【野川隆評伝:前期 Gの震動—1901〜1927】 第一章 揺籃期 父・野川二郎、友・十和田操、兄・野川澂『高原』周辺

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社主持田です。こんばんは!最近更新が多いのですが、大丈夫です!なんら自棄になってませんよ!

ところで變電叢書「野川隆著作集」をガチで電子パブリッシングする前に、今までの調査の成果をきっちりまとめたろうと、無謀にも手をつけてしまった「野川隆評伝」がとんでもない分量になりそうで、とりあえず前期の前期たる「揺籃期」のみを公開いたします。今回パブリックドメインEPUB作品公開はありません(没年不明者多数の一族なものですから)。もはや野川一族のファミリーヒストリーになっておりますが、まあやってる本人が心底楽しいんですから。いいんです。僕は文献狩猟だけ白米何杯でもいけます。

今回、持ってうまれたネチネチとした性格は幸いして、この年末年始の追加調査でびっくり!新発見多数であります。自分で言うのもなんでありますが、今日本で一番詳しい野川隆伝が仕上がりそうな予感です。

今回、レア人物たる五兄・野川澂も初登場です。この人物の調査のおかげで、ミッシングリンクが繋がり野川孟・隆がどういうルートで大正期新興美術・前衛詩運動の真っ只中へ登場したかも判明した次第です。文体はいつもと違い、さらに縦書き予定の原稿のため半角数字が抑え気味にしたものなので、大変読みつらいかもしれませんが、よしなに。

こちら前期1901〜1927年まで野川隆前期著作集正式版に「前期野川隆伝」として併載させていただきますので、斯うご期待!

Gの震動——1901〜1927 前期:野川隆評伝

「明治」の20th Century Boy

父・野川二郎『局処解剖学』(積成社 明治三十(一八九七)年九月
野川二郎著『局処解剖学』(積成社 明治三十(一八九七)年九月)

 野川隆は明治三十四年(一九〇一)年四月二十三日に生まれた。父・野川二郎(一八五二年八月五日〜一九一四年一月二〇日)は当時第一高等学校医学部教授で、すでに五十に近い。母は東京府麻布出身でかつて宮中女官であった「よし」(一八六五〜一九三七)。その二人の子供男ばかりの九男末っ子である。二郎が教鞭を持つ第一高等学校医学部はその後千葉医大専門学校、現在の千葉大学医学部であり、その医学部校舎と目と鼻の先の「千葉縣千葉町千葉六百二八番地」(現千葉市本町一丁目)が隆の出生地となる(1)。

 その明治三十四年すなわち一九〇一年、二〇世紀が幕明けた年でもあり、のちの昭和天皇も四月二十九日に生まれている。翌日には北海道から台湾まで皇太子御生誕の号外が舞う。隆誕生から一週間もしないうちに日本は祝賀ムード一色に染まった。偶然にも父二郎も一八五二年生まれと明治天皇と同年であり、そして明治帝崩御一九一二年から二年後に没している(2)。

 野川家のルーツは岐阜県大野郡数屋村(現本巣郡)で代々の医家である。二郎は東京大学医学部第三回生で、その同窓に森林太郎(鴎外)がいた。この年医学部新入生僅か七十一名。全国から集結した明治という時代のエリート中のエリートである。細菌学の医学博士号を得て、福島県立医学校校長兼県立病院院長、和歌山県立医学高校長兼県立病院院長、宮城県立石巻病院院長を経てから、明治二十七(一八九四)年第一高等学校医学部(のちの千葉医学専門学校。戦後千葉大学医学部前身)に赴任する(3)。

 解剖学や顕微鏡使用法での教鞭を持つものの、翌明治三十五(一九〇二)年十二月、隆が一歳と八ヶ月の時にその職を辞した(4)。そして故郷近くの岐阜県大垣市俵町に大垣病院を開業する。当時日本は日清戦争を経て日露対決を目の前にして日英同盟を締結した年である。

 隆はその大垣という地で中学(旧制)卒業するまで過ごすことになるが、この地の大垣招魂社(現・濃飛護國神社)に日露戦の戦病死した岐阜県出身者二五五二名が合祀されたのが明治三十七(一九〇四)年。またそれを機に社殿拡張改築の機運が高まり、岐阜県下在郷軍人会の手で集められた寄付金によって新招魂社が竣工されたのが明治四十二(一九〇九)年(5)。

 野川隆が幼年期にこの社の竣工式を観にいったのかは不明だが、その式典で賑わう街の風景を子供の眼で眺めたにちがいない。また大垣病院では復員した傷痍軍人ら姿を多数眼にしただろう。なおその日露戦争に二郎同窓の鴎外も従軍している。また長兄弘(ひろむ)は京都大学医学部卒業後、陸軍軍医になっている。

 明治四十三(一九一〇)年韓国併合があり翌年日本が列強との不平等条約改正にこぎ着けた年の明治四十四(一九一一)年の暮、大垣病院が不審火で全焼する事件が起きる。野川隆一〇歳。医家野川家の倣いで、九人の兄弟のうち四男まで皆医師であり、陸軍軍医であった長兄弘を除き次兄・三兄・四兄は大垣病院を切り盛りしていた。その三人がこの火災で命を落としているその火災後、次男・三男は相次ぎ病没している(6)2016年1月15日訂正

 翌四十五(一九一二)年七月二十九日に明治天皇崩御し「明治」という大帝の時代が終わる。明治時代の「スーパーエリート」であった父二郎は「明治」を追うようにして大正三(一九一四)年一月に死去。享年六一歳。

 同年六月に大垣医院の再建のため長兄・弘は陸軍を離れ大垣市に戻る。しかし蓋を開けてみれば創立以来重ね続けてきた莫大な借金があることがわかり再建を断念する。弘はその返済と野川家の家計のために日本統治化からまだ間もない朝鮮総督府の「鮮人救療医」として中華民国吉林省延吉県竜井村に大正五(一九一六)年中国大陸に渡る。

 その後大正七年(一九一八年)四月間島慈恵病院院長に任命され、大正十一(一九二二)年野川隆が大学進学のため上京する際に、母よしをその地まで送っている。その後も朝鮮京畿道立開城医院長などを歴任し定年後も昭和十二(一九三七)年に弘は現地で「野川医院」を開設した。

脚注

  1. 西田勝『近代日本の戦争と文学』(法政大学出版局2007)p209参照。他でもこの著作から初期野川一族に関する貴重な情報を得た。
  2. 明治天皇 嘉永五年九月二二日(一八五二年一一月三日) – 明治四十五年(一九一二年)七月三〇日 明治天皇 -Wikipedia
  3. この第一高等学校医学部教授時代に使用したとおぼしき教科書が国立国会図書館デジタルコレクションにある。奥付の発行人に「岐阜県平民 野川二郎」の記載と「千葉縣千葉町千葉六百二八番地」の野川隆の本籍住所の記載がある。 野川二郎『局処解剖学』(積成社 明治三十(一八九七)年九月)国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/833554/2
  4. 官報一九〇二年一二月二五日 国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2949148/5 なお先掲の西田勝『近代日本の戦争と文学』(法政大学出版局2007)では「8ヶ月後」とあるが官報の記載の方を採用した。
  5. その後昭和十四(1939)年に「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」(昭和14年3月15日内務省令第12號)による同年4月1日の官報告示を以って内務省指定の「濃飛護國神社」と改称される。濃飛護國神社 – Wikipedia
  6. 十和田操「野川隆の青春」『作品 野川隆記念号』(作文社 1974)p7内の証言によるが、野川家の説明において十和田は「N(隆)はその九男だそうである。このうち次男と三男と四男は、いずれも医学博士で、長兄の博士とともに大垣病院を手伝っていたが、先年病院の大火災の折、焼死したりしている」と、長兄弘も手伝っていたという記載があるが、軍医である弘は別の土地にいて、大垣病院を再建するために軍務を辞して戻ってきたという西田勝『近代日本の戦争と文学』の調査結果の採用する。なお西田は兄のうち三人が医師であったとされるが、詳細は不明(一名の兄の計算が合わなくなるが、早期に亡くなっている可能性もある)。2016年1月15日追記更新:上記十和田操の証言とは違うが上記野川延吉の著書で「相次ぐ二男・三男の病死」と記載あり、親族の病没の証言を採用する。四男に関してはやはり不明。 野川延吉『一医師の戦中戦後記―真実の自由と平和を求めて』(創英社/三省堂書店 2005)

兄たち

 野川隆の他の兄たちに触れる。一〇歳で父を亡くした隆にとって、兄たちは生活、経済面の援助だけでなく、精神面でも多大な影響を与えた。先も記載したように野川家では、九人の兄弟のうち四兄まで医師であり、次兄・三兄・四兄の三人(詳細不明)はその病院火災で亡くなっている。さらにその下に四人の兄がいた。筆者による調査の結果、左記が現在判明している野川家の家族構成である。

野川隆家族構成

  • 父:二郎(1852〜1914)医師。細菌学医学博士。東大医学部卒。森鴎外同窓(第三回生)。代々の医家の出。
  • 母:よし(1865〜1937)東京府麻布生 元宮中女官。
  • 長男:弘(ひろむ)(18??〜1941)医師。元陸軍軍医。京大医学部卒。大垣病院継ぐも再建断念。「朝鮮総督府鮮人救療医」として中華民国吉林省延吉県竜井村に診療所を開設。子息は野川延吉(1)弘は現地に野川医院を開設。その龍井村で死去。
  • 次男:?(18??〜1911)医師 病院火災で死去 病院火災の頃に病死?2016年1月15日訂正
  • 三男:?(18??〜1911)医師 病院火災で死去 病院火災の頃に病死?2016年1月15日訂正
  • 四男:?(18??〜1911)医師 病院火災で死去
  • 五男:澂(きよし?)(1893?〜?)小説家。玉村善之助(方久斗)発行の『高原』に作品発表し、その後編集人へ。この澂が大垣へ帰郷しと入れ替わる形で孟が編集人になる。『高原』編集後記に同人村雲毅一(大樸子)(1893.8.3ー1957.7.27)の友人と紹介されているため、だいたいこの同年か少し上くらいか?(3)
  • 六男:圭(けい)(18??〜?)外国商館員。東洋大中退後の隆に横浜税関の勤務先を世話。
  • 七男:孟(たけし)(1895〜?)朝日新聞記者。『高原』『エポック』『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』同人編集に関わり作品論評も多数発表。朝鮮に渡り北鮮日報記者に。引き揚げ後は滋賀県八日市町(現東近江市)に居住し京都新聞支局長。子息は野川洸(4)
  • 八男:達(たっす)(189?〜1920)家・俳優。帝劇で観客であった達が舞台上の高木徳子に見初められ楽屋に連れ込まれそのまま一座へ。結核で夭折。
  • 九男:隆(たかし)(1901〜1944)作家・詩人。

 長兄弘は中国大陸に渡っていたため、隆がじかに接していた兄たちが、五兄以下の兄たち、五兄・澂、六兄・圭、七兄・孟、八兄・達である。隆はこの四人の兄から文学・演劇・西洋美術の影響を強く受けた(後述するがこのうち七兄・孟は隆の少年期に日本にはいなかった)。

長兄の博士は病院崩壊後、開業医として上海に渡ったという。N(筆者注:野川隆)には今(筆者注:当時の日記の日付「一九一九年六月一三日(金)」)残っているの兄は、上海の兄は別として四人いる。その内で私がNの家で紹介された二人の兄は五男と八男でみな芸術家である。一人は演劇家で下の兄は洋画家であり、俳優である。芸術家も哲学者のように人嫌いをするが、会ってみると正直で気持ちがよい。

——十和田操「野川隆の青春」『作品 野川隆記念号』作文社 昭和四十九(一九七四)年

 「下の兄」の八兄・達は、東京で洋画学生をしていた頃に話題の高木徳子の舞台を観に帝劇に行った。その徳子に舞台の上から見初められ楽屋に引っ張り込まれ、あれよあれよという間に、一座に加わることになった。この高木徳子(たかぎ とくこ 一八九一〜一九一九)とは、大正期の一大ムーヴメント「浅草オペラ」でアメリカ流のダンスで火をつけ、トウシューズで踊った日本最初のダンサーとして知られる(5)。

 隆は「この兄の将来に」「大変大きく期待をかけて」いたが、その一座で俳優活動での無理が祟り肺を冒し大正九(一九二〇)年に達は死去した。ちょうど隆が大垣中学を卒業する年であり、この影響で隆は一年遅れて大学進学をすることになる。

脚注

  1. 弘の子息の野川延吉は大正八(一九一九)年生。遠藤周作『海と毒薬』(昭和三十二(一九五七)年)でモデルとなる「九州大学生体解剖事件」の戦犯容疑で昭和二十二(一九四七)年巣鴨拘置所に拘留。昭和二十三(一九四八)年横浜第一軍事法定にて有罪の宣告をうけ、昭和二十八(一九五三)年仮出所。 九州大学生体解剖事件 – Wikipedia なお野川延吉が乳児期に育った中華民国吉林省延吉県竜井村で大学進学前の野川隆とスナップショットがある。大正九(一九二〇)年三月頃撮影。一九歳の頃の野川隆が写っている。(前掲:西田勝『近代日本の戦争と文学』(法政大学出版局2007)p211参照)。 野川延吉『一医師の戦中戦後記―真実の自由と平和を求めて』(創英社/三省堂書店 2005)
  2. 筆者は「五男・澂」としたが、加藤弘子『大正期の玉村方久斗(2)』での「長兄」としている。 「長兄の野川澂は『高原』第4号(大正一〇年八月)に創作を発表した後、同誌第5号(大正一〇年八月)から第7号(同年一一月)まで編集人の一人に加わっていた。その弟野川孟は、その後を引き継ぎ『高原』(大正一一年一月)から澂に代わって編集に加わった。これが大正一一年(一九二二)年七月に廃刊になり、その後の『エポック』になるのである」加藤弘子『大正期の玉村方久斗(2)』(東京都現代美術館紀要 1998)p5 長兄は医院再建を断念し中国大陸に渡った「弘」であることは他文献で判明しており、次兄・三兄・四兄は既に亡くなっているので、この「野川澂」は十和田操が伝える「五兄」の「演劇家」でないかと推定した。最も日本にいた兄のうち一番年長であることは変わりがない。
  3. 野川洸は川崎彰彦・五木寛之と早稲田一文同窓同窓でなく川崎彰彦の滋賀県八日市市時代の友人として芝浦工大生であった野川洸と五木が出会うことになる。(川崎彰彦『ぼくの早稲田時代』(右文書院 2005)2018年11月24訂正。)で、五木寛之「こがね虫たちの夜」(1969)は友人高杉晋吾、三木卓、川崎彰彦、野川洸らとの学生時代をモデルにしたもの。五木寛之 – Wikipedia
  4. 前掲十和田操「野川隆の青春」『作品 野川隆記念号』(作文社 1974)参照 高木徳子 – Wikipedia

都市へ

 少し時間を巻き戻す。大正八(1919)年、隆は大垣中学校時代の十和田操と出会っている。十和田操は筆名で、本名・和田豊彦。時事新報社記者時代、昭和四(一九二九)年に吉行エイスケ第二次『葡萄園』同人に加わり、伊藤整・尾崎一雄・上林暁・川崎長太郎らと『文學生活』同人を経て、朝日新聞社出版編集部で勤務。昭和十四(一九三九)年『屋根裏出身』第九回芥川賞予選候補作になる一作発表し、戦後は明治学院大学で教鞭を持ち、作家、児童文学者として知られる(1)。隆はその十和田との最初の出会いの時から詩を送り交流を始めている。

 風

 黄色い風が吹いてくりゃ 春が来る 青い風が吹いてくりゃ 夏が来る 赤い風が吹いてくりゃ 秋が来る 白い風が吹いてくりゃ 冬が来る

——十和田操「野川隆の青春」『作品 野川隆記念号』作文社 昭和四十九(一九七四)年

 大垣中学五年大正八(1919)年生、隆十八歳の頃の素朴な詩である。おそらく本作が野川隆の残存する最も古い詩だ。そもそもで野川隆が詩作を志したのはいつの頃からだろうか。もともと父二郎も漢詩・茶道・生花・南画などの文人としての素養を持ち、文化的な気風が色濃い家庭ではあった。さらに二郎は近代科学の粋たる医学博士(細菌学)であった。大垣医院には顕微鏡や様々な実験器具などが設備されていた(2)。野川隆の前期詩作に見られる数学・物理学・自然科学の様々な知見や述語をおり混ざる詩風は澂、孟がその片鱗を見せて、隆が徹底して突き進めたものである。後に『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』ともに編集に携わる橋本健吉こと北園克衛(3)が

ほとんど完全にSFポエムである。そんなものは今のところどこの国にも存在しないし、これから先もたぶん存在したいかもしれないが、もしそういうジャンルがこれから発生するとしたら、ぼくたちがパイオニアということになることだけは確かだ。

——北園克衛「丸善からはじまった随想」『詩と批評』昭和四十一(一九六六)年七月

 このSFを「サイエンス」と「フィクション」と分けた場合、「サイエンス」性は医学者たる父と野川兄の上の半分から「フィクション」性を芸術家たる残りの下の兄たちから引き継いだに違いない(この「芸術家の兄たち」は後述する)。なお今回の著作集は北園克衛が言うところの「SFポエム」を中心に編んである。野川隆初期作品をまとめたものとして国内初の著作集になる。

 大正九(一九二〇)年三月に隆は大垣中学を卒業するが、先に記述した八兄の達の死もあって、隆は一年遅れの大正十(一九二一)年三月に東洋大学文化学部に入学準備のために上京する。「狂騒の二〇年代 ”Roaring Twenties”」。東京は工場労働者を中心にその十年間で人口流入が倍増し、急激に近代都市の相貌を帯びはじめた。第一次世界大戦の影響による「大戦景気」で都市文化が百花繚乱のごとく花開き、そのバブルが弾け急激に社会不安が増大していた。様々な社会思想が喧しく輸入されてきたのもその頃である。

 隆の入学した東洋大学は、当時、東京大学、慶応大学、早稲田大学、と並び「東京四学」と呼ばれ、「白山の哲学」や「詩人大学」とも謳われた学舎であった。後に「詩とは爆弾である!詩人とは牢獄の固き壁と扉とに爆弾を投ずる黒き犯人である!」と檄文が刻まれた『赤と黒』(大正十二(一九二三)年一月)同人に加わる詩人小野十三郎(4)も同じ年に同学部に入学している。また一九〇一年生まれの同い年の岡本潤も東洋大学や白山周辺でたむろしていた。また白山の「南天堂」では大杉栄・辻潤らアナキスト・ダダイスト、様々な「主義者」たちが気炎を吐いていた頃でもある(5)。もしかすれば彼らとの面識が新入生の段階であったのかもわからない。が、野川隆は二学年で中退することになる(6)。

 中退後は同じく上京して明治学院大学に通っていた十和田操の部屋に転がり込み、十和田の証言によれば蒲田の映画俳優や浅草の歌劇団等様々に出入りするなど進むべき道を様々に模索していたようだ。様々な変遷のうち、横浜で外国商館員であった六兄の圭の紹介で横浜税関の職に落ち着くことにになる。その頃十和田宛て手紙を送っている。

“時計巻き”という真夜中の見回り役をつとめている。アンリー・ルソーは税関につとめながら絵をかいた。ぼくもこのごろ達ちゃん形見の絵の道具で油絵をかいている。

——十和田操「野川隆の青春」『作品 野川隆記念号』作文社 昭和四十九(一九七四)年

脚注

  1. 『十和田操作品集』異色作家叢書(冬樹社 1970) 十和田操 – Wikipedia
  2. 「父の生命の顕微鏡も全部焼失し、父はそれを苦にして間もなく死んだ」十和田操「野川隆の青春」『作品 野川隆記念号』(作文社 1974)
  3. 北園克衛 – Wikipedia
  4. 赤と黒(詩誌) – Wikipedia 小野十三郎 – Wikipedia
  5. 寺島珠雄『南天堂―松岡虎王麿の大正・昭和』(皓星社 1999) 岡本潤『詩人の運命』(立風書房 1974)
  6. 東洋大学を「一年足らずで退学」との十和田操の証言もあるが、野川隆が治安維持法で逮捕された際の『特高月報』昭和八(一九三三)年八月号の記載にならう(籍は置いていても一年足らずで大学に出ていない可能性はある)。また稲垣足穂の証言によれば大正十三(一九二四)年六月の『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』刊行のタイミングでも大学に籍は置いていたとの記載もあり(計算すれば大学3年生)詳細は不明であるものの、卒業はしていない。なおその後も東洋大学系詩誌『白山詩人』第一号(大正十五(一九二六)年七月)に正富汪洋・赤松月船・角田竹夫・岡本潤・小野十三郎・勝承男・多田文三・橘不二雄ら様々な詩派であるものの東洋大学に籍を置いたとされる面々とともに会友として巻末に記載されているが、『白山詩人』への野川隆の詩稿はない。

五兄・野川澂

 隆に税関職を紹介した六兄で横浜の外国商館に勤務していた圭の他、五兄・澂(1)また七兄・孟は、隆が上京する大正十(一九二一)年三月に東京、横浜にいた。つまり野川隆の国内にいる家族は全員東京近郊に勢揃いしていたことになる。ただ澂はその年の暮には大垣市に帰郷する。母よしは中華民国吉林省延吉県竜井村の長兄・弘の元に上京前に隆が送っている。もしかするとこの隆の上京により五兄・澂が内地にいる一番上の兄として大垣市の生家を守るために帰郷する羽目になったのかもわからない。

 五兄・澂は何で生計を立てていたのかは不明であるが、その頃の澂は玉村善之助(方久斗)の雑誌『高原』(2)に関わり大正十(一九二一)年八月号から寄稿をはじめていた。『高原』とは、横山大観率いる日本画壇と衝突した玉村善之助(3)が荒木留吉、田中一良、村雲毅一(大樸子)と院展離脱の新グループ「高原会」を結成し(大正十(一九二一)三月)、その機関誌として同年五月から発行されたものである。初期は『高原絵画展覧會』を催しながら雜誌を運営していくスタイルは『白樺』踏襲しており、作品も写実的傾向の強い自然主義を標榜していたが、意匠部を設置して、ドイツやソ連のポスター紹介、またそのポスター図案制作、室内装飾や舞台装置の製作を請け負うなどのデザイン方面へ早い段階で実践を試みている(4)

 この誌上に五兄・野川澂の小説「途上」が出たのは『高原』八月號、大正一〇(一九二一)年八月である。

野川澂「途上」掲載『高原 八月號』大正10(1921)年8月
野川澂「途上」掲載『高原 八月號』大正10(1921)年8月

 同時代の内田百閒「冥途」(一九二一)にも似た夢小説である。この号の編集後記に

「途上」の作者野川(筆者注:澂)は僕の友人だ。ここ五六年の間は作らざる作家としてひどく黙りこくつてゐたが、今後は、どしどし實のあるものを書くといっている。ほんとの作家になつたさうだ。「途上」は彼の言によればほんとの小説ではないそうだが、彼の所謂「素描や習作で埋つてゐる」現文壇のなかにあつては、これも創作として立派に鑑賞出來ることゝと思ふ。

——村雲毅一「重寶記」『高原』八月號 大正一〇(一九二一)年八月

 と村雲が「友人」として紹介しており、村雲の来歴をみると旧制岐阜県立中学時代に同窓の可能性が高い(5)。その後「『高原』は十月號から野川が主となって編輯することになった」と村雲が九月号の編集後記で書いている。

 澂はつづけて小説「第三者」(同年十月號)、詩「懶惰なる哲學者」小説「黒い子猫」(同年十一月號)を発表した後で、翌大正十一(一九二二)年一月号同人通信欄で「野川澂 十二月大垣市に歸る」と急遽記載され、さらに「編輯者の交送に就いて」という連絡欄の中で、初めて七兄「野川孟」の名前が上がるのである。

此號から私が全編輯者と代つて、主として編輯の任にあたることになつた。突然の事でもあり、形式が全く變つた事でもあり、凡ての點に於て思ふ樣に行かなかつた。が道々改善を加えて行つて、夫れこそ雜誌刊行の上で一のエポツクを劃する樣な仕事がして見たいと思つて居る ——野川孟「編輯者の交送に就いて」『高原』第二年一月號(大正十一(一九二二)年一月)

 前年十二月に澂は急遽帰郷せねばならぬ問題が起きて編集を弟の孟にバトンを回したにちがいない(6)。半年後(七月号)にシャミッソー『影のない男』の翻訳とその評論を寄せたのを最後に澂の消息は掴めていない。残したものは創作四作品翻訳一篇評論一篇のみ。もっとも隆の兄の中で一番最初に作品を世に出したのがこの澂である。

 ここで重要なのは、村雲毅一経由で弟二人野川孟・隆を玉村善之助へと繋いだ点にある。『高原』に続き玉村がパトロンとして発行された『エポック』『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』は大正期新興美術運動ならびに前衛詩運動の重要な一角をなした。

 もっとも後述するが、村雲と同じ明治二十六(一八九三)年生まれの玉村善之助が歳下の孟・隆に芸術的な指導や影響を与えたというよりは、逆に「新時代の感性」を持つ野川兄弟から影響を受けたと考えた方がよい。玉村は大正から昭和にかけてその新しい感性を吸い尽くそうかとするかのように野川兄弟と併走したといえる。また末弟の隆を玉村家の書生としても住み込ませることにもなる。

脚注

  1. 野川孟・隆の「二兄弟」ではなく澂を加えて「三兄弟」の事実を伝えてくれたのが以下の東京都現代美術館紀要の加藤弘子の論文である。今回、玉村善之助(方久斗)の調査から以下の加藤弘子の論考を発見できたのは誠に僥倖であった(そこからそれ以前に『国文学』で関井光男氏他「文献渉猟」における玉村方久斗『高原』特集で「野川澂(野川隆の兄)」と記載あることが分かったが、五兄・澂に関しての論述は、現在野川隆研究に関する文献は集めうるかぎりは集めていたつもりであったが、その名を眼にしたことがなかった)。これにより『エポック』以前の野川孟・隆兄弟の前史としての『高原』を辿ることができた。これにより玉村善之助と野川兄弟を繋いだ線が明確になった。もっとも加藤弘子は「長兄」としているが本稿の「五兄」が正解かは不明であるが「長兄ではない」と訂正はしておきたい。 加藤弘子『大正期の玉村方久斗(1)』(東京都現代美術館紀要 1997)p4 加藤弘子『大正期の玉村方久斗(2)』(東京都現代美術館紀要 1998)p5
  2. 今回参照した『高原』号は以下。いずれも日本近代文学館に所蔵されている。 『高原』第一年八月號(岩瀬書店 1921.5) 『高原』第一年十月號(岩瀬書店 1921.10) 『高原』第一年十一月號(岩瀬書店 1921.11) 『高原』第二年一月號(岩瀬書店 1922.1) 『高原』第二年七月號(岩瀬書店 1922.7)
  3. 玉村善之助は野川兄弟との関わりが深いため後述する。玉村方久斗 – Wikipedia
  4. 関井光男・曽根博義・鈴木貞美「文献渉猟-22-玉村方久斗と日本のモダニズム運動-1-美術文芸誌『高原』と『エポック』」『国文学 解釈と教材の研究』(学灯社 1989.11) p158-161 関井光男・曽根博義・鈴木貞美「文献渉猟-22-玉村方久斗と日本のモダニズム運動-2-美術文芸誌『高原』と『エポック』」『国文学 解釈と教材の研究』(学灯社 1989.12) p160-163 紅野敏郎「逍遥・文学誌-61-新興芸術誌「高原」–田中一良・玉村善之助・野川孟ら」『国文学 解釈と教材の研究』(学灯社 1989.12) p172-175
  5. 村雲の生年月日から澂を明治二十六(一八九三)年生まれか少し上くらいではないかと筆者は推定しているが、生年没年ともに詳細は不明である。ただし同人である玉村善之助・村雲毅一と同世代であったであろう。村雲大樸子 -kotobank
  6. 『高原』大正十(一九二一)年十月号に掲載されている野川澂「第三者」は私小説に近いものと推定すれば、その中で従兄弟における婚姻トラブルの存在を臭わせているが、詳細は不明。

(つづく)

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