「戦後70年談話」における「挑戦者」なるモノの「ある側面」としての野川隆後期詩『丘の上の鏟地』『夢みる友』初公開と14回芥川賞候補作『狗寶』再掲と『哈爾賓風物詩』を歌う池田隊長【懲りずに變電社再起動宣言】

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あまりにも久しぶりすぎて芸風忘れてしまった變電社社主持田です。ご無沙汰過ぎていますが終戦70年目の本日に何かポストしようとしていながら、だかこその逡巡が深いまま、日付変わって16日になってしまいました!

何はともあれ懲りずに再起動宣言です。諸々中期野川隆調査結果をため込んでいるだけで発表もせねばなりません。また出す出す詐欺中の「著作集」出しますよ。遅れている理由は諸々ありますが一番の理由はこれびっくり。完全に我が怠慢です。

まず今回怠慢野郎の再起動宣言の狼煙として素敵な援護いただきました!毎度の某業界ではおなじみの池田敬二ゲバラ軍楽隊長殿が『哈爾浜風物詩』の「新馬家溝にて」を歌っていただております!

ああ満洲の風が吹いてくるようだ。ありがとうございます。70年目の終戦前日に弔いができた気持ちで心より多謝です。

以前記事(【大復活祭!電誌「トルタル」5号発刊記念】「野川隆の放物線Ⅱ」詩編『數學者の饗宴』『哈爾浜風物詩』他【続きはトルタルで!】)でも公開していますが、再度こちらに『哈爾浜風物詩』を再掲載します。

野川隆『哈爾浜風物詩』康徳7・昭和15(1940)年5月

『哈爾賓風物詩』

「新しい国際秩序」への「挑戦者」のある側面

さて話変わりますが、去る8月14日。安倍晋三内閣総理大臣から所謂「戦後70年談話」がありました。言わずもがなでマスコミ報道の揚げ足取り的な物言い含めて賛否両論の炎上談話でありますが、とりあえずイデオロギッシュなことは置いておいて、僕が気になったのが以下の文です。

満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。
そして七十年前。日本は、敗戦しました。
——産経ニュース【戦後70年談話】首相談話全文 2015.8.14 18:03

奇しくも「満洲」という言葉が出てきたわけでありますが、その首相が言うところの『「新しい国際秩序」への「挑戦者」』が「進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。そして七十年前。日本は、敗戦しました。』の短い文章で省略された「挑戦者」の現物の生が、北満の大地で、どういう形の日本語でもって写されたか。

そのサンプルとしての野川隆後期未公開詩を公開します。

野川隆『丘の上の鏟地』康徳6・昭和14(1939)年10月

『丘の上の鏟地』

野川隆『夢みる友』康徳8・昭和16(1941)年4月

『夢みる友』

野川隆の改めて略歴です(細かいの内容はWikipediaか變電社の過去記事からどうぞ)が、百花繚乱の大正期前衛詩運動から「ボル転」しプロレタリア文学の牙城の「ナップ」の編集部員であり非常時共産党員として非合法活動に従事し小林多喜二と同時期に検挙され出獄後、昭和13(1938)年11月渡満。満州国浜江省呼蘭県の農事合作社に勤務し「北満合作社運動」にて満洲国の最底辺の貧農救済活動に従事。その中で書かれた小説「狗寶」が昭和16(1941)年の第14回芥川賞の候補作品となりますが、こちらも前回公開(野川隆生誕114年記念】芥川賞第14回候補作『狗寶』『作者の言葉』ならびに前回未収録最初期エポック時代詩作『風と詩人』公開【變電叢書近日リリース宣言】)してありますが、上の『夢みる友』と同時期のものなのでこちらも改めて再掲載します。その「挑戦者」の最末端最下層の一般労働者としての挿話的な現物の生であります。

野川隆『狗寶』康徳8・昭和16(1941)年5月

『狗寶』

その後期の作者の言葉も改めて引用しておきます。

作者の言葉
滿洲へは始め開拓團を見るつもりで旅行して來たのだが、此方へ來て滿洲の人口の八十パアセントを占める滿洲農民の存在に今更のやうに氣づき、之を究めることなしに満洲が解るわけはなからうと思つた。それで、そのまま腰を落ちつけて合作社に入り、その仕事を通じて滿洲農民社會生活の叢林にわけ入らうとしたのである。併し、之も結局仕事に追はれて充分に果たすことは出來ないでしまつた。經濟的な調査ならば時々の下屯でも或る程度まで果たせなくはない。だが、血の通つてゐる生身の人間たちの形象化となると、事態は全く別である。實に困難だ。不可能に近い。さういふ状態の中で、可能な限りの努力をしてみたものの一つが之である。
今は私は合作社を退き、彼等と生活をともにする前提として、農村が經濟的に依存してゐる地方小都市のなかの、豪農の家の炕の上で寢起きして居り、かうしてこの小都市の農村と關連に於いていくらでも覗けたら、來春はいよいよ屯子で暮さうと思つて樂しみにしてゐる。

この同年です。太平洋戦争勃発直前1941年11月「満洲国治安維持法」でフレームアップされた「合作社事件」として一斉逮捕された中の1人として収監。懲役三年で収監され奉天監獄での過酷な環境の中で衰弱し重篤。仮出獄が認められたが昭和19(1944)年12月23日奉天医大病院で死去。享年43歳8ヶ月。

野川が内地から逃れるようにして渡った「外地」中国大陸で確固たる「滿洲農民」を見出し、彼の『哈爾賓風物詩』の「エミグラントに生きる」ことよりさらに深く「挑戦」を企てながらそれが適わないまま世を去りました。

「日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。
そして七十年前。日本は、敗戦しました。」

上の野川後期作品は全て「進むべき針路を誤」ってから「そして七十年前。日本は、敗戦しました」までの深い谷間で「真面目に働いていた人々」の詩であり小説であり、写された人々は、日本人だけでなく中国人(満洲)農民たちであり、彼らと野糞まで一緒にする日本人労働者たちです。

そんなわけで、更新もままならないままでありましたが、地道な蒐集活動結果、野川隆の今集められるだけの作品は全て手許にあります。粛々と電子化公開をすすめて著作集を年内に出す(これは必ずや)所存でありますので、變電社再起動宣言今回は随分硬苦しくはじめましたが、引き続きよろしくお願いいたします。

社主 持田泰

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