【謹賀新年】初代「江戸川亂步」『アインシユタインの頌』公開【變電社乱歩祭り】

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江戸川亂步く『アインシユタインの頌』
江戸川亂步『アインシユタインの頌』1922

2016年!新年あけました!おめでとうございます!このままだと半年毎に再起動します宣言のみで記事が間欠泉的に続くブログになりかねませんが、今年2016年こそ變電社再起動を誓います!社主持田です。本年もよろしくお願いいたします。近日1月30日(土)某所イベント登壇いたします(詳細は後日更新)。

さて青空文庫で江戸川乱歩『二銭銅貨』1月1日”パブリック・ドメイン・デイ”公開祭り中だろうと踏んでいたらまだ1月1日未明には公開されていない(※2016年1月1日3時21分追記:その後3時過ぎくらいで公開された模様)ようなので、だったら夜陰に乗じて變電社は野蛮なことやったろうかなということで江戸川乱歩(亂步)処女作の詩公開いたします!

江戸川亂步『アインシユタインの頌』大正11(1922)年11月

『アインシユタインの頌』

へえー江戸川乱歩って初期こんな詩も書いたのかー

いや違いますよ!いや違くもないけど!江戸川乱歩は二人いますからね!

本件は昨年記事でも【20世紀跨ぎ生まれ世代の兄達1894ー5】二人の「江戸川亂歩」と井東憲『贋造の街』ならびにカフェ「變態光波」開店宣言【都市と變態】でも紹介していますが、この江戸川乱歩(亂步)は野川隆の兄の孟です。これは以下で稲垣足穂が『「GGPG」の思い出』で以下で証言しているように

野川の兄は新聞記者で江戸川乱歩を名乗っていた。ちょうど推理作家平井太郎の売出し中だったから江戸川乱歩は天下に二人いたわけだが、野川は「おれの兄の方が本物である」と云っていた。しかしその時その兄はハルピン方面に去っていた。

稲垣足穂『「GGPG」の思い出』「稲垣足穂全集 第11巻 菟東雑記」2001年8月 筑摩書房

平井太郎=江戸川乱歩が「二銭銅貨」デビューしたのは1923年ですが、1922年に野川孟が『エポック』誌上にて「江戸川亂步」名義の詩が公開したのが実は日本で最初になります。なので「江戸川亂步」一番乗りは平井太郎ではなく野川孟だよ!と改めて念を押す意味でも今回公開に踏み切りました。

この『エポック』とは野川隆の兄の孟と前衛日本画家の玉村善之助(方久斗)が創刊した海外新興藝術動向を追う文芸美術雑誌ですが、この2号目の巻頭詩に「江戸川亂步」が登場します。稲垣足穂が証言しているように野川孟の一回こっきりの筆名です。なお野川孟の生年は野川隆の明治34(1901)年の六歳上なので、明治28(1895)年です。二代目江戸川亂步たる平井太郎(明治27(1894)年10月21日)とほぼ同世代です。

ところでその生年が分かったとはいえ肝心の没年は?というと今なお不明です!皆目お分かりいたしません!なのでこちらがパブリックドメインに相応しいものかも実に不明であり、言うなればオーファンワークス(孤児作品)です。今回公開に踏み切りましたのは、よくよく読んでみた現著作権法の以下なのですが、

(無名又は変名の著作物の保護期間)
第五十二条  無名又は変名の著作物の著作権は、その著作物の公表後五十年を経過するまでの間、存続する。ただし、その存続期間の満了前にその著作者の死後五十年を経過していると認められる無名又は変名の著作物の著作権は、その著作者の死後五十年を経過したと認められる時において、消滅したものとする。
2  前項の規定は、次の各号のいずれかに該当するときは、適用しない。
一  変名の著作物における著作者の変名がその者のものとして周知のものであるとき。
二  前項の期間内に第七十五条第一項の実名の登録があつたとき。
三  著作者が前項の期間内にその実名又は周知の変名を著作者名として表示してその著作物を公表したとき。

著作権法

私が今回没年月日不明のままのっかりましたのが、太字にしています「周知」の意味です。

周知
[名](スル)世間一般に広く知れ渡っていること。また、広く知らせること。「―の事実」「―の通り」「運動の趣旨を社会に―させる」

本件「世間一般に広く知れ渡っていなかろう」と認識した次第です。
しかし

法律用語での周知とは、関係者に広く知られているということであり、有名(著名)である必要はない。また、変名が周知とは、どの人物であるかが周知ということであり、変名自体が周知であるということでも、実名が何であるかが周知ということでもない。
——Wikipedia「変名」

お、おう….「関係者に広く知られている」て稲垣足穂が書いてる限りまずそうです。「広く」はどこまでを指すのであろう。。まあ改正されて非親告罪になる前に。

まあ実際、昨年私も調査を進めてはおり、野川孟がその後朝鮮半島に渡り、戦前戦中の足跡は戦後まで歴史の闇の中ですが、終戦後愛知県八日市市滋賀県八日市町(現東近江市)に引き揚げた事実まで掴んでいます。当地で京都新聞支局長等を勤めて、唯一戦後の記名記事で昭和24(1949)年『ニューエイジ』第一巻第一号(誌名はアレですが戦後民主主義系の雑誌?のようです)にてメンソレータムでおなじみの「近江兄弟社 労働争議のない工場」というルポ記事を寄稿しています。その後再び消息不明で、日本文藝家協会まで某ルートで連絡したもののやはり分からず、京都新聞に連絡してもやはり消息不明で、前回の記事でも書きましたように孟の子息たる野川洸が詩人作家(五木寛之の大学同窓)であることを摑み、そこから辿って母校(高校)まで電話したところ「個人情報は教えられない」と無碍に断られ、東近江市に在住の「野川」姓のお宅をタウンページで調べ、片っ端からご迷惑にも連絡し、学術調査でご連絡で大変かたじけありませんが「ご祖父もしくはご親族に詩人の孟様という方はいらっしゃらいませんでしたか?」と聴いたところ「ないないないないないない貴方なにを言うておりますの?」うちの家にそんな人間おりません、と対応いただいたおそらくは高齢のおじいさんに最後の野川家の電話を切られてデッドエンドとなった次第で、様々な苦労を重ねてまいりました。でも結局わからない。

なので、居直ります。今回公開調査とさせていただきます。

今回公開してしまうことで野川孟のご親族に発見されれば逆に幸いです。
ついでに現在判明している野川隆・孟の野川一族の情報もついで公開します。


【野川家】
父:二郎(1852〜1914)医者東大医学部卒。森鴎外同窓。岐阜県代々の医家の出
母:よし(1865〜1937)東京府麻布生 元宮中女官
長兄:弘(18??〜?)医者京大医学部卒陸軍軍医→二郎の医院継ぐ→再建断念→朝鮮総督府鮮人救療医」として中華民国吉林省延吉県竜井村に診療所を開設
次兄:?(18??〜?)医者
三兄:?(18??〜?)医者
四兄:?(18??〜?)医者
五兄:?(18??〜?)劇作家?もしかするとこちらが「孟」の可能性もあり。史料により記載違う。
六兄:圭(18??〜?)外国商館員。隆に東洋大中退後の仕事の世話。
七兄:孟(1895〜?)『エポック』『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』同人→『北鮮日報』記者→『京都新聞』支局長
八兄:達(189?〜1920)洋画家俳優、帝劇で観客であった達が舞台上の高木徳子に見初められ楽屋に連れ込まれそのまま一座へ。結核で夭折。
九男:隆(1901〜1944)詩人

こちら野川一族に関しても詳細ご存知の方がいましたら是非ご一報お願いいたします

それでは皆様、2016年無事パブリックドメインになった江戸川乱歩『二銭銅貨』が青空文庫で公開されるのあと数時間でしょうが(※2016年1月1日3時21分追記:上でも記載したように3時過ぎに公開されたようです)、どうぞ初代亂步二代目亂步で読み比べしてくださいませ。

本年もよろしくお願いいたします。

變電社社主 持田 泰

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