【ボンソアール!】稲垣足穂「とよく似た」野川隆の発射台【初期作品『しがあ一本』『靑黑いガス體』『黃色い詩』『無敵艦隊』公開】

社主代理持田です。予告通り通り久しぶり野川隆で「でんでんコンバーター×BiB/i」公開ですが、尖っていたころの前衛期野川の「G・G・P・G」創刊号「ノガワ・リュウ」時代の小品と前回紹介した村山知義の「マヴォ」に寄稿した詩をさっと紹介してまいります。

初期野川隆「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」「マヴォ」収録作品公開

さて今回の野川隆はあの「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」(=「G・G・P・G」)大正13(1924年)6月~大正15(1926)年1月頃の詩の公開です。こちらの詩誌「G・G・P・G」は2007年に不二出版にて全巻復刊されており、その時代の貴重な詩片を現代でも拝むことができるようになりました。都内公立図書館だと都立広尾図書館のみでしか蔵書なくチマチマ複写していたのですが、今回とうとう手に入れてしまった復刻版「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」32,400円税込也でございます。

不二出版「G・G・P・G」2007年復刻版購入により忘年会何個かキャンセル予定です

不二出版「G・G・P・G」2007年復刻版

ようやくこの野川隆という詩人の初期作品風貌だけでなくこの「G・G・P・G」全貌が知れました。いやあ尖ってますねえ。内外の芸術実験言語実験を貪欲旺盛に換骨奪胎せん勢いの当時20代前半の利発で都市的な不良青年らのヤングポエットぶりが炸裂しております。まずその記念すべき「G・G・P・G」初号が出るまでの経緯ですが、この彼の誕生から詩人としての登場までをざっと辿ります。なお以下履歴概略は西田勝著『近代日本の戦争と文学』「近代日本と戦争と文学」Ⅳ章『「満洲事変」から日本敗戦まで」の「7.中国農民に殉じた詩人野川隆」を参考にしております。野川の足跡をしっかりと追われており非常に参考になりました。

野川隆初期履歴

野川隆は森鴎外と東大同期で千葉大学医学部の前身にあたる第一高等学校医学部の教授であった野川二郎の九男として1901年4月23日千葉生まれます。生後8ヶ月で父が医院を開業するために一家とともに出身地であった岐阜に移ったことから、19歳で大垣中学(旧制)卒業するまで岐阜で育ちますが、14歳で父二郎が病没。軍医であった長兄弘が医院を継いだものの再建難しく、その借財を返すために長兄弘は「渡満」して中華民国間島省延吉県で野川医院を開業しており、隆も中学卒業後に一時長兄の元に母とともに身を寄せてます(なので彼にとって昭和13(1938)年の「渡満」は二度目であり、また親族の住む「大陸」であったということになります)。

翌大正10(1921)年に20歳の野川隆は上京。先の東洋大学に入学しますが1年足らずで退学。同じ頃「赤と黒」同人であり戦後も活躍した小野十三郎も同年1921年に上京し、東洋大学入学するも、わずか8ヵ月ほどで退学。同じく「赤と黒」同人であり東洋大学中退者と南天堂常連の岡本潤が詩作を始めていますが、野川隆も五兄の圭の紹介で就職した横浜税関に勤務しながら、七兄孟ら玉村善之助が創刊した海外新興藝術動向を紹介する「エポック」に『數學者の饗宴』(【大復活祭!電誌「トルタル」5号発刊記念】「野川隆の放物線Ⅱ」詩編『數學者の饗宴』『哈爾浜風物詩』他【続きはトルタルで!】にて紹介済)などを寄稿しはじめています。

その「エポック」は第6号(野川隆が訳したマックス・ウエバア訳詩集「立體詩三十八編」で一冊まるまる当てた号)を最後に途絶え、その復刊までの繋ぎとして野川隆が責任編集者として「G・G・P・G」初号が「非賣品」として世に出ます。その編集後記から。

ノガワ・リュウ『「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」第一年第一集編集後記』大正13(1924)年6月13日

『「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」第一年第一集編集後記)』

実は初号のみ野川隆は「ノガワ・リュウ」といカタカナネームで寄稿しています(※漢字の際の読みは「のがわたかし」)。そしてこの「都會の街々を動く、機械で出來た人間的な動物人形には、Gの發音の震動數と波形が氣に入つたのである」こそが「G」の産声が上がった瞬間であったわけですが、前回も軽く触れた稲垣足穂がむさぼるようの読んだのがこの大都会における雑音たる「G・G・P・G」です。以前も書きましたが高橋新吉、辻潤らの泥臭いダダよりも、都会的に洗練されたダダでありチューリッヒダダに近いと「G・G・P・G」を評した足穂ですが、さらにその時代を振り返った「GGPGの思い出」でこんなことを書いています。

野川兄弟は四谷の電車道にある細い横町を右へまがった所にある古い真四角な洋館で、そばにはキャベツ畠があり、従って彼ら兄弟はキャベツばかりをたべているとのことであった。この聞き伝えが根拠になって、私の「自分によく似た人」が出来たのである。この小話は『一千一秒物語』の中に収録されている。

稲垣足穂『「GGPG」の思い出』「稲垣足穂全集 第11巻 菟東雑記」2001年8月 筑摩書房

その「この小話は『一千一秒物語』の中に収録されている」は短いものなので全文引用させていただきますとこんな作品です。とても象徴的ですね。

自分とよく似た人
 星と三日月が糸でぶら下がっている晩、ポプラが両側にならんでいる細い道を行くと、その突きあたりに、自分と良く似た人が住んでいるという真四角な家があった。
 近づくと自分の家そっくりなので、どうもおかしいと思いながら戸口をあけて、かまわず二階へ登ってゆくと、椅子にもたれて、背をこちらに向けて本をよんでいる人があった。
「ボンソアール!」と大きな声で云うと向こうはおどろいて立ち上ってこちらを見た その人とは自分自身であった

稲垣足穂『一千一秒物語』新潮文庫 1969年12月

さて「ボンソアール!お前は俺か!」と足穂を叫ばめした野川隆その記念すべき「G・G・P・G」一作目が以下戯曲です。

ノガワ・リュウ『しがあ一本(一幕一場)』大正13(1924)年6月13日

『しがあ一本(一幕一場)』

上記「創作ばかり發表」宣言の初号においてノガワリュウ=野川隆作品はなんと戯曲から封切られたわけですが、最後「太陽はがらがらと割れて落ちる」あたりは足穂『一千一秒物語』でも星や月が「書割り」的オブジェクトとして描かれている様を彷彿とさせます。野川と足穂は途中歩む方向をそれぞれの道へと変えていくわけですが、数学や科学の知など野川隆からの影響である旨を足穂自身が明確に語っている事実は「諸君に銘記してもらいたい」by足穂。

なお本作は野川隆「G・G・P・G」掲載作品で最初の最後の戯曲となります。もっとも数年後大正終わって昭和2(1927)年に玉村善之助らと所謂「単位三科」の方の「劇場の三科」に参戦し「千万人のツアラトウストラ」という群衆劇を書いたようですが、その内容は不明です。この劇は1925年に開局されたばかりの大阪JOBKにおいてラジオドラマとしても放送されたといわれています。(五十殿利治『【改訂版】大正期新興美術運動の研究』(1998年スカイドア刊)「第十二章首都美術展から単位三科まで」上演」(P750参照)

この前衛劇をどこぞこかの劇団で上演される場合はわたくし胸熱で馳せ参じます(ご連絡お待ちしております!)つづいて2作の小品、これは並んで掲載された作品です。「青」と「黄」で並べるのはやはり作品内でも触れられるゴッホ的なるものへのオマージュかもしれません。

ノガワ・リュウ『靑黑いガス體』大正13(1924)年6月13日

『靑黑いガス體』

ノガワ・リュウ『黃色い詩』大正13(1924)年6月13日

『黃色い詩』

なお『黃色い詩』で触れられる以下

「君はHans Prinzhorn氏の”Bildnerei Der Geisteskranken”と云ふ本を讀んだかね。あれはいい本だ。一度眼を通して置き給へ。」

ノガワ・リュウ『黃色い詩』大正13(1924)年6月13日

これがなんと!ドイツ・ハイデルベルク大学のデジタルアーカイブでHans Prinzhorn”Bildnerei Der Geisteskranken“ちゃんと閲覧できるんですよ!こういうことがなにはともあれ「電子書籍」たるものの未来を繋ぐように思えてなりません。そしてハイデルベルグ大学のビューワとても使い勝手よくて泣けます。

つづいて少し「G・G・P・G」を離れて「マヴォ」に一度だけ参戦した際の野川隆の詩を紹介します。

野川隆『無敵艦隊』大正14(1925)年8月24日

『無敵艦隊』

やはーかっこいい詩を刻んできましたねえ「詩——あれはカミクズのことである」と来ますからねえ。また冒頭章の都会的なべらんめえ調で啖呵切っていくあたりが非常にクールじゃないですか。またも戦後POPSに照らし合わせてしまう私の悪い癖を発揮すると、Lou Reed- Walk on the Wild Sideが何か聞こえてきてしまいます。

ちなみに途中でフォントサイズ変えているのは「マヴォ」当該号にもそのように冒頭章と尻章以外は小さいフォントサイズ変わって掲載されていたので、それに倣いましたが、なんかここからギャンギャンとギター掻き鳴らしていそうにも思えますからパンクですねえしかもアートシーンに近場のNYパンクですねえ。しかもこちら初の「マヴォ」寄稿作品であり、その内に「G・G・P・G=ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」の異同たる「ゲエ・プリリリリリ・ギガム・プル・ゲム」とかの「Gの發音の震動數と波形」を放り込んでくるところなど憎いじゃないですか。「おう俺が「G・G・P・G」のノガワだけどよ」と「マヴォ」陣営を挑発しているかのようにも取れる詩です。まさに「白山の野郎ども」の「Walk on the Wild Side」。

変電叢書『野川隆著作選集』リリース予告

さて年末まで野川隆攻めで行く予定です。もっとも僕がどれくらいまで電子化できるか?という時間との勝負になってきました。だいたいの詩から小説、また評論類は今手元に揃えているのですが、中でも初期詩は組版上相当な難物があり、とりあえずは出せるものから「野川隆著作選集第一集」として電子放流することを目指したいと思います。

最後に大正14(1924)年11月3日に「世界詩人第一回講演会」記念写真を『世界詩人』第2巻第1号で見つけてきていますので転載します。赤丸で囲ったのは「20世紀跨ぎ生まれ世代」たるヤング野川隆の他、盟友橋本健吉(北園克衛)「世界詩人」主催ドン・ザッキー「マヴォ」村山知義ですが、野川と橋本の間には「G・G・P・G」同人であり画家「ウルガワ」こと宇留河泰呂(※この人の詩と人生行路も相当面白いので後日いろいろ詳らかにしたい)、中段真ん中にまとまって「赤と黒」萩原恭二郎壺井繁治他、下段真ん中に発禁詩集『夢と白骨との接吻』遠地輝武その横に「無産詩人」陀田勘助上段にアナーキズム詩の戦後の証言者たる「局清」こと秋山清等々。新進気鋭の一群が梁山泊のごとく一同介しております。
なおこの時期に「世界詩人叢書第6編」として野川隆『飛行競技会』という詩集を出す予定があったことが「世界詩人」の広告で知れました。こちらが発行された事実はないわけですが、仮に出ていたとしたら野川隆の初期アバンギャルド詩集として萩原恭二郎「死刑宣告」とともにもしかするれば後世に残るということもあったのかもしれません。

世界詩人第一回講演会記念撮影T141103

社主代理 持田泰

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