雑誌として世間から取り扱われて來た。なる程美術に關係のある記事が多いから、さう取り扱はれるのも止む得ないが、「エポック」は、文藝美術を主とした雜誌であつて、決して純然たる美術雑誌でないことを斷つて置く

『エポック』第一號 大正十一(一九二二)年一〇月

 『エポック』は『高原』からさらに切断され、評論・創作の他「海外消息」を設け、美術・演劇・映画・文学など領域横断的に世界同時時代的なグローバルな新興芸術潮流を積極的に紹介し、かつ日本の既成芸術への対抗意識をさらに鮮明にしていく。

 ただし編集人野川孟名義で書かれたものは少なく評論二篇「表現派映画「朝から夜中まで」について」「立體派以後の藝術」のみである。「N生」名義での飜訳数篇と展覧會評などのエッセイ数篇、おそらく孟であろう編集者としての無記名の飜訳、海外消息文章が並び、裏方に徹していたようだ。

 玉村善之助も孟と併走するように新興芸術に対する理解を一層深めていく中、「破壊藝術として」「果たして藝術永遠か」「革命は先づ都會より」「輓近藝術の方向」などの新興芸術論の他、「D・S・D袂裂の眞相と私見」の声明や、変名や「T生」名義での寸評・画壇評などを発表している。

 そして『エポック』には今一度「江戸川亂歩」が出てくる。一九二二年十一月の第二號に諸端を飾るのが「江戸川亂歩」の詩『アインシユタインの頌』である。

江戸川亂歩『アインシユタインの頌』1922年11月

江戸川亂歩『アインシユタインの頌』1922年11月

またもう一つ「江戸川亂歩」名義で短いコラム記事が大正十一(一九二二)年『エポック』三號に載っている。この記事タイトルが「相對性原理の映畫」。アインシュタインの相対性理論を通俗的に解釈した映画がドイツで製作され、同年一〇月八日〜九日の間に神田青年会館で上映されたという記事である。

アインシュタインの學説殊にその新しき時空觀へと彼の新宇宙觀とは、將來哲學が、藝術等の上に非常ま影響を與へて行くものであるから、單に科學として研究する以外に若い藝術家たちが出來得る限り消化して置くことをすゝめる。(江戸川亂歩)

「相對性原理の映畫」『エポック』三號 大正十一(一九二二)年

 「江戸川亂歩」=野川孟は『エポック』では二回登場するが、どちらも「アインシュタイン」に関するものだ。医師の父と兄弟を持ち科学的知見を育まれた野川兄弟にとってアインシュタインの一九一〇年代に発表した様々の理論は非常な衝撃を持って受け入れられた(1)もあるが、当時日本でアインシュタインは全国で一大フィーバーを起こしていた(2)。同号海外消息欄にて「アインシユタイン敎授來朝」の報告もあるように、アインシュタインは大正十一(一九二二)年十一月に来日を果たし、全国で学術講演を行ったのである。岡本一平は「本年流行のもの十七種の考察」にて流行を揶揄っている。

 アインスタイン
 判らぬ、判らぬと言い乍らアインスタインの相對性原理といふものが流行だ。
 相対性という文字を男性女性の相対の研究といふ風に魅力あるものと受け取った若い人々は無いか。
 この原理の専攻家の某博士の私行上にある逸事によってアインスタインの名も世間的に流布する力を得なかったか。

岡本一平「本年流行のもの十七種の考察」『新小説』大正十一(一九二二)年十二月初出

 当時日本で「相対性」は「あいたい性」と読まれ世間では「性的」なものとして捉えられた逸話がある。「某博士の私行上の逸事」とはアインシュタイン来日講演時には通訳もした理論物理学者で『アララギ』歌人の石原純が原阿佐緒と起こした不倫事件のことである。このように世間はヨーロッパの理論物理学の新潮流に浮かれ気味に摂取したわけでが、その岡本一平「本園流行のもの十七種の考察」の中で同列に「畫家の洋行」が扱われている。パリに居る画家志望の日本人が当時八十名も居るという話の中で、第一次世界大戦中洋行を控えていたが、戦後に殺到したという事実がまずあり、そして、

他の原因は歐洲の天地もこの頃生氣を恢復し出し繪畫に於ても、新傳統主義や、表現派や立體派や幾何學派や未來派や、ダゝイズムやが再び力を籠めて宣傳し出さるゝ気運を帶びて來た。その力に吸ひ寄せらるゝのであらう。

 第一次世界大戦後、世界は変革・刷新の気運に満ちていた。ロシアは革命を達成させ、その時勢の中でアインシュタインの理論物理学さえ「新時代」の幕開けと捉えられた。大正十(一九二一)年来日したバートランド・ラッセルは改造社山本実彦に「世界の偉人を三人上げてほしい」と乞われ、「一にアインシュタイン、二にレーニン、三はいない」と答えたという。

 その同時代の欧州で爆発した様々な芸術運動の爆風は、確かに日本にまで届いていた。その爆風を真っ先に浴びた先に野川孟の『エポック』がある。

 そして末弟・野川隆がデビューを果たすのが、この江戸川乱歩「アインシユタインの頌」が掲載された『エポック』第二号の大正十一(一九二二)年十月である。詩三編「數學者の饗宴」「沼の水蒸気」「風の詩人」の詩三編を発表(同著作集収録)。兄の孟が編集後記でこう書いている。

本號に創作欄に紹介した詩『數學者の饗宴』他二篇は、此の作者の近什二十数篇の中から編輯者は選定した。作者自身としては會心の作ばかりではないらしいことを斷って置く。

 野川隆。当時、二十一歳。東洋大学中退後、横浜で外国商館員の六兄・圭の紹介で横浜税関で「時計巻き」という真夜中の見回り仕事をしいたて頃である。空き時間には死んだ八兄・達の絵具で絵を描き、七兄・孟の雑誌に向けて詩を書いた。

 七兄・孟のその後であるが、大正十四(一九二五)年一月『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第一集の編集後記で「嘗て「エポック」の編輯に非凡な技倆をふるってゐた野川孟は、こんどロシヤ周遊の途に就いた」と記され、翌月第二年第二集「リンジヤ・ロックの生理水」なる小品を最後に筆を断っている。翌々号三月の第二年第三集の編集後記には「野川孟への手紙を出し度い人は左記へ 朝鮮 清津府敷島町 北鮮日報社内」と再び外地へと旅立った。

野川孟が大正期に内地(日本)に居た期間は僅か五年である(3)

脚注

  1. 今回参照した『エポック』全号はいずれも国立国会図書館デジタルライブラリー(館内限定/図書館送信サービス)で閲覧可能である。
    『エポック』第一號(エポック社 1922.10)
    『エポック』第二號(エポック社 1922.11)
    『エポック』第三號 (エポック社 1922.12)
    『エポック』第四號 (エポック社 1923.1) 
     ※一部欠損箇所あり 秦泰「ダダ・ダダ」部分(玉村善之助の変名で『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第二集(大正十四(一九二五)年二月)で再掲)
    『エポック』第五號 (エポック社 1923.2)
    『エポック』第六號 (エポック社 1923.3)

  2. 『高原』時代の江戸川亂歩と並ぶようにして発表した五兄・澂が「懶惰なる哲學者」という、朝目覚めとともに一匹の蜘蛛を見つけて歌う詩の句の中でアインシュタインが取り上げられている。
    「アインスタインの立證した/四次元の世界であらうと、/乃至は尙新しき/十次元の世界であらうとも、/散歩の怠りの陶醉は、/哲學者の糧に相違ない。」
    また末弟・隆も後「ハイアロイド・メムブレーン氏の憶説」(『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第六號 大正十四(1925)年六月)でも同じく「アインシュタイン」を作品の中に登場する。
  3. 岡本一平『一平全集第13巻』先進社 1929-30 国立国会図書館デジタルコレクション
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170493/148
    また、「アインシュタイン相対ぶし」なるものが大正十一(一九二二)十二月三日の「新愛知」に掲載される。その一つが「アインシュタインさん心からかあい、かあい筈だよ、アインシュタイン(愛したいん)だもの、おやまあ相対的ですね。」
    また寺田寅彦も大正九(一九二〇)年小宮豊隆宛の葉書に「変体詩 その三」としてこのようなものを綴る。
    「りんごが棚からおこった
     星の欠けらをちょっとなめた
      オムレツカツレツガーランデン
      カントにヘーゲル、アインシュタイン
     みみずの目玉を見つけたが
     碧い瞳にちょっとほれた
     ファウスト、ハムレット、バーベリオンドンナーウェターパラプリュイ」
    当時のアインシュタインに対する熱狂に関しては以下参照。
    金子務『アインシュタインショック』河出書房社1981(その後、岩波現代文庫2005)
  4. 野川孟のその後の朝鮮半島での戦前戦中の足跡は不明であり、終戦後愛知県八日市市滋賀県八日市町(現東近江市)に引き揚げ、当地で京都新聞支局長を勤めて、唯一戦後の記名記事として、昭和二十四(一九四九)年『ニューエイジ』第一巻第一号(国立国会図書館デジタルコレクション館内限定)に「近江兄弟社 労働争議のない工場」という記事を書いている。その後の消息は今なお割り出せず、没年不明である。

(つづく)

父野川二郎が第一高等学校医学部教授時代に使用した教科書

變電叢書刊行準備【野川隆評伝:前期】Gの震動—1901〜1927  第一章 揺籃期【野川二郎・十和田操・野川澂『高原』周辺】

社主持田です。こんばんは!最近更新が多いのですが、大丈夫です!なんら自棄になってませんよ!

ところで變電叢書「野川隆著作集」をガチで電子パブリッシングする前に、今までの調査の成果をきっちりまとめたろうと、無謀にも手をつけてしまった「野川隆評伝」がとんでもない分量になりそうで、とりあえず前期の前期たる「揺籃期」のみを公開いたします。今回パブリックドメインEPUB作品公開はありません(没年不明者多数の一族なものですから)。もはや野川一族のファミリーヒストリーになっておりますが、まあやってる本人が心底楽しいんですから。いいんです。僕は文献狩猟だけ白米何杯でもいけます。

今回、持ってうまれたネチネチとした性格は幸いして、この年末年始の追加調査でびっくり!新発見多数であります。自分で言うのもなんでありますが、今日本で一番詳しい野川隆伝が仕上がりそうな予感です。

今回、レア人物たる五兄・野川澂も初登場です。この人物の調査のおかげで、ミッシングリンクが繋がり野川孟・隆がどういうルートで大正期新興美術・前衛詩運動の真っ只中へ登場したかも判明した次第です。文体はいつもと違い、さらに縦書き予定の原稿のため半角数字が抑え気味にしたものなので、大変読みつらいかもしれませんが、よしなに。

こちら前期1901〜1927年まで野川隆前期著作集正式版に「前期野川隆伝」として併載させていただきますので、斯うご期待!

Gの震動——1901〜1927 前期:野川隆評伝

第一章 揺籃期 目次

 「明治」の20th Century
 兄たち
 都市へ
 五兄・野川澂

「明治」の20th Century Boy

父・野川二郎『局処解剖学』(積成社 明治三十(一八九七)年九月

野川二郎著『局処解剖学』(積成社 明治三十(一八九七)年九月)

 野川隆は明治三十四年(一九〇一)年四月二十三日に生まれた。父・野川二郎(一八五二年八月五日〜一九一四年一月二〇日)は当時第一高等学校医学部教授で、すでに五十に近い。母は東京府麻布出身でかつて宮中女官であった「よし」(一八六五〜一九三七)。その二人の子供男ばかりの九男末っ子である。二郎が教鞭を持つ第一高等学校医学部はその後千葉医大専門学校、現在の千葉大学医学部であり、その医学部校舎と目と鼻の先の「千葉縣千葉町千葉六百二八番地」(現千葉市本町一丁目)が隆の出生地となる(1)。

 その明治三十四年すなわち一九〇一年、二〇世紀が幕明けた年でもあり、のちの昭和天皇も四月二十九日に生まれている。翌日には北海道から台湾まで皇太子御生誕の号外が舞う。隆誕生から一週間もしないうちに日本は祝賀ムード一色に染まった。偶然にも父二郎も一八五二年生まれと明治天皇と同年であり、そして明治帝崩御一九一二年から二年後に没している(2)。

 野川家のルーツは岐阜県大野郡数屋村(現本巣郡)で代々の医家である。二郎は東京大学医学部第三回生で、その同窓に森林太郎(鴎外)がいた。この年医学部新入生僅か七十一名。全国から集結した明治という時代のエリート中のエリートである。細菌学の医学博士号を得て、福島県立医学校校長兼県立病院院長、和歌山県立医学高校長兼県立病院院長、宮城県立石巻病院院長を経てから、明治二十七(一八九四)年第一高等学校医学部(のちの千葉医学専門学校。戦後千葉大学医学部前身)に赴任する(3)。

 解剖学や顕微鏡使用法での教鞭を持つものの、翌明治三十五(一九〇二)年十二月、隆が一歳と八ヶ月の時にその職を辞した(4)。そして故郷近くの岐阜県大垣市俵町に大垣病院を開業する。当時日本は日清戦争を経て日露対決を目の前にして日英同盟を締結した年である。

 隆はその大垣という地で中学(旧制)卒業するまで過ごすことになるが、この地の大垣招魂社(現・濃飛護國神社)に日露戦の戦病死した岐阜県出身者二五五二名が合祀されたのが明治三十七(一九〇四)年。またそれを機に社殿拡張改築の機運が高まり、岐阜県下在郷軍人会の手で集められた寄付金によって新招魂社が竣工されたのが明治四十二(一九〇九)年(5)。

 野川隆が幼年期にこの社の竣工式を観にいったのかは不明だが、その式典で賑わう街の風景を子供の眼で眺めたにちがいない。また大垣病院では復員した傷痍軍人ら姿を多数眼にしただろう。なおその日露戦争に二郎同窓の鴎外も従軍している。また長兄弘(ひろむ)は京都大学医学部卒業後、陸軍軍医になっている。

 明治四十三(一九一〇)年韓国併合があり翌年日本が列強との不平等条約改正にこぎ着けた年の明治四十四(一九一一)年の暮、大垣病院が不審火で全焼する事件が起きる。野川隆一〇歳。医家野川家の倣いで、九人の兄弟のうち四男まで皆医師であり、陸軍軍医であった長兄弘を除き次兄・三兄・四兄は大垣病院を切り盛りしていた。その三人がこの火災で命を落としているその火災後、次男・三男は相次ぎ病没している(6)2016年1月15日訂正

 翌四十五(一九一二)年七月二十九日に明治天皇崩御し「明治」という大帝の時代が終わる。明治時代の「スーパーエリート」であった父二郎は「明治」を追うようにして大正三(一九一四)年一月に死去。享年六一歳。

 同年六月に大垣医院の再建のため長兄・弘は陸軍を離れ大垣市に戻る。しかし蓋を開けてみれば創立以来重ね続けてきた莫大な借金があることがわかり再建を断念する。弘はその返済と野川家の家計のために日本統治化からまだ間もない朝鮮総督府の「鮮人救療医」として中華民国吉林省延吉県竜井村に大正五(一九一六)年中国大陸に渡る。

 その後大正七年(一九一八年)四月間島慈恵病院院長に任命され、大正十一(一九二二)年野川隆が大学進学のため上京する際に、母よしをその地まで送っている。その後も朝鮮京畿道立開城医院長などを歴任し定年後も昭和十二(一九三七)年に弘は現地で「野川医院」を開設した。

脚注

  1. 西田勝『近代日本の戦争と文学』(法政大学出版局2007)p209参照。他でもこの著作から初期野川一族に関する貴重な情報を得た。
  2. 明治天皇 嘉永五年九月二二日(一八五二年一一月三日) – 明治四十五年(一九一二年)七月三〇日 明治天皇 -Wikipedia
  3. この第一高等学校医学部教授時代に使用したとおぼしき教科書が国立国会図書館デジタルコレクションにある。奥付の発行人に「岐阜県平民 野川二郎」の記載と「千葉縣千葉町千葉六百二八番地」の野川隆の本籍住所の記載がある。
    野川二郎『局処解剖学』(積成社 明治三十(一八九七)年九月)国立国会図書館デジタルコレクション
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/833554/2
  4. 官報一九〇二年一二月二五日 国立国会図書館デジタルコレクション
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2949148/5
    なお先掲の西田勝『近代日本の戦争と文学』(法政大学出版局2007)では「8ヶ月後」とあるが官報の記載の方を採用した。
  5. その後昭和十四(1939)年に「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」(昭和14年3月15日内務省令第12號)による同年4月1日の官報告示を以って内務省指定の「濃飛護國神社」と改称される。濃飛護國神社 – Wikipedia
  6. 十和田操「野川隆の青春」『作品 野川隆記念号』(作文社 1974)p7内の証言によるが、野川家の説明において十和田は「N(隆)はその九男だそうである。このうち次男と三男と四男は、いずれも医学博士で、長兄の博士とともに大垣病院を手伝っていたが、先年病院の大火災の折、焼死したりしている」と、長兄弘も手伝っていたという記載があるが、軍医である弘は別の土地にいて、大垣病院を再建するために軍務を辞して戻ってきたという西田勝『近代日本の戦争と文学』の調査結果の採用する。なお西田は兄のうち三人が医師であったとされるが、詳細は不明(一名の兄の計算が合わなくなるが、早期に亡くなっている可能性もある)。2016年1月15日追記更新:上記十和田操の証言とは違うが上記野川延吉の著書で「相次ぐ二男・三男の病死」と記載あり、親族の病没の証言を採用する。四男に関してはやはり不明。
    野川延吉『一医師の戦中戦後記―真実の自由と平和を求めて』(創英社/三省堂書店 2005)

兄たち

 野川隆の他の兄たちに触れる。一〇歳で父を亡くした隆にとって、兄たちは生活、経済面の援助だけでなく、精神面でも多大な影響を与えた。先も記載したように野川家では、九人の兄弟のうち四兄まで医師であり、次兄・三兄・四兄の三人(詳細不明)はその病院火災で亡くなっている。さらにその下に四人の兄がいた。筆者による調査の結果、左記が現在判明している野川家の家族構成である。

野川隆家族構成

  • 父:二郎(1852〜1914)医師。細菌学医学博士。東大医学部卒。森鴎外同窓(第三回生)。代々の医家の出。
  • 母:よし(1865〜1937)東京府麻布生 元宮中女官。
  • 長男:弘(ひろむ)(18??〜1941)医師。元陸軍軍医。京大医学部卒。大垣病院継ぐも再建断念。「朝鮮総督府鮮人救療医」として中華民国吉林省延吉県竜井村に診療所を開設。子息は野川延吉(1)弘は現地に野川医院を開設。その龍井村で死去。
  • 次男:?(18??〜1911)医師 病院火災で死去 病院火災の頃に病死?2016年1月15日訂正
  • 三男:?(18??〜1911)医師 病院火災で死去 病院火災の頃に病死?2016年1月15日訂正
  • 四男:?(18??〜1911)医師 病院火災で死去 
  • 五男:澂(きよし?)(1893?〜?)小説家。玉村善之助(方久斗)発行の『高原』に作品発表し、その後編集人へ。この澂が大垣へ帰郷しと入れ替わる形で孟が編集人になる。『高原』編集後記に同人村雲毅一(大樸子)(1893.8.3ー1957.7.27)の友人と紹介されているため、だいたいこの同年か少し上くらいか?(3)
  • 六男:圭(けい)(18??〜?)外国商館員。東洋大中退後の隆に横浜税関の勤務先を世話。
  • 七男:孟(たけし)(1895〜?)朝日新聞記者。『高原』『エポック』『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』同人編集に関わり作品論評も多数発表。朝鮮に渡り北鮮日報記者に。引き揚げ後は滋賀県八日市町(現東近江市)に居住し京都新聞支局長。子息は野川洸(4)
  • 八男:達(たっす)(189?〜1920)家・俳優。帝劇で観客であった達が舞台上の高木徳子に見初められ楽屋に連れ込まれそのまま一座へ。結核で夭折。
  • 九男:隆(たかし)(1901〜1944)作家・詩人。

 長兄弘は中国大陸に渡っていたため、隆がじかに接していた兄たちが、五兄以下の兄たち、五兄・澂、六兄・圭、七兄・孟、八兄・達である。隆はこの四人の兄から文学・演劇・西洋美術の影響を強く受けた(後述するがこのうち七兄・孟は隆の少年期に日本にはいなかった)。

長兄の博士は病院崩壊後、開業医として上海に渡ったという。N(筆者注:野川隆)には今(筆者注:当時の日記の日付「一九一九年六月一三日(金)」)残っているの兄は、上海の兄は別として四人いる。その内で私がNの家で紹介された二人の兄は五男と八男でみな芸術家である。一人は演劇家で下の兄は洋画家であり、俳優である。芸術家も哲学者のように人嫌いをするが、会ってみると正直で気持ちがよい。

——十和田操「野川隆の青春」『作品 野川隆記念号』作文社 昭和四十九(一九七四)年

 「下の兄」の八兄・達は、東京で洋画学生をしていた頃に話題の高木徳子の舞台を観に帝劇に行った。その徳子に舞台の上から見初められ楽屋に引っ張り込まれ、あれよあれよという間に、一座に加わることになった。この高木徳子(たかぎ とくこ 一八九一〜一九一九)とは、大正期の一大ムーヴメント「浅草オペラ」でアメリカ流のダンスで火をつけ、トウシューズで踊った日本最初のダンサーとして知られる(5)。

 隆は「この兄の将来に」「大変大きく期待をかけて」いたが、その一座で俳優活動での無理が祟り肺を冒し大正九(一九二〇)年に達は死去した。ちょうど隆が大垣中学を卒業する年であり、この影響で隆は一年遅れて大学進学をすることになる。

脚注

  1. 弘の子息の野川延吉は大正八(一九一九)年生。遠藤周作『海と毒薬』(昭和三十二(一九五七)年)でモデルとなる「九州大学生体解剖事件」の戦犯容疑で昭和二十二(一九四七)年巣鴨拘置所に拘留。昭和二十三(一九四八)年横浜第一軍事法定にて有罪の宣告をうけ、昭和二十八(一九五三)年仮出所。
    九州大学生体解剖事件 – Wikipedia
    なお野川延吉が乳児期に育った中華民国吉林省延吉県竜井村で大学進学前の野川隆とスナップショットがある。大正九(一九二〇)年三月頃撮影。一九歳の頃の野川隆が写っている。(前掲:西田勝『近代日本の戦争と文学』(法政大学出版局2007)p211参照)。
    野川延吉『一医師の戦中戦後記―真実の自由と平和を求めて』(創英社/三省堂書店 2005)
  2. 筆者は「五男・澂」としたが、加藤弘子『大正期の玉村方久斗(2)』での「長兄」としている。
    「長兄の野川澂は『高原』第4号(大正一〇年八月)に創作を発表した後、同誌第5号(大正一〇年八月)から第7号(同年一一月)まで編集人の一人に加わっていた。その弟野川孟は、その後を引き継ぎ『高原』(大正一一年一月)から澂に代わって編集に加わった。これが大正一一年(一九二二)年七月に廃刊になり、その後の『エポック』になるのである」加藤弘子『大正期の玉村方久斗(2)』(東京都現代美術館紀要 1998)p5
    長兄は医院再建を断念し中国大陸に渡った「弘」であることは他文献で判明しており、次兄・三兄・四兄は既に亡くなっているので、この「野川澂」は十和田操が伝える「五兄」の「演劇家」でないかと推定した。最も日本にいた兄のうち一番年長であることは変わりがない。
  3. 野川洸は川崎彰彦・五木寛之と早稲田一文同窓同窓でなく川崎彰彦の滋賀県八日市市時代の友人として芝浦工大生であった野川洸と五木が出会うことになる。(川崎彰彦『ぼくの早稲田時代』(右文書院 2005)2018年11月24訂正。)で、五木寛之「こがね虫たちの夜」(1969)は友人高杉晋吾、三木卓、川崎彰彦、野川洸らとの学生時代をモデルにしたもの。五木寛之 – Wikipedia
  4. 前掲十和田操「野川隆の青春」『作品 野川隆記念号』(作文社 1974)参照
    高木徳子 – Wikipedia

都市へ

 少し時間を巻き戻す。大正八(1919)年、隆は大垣中学校時代の十和田操と出会っている。十和田操は筆名で、本名・和田豊彦。時事新報社記者時代、昭和四(一九二九)年に吉行エイスケ第二次『葡萄園』同人に加わり、伊藤整・尾崎一雄・上林暁・川崎長太郎らと『文學生活』同人を経て、朝日新聞社出版編集部で勤務。昭和十四(一九三九)年『屋根裏出身』第九回芥川賞予選候補作になる一作発表し、戦後は明治学院大学で教鞭を持ち、作家、児童文学者として知られる(1)。隆はその十和田との最初の出会いの時から詩を送り交流を始めている。

   
 風


 黄色い風が吹いてくりゃ
 春が来る
 青い風が吹いてくりゃ
 夏が来る
 赤い風が吹いてくりゃ
 秋が来る
 白い風が吹いてくりゃ
 冬が来る

——十和田操「野川隆の青春」『作品 野川隆記念号』作文社 昭和四十九(一九七四)年

 大垣中学五年大正八(1919)年生、隆十八歳の頃の素朴な詩である。おそらく本作が野川隆の残存する最も古い詩だ。そもそもで野川隆が詩作を志したのはいつの頃からだろうか。もともと父二郎も漢詩・茶道・生花・南画などの文人としての素養を持ち、文化的な気風が色濃い家庭ではあった。さらに二郎は近代科学の粋たる医学博士(細菌学)であった。大垣医院には顕微鏡や様々な実験器具などが設備されていた(2)。野川隆の前期詩作に見られる数学・物理学・自然科学の様々な知見や述語をおり混ざる詩風は澂、孟がその片鱗を見せて、隆が徹底して突き進めたものである。後に『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』ともに編集に携わる橋本健吉こと北園克衛(3)が

ほとんど完全にSFポエムである。そんなものは今のところどこの国にも存在しないし、これから先もたぶん存在したいかもしれないが、もしそういうジャンルがこれから発生するとしたら、ぼくたちがパイオニアということになることだけは確かだ。

——北園克衛「丸善からはじまった随想」『詩と批評』昭和四十一(一九六六)年七月

 このSFを「サイエンス」と「フィクション」と分けた場合、「サイエンス」性は医学者たる父と野川兄の上の半分から「フィクション」性を芸術家たる残りの下の兄たちから引き継いだに違いない(この「芸術家の兄たち」は後述する)。なお今回の著作集は北園克衛が言うところの「SFポエム」を中心に編んである。野川隆初期作品をまとめたものとして国内初の著作集になる。

 大正九(一九二〇)年三月に隆は大垣中学を卒業するが、先に記述した八兄の達の死もあって、隆は一年遅れの大正十(一九二一)年三月に東洋大学文化学部に入学準備のために上京する。「狂騒の二〇年代 ”Roaring Twenties”」。東京は工場労働者を中心にその十年間で人口流入が倍増し、急激に近代都市の相貌を帯びはじめた。第一次世界大戦の影響による「大戦景気」で都市文化が百花繚乱のごとく花開き、そのバブルが弾け急激に社会不安が増大していた。様々な社会思想が喧しく輸入されてきたのもその頃である。

 隆の入学した東洋大学は、当時、東京大学、慶応大学、早稲田大学、と並び「東京四学」と呼ばれ、「白山の哲学」や「詩人大学」とも謳われた学舎であった。後に「詩とは爆弾である!詩人とは牢獄の固き壁と扉とに爆弾を投ずる黒き犯人である!」と檄文が刻まれた『赤と黒』(大正十二(一九二三)年一月)同人に加わる詩人小野十三郎(4)も同じ年に同学部に入学している。また一九〇一年生まれの同い年の岡本潤も東洋大学や白山周辺でたむろしていた。また白山の「南天堂」では大杉栄・辻潤らアナキスト・ダダイスト、様々な「主義者」たちが気炎を吐いていた頃でもある(5)。もしかすれば彼らとの面識が新入生の段階であったのかもわからない。が、野川隆は二学年で中退することになる(6)。

 中退後は同じく上京して明治学院大学に通っていた十和田操の部屋に転がり込み、十和田の証言によれば蒲田の映画俳優や浅草の歌劇団等様々に出入りするなど進むべき道を様々に模索していたようだ。様々な変遷のうち、横浜で外国商館員であった六兄の圭の紹介で横浜税関の職に落ち着くことにになる。その頃十和田宛て手紙を送っている。

“時計巻き”という真夜中の見回り役をつとめている。アンリー・ルソーは税関につとめながら絵をかいた。ぼくもこのごろ達ちゃん形見の絵の道具で油絵をかいている。

——十和田操「野川隆の青春」『作品 野川隆記念号』作文社 昭和四十九(一九七四)年

脚注

  1. 『十和田操作品集』異色作家叢書(冬樹社 1970)
    十和田操 – Wikipedia
  2. 「父の生命の顕微鏡も全部焼失し、父はそれを苦にして間もなく死んだ」十和田操「野川隆の青春」『作品 野川隆記念号』(作文社 1974)
  3. 北園克衛 – Wikipedia
  4. 赤と黒(詩誌) – Wikipedia
    小野十三郎 – Wikipedia
  5. 寺島珠雄『南天堂―松岡虎王麿の大正・昭和』(皓星社 1999)
    岡本潤『詩人の運命』(立風書房 1974)
  6. 東洋大学を「一年足らずで退学」との十和田操の証言もあるが、野川隆が治安維持法で逮捕された際の『特高月報』昭和八(一九三三)年八月号の記載にならう(籍は置いていても一年足らずで大学に出ていない可能性はある)。また稲垣足穂の証言によれば大正十三(一九二四)年六月の『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』刊行のタイミングでも大学に籍は置いていたとの記載もあり(計算すれば大学3年生)詳細は不明であるものの、卒業はしていない。なおその後も東洋大学系詩誌『白山詩人』第一号(大正十五(一九二六)年七月)に正富汪洋・赤松月船・角田竹夫・岡本潤・小野十三郎・勝承男・多田文三・橘不二雄ら様々な詩派であるものの東洋大学に籍を置いたとされる面々とともに会友として巻末に記載されているが、『白山詩人』への野川隆の詩稿はない。

五兄・野川澂

 隆に税関職を紹介した六兄で横浜の外国商館に勤務していた圭の他、五兄・澂(1)また七兄・孟は、隆が上京する大正十(一九二一)年三月に東京、横浜にいた。つまり野川隆の国内にいる家族は全員東京近郊に勢揃いしていたことになる。ただ澂はその年の暮には大垣市に帰郷する。母よしは中華民国吉林省延吉県竜井村の長兄・弘の元に上京前に隆が送っている。もしかするとこの隆の上京により五兄・澂が内地にいる一番上の兄として大垣市の生家を守るために帰郷する羽目になったのかもわからない。

 五兄・澂は何で生計を立てていたのかは不明であるが、その頃の澂は玉村善之助(方久斗)の雑誌『高原』(2)に関わり大正十(一九二一)年八月号から寄稿をはじめていた。『高原』とは、横山大観率いる日本画壇と衝突した玉村善之助(3)が荒木留吉、田中一良、村雲毅一(大樸子)と院展離脱の新グループ「高原会」を結成し(大正十(一九二一)三月)、その機関誌として同年五月から発行されたものである。初期は『高原絵画展覧會』を催しながら雜誌を運営していくスタイルは『白樺』踏襲しており、作品も写実的傾向の強い自然主義を標榜していたが、意匠部を設置して、ドイツやソ連のポスター紹介、またそのポスター図案制作、室内装飾や舞台装置の製作を請け負うなどのデザイン方面へ早い段階で実践を試みている(4)

 この誌上に五兄・野川澂の小説「途上」が出たのは『高原』八月號、大正一〇(一九二一)年八月である。

野川澂「途上」掲載『高原 八月號』大正10(1921)年8月

野川澂「途上」掲載『高原 八月號』大正10(1921)年8月

 同時代の内田百閒「冥途」(一九二一)にも似た夢小説である。この号の編集後記に

「途上」の作者野川(筆者注:澂)は僕の友人だ。ここ五六年の間は作らざる作家としてひどく黙りこくつてゐたが、今後は、どしどし實のあるものを書くといっている。ほんとの作家になつたさうだ。「途上」は彼の言によればほんとの小説ではないそうだが、彼の所謂「素描や習作で埋つてゐる」現文壇のなかにあつては、これも創作として立派に鑑賞出來ることゝと思ふ。

——村雲毅一「重寶記」『高原』八月號 大正一〇(一九二一)年八月

 と村雲が「友人」として紹介しており、村雲の来歴をみると旧制岐阜県立中学時代に同窓の可能性が高い(5)。その後「『高原』は十月號から野川が主となって編輯することになった」と村雲が九月号の編集後記で書いている。

 澂はつづけて小説「第三者」(同年十月號)、詩「懶惰なる哲學者」小説「黒い子猫」(同年十一月號)を発表した後で、翌大正十一(一九二二)年一月号同人通信欄で「野川澂 十二月大垣市に歸る」と急遽記載され、さらに「編輯者の交送に就いて」という連絡欄の中で、初めて七兄「野川孟」の名前が上がるのである。

此號から私が全編輯者と代つて、主として編輯の任にあたることになつた。突然の事でもあり、形式が全く變つた事でもあり、凡ての點に於て思ふ樣に行かなかつた。が道々改善を加えて行つて、夫れこそ雜誌刊行の上で一のエポツクを劃する樣な仕事がして見たいと思つて居る
——野川孟「編輯者の交送に就いて」『高原』第二年一月號(大正十一(一九二二)年一月)

 前年十二月に澂は急遽帰郷せねばならぬ問題が起きて編集を弟の孟にバトンを回したにちがいない(6)。半年後(七月号)にシャミッソー『影のない男』の翻訳とその評論を寄せたのを最後に澂の消息は掴めていない。残したものは創作四作品翻訳一篇評論一篇のみ。もっとも隆の兄の中で一番最初に作品を世に出したのがこの澂である。

 ここで重要なのは、村雲毅一経由で弟二人野川孟・隆を玉村善之助へと繋いだ点にある。『高原』に続き玉村がパトロンとして発行された『エポック』『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』は大正期新興美術運動ならびに前衛詩運動の重要な一角をなした。

 もっとも後述するが、村雲と同じ明治二十六(一八九三)年生まれの玉村善之助が歳下の孟・隆に芸術的な指導や影響を与えたというよりは、逆に「新時代の感性」を持つ野川兄弟から影響を受けたと考えた方がよい。玉村は大正から昭和にかけてその新しい感性を吸い尽くそうかとするかのように野川兄弟と併走したといえる。また末弟の隆を玉村家の書生としても住み込ませることにもなる。

脚注

  1. 野川孟・隆の「二兄弟」ではなく澂を加えて「三兄弟」の事実を伝えてくれたのが以下の東京都現代美術館紀要の加藤弘子の論文である。今回、玉村善之助(方久斗)の調査から以下の加藤弘子の論考を発見できたのは誠に僥倖であった(そこからそれ以前に『国文学』で関井光男氏他「文献渉猟」における玉村方久斗『高原』特集で「野川澂(野川隆の兄)」と記載あることが分かったが、五兄・澂に関しての論述は、現在野川隆研究に関する文献は集めうるかぎりは集めていたつもりであったが、その名を眼にしたことがなかった)。これにより『エポック』以前の野川孟・隆兄弟の前史としての『高原』を辿ることができた。これにより玉村善之助と野川兄弟を繋いだ線が明確になった。もっとも加藤弘子は「長兄」としているが本稿の「五兄」が正解かは不明であるが「長兄ではない」と訂正はしておきたい。
     加藤弘子『大正期の玉村方久斗(1)』(東京都現代美術館紀要 1997)p4
     加藤弘子『大正期の玉村方久斗(2)』(東京都現代美術館紀要 1998)p5
  2. 今回参照した『高原』号は以下。いずれも日本近代文学館に所蔵されている。
    『高原』第一年八月號(岩瀬書店 1921.5)
    『高原』第一年十月號(岩瀬書店 1921.10)
    『高原』第一年十一月號(岩瀬書店 1921.11)
    『高原』第二年一月號(岩瀬書店 1922.1)
    『高原』第二年七月號(岩瀬書店 1922.7)
  3. 玉村善之助は野川兄弟との関わりが深いため後述する。玉村方久斗 – Wikipedia
  4. 関井光男・曽根博義・鈴木貞美「文献渉猟-22-玉村方久斗と日本のモダニズム運動-1-美術文芸誌『高原』と『エポック』」『国文学 解釈と教材の研究』(学灯社 1989.11) p158-161
    関井光男・曽根博義・鈴木貞美「文献渉猟-22-玉村方久斗と日本のモダニズム運動-2-美術文芸誌『高原』と『エポック』」『国文学 解釈と教材の研究』(学灯社 1989.12) p160-163
    紅野敏郎「逍遥・文学誌-61-新興芸術誌「高原」–田中一良・玉村善之助・野川孟ら」『国文学 解釈と教材の研究』(学灯社 1989.12) p172-175
  5. 村雲の生年月日から澂を明治二十六(一八九三)年生まれか少し上くらいではないかと筆者は推定しているが、生年没年ともに詳細は不明である。ただし同人である玉村善之助・村雲毅一と同世代であったであろう。村雲大樸子 -kotobank
  6. 『高原』大正十(一九二一)年十月号に掲載されている野川澂「第三者」は私小説に近いものと推定すれば、その中で従兄弟における婚姻トラブルの存在を臭わせているが、詳細は不明。

(つづく)

【變電社SUZURIショップ再起動】Cool&Dopeな20-30年代デザイングッズをリバイバルさせて売っていくよ宣言【玉村善之助1922年10月『エポック』カバーデザイン他】

こんばんわ!我ながら更新が倍速気味でびっくりしています社主持田です。
以前より變電社SUZURIでPDグッズ利用を以前から初めておりましたが

變電社SUZURIショップ

變電社SUZURIショップ2016年はばんばん出していきますよ!

變電社SUZURIショップで2016年はばんばん出していきますよ!

2016年は本格稼働はじめます!本日更新したのが2点!Check this out!

『エポック』 10月號(1922年10月)玉村善之助 カバーデザイン

玉村善之助(方久斗)の1922年『エポック』カバーデザインでありますが、1920年代とは思えない表現派風の勢いある見事なアートワークでありますねえ。うっすら「帝国図書館」印が見えるのも愛嬌。国立国会図書館デジタルコレクション使いましたが、Web公開されていない館内限定データの複写再スキャンしたものです。

玉村善之助(方久斗)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E6%9D%91%E6%96%B9%E4%B9%85%E6%96%97
玉村 方久斗(たまむら ほくと、本名:善之助、1893年11月13日 – 1951年11月8日[1])は、大正から昭和初期に、日本画における前衛を追求したことで知られる日本画家。別号に、連城、北斗がある。本名の玉村善之助、またタマムラ・ゼンノスキーと名乗っての活動もあった。

なお玉村善之助(方久斗)は野川隆と奥さんが遁走した逸話の持ち主ですが、大正信仰美術運動ならびに前衛詩の現場でえ『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』野川孟・隆兄弟と絡んでおるキーマンとして調査追跡中ですので詳細後日!また『エポック』カバーデザインは他にもゼンノスキー・センス炸裂した素敵な表現派風「破壊芸術」カバーがまだまだありますので、シリーズ追加してまいります!

イリヤ セリビンスキー『芸術と文学』(1931年)ブックカバー Sel’vinskii, Il’ia L’vovich: Khudozhestvennaia Literatura, 1931.

スマートフォンケース/Tシャツ/トートバッグ/マグカップ

年始にニューヨーク公立図書館パブリックドメインデジタルデータ公開されましたが、こちらも早速使い倒してみました!

2016年01月07日 12時32分00秒:GIGAZINE「無料で使える18万点もの歴史的なデジタル資料をニューヨーク公立図書館がアップロードして公開中
http://gigazine.net/news/20160107-nypl-digital-collections/

NYPL Digital Collections
上記がニューヨーク公立図書館が無料で利用・共有が可能な18万点以上のデジタル資料です!

今回はこちらピックアップ!
Sel’vinskii, Il’ia L’vovich. Pushtorg. [Fur-Trade.] Moscow: Khudozhestvennaia Literatura, 1931.
http://digitalcollections.nypl.org/items/510d47e2-d361-a3d9-e040-e00a18064a99

イリヤ セリビンスキー
https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%83%A4+%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%83%93%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC-1625189

1899.10.24 – 1968.3.22 ソ連の詩人。モスクワ生まれ。
1926〜30年まで構成主義詩派の主導者として活躍し、科学と詩の結合を目指し、新しい主題には技術・科学用語の使用が不可欠であると主張した。現代ソビエト詩人の中で最も洗練された詩風をもつ一人で、作品には長編叙情詩「ウリャラーエフシチナ」(’27年)、詩劇「第二軍指令官」(’29年)、戯曲「ブルシーロフ将軍」(’41年)などがある。セリビンスキー自体は著作権は切れていませんが、カバーデザイナーが”Content: Cover design by unknown artist”ということでニューヨーク公立図書館が無料で公開後70年経過したということでPDの模様。

さてこんな感じに文学作品テキスト問わず、今後もパブリックドメイン使い倒し実践を敢行する變電社、ひきつづき御愛顧たまわらんことをよろしくお願いいたします!

次回は現在、野川隆著作集パブリッシング準備中でありますが、そちらにに添えるつもりの「Gの震動ー1901〜1927【野川隆評伝:前期】」を先出し公開予定です。新発見(私が)続出の評伝!乞うご期待!

社主 持田 泰

江戸川亂歩『アインシユタインの頌』1922年10月

【謹賀新年】初代「江戸川亂步」『アインシユタインの頌』公開【變電社乱歩祭り】

江戸川亂步く『アインシユタインの頌』

江戸川亂步『アインシユタインの頌』1922



2016年!新年あけました!おめでとうございます!このままだと半年毎に再起動します宣言のみで記事が間欠泉的に続くブログになりかねませんが、今年2016年こそ變電社再起動を誓います!社主持田です。本年もよろしくお願いいたします。近日1月30日(土)某所イベント登壇いたします(詳細は後日更新)。

さて青空文庫で江戸川乱歩『二銭銅貨』1月1日”パブリック・ドメイン・デイ”公開祭り中だろうと踏んでいたらまだ1月1日未明には公開されていない(※2016年1月1日3時21分追記:その後3時過ぎくらいで公開された模様)ようなので、だったら夜陰に乗じて變電社は野蛮なことやったろうかなということで江戸川乱歩(亂步)処女作の詩公開いたします!

江戸川亂步『アインシユタインの頌』大正11(1922)年11月

江戸川亂步『アインシユタインの頌』

へえー江戸川乱歩って初期こんな詩も書いたのかー

いや違いますよ!いや違くもないけど!江戸川乱歩は二人いますからね!

本件は昨年記事でも【20世紀跨ぎ生まれ世代の兄達1894ー5】二人の「江戸川亂歩」と井東憲『贋造の街』ならびにカフェ「變態光波」開店宣言【都市と變態】でも紹介していますが、この江戸川乱歩(亂步)は野川隆の兄の孟です。これは以下で稲垣足穂が『「GGPG」の思い出』で以下で証言しているように

野川の兄は新聞記者で江戸川乱歩を名乗っていた。ちょうど推理作家平井太郎の売出し中だったから江戸川乱歩は天下に二人いたわけだが、野川は「おれの兄の方が本物である」と云っていた。しかしその時その兄はハルピン方面に去っていた。

稲垣足穂『「GGPG」の思い出』「稲垣足穂全集 第11巻 菟東雑記」2001年8月 筑摩書房

平井太郎=江戸川乱歩が「二銭銅貨」デビューしたのは1923年ですが、1922年に野川孟が『エポック』誌上にて「江戸川亂步」名義の詩が公開したのが実は日本で最初になります。なので「江戸川亂步」一番乗りは平井太郎ではなく野川孟だよ!と改めて念を押す意味でも今回公開に踏み切りました。

この『エポック』とは野川隆の兄の孟と前衛日本画家の玉村善之助(方久斗)が創刊した海外新興藝術動向を追う文芸美術雑誌ですが、この2号目の巻頭詩に「江戸川亂步」が登場します。稲垣足穂が証言しているように野川孟の一回こっきりの筆名です。なお野川孟の生年は野川隆の明治34(1901)年の六歳上なので、明治28(1895)年です。二代目江戸川亂步たる平井太郎(明治27(1894)年10月21日)とほぼ同世代です。

ところでその生年が分かったとはいえ肝心の没年は?というと今なお不明です!皆目お分かりいたしません!なのでこちらがパブリックドメインに相応しいものかも実に不明であり、言うなればオーファンワークス(孤児作品)です。今回公開に踏み切りましたのは、よくよく読んでみた現著作権法の以下なのですが、

(無名又は変名の著作物の保護期間)
第五十二条  無名又は変名の著作物の著作権は、その著作物の公表後五十年を経過するまでの間、存続する。ただし、その存続期間の満了前にその著作者の死後五十年を経過していると認められる無名又は変名の著作物の著作権は、その著作者の死後五十年を経過したと認められる時において、消滅したものとする。
2  前項の規定は、次の各号のいずれかに該当するときは、適用しない。
一  変名の著作物における著作者の変名がその者のものとして周知のものであるとき。
二  前項の期間内に第七十五条第一項の実名の登録があつたとき。
三  著作者が前項の期間内にその実名又は周知の変名を著作者名として表示してその著作物を公表したとき。

著作権法

私が今回没年月日不明のままのっかりましたのが、太字にしています「周知」の意味です。

周知
[名](スル)世間一般に広く知れ渡っていること。また、広く知らせること。「―の事実」「―の通り」「運動の趣旨を社会に―させる」

本件「世間一般に広く知れ渡っていなかろう」と認識した次第です。
しかし

法律用語での周知とは、関係者に広く知られているということであり、有名(著名)である必要はない。また、変名が周知とは、どの人物であるかが周知ということであり、変名自体が周知であるということでも、実名が何であるかが周知ということでもない。
——Wikipedia「変名」

お、おう….「関係者に広く知られている」て稲垣足穂が書いてる限りまずそうです。「広く」はどこまでを指すのであろう。。まあ改正されて非親告罪になる前に。

まあ実際、昨年私も調査を進めてはおり、野川孟がその後朝鮮半島に渡り、戦前戦中の足跡は戦後まで歴史の闇の中ですが、終戦後愛知県八日市市滋賀県八日市町(現東近江市)に引き揚げた事実まで掴んでいます。当地で京都新聞支局長等を勤めて、唯一戦後の記名記事で昭和24(1949)年『ニューエイジ』第一巻第一号(誌名はアレですが戦後民主主義系の雑誌?のようです)にてメンソレータムでおなじみの「近江兄弟社 労働争議のない工場」というルポ記事を寄稿しています。その後再び消息不明で、日本文藝家協会まで某ルートで連絡したもののやはり分からず、京都新聞に連絡してもやはり消息不明で、前回の記事でも書きましたように孟の子息たる野川洸が詩人作家(五木寛之の大学同窓)であることを摑み、そこから辿って母校(高校)まで電話したところ「個人情報は教えられない」と無碍に断られ、東近江市に在住の「野川」姓のお宅をタウンページで調べ、片っ端からご迷惑にも連絡し、学術調査でご連絡で大変かたじけありませんが「ご祖父もしくはご親族に詩人の孟様という方はいらっしゃらいませんでしたか?」と聴いたところ「ないないないないないない貴方なにを言うておりますの?」うちの家にそんな人間おりません、と対応いただいたおそらくは高齢のおじいさんに最後の野川家の電話を切られてデッドエンドとなった次第で、様々な苦労を重ねてまいりました。でも結局わからない。

なので、居直ります。今回公開調査とさせていただきます。

今回公開してしまうことで野川孟のご親族に発見されれば逆に幸いです。
ついでに現在判明している野川隆・孟の野川一族の情報もついで公開します。


【野川家】
父:二郎(1852〜1914)医者東大医学部卒。森鴎外同窓。岐阜県代々の医家の出
母:よし(1865〜1937)東京府麻布生 元宮中女官
長兄:弘(18??〜?)医者京大医学部卒陸軍軍医→二郎の医院継ぐ→再建断念→朝鮮総督府鮮人救療医」として中華民国吉林省延吉県竜井村に診療所を開設
次兄:?(18??〜?)医者
三兄:?(18??〜?)医者
四兄:?(18??〜?)医者
五兄:?(18??〜?)劇作家?もしかするとこちらが「孟」の可能性もあり。史料により記載違う。
六兄:圭(18??〜?)外国商館員。隆に東洋大中退後の仕事の世話。
七兄:孟(1895〜?)『エポック』『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』同人→『北鮮日報』記者→『京都新聞』支局長
八兄:達(189?〜1920)洋画家俳優、帝劇で観客であった達が舞台上の高木徳子に見初められ楽屋に連れ込まれそのまま一座へ。結核で夭折。
九男:隆(1901〜1944)詩人

こちら野川一族に関しても詳細ご存知の方がいましたら是非ご一報お願いいたします

それでは皆様、2016年無事パブリックドメインになった江戸川乱歩『二銭銅貨』が青空文庫で公開されるのあと数時間でしょうが(※2016年1月1日3時21分追記:上でも記載したように3時過ぎに公開されたようです)、どうぞ初代亂步二代目亂步で読み比べしてくださいませ。

本年もよろしくお願いいたします。

變電社社主 持田 泰