こんばんわ!社主持田です。 前回【野川隆評伝:前期】Gの震動—1901〜1927 第一章 揺籃期【野川二郎・十和田操・野川澂『高原』周辺】のつづきです!ようやく野川隆デビューまで。兄弟追ってたら平日更新だというのに毎度の如く長くなってしまいましたが、なのにまだデビューまで!もっとも野川隆ならびにその兄弟伝としては、現在の日本で最も掘り下げているはずです。がんばってまいります。
次回で前期評伝は終了です!のはずです!
何はともあれ變電叢書「野川隆著作集」まで今しばらくお待ち下さい。
初代「江戸川亂歩」登場
先の『高原』十一月号(大正十(一九二一)年)に五兄・野川澂の詩「懶惰なる哲學者」と並ぶようにしてに現代の我々には特別な名前が出てくる。江戸川乱歩。書かれたものは「間島方面の宣傳戰一班」。その正字「江戸川亂歩」名義で日本で一番最初に発表されたものは探偵小説ではなく、この評論である(1)。
間島(かんとう)方面とは中国吉林省の一部で中国・朝鮮の国境線の豆満江に朝鮮威鏡北道にも接し朝鮮民族居住地を指す。現在は中華人民共和国吉林省東部の延辺朝鮮族自治州一帯で、中心都市は延吉。当時は明治四十三(一九一〇)年日本に併呑され日本統治時代の朝鮮半島から逃れてきた人々も住み着き、朝鮮独立運動の重要な拠点とされていた。「間島方面の宣傳戰一班」はこの地の朝鮮独立運動に関するプロパガンダ戦の実態を報告した非常にジャーナリスティックな作物である。この異質なものが大正美術のレポートと評論、また創作を中心とした『高原』誌面に唐突に掲載されたわけである。
既に「中国吉林省」「延吉」という地名で思い当たるかもしれない。「間島方面の宣傳戰一班」冒頭に「江戸川亂歩」自身からの経緯の説明もある。
實は私は大正六年の暮、間島に這入り龍井村に止まること一年半、其の間大正八年龍井村に於ける鮮人の獨立運動を目撃し、更に朝鮮威鏡北道に於いて二年半新聞通信に携はつて居た関係上、間島及び露支国境方面の情報に接する機會が多く、且つ大正九年十月琿春事變に引續いて行われた討伐に從軍して、比較的此地方に關して語る材料を有して居る。
——江戸川亂歩「間島方面の宣傳戰一班」『高原』第一年十一月號(大正十(一九二一)年十一月)
「龍井村」つまり「中華民国吉林省延吉県竜井村」、野川隆の長兄・弘が「朝鮮総督府鮮人救療医」として赴任された地である。稲垣足穂が後年『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』時代を振り返りこう証言している。
野川(筆者注:隆)の兄(筆者注:孟)は新聞記者で江戸川乱歩を名乗っていた。ちょうど推理作家平井太郎の売出し中だったから江戸川乱歩は天下に二人いたわけだが、野川は「おれの兄の方が本物である」と云っていた。
——稲垣足穂『「GGPG」の思い出』「稲垣足穂全集 第11巻 菟東雑記」2001年8月 筑摩書房
「探偵小説家」としての平井太郎=江戸川乱歩が中国朝鮮国境付近に滞在した経歴もなく、また朝鮮独立運動に興味を持った形跡もない。この「もう一人の江戸川乱歩」説として「辻村義介」の名が上がることがあるが、ここで明確に断言しておく。江戸川乱歩=平井太郎「二銭銅貨」デビューの一九二三年の前に、一九二一年『高原』誌上に「間島方面の宣傳戰一班」、一九二二年『エポック』誌上で詩「アインシユタインの頌」を発表した「江戸川乱歩」とは、隆の七兄・野川孟である(2)。
野川孟は隆の六歳上の明治二十八(一八九五)年生まれ。長兄・弘が大正五(一九一六)年中国大陸に渡った翌大正六(一九一七)年、孟は兄の手伝いのために渡ったようだ。二十二歳である。その地で「一年半」と「二年半」足かけ四年の間、彼はその中国朝鮮国境付近に居たことになる。
前半は兄の弘の医療現場の手伝いをしていたようだが、その詳細は不明。後半「二年半」は「新聞通信に携わっていた」というからこのタイミングで彼は新聞記者であったこともわかる(3)。そして内地(日本)に大正十(一九二一)年に戻った。ちょうど隆の上京の年である。
ここから隆が母よしを「中華民国吉林省延吉県竜井村」に送った際に、その母と入れ替わるようにして末弟・隆ともに帰国したのではないか。仮に兄弟が別の便で戻った場合でも、隆はその年に新設された「東洋大学文化学科」に四月に入学している(4)ため、三月末には東京に戻っている。また孟は大正十(一九二一)年の秋には、日本に既にいたことも分かる。何故なら孟の国内での活動が把握できるのは、この「江戸川亂歩」が最初だからである。帰国した孟は、一旦五兄・澂の東京の部屋に身を寄せていたようだ。その江戸川亂歩「間島方面の宣傳戰一班」掲載の『高原』同号に澂の「黑い子猫」という小品も発表されているが、どうやら孟とおぼしきモデルが出てくるからである。
この小説の中で澂自身を三人称で扱ったであろう「村木」という主人公が『高原』編集の進捗で頭を悩ましているところに、その「弟」が使いから帰ってくる。同人「浦上」の家に原稿催促に行ったのである(4)。原稿は早速書くそうだという回答を貰えた気楽さから「村木」は「浦上」の家の「亞米利加種」の「白猫」が大層可愛いという雑談を始める。すると弟は「僕は博兄さんの家にゐた黑猫が一等好きだ」と答える。
「ふむ。博兄さんの所にも猫が居るのかい」 「居るんだ。眞黑な小さい猫でね。それが仲々愉快な奴なんだよ。」 村木は嘗て自分も行つたことのある植民地の兄の家と、その窓際の日向に蹲つてゐる小さな黑猫を想像して、怖ろしく悠長な、原始的な環境を可なり羨ましく感じた。大陸の限りのない鷹揚さを、もう一度落ち着いて味はひたい氣がした。
——野川澂「黑い子猫」『高原』『高原』大正十(一九二一)年十一月号
「博兄さん」の「植民地」の家は「大陸」にあり、その地にその「弟」が居た。この弟が長兄・弘の家に母を送って一時滞在した末弟・隆がモデルの可能性も考えられるが、この不思議な黑猫のエピソード(5)を兄弟が話し終わると
「さあ、昨日の続きを始めようかな。」 かう云つて弟は翻訳物にとりかゝった。
澂から孟に編集がバトンタッチされた『高原』大正十一(一九二二)年一月号に初の「野川孟」名義(江戸川亂歩ではなく)で短い飜訳詩(6)が載る。翌二月に野川孟訳のスタークヱザー「フランシスコ・ゴヤ」論のが掲載される。この時、隆は未だ東洋大学一年生であり『高原』には未だ作品は発表していない。ゆえに澂と同居している「弟」のモデルは孟と考えていいだろう。孟はこの頃二十六〜七歳であったはずだ。「黑い子猫」掲載号の編集後記に「東京都外巣鴨町三ノ二六ノ 三ツ矢方 野川澂」とある。野川兄弟が住む下宿は巣鴨とげぬき地蔵の裏手あたりにあったようだ。
脚注
- 平井太郎=江戸川乱歩「二銭銅貨」デビューは大正十二(一九二三)年である。
- 後年北園克衛は「朝日新聞記者」であった事実を述べているが、この段階で朝日新聞社であったか不明。
- 官報 1921年02月19日 国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2954678/14 この官報の東洋大学の学生募集の告知の記載を観る限り旧制中学卒業生無試験入学であることもわかる。
- 同号の編集後記に「私は下記のところへ移った。編輯に關しては一切の通信を此所へ頂きたい。東京都外巣鴨町三ノ二六ノ 三ツ矢方 野川澂宛」と記されているが、その前号十月号の編集後記に「雜誌「高原」の編輯に關することは、東京市外巣鴨一〇五二 村雲毅一方 野川澂宛」となっており、澂は十一月に友人の村雲宅から離れたことが分かるが、ともに「巣鴨」で近所である。ここで弟が原稿の催促にいった「浦上」はおそらく村雲ではないか。
- 「植民地の兄の家」の黑猫が居なくなり、いくら探しても見つからず、「弟」は気まぐれに家の屋根に上って望遠鏡で辺りの植民地風景の中を探していると、そこからは遠くにある、その地で一番高い建物の「總領事館」の三階建ての屋根の上で黑い動くものがいるのが見える。まさかと思って 「それで建物のそばまで行くと、此方からは見えない側に修繕を加へて居たので、幸ひなことにずつと上まで足場が架けてあった。それを上つて行つて、庇から上の方を見ると、散々人を探しあぐませた黑い子猫がちやんと居た。屋根の棟の所でぶるぶると顫へながら、救ひを待ち焦れているやうな、それでゐて助けが來るのが當り前のやうな顔付きをして居たんだ。それから勾配な急な屋根を這うやうにして上つ行つて、到頭抱いて來てやつたよ。」 「さうか、まるでお伽話みたいな話だが、矢張り其麽所に居たんだね。」 此処まで聞くと、村木は黑い子猫のアドヱ゛ンテュアが酷く面白くなつた。 「全く僕も總領事館の屋根の上に居やうとは思わなかつた。」 「どうしてそんな所へ上つたものだろう」 「更に想像がつかないね。第一あんなに遠い所へどうして出かけて行つたか、まるで解らないよ。捕へ歸つてくる途中でも、他の違つた猫ぢやないかと思つて随分驗して見た。何となく誰かに欺されて居るやうな氣がしてね。然し全くあの黑い子猫に相違なかつたのだから不思議だよ。」 「ふむ全く妙なことがあるものだな。」 ——野川澂「黑い子猫」『高原』大正十(一九二一)年十一月号 その後「村木」はその「アドヱ゛ンテュア」お伽話風に想像していくという小品である。
- 澂から孟に編集バトンが廻った『高原』一九二二年一月号に掲載された訳詩メリイ・コールリツヂ「街燈」で初めて「野川孟」の名が目次に並ぶ。
七兄・野川孟
もしかすれば、七兄・孟が野川兄弟の中で最も先鋭的な人物だったかもわからない。孟がその革新性の片鱗を見せるのが『高原』大十一(一九二二)年一月号、澂から急遽編集業務を引き継いだ時である。彼はまず『高原』の誌面を抜本的に改めた。孟はこの一月号から唐突に縦組を改め横組を敢行するのである。
商業雑誌における左開きの横組レイアウトはこの孟の『高原』が国内で最も早い(1)。このヨーロッパ風レイアウトはのちに北園克衛の前衛雑誌『VOU』等の実験的組版へも決定的な影響を与える。
編集後記「横組に就いて」と書かれた一文の中で「今度の誌面の大變化にも驚かれたと思ふ全く豫告もなく突如として變つたのであるから、此點も𦾔來の読者に對して一應お詫びしなくてはならない」と述べながら、
けれども、吾々が今思い切つて、之を行つたのは强ち奇を衒つたと云ふ譯ではない。實は同人の中でも反對乃至尚早を唱える向もあつたが、國字改良、漢字制限、ローマ字論等が唱へられて居る今日、吾々としても多少つゝこ方面に注意を向けて、我が國の文化促進に向かつ努力することが出來たならば非常にいゝだらうと考へたから思い切つて斷行する事としのである。
——野川孟「編輯者から」『高原』第二年一月號(大正十一(一九二二)年一月)
孟はこの編集交代を機に、兄・澂の編輯時代の大正教養趣味の白樺派的傾向からの切断を試みていたようだ。
此號から私が前編輯者と代つて、主として編輯の任にあたることになつた。突然の事でもあり、形式が全く變つた事でもあり、凡ての點に於て思ふ樣に行かなかつた。が道々改善を加えて行つて、夫れこそ雜誌刊行の上で一のエポツクを劃する樣な仕事がして見たいと思つて居る
——野川孟「編輯者の交送に就いて」『高原』第二年一月號(大正十一(一九二二)年一月)
未曾有の第一次世界大戦後にヨーロッパで爆発したアバンギャルド——立体派、未來派、表現派、ダダ、構成派、その枠を突き破って渾然一体と化した潮流に孟は精通しており、また世界史的動向に対する感度の良さは他の同人の追随を許さなかった。『高原』大正十一(一九二二)年七月号の編集後記で本号は「ロシヤ號」にしようとした旨を触れながら、
ソヰ゛エツト、ロシアの藝術に関する文献は、繪畫にしろ、文字にしろ餘り得られないので、困って居る。殊に、ロシア未來主義者の繪畫に到つては、殆んど僕たちの眼に触れない。僕はロシアの未来主義は嘗て日本へ来たブリユリツク、ザツキンやその他の連中のやうなものではないと思つて居る
『高原』大正十一(一九二二)年七月号
大正九(一九二〇)年四月ロシア未来派の父と言われた「ブリユリツク」=ブルリュークらが来日、一年に渡り展覧会や講演会で全国を廻りそのまま渡米するが、当時、既にマレーヴィッチが未來派からシュプレマティズムへと到るソビエトにおける新動向を認識している(2)。
二〇代の半分を中国朝鮮国境付近で過ごすまでの経歴は不明であるが(3)、この大陸での経験からも日本の狭い画壇・文壇の枠には収まらないアクチュアリティを獲得していた。その確かな見識は、高原会同人であり『高原』パトロンたる玉村善之助や『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』編集人たる橋本健吉のちの北園克衛のその後の芸術活動に深い影響を与える。
この編集後記で末尾に東京「深川區西平町一七 高原會内 野川孟」と記されている。この住所は玉村善之助の自宅であり、これで孟は兄の澂が岐阜の大垣に戻ったついで「大正十年十二月二十八印刷納本」日前までには玉村善之助宅に移ったことが分かる。
先鋭的な編集方針で「白樺派的なるもの」から切断を果たした『高原』に、野川孟名義で発表している作品は、様々な展覧會評、中に革命後のソビエトポスターの解説等、編集者として活躍は多岐に渡るが、『高原』誌上に発表した作品としては、飜訳評論一篇、飜訳詩一編、創作詩四編、小説一篇のみである。
そのうち最初の孟の詩作「冬の印象」では「1917年の冬 豆滿江岸に佇みて」という副題のつくように孟の植民地時代の風景を活写したものであるが、一九三〇年代後半に渡満後の末弟・野川隆の詩を彷彿とさせる。一方でいくつかの都市風景詩も残しており、以下の実験的作品はその後『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第二集(大正十四(一九二五)年二月)で再掲されているものである。
また小説は大正十一(一九二二年)五月と六月に渡り「母」を掲載しているが、これは先の中国朝鮮国境付近の間島(かんとう)を舞台にした朝鮮独立運動のテロリストをモデルとした作品であり、一九二一年当時でこの現在の中東情勢を背景にしたような国際性を持った作品は寡聞にして知らない。いずれも横組であり先頭の文字を大きくするドロップキャップを用いるなどの工夫がある。
脚注
- 日本において芸術雑誌が横組誌面で編輯されるのは『美術新報』の明治三十五(一九〇二)年三月が最初であるが、それは横組とはいっても右開きの横組みであった。一九二〇年代の都市グラフ誌でも同様で横組も右開きである。 関井光男・曽根博義・鈴木貞美「文献渉猟-22-玉村方久斗と日本のモダニズム運動-2-美術文芸誌『高原』と『エポック』」『国文学 解釈と教材の研究』(学灯社 1989.12) p160-163参照
- ダヴィド・ブルリューク – Wikipedia カジミール・マレーヴィチ – Wikipedia その後も孟は『高原』の次に手がけた『エポック』二・三号でウスリースキイ「ロシア詩壇の話」の飜訳を掲載し、詩の側面からロシアの新潮流を追っている。 「即ち未來主義から一轉したロシアの詩壇は、今やイマヂニズムの形式の上でにメタフィジカルな思想が盛られつゝ藝術の奔流を眼ざしてヒタ走っている」 ウスリースキイ「ロシア詩壇の話(二)」『エポック』三號 大正十一(一九二二年)一二月
- 孟の作物を見る限り英語・ドイツ語・ロシア語また中国語・朝鮮語が堪能であったようであり、外地で新聞社に携わっていた関係で、積極的に海外文献を漁っていたこともうかがえる。孟は四年半の外地生活中も第一次世界大戦の戦中戦後の様々な芸術革命の動向をリアルタイム吸収しているからである。なおその後の隆の語学能力(英語・ドイツ語・ロシア語・中国語)も、ポリグロット(多言語使用者)であった孟を倣ったのではないか。
第一作家同盟(D・S・D)から『エポック』へ
同年『高原』七月号には、先に記したように澂の最後の作品となる飜訳『影のない男』が掲載されているが、その飜訳の扉前に第一作家同盟(略称D・S・D)の成立趣意文が載っている。
おそらく玉村善之助が筆者と思われる趣意文は、既成日本画壇に反旗を翻した独立系青年日本画家グループ、高原會、蒼空邦畫會、赤人社、靑樹社、行樹社の五団体、総員三十四名による大正十一(一九二二年)六月の大同団結宣言である。この第一作家同盟は「未来派美術協会(一九二〇)」「アクション(一九二二)」が洋画界における反帝展・反二科のカウンターであったように、日本画壇における反帝展・院展への対抗運動であった。直後に一年間にわたり発行を続けていた『高原』を廃刊する。もとから院展離脱グループとして成立したその同人母体「高原會」も解散し、この第一作家同盟へと合流するのが、その年の九月である。
改めてこの大正十一年(一九二二)を振り返れば、戦後不況の社会不安の中で様々な社会運動が加速度的に形成され始めた年である。
その三月、京都の岡崎公会堂に三〇〇〇人余が集結し部落解放運動の「全国水平社」が設立、日本最初の人権宣言といわれる「水平社創立宣言」を採択された(2)。四月、賀川豊彦らが神戸で日本最初の全国的農民組合「日本農民組合」が創立され全国の小作争議を組織指導を開始した(3)。六月、農民組織化を目指していた「小作人社」に挫折した古田大次郎は社を解散し、中浜鉄らと「ギロチン社」を結成。訪日中のイギリス皇太子のテロル計画など一連の襲撃事件を企てるもいずれも失敗に終わる(4)。
七月、日本初の革命政党「日本共産党」(第一次共産党)が堺利彦を中央委員長として山川均、荒畑寒村ら野坂参三、徳田球一、佐野学、鍋山貞親、赤松克麿らとコミンテルン(第三インター)日本支部として秘かに創立された(3)。九月、所謂「アナ・ボル論争」が大阪天王寺公会堂にて行われた日本労働組合総連合の結成大会で両者の対立が頂点に達し、以後アナキズムが衰退していく(4)。
この時勢の中で第一作家同盟も左翼芸術運動の色彩が当初から色濃く、岡本唐貴『日本プロレタリア美術史』の中で日本画におけるプロレタリア美術運動の幕開けとして位置づけている(6)が、メンバー全員がその運動に共鳴していたわけではない。
『高原』パトロンであり高原會の中心であった玉村善之助自身もその思想とは距離を置いており、「烏合の衆」たる彼らは結成直後から内部分裂の兆しがあった。第一回展を翌十月東京と京都において開催するに及んで破綻は明確になり、その左派同盟員の脱退に到る。玉村は第一作家同盟第二期を率いることになるが、同月の十月、玉村善之助は「経営者」として「エポック社」設立。同居人たる野川孟を「編集人」として新興美術雑誌『エポック』を創刊する。そこでプロレタリア芸術運動の建設の直前たる「破壊芸術」として「表現派傾向」に留まる趣旨を玉村善之助自身が語る。
ここで孟は縦横無尽に「雜誌刊行の上で一のエポツクを劃する樣な仕事」を実行することになる。そしてこの孟の「地ならし」が出来た上で作品を初めて発表したのが、末弟の野川隆である。澂が関係を作り、孟が可能性を吹き込み、隆がその上で創作を生んだわけである。
脚注
- 改めてこの大正十一年(一九二二)とその前後を振り返れば、時代が旧世界から新世界へと急激なシフトチェンジを示す様々な出来事で満ちている。 二月にワシントン会議で海軍軍縮条約が調印され一万トン以上の主力艦建造が日本含む列強間で制限された。これを機にアメリカ・イギリス・フランス・日本の四カ国条約が締結され、一九〇二年以来約20年間にわたって日本の様々な外交政策の基盤であった日英同盟の満期となり終了する。 大戦後世界的経済不況の社会不安の中イタリアでは、ムッソリーニは、一九二二年一〇月クーデターを起しローマに進軍を始める。国王はムッソリーニに組閣を命じ、ここで史上初のファシスト政権が誕生する。 多額の賠償金で苦しむドイツは一九二三年フランス・ベルギーに工業地帯ルール地方を占拠された結果、パン1個が1兆マルクにも及ぶ空前のハイパーインフレが発生。ドイツ中産階級は凋落。その不満は国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の擡頭を許す。同年ヒトラーは「ミュンヘン一揆」を敢行し逮捕投獄。獄中で「我が闘争」を執筆することになる。 ソビエトでは病で倒れたレーニンの不安をよそにスターリンが実権を掌握、一九二一年一二月ソビエト連邦が成立する。
- ギロチン社 – コトバンク
- 全国水平社 – Wikipedia
- 日本農民組合 – コトバンク
- 第一次共産党 (日本) – Wikipedia
- アナ・ボル論争 – コトバンク
- 岡本唐貴『日本プロレタリア美術史』造形社 1972
アインシュタインと末弟・野川隆のデビュー
『エポック』は僅か6号で終わった短命な雑誌であったが(1)、見開き一体の大胆で鮮烈なカバーデザインを最終刊まで手がけたが玉村である。
孟の編集方針は第一号編集後記でこう書いている。
本號は最初𦾔「高原」の體裁及内容を踏襲つもりであつたが、中途から全然新たな事業として遂行して行くことゝとして、一切第一歩から踏み出すことゝした。(中略)従來「高原」は美術雑誌として世間から取り扱われて來た。なる程美術に關係のある記事が多いから、さう取り扱はれるのも止む得ないが、「エポック」は、文藝美術を主とした雜誌であつて、決して純然たる美術雑誌でないことを斷つて置く
『エポック』第一號 大正十一(一九二二)年一〇月
『エポック』は『高原』からさらに切断され、評論・創作の他「海外消息」を設け、美術・演劇・映画・文学など領域横断的に世界同時時代的なグローバルな新興芸術潮流を積極的に紹介し、かつ日本の既成芸術への対抗意識をさらに鮮明にしていく。
ただし編集人野川孟名義で書かれたものは少なく評論二篇「表現派映画「朝から夜中まで」について」「立體派以後の藝術」のみである。「N生」名義での飜訳数篇と展覧會評などのエッセイ数篇、おそらく孟であろう編集者としての無記名の飜訳、海外消息文章が並び、裏方に徹していたようだ。
玉村善之助も孟と併走するように新興芸術に対する理解を一層深めていく中、「破壊藝術として」「果たして藝術永遠か」「革命は先づ都會より」「輓近藝術の方向」などの新興芸術論の他、「D・S・D袂裂の眞相と私見」の声明や、変名や「T生」名義での寸評・画壇評などを発表している。
そして『エポック』には今一度「江戸川亂歩」が出てくる。一九二二年十一月の第二號に諸端を飾るのが「江戸川亂歩」の詩『アインシユタインの頌』である。
またもう一つ「江戸川亂歩」名義で短いコラム記事が大正十一(一九二二)年『エポック』三號に載っている。この記事タイトルが「相對性原理の映畫」。アインシュタインの相対性理論を通俗的に解釈した映画がドイツで製作され、同年一〇月八日〜九日の間に神田青年会館で上映されたという記事である。
アインシュタインの學説殊にその新しき時空觀へと彼の新宇宙觀とは、將來哲學が、藝術等の上に非常ま影響を與へて行くものであるから、單に科學として研究する以外に若い藝術家たちが出來得る限り消化して置くことをすゝめる。(江戸川亂歩)
「相對性原理の映畫」『エポック』三號 大正十一(一九二二)年
「江戸川亂歩」=野川孟は『エポック』では二回登場するが、どちらも「アインシュタイン」に関するものだ。医師の父と兄弟を持ち科学的知見を育まれた野川兄弟にとってアインシュタインの一九一〇年代に発表した様々の理論は非常な衝撃を持って受け入れられた(1)もあるが、当時日本でアインシュタインは全国で一大フィーバーを起こしていた(2)。同号海外消息欄にて「アインシユタイン敎授來朝」の報告もあるように、アインシュタインは大正十一(一九二二)年十一月に来日を果たし、全国で学術講演を行ったのである。岡本一平は「本年流行のもの十七種の考察」にて流行を揶揄っている。
アインスタイン 判らぬ、判らぬと言い乍らアインスタインの相對性原理といふものが流行だ。 相対性という文字を男性女性の相対の研究といふ風に魅力あるものと受け取った若い人々は無いか。 この原理の専攻家の某博士の私行上にある逸事によってアインスタインの名も世間的に流布する力を得なかったか。
岡本一平「本年流行のもの十七種の考察」『新小説』大正十一(一九二二)年十二月初出
当時日本で「相対性」は「あいたい性」と読まれ世間では「性的」なものとして捉えられた逸話がある。「某博士の私行上の逸事」とはアインシュタイン来日講演時には通訳もした理論物理学者で『アララギ』歌人の石原純が原阿佐緒と起こした不倫事件のことである。このように世間はヨーロッパの理論物理学の新潮流に浮かれ気味に摂取したわけでが、その岡本一平「本園流行のもの十七種の考察」の中で同列に「畫家の洋行」が扱われている。パリに居る画家志望の日本人が当時八十名も居るという話の中で、第一次世界大戦中洋行を控えていたが、戦後に殺到したという事実がまずあり、そして、
他の原因は歐洲の天地もこの頃生氣を恢復し出し繪畫に於ても、新傳統主義や、表現派や立體派や幾何學派や未來派や、ダゝイズムやが再び力を籠めて宣傳し出さるゝ気運を帶びて來た。その力に吸ひ寄せらるゝのであらう。
第一次世界大戦後、世界は変革・刷新の気運に満ちていた。ロシアは革命を達成させ、その時勢の中でアインシュタインの理論物理学さえ「新時代」の幕開けと捉えられた。大正十(一九二一)年来日したバートランド・ラッセルは改造社山本実彦に「世界の偉人を三人上げてほしい」と乞われ、「一にアインシュタイン、二にレーニン、三はいない」と答えたという。
その同時代の欧州で爆発した様々な芸術運動の爆風は、確かに日本にまで届いていた。その爆風を真っ先に浴びた先に野川孟の『エポック』がある。
そして末弟・野川隆がデビューを果たすのが、この江戸川乱歩「アインシユタインの頌」が掲載された『エポック』第二号の大正十一(一九二二)年十月である。詩三編「數學者の饗宴」「沼の水蒸気」「風の詩人」の詩三編を発表(同著作集収録)。兄の孟が編集後記でこう書いている。
本號に創作欄に紹介した詩『數學者の饗宴』他二篇は、此の作者の近什二十数篇の中から編輯者は選定した。作者自身としては會心の作ばかりではないらしいことを斷って置く。
野川隆。当時、二十一歳。東洋大学中退後、横浜で外国商館員の六兄・圭の紹介で横浜税関で「時計巻き」という真夜中の見回り仕事をしいたて頃である。空き時間には死んだ八兄・達の絵具で絵を描き、七兄・孟の雑誌に向けて詩を書いた。
七兄・孟のその後であるが、大正十四(一九二五)年一月『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第一集の編集後記で「嘗て「エポック」の編輯に非凡な技倆をふるってゐた野川孟は、こんどロシヤ周遊の途に就いた」と記され、翌月第二年第二集「リンジヤ・ロックの生理水」なる小品を最後に筆を断っている。翌々号三月の第二年第三集の編集後記には「野川孟への手紙を出し度い人は左記へ 朝鮮 清津府敷島町 北鮮日報社内」と再び外地へと旅立った。
野川孟が大正期に内地(日本)に居た期間は僅か五年である(3)
脚注
- 今回参照した『エポック』全号はいずれも国立国会図書館デジタルライブラリー(館内限定/図書館送信サービス)で閲覧可能である。 『エポック』第一號(エポック社 1922.10) 『エポック』第二號(エポック社 1922.11) 『エポック』第三號 (エポック社 1922.12) 『エポック』第四號 (エポック社 1923.1) ※一部欠損箇所あり 秦泰「ダダ・ダダ」部分(玉村善之助の変名で『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第二集(大正十四(一九二五)年二月)で再掲) 『エポック』第五號 (エポック社 1923.2) 『エポック』第六號 (エポック社 1923.3)
- 『高原』時代の江戸川亂歩と並ぶようにして発表した五兄・澂が「懶惰なる哲學者」という、朝目覚めとともに一匹の蜘蛛を見つけて歌う詩の句の中でアインシュタインが取り上げられている。 「アインスタインの立證した/四次元の世界であらうと、/乃至は尙新しき/十次元の世界であらうとも、/散歩の怠りの陶醉は、/哲學者の糧に相違ない。」 また末弟・隆も後「ハイアロイド・メムブレーン氏の憶説」(『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第六號 大正十四(1925)年六月)でも同じく「アインシュタイン」を作品の中に登場する。
- 岡本一平『一平全集第13巻』先進社 1929-30 国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170493/148 また、「アインシュタイン相対ぶし」なるものが大正十一(一九二二)十二月三日の「新愛知」に掲載される。その一つが「アインシュタインさん心からかあい、かあい筈だよ、アインシュタイン(愛したいん)だもの、おやまあ相対的ですね。」 また寺田寅彦も大正九(一九二〇)年小宮豊隆宛の葉書に「変体詩 その三」としてこのようなものを綴る。 「りんごが棚からおこった 星の欠けらをちょっとなめた オムレツカツレツガーランデン カントにヘーゲル、アインシュタイン みみずの目玉を見つけたが 碧い瞳にちょっとほれた ファウスト、ハムレット、バーベリオンドンナーウェターパラプリュイ」 当時のアインシュタインに対する熱狂に関しては以下参照。 金子務『アインシュタインショック』河出書房社1981(その後、岩波現代文庫2005)
- 野川孟のその後の朝鮮半島での戦前戦中の足跡は不明であり、終戦後愛知県八日市市滋賀県八日市町(現東近江市)に引き揚げ、当地で京都新聞支局長を勤めて、唯一戦後の記名記事として、昭和二十四(一九四九)年『ニューエイジ』第一巻第一号(国立国会図書館デジタルコレクション館内限定)に「近江兄弟社 労働争議のない工場」という記事を書いている。その後の消息は今なお割り出せず、没年不明である。
(つづく)
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