【秋の変電書月間’14】「村山知義の強引」ゲオルク・カイゼル作/北村喜八訳『朝から夜中まで』【オチとしてのウォーク・ディス・ウェイ】

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9月です。めっきり秋です。よって【夏の変電書フェア’14】は終了とし【秋の変電書月間’14】となりますが、いつだってガチだぜの社主代理持田です。今回はビッグネーム「村山知義」の「強引」としてゲオルク・カイゼル作/北村喜八訳『朝から夜中まで』の戯曲を紹介いたします。今回の記事は寄り道が多くて格段と長いのでご覚悟をば!

ゲオルク・カイゼル『朝から夜中まで・クラウデイウス

朝から夜中まで表紙

朝から夜中まで・クラウデイウス』(コマ数105)
泰西戯曲選集 第10巻
著者:ゲオルク・カイゼル 翻訳:北村喜八
発行日:大正13(1924)年5月 出版社:新潮社
国立国会図書館デジタルコレクション

さてこの『朝から夜中まで』とは築地小劇場での大正13(1924)年12月で公演され、その舞台装置を村山知義が手がけたことで「日本最初の構成派舞台装置」と小山内薫らに絶賛され連日立ち見が出る程の評判をさらった舞台です。その台本として使われたのが上述のゲオルク・カイゼル作/北村喜八訳『朝から夜中まで』になります。

村山知義展が一昨年にやっていましたので『朝から夜中まで』というタイトルを知っている方もいるかと思いますが、実は現在このゲオルク・カイゼル=ゲオルク・カイザー翻訳作品が日本の通常書籍ではほぼ流通しておりません。

が!やってくれますNDL!開いててよかったNDL!国立国会図書館デジコレではちゃんと読めますよ!

その前に今回「村山知義の強引」というタイトルにしているところの村山知義については、Wikipedia-村山知義を参照ください。しかし文学史ってどうして「オッサン」になってからの写真を代表的な著者肖像として使うのか。夭折した作家の方が人気出るよって理由の大半がこれなような気がしてなりません。

ちなみに余談ですが、村山知義の生まれは1901(明治34)年1月18日で、前回(※【大復活祭!電誌「トルタル」5号発刊記念】「野川隆の放物線Ⅱ」詩編『數學者の饗宴』『哈爾浜風物詩』他【続きはトルタルで!】)の野川隆の生まれも同年1901年の4月23日です。ちょっとこの「同世代」を調べたら非常に面白かったので一気に羅列していきますが、以下は読み飛ばしていただいても構いません。本論とは関係なく個人的に「ある群像」を捉えたいなという試みです。

余談としての「世代」論

まず村山知義、野川隆と同じ20世紀が幕挙げた1901(明治34)年組に、以前に紹介(※林芙美子と野村吉哉とドン・ザッキーと「詩」の時代 【レビュアー:持田泰】)した『世界詩人』「ドン・ザッキー」こと都崎友雄も1901年7月11日、林芙美子「元夫」野村吉哉も1901年11月15日、野川と「サンチョ・クラブ」戦友でもある「池袋モンパルナス」小熊秀雄が9月9日、「ダダイスト新吉」高橋新吉1月28日、アナーキスト「黒き犯人」岡本潤が7月5日。ビッグネームでは『檸檬』梶井基次郎2月17日。

少し前後して翌1902(明治35)年組では小林秀雄が1902年4月11日、「サンチョ」に参加もした中野重治も1月25日、野川の『ゲエ・ギム・ギガム・プルルル・ギムゲム(GGPG)』盟友「橋本健吉」こと北園克衛も10月29日、『改造』懸賞評論論で小林二席に続いて三席になった『詩と試論』春山行夫も7月1日。

少し兄貴の1900(明治33)年組では、「GGPG」同人『一千一秒』稲垣足穂は1900年12月26日で一個上、「マヴォ」同人『雨になる朝』尾形亀之助も12月12日、同じく「マヴォ」同人カリカチュア画家柳瀬正夢も1月12日、満洲大連「亞」同人『三半規管喪失』北川冬彦も6月3日、もう少し兄さん1899(明治32)年組では、「赤と黒」同人『死刑宣告』萩原恭次郎1899年5月23日、「のらくろ」田河水泡こと小林秀雄の年上の義弟(妹の旦那)高見沢路直2月10日 (※なぜかWikipedia上では「前衛芸術集団『マヴォ』に参加し高見沢路直と名乗っていたものの深入りはせず」と書かれているのですが実際はマヴォの中でもバリバリのアヴァンギャリスト)、もう少し上ると「亞」同人『軍艦茉莉』安西冬衛1898(明治31)年3月9年、未来派「アクション」神原泰1898年(誕生月日不明)とここらは少し兄さん。

また戦後的ビッグネームだと川端康成は1899(明治32)年6月14日 横光利一1898年(明治31)年3月17日、今東光1898(明治31)年3月26日と少し先輩、林芙美子1903(明治36)年12月31日、小林多喜二1903年(明治36年)12月1日で少し後輩。また『新青年』系だと横溝正史1902年5月24日、久生十蘭1902年4月6日、小栗虫太郎1901年3月14日。林不忘/牧逸馬/谷譲次こと長谷川海太郎が1900年1月17日。

この「世代」の名は?

これみな前後あれど19世紀から20世紀へと跨いだ時期に生まれた面々です。豊作どころかまあなんというかああ「戦前」とはこの世代だったか!ということです。この私が安直に「20世紀跨ぎ生まれの世代」と呼んでいるこの世代を一言で言い表す言葉はあるのかないのか調べても出てこないんですね(※もしありましたらどなたかご教示ください)。1912〜26年大正期生まれの所謂「大正世代」「戦中派」の一回り上の世代にあたりますが、ここに確かな世代共通な空気が濃厚にあることが解ります。パリのアメリカ人たるところの「失われた世代」にあたるような世界的同時性の何モノかの感覚を最初に浴びた世代です。

1901年生まれであれば、幼少期4歳で日露戦先勝、9歳で大逆事件&韓国併呑、11歳で明治から大正期へ、13歳で欧州世界大戦、16歳ロシア革命、17歳米騒動、シベリア出兵、世界大戦終結、20歳原敬刺殺、21歳ソ連成立、22歳関東大震災、24歳治安維持法&普通選挙法公布と、「革命」と「戦争」の「帝国」の世代です。

また文化社会面で言えば、13歳で宝塚少女歌劇初演、15歳で「婦人公論」創刊、浅草オペラ「世界的バラエチー一座」旗揚げ、16歳で「主婦の友」創刊、18歳カルピス発売開始、「キネマ旬報」創刊、19歳で「新青年」創刊、及び日本最初のメーデー、日本社会主義同盟結成、活動写真会社松竹、帝国キネマ設立、20歳で表現主義映画『カリガリ博士』封切られ、21歳で「週刊朝日」「サンデー毎日」「小学五年生・六年生」(小学館)創刊され、同年アインシュタイン来日、22歳で「文藝春秋」創刊、ライト原案帝国ホテル(旧館)落成、丸ビル完成、マキノ映画製作所創立、サントリー前身壽屋ウイスキー工場設立、「アサヒグラフ」創刊、23歳で昭和天皇御成婚、築地小劇場創設、現在の甲子園球場たる阪神電車甲子園大運動場完成、24歳で講談社「キング」創刊、ラジオ放送開始、25歳で改造社「現代日本文学全集」刊行「円本」ブーム、NHK=日本放送協会設立、「アサヒカメラ」創刊、新宿高野フルーツパーラー営業開始、TOYOTA=豊田自動織機製作所設立です。

つまり彼等が育った明治後期大正年間で現代生活に直結している都市文化の基部がほぼ出揃った世代でもあります。

本論に戻って村山知義ついて

「村山知義の宇宙:すべて僕が沸騰する」図録
「村山知義の宇宙:すべて僕が沸騰する」図録

話戻して、そんな時代を通過した村山知義という名の「若い芸術家の肖像」は、Wikipedia見るより、先に触れた2012年の展覧会チラシの方がイメージ伝わりましょう。同展は村山前衛美術時代の現存する数少ない作品群だけでなく、クレーやカンディンスキー、アーキペンコらの作品なども同時に展示し彼が影響を受けたベルリン滞在時に欧州芸術運動の紹介から、帰国後国内で手掛けた様々なジャンルでの作品群を時系列に沿った形で一同に介しており、村山知義の全貌に迫る善き展覧会でした。

20世紀の初めに生を享け、ベルリンでダダや構成主義などの新興芸術を吸収して1923年に帰国、まもなく「マヴォ(Mavo)」や「三科」といったグループの活動を通じて大正末期から昭和初期にかけて日本の近代美術に決定的な影響を与えた村山知義(1901-1977)。

—『すべての僕が沸騰する 村山知義の宇宙』図録

1901年20世紀幕開けの年に生まれた村山”TOM”知義ですが、20世紀初頭、沸騰する時代の日本の空気のみならず世界の空気を吸い付くして、絵画・詩・小説・演劇・舞踊・映画・批評・翻訳と領域横断的に活躍し挑発しおおいに暴れ回った戦前前衛芸術史の中でも大物中の大物です。高見順『昭和文学盛衰史』でも当時の村山を「先駆芸術の帝王者」と呼んでいます。その1920年代の活躍の中でもかの伝説のマヴォ(Mavo)での光芒に関してはここでは触れませんので、竹熊先生の電脳Mavoにて「第一回よりぬきたけくまメモ:マヴォについて」などをご参考いただければと。なおマヴォ関連で言えば詩人尾形亀之助に関しては後日論じたいところですが。

さて今回紹介する『朝から夜中まで』その舞台装置は、時代の「小英雄(by安西冬衛)」村山知義のターニングポイントとなった作品で、村山知義のバイオグラフィを紐解くと必ず出でてきます。その舞台装置がどんなものかはググって貰えれば解るところですが、「すべての僕が沸騰する 村山知義の宇宙」展の図録が手元にありまして、こちらから画像を転載させていただきます。横に当時の彼のトレードマークであるところの「ブーベンコップ(おかっぱ頭)」とニット帽姿のポートレートが映っております。Wikipedeiaの坊主のおっさんよりこちらの方が「村山知義」ですね。尖端芸術家としての面目躍如たる「ドヤ顔」です。これは冗談で言っているのではなく、この「ドヤ顔」こそが、大正期マヴォの村山だと思うからです。この顏で戦後含めてアヴァンギャルド史に対して「ドヤ」と言っているように思えてなりません。

村山知義のポートレートと「朝から夜中まで」舞台装置模型 (「造形」1925年4月掲載)
村山知義のポートレートと「朝から夜中まで」舞台装置模型 (「造形」1925年4月掲載)

この舞台装置は村山が1924年築地小劇場で本劇が上演されるのを聞きつけて演出家土方与志へ直談判して舞台の美術担当に収まったことで生まれ出たものです。もっとも当時の村山は舞台美術の一切の門外漢であったという有名な逸話も残っていますが、この時代の帝王者に相応しい「強引さ」の結果で、戦後まで続く彼の舞台関連の業績に繋がったのだとを考えると、ここが演劇人村山知義の産声だった捉えてよいわけです。

またその「強引さ」はこの一点だけではありません。上演後すぐに小山内薫に「日本最初の構成派舞台装置」と紹介され多くの識者から喝采をさらいましたが、本原作者であるところのゲオルク・カイゼル=ゲオルク・カイザーは、表現派の劇作家です。そもそもでこのゲオルク・カイザーの情報がほとんど日本語Webにはないため、Wikipediaもまーひどいので、ちょっと遠回りになりますがまず原作者の簡単な略歴をまとめます。

遠回りのゲオルク・カイザーについて

Georg Kaiser,1928
Georg Kaiser,1928

ゲオルク・カイザー(Friedrich Carl Georg Kaiser 1878年11月25日-1945年6月4日)は、戦前エルンスト・トラーと並ぶドイツ表現主義の劇作家であり、1910—20年代ドイツ本国のみならずロンドン・ニューヨーク・東京などで彼の作品が公演されるなど、当時世界的にも人気を誇った作家で、ブレヒトらその後ドイツ演劇界のみならず、T・S・エリオット、ユージン・オニール、ソーントーン・ワイルダー、テネシー・ウィリアムズらの世界の戦後演劇界に大きな影響を与えましたが、1930年代ナチス政権化で政府協力を頑に断るカイザーは反ナチスと見なされ一切の作家活動・上演を禁止されます。彼の作品はかの1933年のナチスの焚書対象として燃やされています。

身の危険を察知したカイザーは家族にも告げずにスイスに単身亡命し(残した家族には亡命生活の窮状を訴えながら実は愛人マリア・フォン・ミュールフェルととその娘と生活してたそうですが)創作におけるナチ体制批判として日本を舞台にした「兵士タナカ」という戯曲も発表し、日本公使館の要請でスイスでの上演が止められます(なお2008年東京芸術座で「兵士タナカ」が講演されたようです)。終戦間際にノーベル文学賞候補にもなっておりましたが、1945年5月8日ナチスドイツ敗戦後も帰国適わぬまま翌6月4日に亡命先スイスで没します。享年66歳。

相当エキセントリックな人物であったらしく、放埒な金銭感覚のせいで人気劇作家として高収入であったにも関わらず絶え間なく借金を負い続け、起訴されて禁固刑にまでなっており、その際の陳述が「私は偉大であり、途方もなく例外的な存在であるために、法律は私には適用されない」と言い張る等なかなか飛んでます。

代表作としては『カレーの市民』(1912)『朝から夜中まで』 (1912) 『珊瑚』から『ガス1』『ガス2』へと続くガス3部作(1917—20)などなど。そして現在の日本ではゲオルク・カイザーの作品はほぼ読めません。『盲目の女神―20世紀欧米戯曲拾遺』に「ロザムンデ・フローリス Rosamunde Floris (1936/37)」が収録されてくらいです。ちなみにガス三部作は100年後の現代日本を間違いなく風刺していますが、これまたどっかで機会あれば触れます。未訳です。

念のためドイツ表現派について

では、そのゲオルク・カイザーの「ドイツ表現派」とはなんぞや?というところでありますが、詳しくは表現主義ーWikipediaを参照していただければと思いますが、ドイツ・ドレスデンで結成された画家グループ「ブリュッケ Die Brücke=橋」のメンバー、キルヒナーシュミット=ロットルフヘッケルらが当時パリを凌ぐとも言われた芸術都市ベルリンに1911年に移住して活発に創作活動を展開し、同年ミュンヘンにてカンディンスキーマルクらの手によって創刊された芸術誌「青騎士:ブラウエライター der Blaue Reiter」のもとに集まった画家集団らを中心にして、20世紀初頭にドイツで爆発した芸術運動です。

反権威、反ブルジョア、反写実、反印象を標榜し「生の飛躍エラン・ヴイタル」としての「内面」、時には「幻視」、また対象を消し去った内部規範のみの「抽象」をも含む「表出=expression」を主潮としています。「ブリュッケ」も「青騎士」ともに第一次世界大戦勃発とともに消滅しましたが、「表現主義(派)Der Expressionismus 」は音楽,文学,演劇,映画,建築に及ぶ革新的芸術の合言葉として広まり、特に表現派演劇及び映画は、第一次世界大戦後のドイツ革命を経たヴァイマル共和政下でも一つの潮流として、また戦時下スイス・チューリッヒで生まれたバルツァラらのDADA、イタリアの未来派、ソビエト革命期のロシアンアヴァンギャルドの構成派、などなどの様々なイズムが合流混成して、新即物主義=ノイエザッハリヒカイトNeue Sachlichkeit等の新派も吐き出しながら、「ヴァイマル文化」という大輪の徒花を咲かせていくわけです。なお1930年代ナチス政権下において「退廃芸術」の烙印を押されるのもこれ等の作品群です。

戦間期欧米文化はレザネ・フォール les années follesのフランスやハリウッド・ジャズエイジのアメリカからだけでなく、ヴァイマル共和制下ドイツの芸術実験、革命期ロシアからソビエト初期にかけてのロシア・アヴァンギャルド等、様々な経路から日本へ着弾し同時代的な影響を与えています。その紹介の一翼を担ったのが村山知義です。

村山知義とドイツ表現派

村山知義はベルリン単身渡ったのは1922(大正11)年、21歳の頃です。後期表現派運動が一段落着き第一次世界大戦後の新たなモダニズム芸術諸派が怒濤のように渦巻くベルリンで時代の空気を吸った村山はこの「表現派」を「オワコン」と観ています。乗り越えるべき父というより長男であると。もっともベルリン時代にカイザーやトラーの表現派演劇を大量に観て感銘を受けているわけですが、帰国後の執筆で築地小劇場で「朝から夜中まで」の開幕直前1924(大正13)年11月に村山の最初単著『現在の藝術と未來の藝術』(長隆舍書店)が出ていますが、その中に「過ぎ行く表現派」という章にて本質的批判をしています。

それゆえもし彼らがなんらカンディンスキーのいわゆる「内的要素なる精神の振動ゼーレヴィヴラチオン」が無いにものかかわらず、フォルムの面白さ、貴さ、美しさ、偉大さないしは醜さに圧倒されてある絵を創ることもまた正当にあり得る、、、、ことである。

—「過ぎ行く表現派」p174:村山知義『現在の藝術と未來の藝術』長隆舍書店1924

他にも1926(大正15)年2月の『構成派研究』

未来派は旧い美学を破壊したが、表現派は新しい美学を生み出した。破壊の後に建設が来るのはいかにも当然らしいが、実はこれは、表現派が未来派よりもずっと美術の殻をぬけきれないでその中に閉じこもっていることを示している。

—「3表現派」p14村山知義『構成派研究』中央美術社 1926

「立体派と未来派からコマ切れの肉と神秘的なドイツのビーフステーキが切り取ってこられた。それが表現派だ」「世に表現派ほど早くその目的を達し、展覧会場の金の額縁の中や、善良なる小市民的な部屋の小さな飾物やレースや花絨緞の真中で、易々と極楽往生を遂げた派はいない」というハンガリーのカシャークの痛烈な表現派批判も紹介しています。

ロシア構成派及び意識的構成主義について

この「表現派」の「表現」という言葉で担保されてしまう「美術」性と、隠蔽される「無知・無意識」を嫌う村山は、それを乗り越えるものとして「意識的構成主義 Bewusste-Konstruktionismuss: Conscious-Constructionnism」を掲げるわけですが、ではその「意識的構成主義」とは何ぞ?と。

ものすごいざっくりと説明しますと、ドイツ表現派の無対象絵画の内面表出理論が陥った静的なるカンディンスキー的「構図コンポジシオン」を乗り越えるべき「力」と「動」の表出たるところの「構成コンストルクシオン」(当時日本にいたブブノワ経由のロシア構成派理論)と、ドイツ・ハノーファーのダダ=アンチ・ダダたるところの「メルツ」のクルト・シュヴィッタース経由の「芸術」を茶化し打ち壊すパフォーマンスと所謂「コラージュ」とを「揚棄」させたいところの主義のようですが(「構成派批判」参照:村山知義『現在の藝術と未來の藝術』長隆舍書店1924)、理論的には揚棄というよりは折衷融合的といいますか敢えて言えば「マヴォイズム」としての「構成派」と認識してよいかと思いますが、

つまり、ここで急に本題に戻りますと、村山友義のもう一つの「強引」としてカイザーが1912年発表された「表現派」戯曲の舞台芸術を彼の標榜する「構成派」芸術で組み上げたという点です。村山自身が語るところのよると、「適度な左右対称、重量と運動の全体的平衡、形と色の両方に於ける単純さ明瞭さ、充分に発揮されたる実用性、全てが必要にして且つ充分なること」規則規範的に組まれており、村山自身はこの構成派舞台装置でもってして表現派とは一線を画したという自負があった。この構成派舞台装置と表現派のの差はどういうものなのか?のいいサンプルとしてこの『朝から夜中まで』は1921年ドイツ映画です。

幻のドイツ表現主義映画『朝から夜中まで』との比較

既に公表後70年を経過しておりパブリックドメインという認識のもとで展開してしまいますが、かの「カリガリ博士」の翌年にあたります。一時間少々の映画なので是非ご覧あれ。サイレント映画です(音楽は後年に載せたものでしょう)。典型的な表現派演出になっています。


『朝から夜中まで Von morgens bis mitternachts』ドイツ 1921年 69分
原作:ゲオルク・カイザー(Georg Kaiser)
監督:カール・ハインツ・マルティン(Karlheinz Martin)
撮影:カール・ホフマン(Carl Hoffmann)

なおこちら日本のみで上映され、本国ドイツその他のヨーロッパ諸国では一度も上映されなかったいわく付きの「表現主義映画」で、長年フィルムが失われたと思われていたものが東京国立近代美術館フィルムセンターで無字幕版唯一発見されたものが1968年にフランクフルトでの表現主義ゼミナールで始めてドイツで上映されたそうです。今回のこちらは1993年にミュンヘン映画博物館が復元してドイツ語字幕を加えたものになりますが。北村喜八訳『朝から夜中まで』を読んでから観ると演出相違等はいくつかありますがほぼほぼ話を追えるかと思います。

ようやく『朝から夜中まで』あらすじ(駆け足)

さて、ようやく本題の『朝から夜明けまで』のあらすじですが、駆け足で、ざっくりいきます。ドイツ某銀行の冴えない中年出納係の女に騙されて(勝手に勘違いした)横領持ち逃げ事件です。今で言う「中年の危機 ミッドライフ・クライシス」ものになるかと思いますが、表現派演劇は市民生活批判としての破滅欲求からの「新しい人間」像への希求ベクトルが底流にあり、その逃亡の『朝から夜中まで』の過程が劇的に描かれています。逃亡中一回自宅に戻り部屋の扉を全て開けさせてこんな述懐する「出納係」

出納係:(あたりを見廻しながら)お母さんが窓に寄りかかっている。娘たちは、卓に向かって刺繍したり——ワグネルを弾いたりしてゐる。妻は臺所で働いてゐる。四つの壁に囲まれた——これが家庭の生活だ。共同生活の美しい和樂だ。母と——息子と——その子供とが、一つ屋根の下にゐる。惑はされやすい魔法だ。魔法は紡がれてゆく。部屋には卓があり、ランプが吊り下がっている。右手にはピアノがある。陶上煉瓦の暖炉がある。臺所では、毎日の食事が用意される。朝のコオヒ、晝はカツレツ、寢室には——寝床。惑はされやすい魔法だ。そのうちに突然——背中に——白い堅いものがくる。卓が壁の側へ押しやられる——黄ろい柩が斜に置かれる……螺釘が締められる——ランプの周りに覆ひが下げられる——一年ピアノが弾かれない———

こう言葉を残して家族を捨て猥雑なる都市に繰り出す徹底的に蕩尽をします。エンディングはもう必然的な死なわけですが、非常にまとまった贖罪羊の象徴で終わります。興味ありましたら是非上記映画を横目に読んでみてください。今回はEPUB化しておりませんのでPDFデータでは読みがたいかと思いますが。なおこちらも将来の変電叢書復刊候補です。

『朝から夜中まで』構成派実舞台は

あらためて確認としてこちら(外部リンク)が『朝から夜中まで』舞台装置の再現物を観てみます。これが幕のない舞台にどーんと置いてあり観客のを舞台開始前から観客の度肝を抜いたと言われております。「舞台装置がどぐろをまいている」と。

しかしこの階層式の舞台装置をあの劇もってどのように使用したのか?ということですが、全7幕各場面をそれぞれの装置のブロックブロックに割当、照明を当てて運用したそうです。「一段上の正面奥が、競馬場の場の審判席、二階は右手の出納係の家の場、左手がホテルの場、正面奥が救世軍の場の演壇、一階は右手が銀行の場で左手が踊場の場である。一回中央の床は銀行の場とホテルの場では街路、踊場の場では聴衆席、競馬場の場では廊下、救世軍の場では演壇へ、及びホテルの部屋から正面手前の床へ張り出された縄梯子の上で演ぜられる」。照明は「銀行が白、家が黄、踊場が赤、ホテルが緑、救世軍が赤、競馬と雪の場が青」(村山知義「『朝から夜中までの舞台装置について」)という配色です。以下参考までに実際の舞台第一場「銀行の出納口」舞台写真を「すべての僕が沸騰する:村山知義の宇宙」展図録より転載します。

第一場「銀行の出納口」舞台写真 撮影:坂本万七 「すべての僕が沸騰する:村山知義の宇宙」展図録より転載
第一場「銀行の出納口」舞台写真 撮影:坂本万七
「すべての僕が沸騰する:村山知義の宇宙」展図録より転載

この演出も含めて当時はの観客に強い衝撃を与え、多くの人の「構成派演劇」という記憶を残し、村山知義の名を演劇界に轟かしたわけです。

その後の「村山知義の放物線」

村山知義のその後も言わずもがなでありますが「村山知義の放物線」を追記しておきますと、GGPG野川隆と同じく「藝術左翼から左翼藝術へと轉換」し、主に左翼演劇方面で活躍しますが、野川と同じく1930(昭和5)年5月で一回目、1932(昭和7)年4月2回目治安維持法で逮捕検挙され、1933(昭和8)年12月「転向」して出獄。1934(昭和9)年所謂「転向文学」の『白夜』を発表。その後も演劇創作活動続け、再び1940(昭和15)年8月逮捕、1942(昭和17)年6月保釈され、落ちのびるように1945年3月朝鮮、7月満州へ渡り、8月朝鮮京城で終戦を迎えます。なお8月15日玉音放送時の村山知義の状況は、こちら有志のブログに詳しく記載されていましたので是非ご参照ください。→「多面体F」朝鮮に渡った村山知義 他の記事でも村山知義について非常に詳しく書かれており、諸々参考にさせていただきました!

オチとして

さて、今回は村山知義という「巨人」相手だけでなくドイツ表現主義劇作家ゲオルク・カイザーから戦間期前衛芸術史なども紐解いてしまい、そのあまりにも広大な領域に手こずりました本記事をそろそろ終えたい!疲れた!と書いてる私も痛切に思っておりますが、最後にオチとして。この世界的に有名な表現派演劇を構成派で組み替えた「村山知義の強引」な手並みを観た観客の最初の衝撃を、敢えて今風に解釈するとどういうものだろうな?と長らく考えていたのですが、ようやく閃きました。

この戦後POPSに置きかえての俗な解釈を行うという野蛮さをやってのけると、つまり1977年ビルボード10位エアロスミス「Walk This Way」を1984年にカバーして世界的ヒット誘い「HIPHOP」の存在を世界に知らしめたRUN-DMCの衝撃ではなかったかと。

上記動画を観てから、改めてこの舞台を観ると、adidasスーパースター&カンゴールハット&ゴールドチェーンのオールドスクールスタイルでMC.TOMこと村山知義がドヤ顔で舞台中央から踊り出てきそうな気がしてきませんか!

という最後は「強引」なオチをつけて、長かった【秋の変電書月間’14】第一弾としてゲオルク・カイゼル作/北村喜八訳『朝から夜中まで』を終えたいと思います。「かえってわかりずらいオチ」の誹りは受け付けません。

社主代理 持田泰

参考文献

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