【20世紀跨ぎ生まれ世代の兄達1894ー5】二人の「江戸川亂歩」と井東憲『贋造の街』ならびにカフェ「變態光波」開店宣言【都市と變態】

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さて今年はもう少し更新頻度上げようと思いつつ腰が常に重い社主ロートル持田でありますが、何も飲んだくれているだけではないのですよ!といきなりボールドで言い訳から始めましたが、變電叢書『野川隆著作集1』のストア配信は今少しお待ちくださいませ!また野川隆中期作品編纂を進めるために諸々図書館詣での日々でありますが、結局諸々脇道寄道に流れてしまう性分でありまして、その代わりと言っちゃなんですが、他の變電叢書候補として活きのいい新人(なんか矛盾的表現)を掘り出してきたので今回「變電叢書」続編を紹介したいと思います。

「變電叢書」第六篇「野川孟著作集」

第一篇 野川隆著作集1 前期詩篇・評論・エッセイ 2015年1月予定
第二篇 野川隆著作集2 中期詩篇・評論・エッセイ 2015年2月予定
第三篇 野川隆著作集3 後期詩篇・小説・評論・エッセイ 2015年3年予定
第四篇 橘不二雄『腕の欠伸』(未定)
第五篇 井東憲詩集(確定)
第六篇 野川孟著作集(未定)

第六篇は野川孟、これは既に過去で何遍も触れているように野川隆の兄です。六つ上なので明治28(1895)年生まれ。奇しくも平井太郎(明治27(1894)年10月21日)と一個違いの同世代です。平井太郎とは言わずもがなで江戸川乱歩ですが(来年彼もパブリックドメインになりますので彼の初期短篇は諸々準備進めておきたいところですが)野川孟も既に過去何遍も触れているように初代「江戸川亂歩」です。この点をネットで調べるとミステリ関係者が諸々調べていて、

 辻村義介 はいわゆる「もう一人の江戸川乱歩」である。乱歩が「二銭銅貨」でデビューしたのは1923年だが、その前年、雑誌『エポック』1922年11月号(通巻第二号)の巻頭に「江戸川乱歩」という筆名の人物の「アインシュタインの頌」という詩が掲載されている。この詩の作者が辻村義介という人物だとかつて推定されていた。なおノンフィクションライターの佐藤清彦氏の調査では、辻村義介は当時仲間内から「江戸川乱歩」というあだ名で呼ばれていたが、「アインシュタインの頌」の作者は辻村義介ではなく雑誌『エポック』の編集者であった野川孟およびその弟の野川隆だと推定されるという。

となっていますが、野川隆ではなく兄の孟の方であり、また推定ではなく事実です。稲垣足穂も『「GGPG」の思い出』で証言しているように「亂歩」一番乗りは野川孟です

野川の兄は新聞記者で江戸川乱歩を名乗っていた。ちょうど推理作家平井太郎の売出し中だったから江戸川乱歩は天下に二人いたわけだが、野川は「おれの兄の方が本物である」と云っていた。しかしその時その兄はハルピン方面に去っていた。

稲垣足穂『「GGPG」の思い出』「稲垣足穂全集 第11巻 菟東雑記」2001年8月 筑摩書房

ちなみに「ハルピン」は多分足穂の思い違いでこの頃は朝鮮の北鮮日報記者となって半島に渡っています。そのまま敗戦まで朝鮮半島に居を構えていますが、こちらは『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二巻第三集の編集後記でも「野川孟に手紙を出し度い人は左記へ 朝鮮 清津府敷島町 北鮮日報社内」との記載があります。

朝鮮に渡った段階で創作から手を引いた(バスから降りた)ようでその後の足跡が諸々調べていても不明だったのですが、まさかのネットで発見しました!有難いことに林哲夫氏のブログ(daily-sumus2「脈80号 特集 作家・川崎彰彦」)記事で戦後の足跡が書かれていました(感謝!)。それによると野川孟は戦時は何とか生き延びたようで、終戦後愛知県八日市市滋賀県八日市町(現東近江市) (※1月28日修正 FBページからご指摘いただきました!ありがとうございます!)に引き揚げています。当地で京都新聞支局長等を勤めたようで、そのご子息は野川洸という名の詩人作家であり、川崎彰彦五木寛之と早稲田一文同窓で五木寛之の先のWikipediaでもこんな記載があります。

「こがね虫たちの夜」(1969年)は学生時代の、同学の友人高杉晋吾、三木卓、川崎彰彦、野川洸らとの生活をモデルにしたもの

ただし、ここまで、調べがついているのですが、未だ野川孟の没年月日が不明です。そのためにパブリックドメインとして變電叢書化できるかがまだ不明で現在誠意調査中です。この野川孟は思春期の隆に絶大な文化的影響を与えた隆の「師」と呼んでもいい人物であり『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』起稿作品も非常に優れており実は野川隆なんかより上手なんではないかとさえ思えています。当時の欧州新興美術の博識をベースにした評論他、気品ある都会的な詩や小説、またたとえば以下の学術参考として画像参照してしまいますが、

野川孟「銀座街頭の夜」『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第二集収録
野川孟「銀座街頭の夜」『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第二集収録、大正14(1925)年2月

のような弟顔負けの実験詩(孟の若い頃に(「May’13th 22」の記載あり)手慰みで書いたか?)残している他、僕がとくに気に入ったのは『リンジヤ・ロックの生理水』なる小品で、これは誠に都市の夢幻たるリリシズム溢れるSF風(?)作で、これは隆だけでなく野川家は孟も何とか復刊(というかやはり初編纂)したい!一応様々なルートと使って探査中ですが第四篇予定の橘不二雄とは違い、人生行路の痕跡は戦後でもいくつか残っているので何とか判明するかとおもいますので乞うご期待!当然「亂歩」時代からまとめる予定ですよ!

「變電叢書」第五篇「井東憲詩集」

でもう一人これは完全にパブリックドメインであることが判明していいるので復刊させます。野川孟と同年の明治28(1895)年8月27日生まれの詩人です、以下が都立広尾図書館で全頁プリントアウトしてきた詩集表紙ですが

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Oh..表紙名前隠れてしまっていますので中表紙のこちら
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この中表紙の何がいいって「帝国図書館」の角印と丸印で、丸印の方には「帝圖(図の旧字)」と「昭和二・四・七」と見えます。昭和2年3月20日印刷と奥付で見えますから、刷り上がってすぐ内務省検閲に持ち込んだんすかねえ。

さてその名は井東憲。本名伊藤憲。この作家が誠に破天荒な生き様で、東京神楽坂生まれ静岡育ち、17歳(明治44(1911)年)で家出して旅芸人にまざって放浪し19歳まで浅草を遊蕩、結果性病に罹って一念発起し政治家目指して21歳(大正5(1916)年)で明治大学法学科に進学。そこで文學にこじれ古今東西の文學作品を読み漁り、22歳(大正6(1917)年)で大杉栄と出会いアナキズム研究へ、26歳(大正10(1921)年)で『変態心理』(!)の記者となり、『勞働運動』で詩人デビュー。31歳(大正15/昭和元(1926)年)静岡で一度目の結婚したものの東京では詩人英美子と不倫、その間かの梅原北明と『變態十二史シリーズ』に参加し『變態人情史』『變態作家史』(ともにNDLデジコレインターネット公開中)を発し(なお『變態十二史シリーズ』第二巻はマヴォ村山知義『變態藝術史』)、32歳(昭和2(1927)年)に上海渡航、同年英美子との子が生まれ、その子が実は戦後日本人ギタリストとして初めてカーネギーホールに立った世界的ギタリスト中林淳眞であることなど知る由もなく、翌昭和3(1928)年に井東憲は英美子との関係を清算。全日本無產者藝術同盟(ナップ)加盟、34歳で静岡の本妻とも離婚、上海渡航しのちの上海中国ものの嚆矢となる『上海夜話』発行、その後詩小説ルポタージュ翻訳と様々な作品を矢継ぎ早に世に出し、銀座の新興中華研究所所長を勤め、48歳、昭和20(1945)年6月20日。静岡空襲で焼夷弾被弾。8月5日に終戦間際に死去。(上記略歴『井東憲:人と作品』井東憲研究会編参照)

「兄」の世代(1894ー95)

『20世紀跨ぎ生まれ世代』の兄である井東憲と野川孟のまた「二代目」江戸川亂歩たる平井太郎(明治27(1894)年10月21日)この他もざっと眺めて観たところやはり大変面白い。まずは詩人でピックアップしておくと金子光晴(明治28(1895)年12月25日)、西脇順三郎(明治27(1894)年1月20日)、まあここら辺はWikipedeiaの年号調査で出てきますが、あれ?もしかしてさては?と個別に調べたところ、「日本未來派宣言」の平戸廉吉(明治27(1894)年12月9日)、またかの「エロエロ草紙」酒井潔(明治28(1895)年)らも同世代です。驚きました。(また「マッサン」竹鶴政孝も、明治27(1894)年6月20日生まれだったので驚きました。)

しかし、これはさては長らく僕が知りたいと求めていた「震源地」は兄達の方か?この野川隆・村山知義・小林秀雄らの理智的な優等生らしさとも違う、もっと野蛮であり所謂エログロナンセンスのデロリとした「狂味」。と同時に以前、変電社最初期幻(?)の「変電社日記」レビュー「2012-12-31『日本歓楽郷案内』酒井潔」にて書いた「あの歓楽街あの歓楽街と遊歩する酒井の影を追いながら馥郁たる夜の都市を徘徊している」ような「気分」。(なおこの酒井潔『日本歓楽郷案内』は彩流社で完全復刻さらには中公文庫で復刊されると快挙がありましたよ!)

川上澄生と古賀春江

さらに同世代を調べていたら、ドンぴしゃりでこの空気を象徴する画家が二人も突き止めました。ああそうかこことも同世代だったのか!と感慨ひとしおで、個人的に大好物な二人ですが、川上澄生(明治28(1895)年4月10日)と古賀春江:(明治28(1895)年6月18日)。
この二人の同時代の絵を紹介したいわけですが、川上澄生の方は 昭和47(1972)年9月1日までご存命であったために、まだパブリックドメインではないので転載はしないでおきますが、どうぞググってみてくださいませ。

川上澄生『銀座「新東京百景」』昭和4(1929) 年作 東京都現代美術館所蔵

ああ!なんと都市の華やいでいることよ!名曲シュガーベイブ「DOWN TOWN」のイントロが聞こえてきそうだ!
美しいピンク&ブルーに染まるトワイライトの銀座に深く酩酊しながら徘徊したい気分にさせます。こちら所謂創作版画黎明期の名作です。(版画で言えば今度小泉癸巳男も紹介したいところですが、ああやはり明治26(1893)年6月生まれですから彼も同時代の空気を刷ったわけか。)

そしてもう一枚紹介したいのが古賀春江。古賀春江はパブリックドメインなのでそのまま貼りますが、

古賀春江『窓外の化粧』昭和5(1930) 年作 神奈川県立近代美術館所蔵
古賀春江『窓外の化粧』昭和5(1930) 年作 神奈川県立近代美術館所蔵

かの川端康成「末期の眼」(『一草一花 (講談社文芸文庫)』収録)にて「カメレオン」と称された前衛画家です。そのシュールレアリスム期のちょっとクレイジーな(この絵を見る度に「春の陽気で変になった人」を僕は思い浮かべる)高速度回転の躁期の中で冷たい汗を流し続けているような不吉な陽気さとでも言いましょうか。実際に古賀は神経梅毒による進行麻痺が発症する直前期の何か病的な霊感の中で一気呵成に描いていたシュールレアリスム風(実際はキリコ的「形而上絵画」に近いと云われていますが)絵画です。 この3年後の昭和8(1933)年9月10日)に亡くなってますが、その壮絶な最期を晩年親交があった川端康成が先の「末期の眼」で描いています。

この画風も全く違う絵画の上に描かれた美しくて何処か分裂病質な「都市」を思い浮かべていただければ、その「イカレた」井東憲の風味が存分に解るであろうということでお待たせしましたでんでんコンバーターbib/iによる井東憲の詩の紹介します。こちらは「井東憲詩集」にも収録されていますが、野川隆中期調査の中で『日本詩人』という詩誌調査中にたまたま発見した初出の方をオーサリングしました。原文は変わらないながらルビ点の相違がいくつかあります。

井東憲『贋造の街』大正14(1925)年4月10日

『贋造の街』

いいですねえ。不吉で飄逸。この中で

あの幻想狂の、意識的構成派の畫家は、私のことを……もつとも、そのかけてゐたセルロイドの眼鏡は、ほんの間に合わせに、夜店で買つたものだが……女に捨てられた怜悧な蜻蛉にたとへた。

「意識的構成派の畫家」とは間違いなく村山知義のことですね。本当に皆が近くに居たのだと。もう一丁は『井東憲詩集』から短いものを。

井東憲『變態光波』昭和2(1927)年3月20日

『變態光波』

おし決めた。将来變電社カフェ「變態光波」を開こう。(變電社第8宣言)。なお井東憲他作品はこちらでもいくつか紹介されていますので是非ご参照ください。しかし、古賀春江も画論や随筆の他「詩」を多く残しており、これ次回、平戸廉吉と古賀春江で變電叢書七・八篇とするのもありやも。

變電社社主 持田泰

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