今更で購入したのが11月6日で、まだ10日もたっていないのにドッグイヤーばかりです。

【「知性」と「知識人」と「反知性」】R・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』を今更二回読んでみたので少しまとめてみました【變電社號外:ホフスタッター古典精読】

ご無沙汰しております。

「變電社」たるものの概念は儚い夢ではなかったかと疑い始めている變電社社主持田です。ところで變電社活動と特段関係ない(誠に恐れ入ります)のに、ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』を二回読んでみました。

今更で購入したのが11月6日で、まだ10日もたっていないのにドッグイヤーばかりです。

今更で購入したのが11月6日で、まだ10日もたっていないのにドッグイヤーばかりです。

最初にお断りしておくと、僕はこの『アメリカの反知性主義』を読了したのはつい先週の11月10日です。一週間も経ってない。何故二回読んだかというと、一回読んで

なんかもーおっちゃんの頭ではちんぷんかんぷんでちっとも分からんから!もーな!もう一回読んだる!

という身体が追いつかないのにガッツだけはある中年、ということではありません。僕がとても不可解に思ったのが、とくに難解なものではない(中年にも)この著作で、なんでまあこう世間の論者に解釈差があり、さらにまた僕の解釈とも違うのか?その不思議さを知りたくて、二回読んでみました。暇だというわけではありません(結構多忙です)。でも正直に言うと「読んだ」ではなく、今が二回目の読書中です。

現在二回目の読書として第一章「現代の反知性主義」第二章「知性の不人気」をミリ単位できっちり読み込んでみたわけですが、ここさえクリアすれば、「日本の反知性主義」騒ぎがこの同一の典拠をベースの上の議論であるはずなのにもかかわらず、妙にこんがらがっていつの間にか「お前らバーカ」派と「バーカて言ってるお前らバーカ」派の議論になってしまったのか。その疑問が解けたようにも思えつつ、かえってニッポンの闇が深まったようにも思いつつ、何はともあれ、ホフスタッターの足跡を慎重に追跡していかないと、様々な論点を妙に踏み外してしまいそうな危うさは確かにこの本にはありそうにも思います。

もっとも慎重に渡りさえすれば、渡れない橋はないのだという確信は常に持っているわけですが。

巷の「反知性主義」論の整理

なお日本における本件「お前らバーカ」派と「バーカて言ってるお前らバーカ」派の議論と失礼な物言いしておりますが、この神学論争めいた議論に終止符を打ちたい、などという大志は特にありません(打てるもんでもない)。あくまで「ホフスタッターの反知性主義論」を明確にし、このテクストから「泥」や「埃」を払うくらいの作業だと個人的には認識しています。よって批評ではさらさらなく、つまり「線を引きたい」ただそれだけであります。

全体長くなりますが、おそらくいつものごとく一万字は優に越えると思われますが、問題整理のために以前も僕がFacebookでも何度かポストした日本における反知性主義論(その「泥」や「埃」とか言うわけでないけど)の便宜上の整理から始めますが、非常に偏見に満ちた私的分類です。

1. 内田樹氏他、アベ政権「B層」マイルドヤンキーラベルとしての否定的反知性主義

2. 森本あんり氏他、反権威・反エスタブリッシュメント「寅さん」庶民感性の肯定的反知性主義

上のふたつが日本における論で、そして僕が「上の解釈とはどうも内容が違うように思える」と一週間ばかり首ひねってきたその議論の典拠たる

X.ホフスタッターの知識人論としてのマッカーシズム反動根源史としての否定的反知性主義

があるわけです。なお以下で読み込むホフスタッター反知性主義論はあくまで私見である旨は最初にお断りしておきます。僕が今更読んだらこう読めたというお話です。

森本あんり氏とホフスタッターの「反知性主義」論の明確な相違

まずホフスタッターは「反知性主義」を一貫して否定的言辞として扱っています(再三個人Facebookポストしていますが)。ここはやはり僕の一回目に読んだ印象また解釈は誤読ではないと二回目においても認識しています。ホフスタッターは

「私が反知性主義と呼ぶ心的姿勢と理念の共通の特徴は、知的な生き方およびそれを代表するとされる人びとにたいする憤りと疑惑である。そしてそのような生き方の価値をつねに極小化しようとする傾向である。あえて定義するならば、このような一般的な公式が役に立つだろう」p6
ーR・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』(原1963/訳2003:みすず書房)※太字強調ブログ記者

そして森本あんり本では反知性主義の源流とされているエマソンなどの「反合理主義者」は「反知性主義」ではないと明確に断りを入れます。

「最後にぬきさしならない混同を避けるうえで重要なので、この本に取り上げる反知性主義は、私が反合理主義と呼ぶ哲学上の教義と同一でないことを明らかにしておく。ニーチェ、ソレル、ベルクソン、エマーソン、ホイットマン、ウィリアム・ジェイムズのような思想家、あるいはウィリアム・ブレイク、D・H・ロレンス、アーネスト・ヘミングウェイのような作家などの諸理念は反合理主義といえるだろう。しかしかれらは、私がもちいている社会学的、政治学的意味においては、典型的な反知性主義と異なる。反知性主義運動がこのような思想家の諸理念をしばしば引き合いにだしたのは、もちろん事実である(エマーソンのみは非常に多くのテクストを反知性主義者たちに提供した)。しかしそのような場合の教養人向きの反合理主義は、私の著述のなかでは、二次的な意味しかもたない。本書の中心的な問題は広範囲にみられる社会的態度、政治的行動、そして教養が並程度か低い人びとの反応であって、整然とした理論を問題にするのは副次的な場合のみである。私がもっと関心をいだくのは、われわれの生活に影響をおよぼし、知的な文化的な生活を深刻なほど抑制したり貧弱にするさまざまは反知性主義態度なのである」p7ー8 
ーR・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』(原1963/訳2003:みすず書房)※太字強調ブログ記者

なので、ホフスタッターにおいては「反知性主義」の良い側面は語れることはとくにありません。あくまでネガティブなものであるから、森本あんり氏の言う「反知性主義」には「積極的な意味」もあり「社会の健全さを示す指標」でさえあったという解釈は、ホフスタッター本からは僕は引き出せません。

この「積極的な意味」を見出してきた先は「別の著者」の「何かしらの著述」なんでしょうか。森本氏自身その『反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)』の「まえがき」でもちゃんと

ホフスタッターの見立てから出発しつつも、それぞれの出来事や登場人物にふさわしい解釈と評価の光を当て直し、歴史の流れの中で再定位する作業」と明言されている限りにおいて、「違う解釈」をしたからといって悪いことだとはさらさら思いません。が、その部分で語られる固有名として「ホフスタッター」以外の名が出てこない以上、様々な誤解をふんだんに生んだ要因もあるのではないかと思います。もっとも、僕は何もホフスタッター本のみを聖典化するつもりはありません。また僕の解釈が間違えている可能性も否めません。まだ二回目です。

森本あんり氏「反知性主義」論解釈と巷における展開

とは言いつつ正直この森本あんり氏本に関して手放しに賞賛するばかりで、あまり細かい部分を指摘していない論が多数なような気がしており、誰かが「これは森本あんりという神学者が解釈したもので、肝心のホフスタッターの『反知性主義』解釈とは違いますよ」と、明確につっこんでおいた方がいいような気はしています。

なんて思って散々僕がFacebook上で疑問を呈していたちょうどその11月第二週木曜日12日に、かの冷泉氏Newsweek記事が見事にやってくれていて、ビックリいたしました。

Newsweek「日本で盛り上がる『反知性主義』論争への違和感」2015年11月12日(木)16時05分

冷泉氏のおっしゃるように森本氏の著作はホフスタッター『アメリカの反知性主義』とは本質的には関係なく、敢えて失礼を承知で言い切ってしまうと「森本あんりのアメリカ宗教史」かと思います。そしてその論述に置いては間違いは無論ないものと認識しています。が、そもそもで言えば、『アメリカの反知性主義』第六部まであるうちの福音主義を取り扱った第二部のテーマまでしか語られていないからというのもあります。そして冷泉氏が言うようにホフスタッターの本に関して言えば、

「「知識人であること」と「真に知的であること」の「ズレ」を徹底的に問題にしており、エリートが権威や権力となって堕落することが「アンチ・エリート」の運動を呼びこむ、従って知識人にはさらに一層の自省が求められるという「志(こころざし)の高い」メッセージが込められた本です。」
ーーNewsweek「日本で盛り上がる『反知性主義』論争への違和感」2015年11月12日(木)16時05分

「『知識人であること』と『真に知的であること』の「ズレ」を徹底的に問題」にしていることは、まさしくその通りではないか、と僕も思っております。

なので現在この「日本の反知性主義議」騒動でどちらかといえば「知性的」と軍配が上がったと思しき皆さん、例えば、

池内恵氏「反知性主義」を読むならこの二冊

山形浩生氏「反知性主義1: ホフスタッター『アメリカの反知性主義』 知識人とは何かを切実に考えた名著」

山形浩生氏「反知性主義2:森本『反知性主義』:ホフスタッターの当事者意識や切実さはないが概説書としてはOK」

池内恵氏に関しては上記ブログで

この本についての最もいい紹介は「週刊新潮」の匿名記者の短評紹介だったな・・・自社本宣伝とはいえ、いい線をついていた。アメリカの反知性主義とはそれ自体がある種の知性的立場でもあり、近代的の(特にアメリカ的な)な専門家支配とか世俗主義などを疑う、社会の底流から湧き上がる思想でもある。ある意味「週刊新潮は、本来の意味での反知性主義をめざす雑誌です」と静かに宣言しているような短評だった。匿名記者さんがんばってください。
ーー池内恵氏「反知性主義」を読むならこの二冊

と「本来の意味(?)」と森本氏の「反知性主義」積極的解釈を絶賛し、一方で山形氏は良い著作でありながらホフスタッターの「知識人のあり方に触れていない」点は冷泉氏同様に明確に指摘されていてますが、

強いて欠点を挙げるなら、知識人のあり方というホフスタッターの大きなテーマは触れていない。まして、かれの持っていた切実さはない。自分の問題としては理解しておらず、他人事。ただし「反知性主義」の解説書としては、別に知識人のあり方に深入りする必要もないのは確か。
ーー反知性主義2:森本『反知性主義』:ホフスタッターの当事者意識や切実さはないが概説書としてはOK

と「反知性主義の解説書」として良いと述べています。気にかかるのは両氏さらに冷泉氏もそうですが、一様に森本氏の「反知性主義」の「積極的な意味」を認めてらっしゃる。知識人論であることを明確に理解している山形氏も「反知性主義1: ホフスタッター『アメリカの反知性主義』 知識人とは何かを切実に考えた名著」の方で、「ぼくの知っている「反知性主義」というのは、決して悪いものではないからだ」と述べており、冷泉氏は冷泉氏で、さきのNewsweek記事でも、「違和感」は表明しつつもその「積極的な意味」は認めているように読めます。

なぜなんだろう?

日頃より僕が尊敬してやまない識者の皆さんであり、ニッポンの「知性」と言ってしまってよい。そんな皆さんに、こんなこと言うのは大変におこがましいわけですが、まず端的にホフスタッター本からの「反知性主義」解釈ではないのだろう、と僕は推測しています。とくにそのことが悪いことだとは思っていません。様々な解釈が生まれてよいわけで、しつこいようですが、僕はホフスタッター本を聖典化するつもりはありません。もっとも勝手な妄想を逞しくすると、森本あんり氏のICU方角から「I Can’t Stop The Loneliness」電波が飛んできて「福音」めいたものがホフスタッター本の行間から聞こえてきたのではないかと。などと「杏里」を知っている世代しかわからない上、大変失礼なジョークは置いておいて、話を元に戻します。なお杏里は中学生の頃よく聴きました。

では肝心のホフスタッターの「反知性主義」論とは

再度述べますと、ホフスタッターはあらゆる「反知性主義」的態度に対する否定がまず前提にあります。「積極的な意味」は読み取れません。そして重要なポイントですが、かといって「知識人」も全面的に擁護することもありません。この論調がもしかすると「反知性主義も積極的で良い意味がある」という認識の根拠になっているの可能性はあります。ホフスタッターは「知識人にまじって生活していれば、だれも過度に彼らを理想化しようと思わない」とまで述べていますが、

「本書の批判的問いかけであって、アメリカ社会と対決する知識人を弁護する者ではない。私は知識人が陥りやすい自己憐憫を正当化する気はまったくない。知識人がその傾向に走るのは、自分たちをバビロンに捕らわれた純粋の有徳の士であると思いこむからである。この見解を擁護したり、知識人はあくまで特権を与えられるべきであるとか、強力な権力を行使すべきであると擁護する必要はない」p18
ーーホーフスタッター『アメリカの反知性主義』※太字強調ブログ記者

ここでさらに大事なポイントとして、第一章の原註の箇所も引用しておきます。おそらくこの認識があるかないかで随分読み方が変わりそうにも思います。

「ホワイトは反知識人と反知性主義者を区別しているが、これは役に立つ。前者は知識人への敵意をいだく者を指し、後者は知識および生活の理性的な知性を求めることにかんして批判的な者のことをいう。ホワイトはかなりくわしく両者の戦略と、その相似点についてあつかっている。」p381原註
ーホーフスタッター『アメリカの反知性主義』※太字強調ブログ記者

「反知識人」と「反知性主義」の区別をしたホワイトの論に則り、ホフスタッターは「反知性主義」を批判する「知性」擁護者であれ、「反知識人主義」批判する「知識人」擁護者では必ずしもありません。これは最終章の「知識人 疎外と体制順応」でジェントルマン階級の「中立主義文化(マグワンプ・カルチャー)」の担い手たる「知識人」たちを小馬鹿にして扱うように、本著で一貫した論調です。

本質的な「知性」の担い手としての「知識人」には、その振る舞いが仮に「反権威・反エスタブリッシュメント」だろうがホフスタッターは「知性的な知識人」として崇敬します。それゆえに「反知性主義者」に引用されるテキストは提供したことは認めつつも、エマソン、ソローを「反知性主義者」と捉えません。

ヘンリー・D・ソローの「位置」から見えるもの

このソローの取り扱いを僕は個人的に(好きだというのもありますが)とても気にしており、例えば森本あんり氏の著書でも、

「エマソンによると、ソローは説教者だが説教壇をもたない。学者でありながら学問を糾弾する。厳粛な良心をもって呑気なアナーキーを推奨する。いわば「ハーバード卒のハックルベリー・フィン」みたいな存在である。ちょっと矛盾した人物だが、反知性主義にはどちらの側面も重要である。ハーバードを卒業するようなインテリだからこそ、既存のインテリ集団を批判する能力もある。ということなのだろう。後に見るように、このような矛盾は現代の反知性主義者にも共通するところがある。」p143
ー森本あんり『反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体』※太字強調ブログ記者

また、現在の「反知性主義論ブーム」になる前の著作巽考之編『反知性の帝国―アメリカ・文学・精神史』(2008年南雲堂)の

頭の章、巽考之氏「アメリカ文学と反知性主義の伝統」おいてもそうですが、明確にエマソンもソローも「反知性主義」の一つの源流として捉えています。しかしホフスタッターは彼らを「反知性主義者」と観ていませんから、どうも真逆の解釈なわけです。(もっともホフスタッター以外の日本に紹介されていない「反知性主義論文献」があるとは思うので、その認識を否定するつもりはありません。僕はホフスタッター本のみを聖典扱いするつもりはありません。が、しかし)。

少なくともホフスタッターにおいては、その人物の発言や振る舞いだけ眺めれば「ああ土台こんなこと言う奴はは反知性主義者だねえ」と簡単にペタとラベル貼って終わりそうな人物であっても、非常に慎重に人物を選り分けていることがわかります。それは第五部におけるデューイの教育理論における反知性主義改革者による「誤読の問題」を、以下のように原註でも述べています。

「適切な例として、ジョン・デューイの教育理論にみられる反知性的意味合いとその結果を論じた方が望ましいことがわかった。しかし、だからといってデューイが反知性主義者であったというのは不条理で不適切だろう」p381
 ーーホーフスタッター『アメリカの反知性主義』原註 ※太字強調ブログ記者

また最終章「知識人 疎外と体制順応」において、当時のビートニク(訳は「ビート族(!)」)の作家らは「反知性主義」とみていますが、彼らのその反体制の姿勢と、社会からの絶縁と孤立の道を目指す振る舞いに対して、原註では以下のようにソローと明確に区別しています。

「ビート族はソローという先駆者がいた、ソローはみずからの意志で加わったのではない、いかなる社会からも、その構成員に数えてもらわなくても構わないと言っていた(反体制というテーマがアメリカ思想に繰り返し登場するのは興味深い)。違いはもちろん作家であるというソローの職業意識にある。」p414
 ーーホーフスタッター『アメリカの反知性主義』原註 ※太字強調ブログ記者

ソローは「疎外された知識人」ではあれ「反知性主義の親玉」としてはけして扱われていません。それは何度か顔出すソローに対する記述でも一貫としてその姿勢です。ホフスタッターにとってその反権威・反体制の発言や振る舞いは「反知性主義」ラベリング対象にならず、その「知性」の在処を徹底して重視していることがわかります。

「知識人」ではなく「知性」の擁護

その意味で、ホフスタッターは「知識人」的な振る舞い一般は擁護しないが「知性」を擁護していることが明確です。このポイントを見過ごすと、仮に「反知性主義者列伝」なるものを考えた際に、ホフスタッターと他の論者で明確な差が出ることになるだろうと思います。明確な差が出た結果、後者は「反知性主義」の「積極的な意味」を採用せざる得なくなるはずです。無論、それが悪いとは言いませんが、「ホフスタッターとは違う反知性主義論」になるということです。

ホフスタッターは頭の第一章「現代の反知性主義」において、極めて強い口調で「知性および知性の役割を尊敬することは、どこでも文化と健全な社会にとって重要」だと断言し、それが「アメリカの社会にこの尊敬がしばしば欠如していた」と述べます。そこで

誤りにおちいりがちな人間である知識人と知性の主要な役割と関係から、われわれはローマ教会がもつ知恵を想起すべきである。聖職者が誤謬や肉の罪を犯しがちであるにもかかわらず、ローマ教会自体は神聖なままなのである。それてもなお、知性自体は過大評価されうること、そして、知性を人間の営為のなかに適切に位置づけようとする合理的な試みは反知性主義と呼ぶべきでないことを、私は忘れていない」p18
ーーホーフスタッター『アメリカの反知性主義』 ※太字強調ブログ記者

ここで別の比喩もう一つ下手くそにもってくるとすれば、かのプラトン「洞窟の比喩」のように燃える火に照らされ洞窟の壁に映る影にすぎない「知識人」ラベルを「知性」の実体と捉えるような愚を犯すなかれ、とも読めます。「知識人」と「知性」は同一のものではないのだと。

「知識人」と「反知性主義のスポークスマン」

で、ここまで来たところで、おそらく様々な解釈を生んでしまいそうな箇所に到達します。上記「知識人」と「知性」の差分を踏まえればサラリと読めてしまいながらも、確か「1」派の内田樹氏が端から引用していた箇所ですが、ここだけ切り取ると妙な不透明さを含んでしまっている「反知性主義のスポークスマン」論が始まります。

ここに来て、ホフスタッターは「反知性主義」は自然発生的に庶民的反感だけで生まれたものではないと、と言い切ります。

反知性主義は思想に対して無条件の敵意をいだく人びとによって創作されたものではない。まったく逆である。教育ある者にとってもっとも有効な敵は中途半端な教育を受けた者であると同様に、指折りの反知性主義者は通常、思想に深く関わっている人びとであり、それもしばしば、陳腐な思想や認知されない思想にとり憑かれている。反知性主義に陥る危険のない知識人はほとんどいない。一方、ひたむきな知的情熱に欠ける反知識人もほとんどいない」p19 
ーーホーフスタッター『アメリカの反知性主義』 ※太字強調ブログ記者

先の「知性」と「知識人」は必ずしも同一でない同様、「思想」や「知的情熱」も「知性」とは同一ではない。だからこそ「知識人」は「反知性主義」に陥る危険がある、と。その道を辿ったものとして「反知性主義」が「歴的に跡づけられるほどの明確な思想となっていたり、時代の論争の的になるほど、十分に浸透しているかぎり、ある程度の力を持つスポークスマンがいる」と。それを担うのが「はしくれ」であれ「自称」ではあれ、その「知識人」です。

「これらのスポークスマンは、概して無学でもなければ無教養でもない。むしろ知識人のはしくれ、自称知識人、仲間から除名された知識人、認められない知識人などである。読み書きのできない人びとを指導し、自分たちが注目する世界の問題について、真剣かつ高邁な目的意識をもっている。私が知っている反知性主義の指導者はつぎのような人びとがいる。福音主義の聖職者ーーその多くは高い知性をもち、なかには学者もいた。きわめて洞察力に富んだ人物をふくむ政治家。実業家や、アメリカ文化の日常的な要請についてのスポークスマン。知的な主張と確信にみちた右翼の編集者。さまざまな作家のはしくれ(ビート族の反知性主義をみよ)。反共主義の識者ーー知識人社会の大部分がいだいていた過去の異端思想に怒っている。そして共産主義の指導者もいた。彼らは知識人を利用できるときだけ利用するが、知識人の関心事はことさら軽蔑している」p19 ーーホーフスタッター『アメリカの反知性主義』 ※太字強調ブログ記者

この「スポークスマン」は確かに「はしくれ」であっても教養があり知的でさえあり、反権威・反体制・反エスタブリッシュメントたるアウトサイダー型「知識人」とも取れます。ホフスタッターは福音主義者もビートニクも明確に「反知性主義」とラベルしますが、この理屈であれば、この前章で「反合理主義者は反知性主義ではない」とホフスタッター自身が慎重に取り分けたメンバーすらカウントしたくなる。さらに「ひたむきな知的情熱に欠ける反知識人もほとんどいない」のだとなれば、エマソンもソローも森本氏の言うように典型の「反知性主義者」ではないのか?とも錯覚させます。しかし、

これらの人びとにきわめて顕著な敵意は、もろもろ思想自体にも知識人自体にも向けられてはいない。反知性主義のスポークスマンはほとんどつねに、なんらかの思想に傾倒しており、同時代のなかで陽があたっている知識人を憎むのと同じくらい、とうの昔に死んだ知識人にーアダム・スミスや、トマス・アクィナス、ジャン・カルヴァン、さらにカール・マルクスにさえーー傾倒しているのである。」p19 
ーーホーフスタッター『アメリカの反知性主義』 ※太字強調ブログ記者

ここで明確に僕等が受け取らないといけないのが、「陳腐な思想や認知されない思想にとり憑かれている」「なんらかの思想に傾倒しており、同時代のなかで陽があたっている知識人を憎むのと同じくらい、とうの昔に死んだ知識人に傾倒している」という硬直的なまでの狂信性(ファナティズム)の部分です。

ホフスタッターにとって「知性」とはなにか

これに対して、第二章「知性の不人気」における「知性」と「知能」の相違としてひとつ「ホフスタッターにとって知性とはなにか」の明確な解答が出てきます。以下はこの著作の中で最も美しく、かつどこか苦渋に満ちた(と個人的には思える)文章です。

知性は頭脳の批判的、創造的、思索的側面といえる。知能がものごとを把握し、処理し、再秩序化し、適応するのに対して、知性は吟味し、熟考し、疑い、理論化し、批判し、想像する。知能はひとつの状況のなかで直接的な意味を把握し、評価する。知性は評価を評価し、さまざまな状況の意味を包括したかたちで探し求める。知能は諸動物のひとつの特質として評価される。それに対し、人間の尊厳を唯一表すものである知性は、人間の特質のひとつとして高く評価される一方、非難もされる。」p21-22
ーーホーフスタッター『アメリカの反知性主義』 ※太字強調ブログ記者

この「吟味し、熟考し、疑い、理論化し、批判し、想像」し、「評価を評価し、さまざまな状況の意味を包括したかたちで探し求める」「知性」。それは「高く評価される一方、非難もされる」。それではない「知能」というものをフルに活かしている専門家(プロフェッショナル)に対して、それが仮に高度な能力であり世間から賞賛される技能であっても「外から決められた目的の追求に頭脳を役立てる」という意味でにおいて「唯ひとつの思想に取り憑かれて生きる熱狂者」と同一である述べます。

「家庭に帰れば、たまたま知識人であることもあろうが、職場では外から決められた目的の追求に頭脳を役立てる、雇われ知的技術者である。この要素こそーーすなわち、目的は知的なプロセス自体と無関係に、外から決められたなんらかの関心や見解にもとづいて設定されるという事実こそーー唯ひとつの思想に取り憑かれて生きる熱狂者と、頭脳を自由な思索にではなく、職業上の目的のためにもちいる頭脳技術者に共通する特徴といえる。ここでいう目的は外から決められたものあり、自ら決定したものではない」p23ー24
ーーホーフスタッター『アメリカの反知性主義』※太字強調ブログ記者

その「唯ひとつの思想に取り憑かれて生きる熱狂者」または一言で「狂信者」に関して、また別の箇所で、ホフスタッターは、精神が「特殊で狭い単一の知識に過剰にコミット」すると「知性の機能が損なわれる」と述べます。さらに

「知識に対する関心がいかに献身的で真摯であろうと、知識人がまったく限られた先入観や、完全に外的な目的に奉仕するだけになれば、知性は狂信(ファナティズム)に吞みこまれる」p26
ーーホーフスタッター『アメリカの反知性主義』 ※太字強調ブログ記者

ホフスタッターはここの第二章で執拗に定義する「知性」とは、「知識に自立的コミット」し「自発的な性格をもち、内から決断するもの」です。それゆえに知識人が「外から」の信仰やイデオロギーに熱狂し「知性」が損なわれ転落していく先に、かの「反知性主義のスポークスマン」があるとホフスタッターは捉えています。ですから、「反知性主義者のスポークスマン=バカ」では必ずしもありませんが、「反知性主義者のスポークスマン=狂信者としての『知性』の機能不全者」(「バカ」の丁寧な言い換えのようですが)です。

(余談ですが、この部分は実に變電社的興味範疇である日本の1930年代知識人論、またその核心たる所謂「転向論」としても非常に示唆に富むものになります。取り上げる人物・事象で様々な日本の近代との類似性が読み取れるのが、この著作ですがこの類似点に関しては後日時間があった時に)

ホフスタッターにおける「知性」の条件

しかし、一つ重要なポイントとして、この「熱狂」も知識人としての「欠陥」にすぎず、仮に「狂信」まで度が過ぎていようとも、元来「知識人の信仰」であることは変わりありません。

「それは思考に従事する仕事であり、おそらく真理に仕える仕事である。知的生活は、ここである種の基本的な道徳性を帯びてくる。私が知識人の信仰と呼ぶのは、知識人はアンガジュマン、すなわち誓約し、責任を引き受け、参加する。他のだれもがすすんで認めようとすること、つまり知識や抽象概念は人間生活の命題であるということ、知識人は至上命令のように感じる」p15。
ーーホーフスタッター『アメリカの反知性主義』 ※太字強調ブログ記者

さらには

「知識人の使命感の背後には、合理性にのっとって行動する彼の能力、正義への秩序を求める彼の情熱に、世界がある程度共鳴すべきだという信念がある。この確信から、人類に対する知識人の価値の多くが生まれ、同時に過ちも犯しやすくなる」p16
ーーホーフスタッター『アメリカの反知性主義』 ※太字強調ブログ記者

その過ちの一つである「熱狂」から「狂信」の果てに「反知性主義のスポークスマン」という陥穽へと転落する。それを回避するためのセイフティネットの「知性」として、もうひとつの重要な条件としてホフスタッターは「遊び心」を説きます。

「確かに知識人は精神の遊びを遊びとして楽しみ、そこに人生の主要な価値を見出す。ここで思いいたるのは、知的活動で味わう大きな悦びの要素である。こうした観点に立てば、知性は健全な動物の精神と考えることもできる。精神エネルギーの余剰分が、功利やたんなる生存のための仕事から解放されたときに、それははたらきだす。「人は遊んでいるときにはじめて完全な人間となる」とシラーは言った。こういう格言が生まれるのは、生存に必要なものを超越した余剰が、人にとっては大切だという認識があったからである」p26
ーーホーフスタッター『アメリカの反知性主義』 ※太字強調ブログ記者

「精神の遊び」が捉えるものは何でしょうか。それは先にも引用している知性とは「自発的な性格をもち、内から決断するもの」でありながら、さらに「人は遊んでいるときにはじめて完全な人間となる」とシラーの言葉に託している高次の「余剰」、なんら外からも強迫されず、何を目的するのではなく、誰のためですらなく、自立自足で汲み上げられていく、かけがえのない再帰的な愉楽を差しています。そしてそれは「実用性」という尺度では測ることはできません

「アメリカでは公共の議論で知性が論じられるとき、つねに検証されるのが、この実用性という基準である。しかし原則的には、知性は実用的でもなく、非実用的でもなく、いわば超実用的である。信仰に酔った熱狂者や、市場価値のある知的技能にのみ関心をもつ知識の職人にとっては、知識の出発点も到達点も、知的過程の外にある到達目標からみて役に立つかどうかで決まる。知識人はこうした到達目標にはまず関心がない。とはいっても、知識人が実際的なものを輕蔑しているという意味ではない。多くの実際的な問題に内在する知的興味には、じつに心を奪うものがある。また、知識人が非実用的だというのは、なおさら不適当である。ただ別のもの、つまり、実用的目的の有無だけでは割り切れない問題に知識人は関心をもっているのである」p27
ーーホーフスタッター『アメリカの反知性主義』 ※太字強調ブログ記者

第四部「実用的な文化」の各章で、このアメリカにおける「実利・実用性」の猛威が語られていますが、その実業界・ビジネス方面から要請される科学技術・実利・実用性第一主義からの「知性」への侮蔑は「反知性主義」の一つの典型です。そしてそこにおいて、「反実利・反実用」としてソローの「知性」が取り上げられます。ゆえに先ほどいったようにソローはホフスタッターにとって「反知性主義者」ではありません。

しかしその「超実用」たる「遊び心」も過度であれば、「熱狂」と同じく知性的ではない生き方に陥ります。それはあくまで先の「狂信」へと到る危険を伴う「知的生活への信仰」とのバランスが必要です。

「思想家の柔軟性は、これら二側面のあいだに平衡をたもつ能力によって測ることができよう。一方が片寄れば遊び心がゆき過ぎになるーーささいなことにこだわり、知的エネルギーをたんなるテクニックとして無駄使いし、ディレッタンティズムに陥り、創造へ向かう努力を無に帰すことになろう。逆に方向に片寄れば信仰がゆき過ぎになり、強直、狂信、絶対的信念(メシアニズム)へと走り、道徳的に卑しいか尊大かはともあれ知性的はない生き方をするようになる」p29
ーーホーフスタッター『アメリカの反知性主義』 ※太字強調ブログ記者

上記のそれぞれの傾向に陥ってしまった作家らは日本近代文学史上でも様々に上げられそうな気がいたしますが、そのバランスを維持できた結果、知識人は「特有の落ち着き」が得られる。それこそがジョン・ロックが言うところの「悟性」であると説きます。

「人間が他の感覚を備えた生きものと区別され、あらゆる優越性と支配力を与えられ、万物の霊長でいられるのは悟性があるからである

「知性」と「知識人」と「反知性」

ここで「知性」の在り方、その在り処たる「知識人」のホフスタッターの定義が明らかになったかと思います。また「知識人」のうち「知性」の在り方が損なわれ転落した「反知性主義のスポークスマン」は、単純にイコール「反権威・反体制・反エスタブリッシュメント型知識人」ではないことも明確になりました。ホフスタッターにおいて懸命に守らねばならないのはその「知性」の在り方であって、その振る舞いが「反権威・反体制・反エスタブリッシュメント」になろうとも「知性」さえ明確に機能していれば彼らは「反知性主義」ではありません。最終章でもアメリカで特徴的な「疎外された知識人」は「反知性主義」であるとは描かれていません。

ゆえに「反知性主義」に「積極的な意味」はホフスタッターにおいては存在しない。このことも明かになったかと思います。

その意味で彼の警戒するものが「反知性主義」と「大義名分」との結びつきです。

反知性主義がわれわれの文明のなかに広まっているとすればーー私はそう信じているーー原因はそれが良き大義名分と、少なくとも弁護しうる大義名分としばしば結びついていたためである。反知性主義がわれわれの思考方法に強い影響をあたえたのは、多くの人間的で民主的な感情を人に植えつけた福音主義の信仰から力を得たからである。反知性主義が政治の世界に入りこんできたのは、平等を求めるわれわれの情熱と結びついたからである。反知性主義が教育の分野で手強い存在となったの理由のひとつは、われわれの教育上の信条が福音主義にもとづく平等思想だったためである。反知性主義は善意の衝動に寄生して生きているのだから、われわれは知性による手術ともいうべき不断かつ繊細な方法によって、可能なかぎり両者を切り離し、しかもこの手術で善意の衝動を傷つけないようにしなければならない。」p20 
ーーホーフスタッター『アメリカの反知性主義』

もし仮にホフスタッターがここで「反知性主義は善意の衝動とともに生きている」という表現を使ったのであれば「積極的な意味」が生まれたのかもしれません

「反知性主義は善意の衝動に寄生して生きているのだから、われわれは知性による手術ともいうべき不断かつ繊細な方法によって、可能なかぎり両者を切り離し、しかもこの手術で善意の衝動を傷つけないようにしなければならない。」

ホフスタッターは「反知性主義」と「善意」も明確に区別しています。そして「善意の衝動」を傷つけないように「反知性主義」という悪性腫瘍を切り離す手術の執刀者が「知性」である、と。この「悪性腫瘍」に「積極的な価値」があると観るのは患者本人の勝手ではありますが、快癒の見込みのない民間療法を頑なに信じ続ける振る舞いに近いものですね。すなわちその態度こそホフスタッターにおける「反知性主義」です。

とりあえずの結論として「ホフスタッターの反知性主義論」とは

ホフスタッターの捉える「反知性主義」は、もちろん「反知識人」として、また「反権威・反体制・反エスタブリッシュメント」として相貌を持ち、それが以後の章で様々な具体的事例をもとに詳らかにされていきます。その側面がないのだとはさらさら思いません。が、その本質はこの第二章「知性の不人気」でホフスタッターの言うところの、「超実用的」たる「知性」の「生き方の価値を極小化」していこうとする「広範囲にみられる社会的態度、政治的行動、そして教養が並程度か低い人びと」の態度です。

それは民衆からボトムアップ式に「反権威・反体制・反エスタブリッシュメント」として沸き上がってきた肯定的な側面を持つ民衆思想というよりは、その捨て去ったヨーロッパ旧世界的価値への「拭いがたき偏見」としての「知性」への反発と敵視、ビジネス的価値がもたらす実利実用第一主義から「非実用の役立たず」としての「知性」への軽視・侮蔑があり、それを「反知性主義のスポークスマン」=「変質した知識人」が扇動し、民衆が常にもつ「平等主義」と「民主主義」の希求の上に接合されてきたのだ、という見立てこそが、ホフスタッターの捉える「アメリカの反知性主義」史です。

そしてその民衆からの敵意と実業界からの侮蔑の両面から押し出されるように「疎外」され、その「誰からも相手にされなかった」という「疎外」の事実を、一つの「知識人の条件」として考えるまでに到らなくてはならなかった、という見立てがホフスタッターの考える「アメリカの知識人」史です。

その「反知性主義」の地下水脈から突如「Red Scare=赤の恐怖」の形象とし吹き上がったのが「赤狩り」のマッカーシズムであり、その猛威を戦後1950年代に目の当たりした「知識人」たるホフスタッターの苦悩と諦観と嫌悪が論調の節々の文章で理解できるのも本著です。

それゆえに、おそらくホフスタッターが最も嫌悪した行為が「彼は『反知性主義』だ」というラベリング(レッテル貼り)であろうことも分かります。慎重に慎重を期して先のエマソン、ソローから、メルヴィル、トウェイン、そしてデューイなどなど、米思想、米文学史上の様々な作家たちを取り扱っています(同時代ゆえなのかビートだけ一貫して貶していますが)。それは第五部「民主主義の国の教育」においてそのデューイの「反知性主義」ラベルを丁寧に剥がして救出した作業に近似です。

よって、その思想家・作家の発言・著述から、ある「反知性主義」的思弁を引用してきて、容易に「彼は『反知性主義』である」とラベリング出来てしまう限りにおいて、その「反知性主義」論は明確にホフスタッターとは違うことも明言しておきます。

「反知性主義」というラベルについて

さて、ホフスタッター『アメリカの反知性主義』頭二章分の頁数にしてたかだか50頁足らずの中から大量に引用したせいで、クソ長い記事になりましたが、この記事を読んだ人は「だったら『アメリカの反知性主義』そのものを読んだ方が速いのではないか?」と錯覚に陥っているかと思いますが。大丈夫です。錯覚ではありません。

けして難解な本ではありませんので、是非お手に取ってみてください。「反知性主義」論に関する限り、再三申しているように、この本のみを聖典化するつもりはありませんが、山形氏また冷泉氏がいみじくも指摘しているように「反知性主義」論としてではなく「知性」と「知識人」論として、逆に今の時代のニッポンに適うものであろうと思います。また一つの思想に傾倒し狂信(ファナティズム)に吞みこまれ「知性」の機能が損なわれてしまったかのような事件で世界は満ちています。原著は1963年と半世紀以上も前の古典ですが、アメリカ精神史を伝える以上に、今の日本ならびに世界における「知性」の在り方をも問いかける名著かと思います。既読者の方も「反知性主義」にやもすれば積極的な意味だけ見出しかねない論調で事足れりとせず、この本を今一度吟味・熟読していただければと思います。

なお、この記事の頭で書いた現在の日本の反知性主義論が「お前らバーカ」派と「バーカて言ってるお前らバーカ」派の議論となってしまっている現状を失礼な物言いで憂いましたが、よくよく読むと、それも全部ホフスタッター『アメリカの反知性主義』第一章で既に予言されていたようです。

「だれも、自分が思想や文化に反対しているとは言わない。朝起きて鏡の自分に向かい「さあ、今日は、知識人を拷問にかけ、理念をしめ殺してやろう」などと、誰も言ったりはしないものだ、ごくたまに、人を極度に疑ったときにだけ、われわれはその人を本質的に反知性的と決めつけるのだ。とにかく、このように個々人を類別するーーあるいは汚名を着せるーー企ては、ほとんど価値がなく、もちろん私の関心外のことでもある。重要なのは特定の心的姿勢、運動、理念の歴史的傾向を測ることである。こちらの点にかんして一部の人たちは、こちら側、時にあちら側にいるようにみえる。実際、反知性主義は正反対の対立する諸勢力にみられる特徴である」p20 
ーーホーフスタッター『アメリカの反知性主義』※太字強調ブログ主

注記:

上記に「ホフスタッターの反知性主義論」解釈関しては全て『アメリカの反知性主義』を「読んでみたらどうもこう読めた」という個人的見解であり、とくにアカデミックな背景があるものでありませんし、二度も読んでみたら全てが明快に理解できた!などとおおそれたことを述べるつもりは一切ありません。かなりの確度で誤読・曲解・言いがかりも多分にあるかと思われます。その際は明確に謝罪しつつ、三回読んでみる方向で検討したいと思います。

追伸:

今回この頭二章しか論じない長い記事でさらにその後も精読を続けて、号外記事化していくかは誠に迷うことですが、変電社の本来の活動として一つテーマにして取り扱たい「『類似インテリ』の氾濫」(中央公論1937年3月)と絡めて諸々記事として取り上げて参る所存です。そろそろ變電活動始動させます。

【20世紀跨ぎ生まれ世代の兄達1894ー5】二人の「江戸川亂歩」と井東憲『贋造の街』ならびにカフェ「變態光波」開店宣言【都市と變態】

さて今年はもう少し更新頻度上げようと思いつつ腰が常に重い社主ロートル持田でありますが、何も飲んだくれているだけではないのですよ!といきなりボールドで言い訳から始めましたが、變電叢書『野川隆著作集1』のストア配信は今少しお待ちくださいませ!また野川隆中期作品編纂を進めるために諸々図書館詣での日々でありますが、結局諸々脇道寄道に流れてしまう性分でありまして、その代わりと言っちゃなんですが、他の變電叢書候補として活きのいい新人(なんか矛盾的表現)を掘り出してきたので今回「變電叢書」続編を紹介したいと思います。

「變電叢書」第六篇「野川孟著作集」

第一篇 野川隆著作集1 前期詩篇・評論・エッセイ 2015年1月予定
第二篇 野川隆著作集2 中期詩篇・評論・エッセイ 2015年2月予定
第三篇 野川隆著作集3 後期詩篇・小説・評論・エッセイ 2015年3年予定
第四篇 橘不二雄『腕の欠伸』(未定)
第五篇 井東憲詩集(確定)
第六篇 野川孟著作集(未定)
 

第六篇は野川孟、これは既に過去で何遍も触れているように野川隆の兄です。六つ上なので明治28(1895)年生まれ。奇しくも平井太郎(明治27(1894)年10月21日)と一個違いの同世代です。平井太郎とは言わずもがなで江戸川乱歩ですが(来年彼もパブリックドメインになりますので彼の初期短篇は諸々準備進めておきたいところですが)野川孟も既に過去何遍も触れているように初代「江戸川亂歩」です。この点をネットで調べるとミステリ関係者が諸々調べていて、

 辻村義介 はいわゆる「もう一人の江戸川乱歩」である。乱歩が「二銭銅貨」でデビューしたのは1923年だが、その前年、雑誌『エポック』1922年11月号(通巻第二号)の巻頭に「江戸川乱歩」という筆名の人物の「アインシュタインの頌」という詩が掲載されている。この詩の作者が辻村義介という人物だとかつて推定されていた。なおノンフィクションライターの佐藤清彦氏の調査では、辻村義介は当時仲間内から「江戸川乱歩」というあだ名で呼ばれていたが、「アインシュタインの頌」の作者は辻村義介ではなく雑誌『エポック』の編集者であった野川孟およびその弟の野川隆だと推定されるという。

となっていますが、野川隆ではなく兄の孟の方であり、また推定ではなく事実です。稲垣足穂も『「GGPG」の思い出』で証言しているように「亂歩」一番乗りは野川孟です

野川の兄は新聞記者で江戸川乱歩を名乗っていた。ちょうど推理作家平井太郎の売出し中だったから江戸川乱歩は天下に二人いたわけだが、野川は「おれの兄の方が本物である」と云っていた。しかしその時その兄はハルピン方面に去っていた。

稲垣足穂『「GGPG」の思い出』「稲垣足穂全集 第11巻 菟東雑記」2001年8月 筑摩書房

ちなみに「ハルピン」は多分足穂の思い違いでこの頃は朝鮮の北鮮日報記者となって半島に渡っています。そのまま敗戦まで朝鮮半島に居を構えていますが、こちらは『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二巻第三集の編集後記でも「野川孟に手紙を出し度い人は左記へ 朝鮮 清津府敷島町 北鮮日報社内」との記載があります。

朝鮮に渡った段階で創作から手を引いた(バスから降りた)ようでその後の足跡が諸々調べていても不明だったのですが、まさかのネットで発見しました!有難いことに林哲夫氏のブログ(daily-sumus2「脈80号 特集 作家・川崎彰彦」)記事で戦後の足跡が書かれていました(感謝!)。それによると野川孟は戦時は何とか生き延びたようで、終戦後愛知県八日市市滋賀県八日市町(現東近江市) (※1月28日修正 FBページからご指摘いただきました!ありがとうございます!)に引き揚げています。当地で京都新聞支局長等を勤めたようで、そのご子息は野川洸という名の詩人作家であり、川崎彰彦五木寛之と早稲田一文同窓で五木寛之の先のWikipediaでもこんな記載があります。

「こがね虫たちの夜」(1969年)は学生時代の、同学の友人高杉晋吾、三木卓、川崎彰彦、野川洸らとの生活をモデルにしたもの

ただし、ここまで、調べがついているのですが、未だ野川孟の没年月日が不明です。そのためにパブリックドメインとして變電叢書化できるかがまだ不明で現在誠意調査中です。この野川孟は思春期の隆に絶大な文化的影響を与えた隆の「師」と呼んでもいい人物であり『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』起稿作品も非常に優れており実は野川隆なんかより上手なんではないかとさえ思えています。当時の欧州新興美術の博識をベースにした評論他、気品ある都会的な詩や小説、またたとえば以下の学術参考として画像参照してしまいますが、

野川孟「銀座街頭の夜」『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第二集収録

野川孟「銀座街頭の夜」『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』第二年第二集収録、大正14(1925)年2月

のような弟顔負けの実験詩(孟の若い頃に(「May’13th 22」の記載あり)手慰みで書いたか?)残している他、僕がとくに気に入ったのは『リンジヤ・ロックの生理水』なる小品で、これは誠に都市の夢幻たるリリシズム溢れるSF風(?)作で、これは隆だけでなく野川家は孟も何とか復刊(というかやはり初編纂)したい!一応様々なルートと使って探査中ですが第四篇予定の橘不二雄とは違い、人生行路の痕跡は戦後でもいくつか残っているので何とか判明するかとおもいますので乞うご期待!当然「亂歩」時代からまとめる予定ですよ!

「變電叢書」第五篇「井東憲詩集」

でもう一人これは完全にパブリックドメインであることが判明していいるので復刊させます。野川孟と同年の明治28(1895)年8月27日生まれの詩人です、以下が都立広尾図書館で全頁プリントアウトしてきた詩集表紙ですが

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Oh..表紙名前隠れてしまっていますので中表紙のこちら
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この中表紙の何がいいって「帝国図書館」の角印と丸印で、丸印の方には「帝圖(図の旧字)」と「昭和二・四・七」と見えます。昭和2年3月20日印刷と奥付で見えますから、刷り上がってすぐ内務省検閲に持ち込んだんすかねえ。

さてその名は井東憲。本名伊藤憲。この作家が誠に破天荒な生き様で、東京神楽坂生まれ静岡育ち、17歳(明治44(1911)年)で家出して旅芸人にまざって放浪し19歳まで浅草を遊蕩、結果性病に罹って一念発起し政治家目指して21歳(大正5(1916)年)で明治大学法学科に進学。そこで文學にこじれ古今東西の文學作品を読み漁り、22歳(大正6(1917)年)で大杉栄と出会いアナキズム研究へ、26歳(大正10(1921)年)で『変態心理』(!)の記者となり、『勞働運動』で詩人デビュー。31歳(大正15/昭和元(1926)年)静岡で一度目の結婚したものの東京では詩人英美子と不倫、その間かの梅原北明と『變態十二史シリーズ』に参加し『變態人情史』『變態作家史』(ともにNDLデジコレインターネット公開中)を発し(なお『變態十二史シリーズ』第二巻はマヴォ村山知義『變態藝術史』)、32歳(昭和2(1927)年)に上海渡航、同年英美子との子が生まれ、その子が実は戦後日本人ギタリストとして初めてカーネギーホールに立った世界的ギタリスト中林淳眞であることなど知る由もなく、翌昭和3(1928)年に井東憲は英美子との関係を清算。全日本無產者藝術同盟(ナップ)加盟、34歳で静岡の本妻とも離婚、上海渡航しのちの上海中国ものの嚆矢となる『上海夜話』発行、その後詩小説ルポタージュ翻訳と様々な作品を矢継ぎ早に世に出し、銀座の新興中華研究所所長を勤め、48歳、昭和20(1945)年6月20日。静岡空襲で焼夷弾被弾。8月5日に終戦間際に死去。(上記略歴『井東憲:人と作品』井東憲研究会編参照)

「兄」の世代(1894ー95)

『20世紀跨ぎ生まれ世代』の兄である井東憲と野川孟のまた「二代目」江戸川亂歩たる平井太郎(明治27(1894)年10月21日)この他もざっと眺めて観たところやはり大変面白い。まずは詩人でピックアップしておくと金子光晴(明治28(1895)年12月25日)、西脇順三郎(明治27(1894)年1月20日)、まあここら辺はWikipedeiaの年号調査で出てきますが、あれ?もしかしてさては?と個別に調べたところ、「日本未來派宣言」の平戸廉吉(明治27(1894)年12月9日)、またかの「エロエロ草紙」酒井潔(明治28(1895)年)らも同世代です。驚きました。(また「マッサン」竹鶴政孝も、明治27(1894)年6月20日生まれだったので驚きました。)

しかし、これはさては長らく僕が知りたいと求めていた「震源地」は兄達の方か?この野川隆・村山知義・小林秀雄らの理智的な優等生らしさとも違う、もっと野蛮であり所謂エログロナンセンスのデロリとした「狂味」。と同時に以前、変電社最初期幻(?)の「変電社日記」レビュー「2012-12-31『日本歓楽郷案内』酒井潔」にて書いた「あの歓楽街あの歓楽街と遊歩する酒井の影を追いながら馥郁たる夜の都市を徘徊している」ような「気分」。(なおこの酒井潔『日本歓楽郷案内』は彩流社で完全復刻さらには中公文庫で復刊されると快挙がありましたよ!)

川上澄生と古賀春江

さらに同世代を調べていたら、ドンぴしゃりでこの空気を象徴する画家が二人も突き止めました。ああそうかこことも同世代だったのか!と感慨ひとしおで、個人的に大好物な二人ですが、川上澄生(明治28(1895)年4月10日)と古賀春江:(明治28(1895)年6月18日)。
この二人の同時代の絵を紹介したいわけですが、川上澄生の方は 昭和47(1972)年9月1日までご存命であったために、まだパブリックドメインではないので転載はしないでおきますが、どうぞググってみてくださいませ。

川上澄生『銀座「新東京百景」』昭和4(1929) 年作 東京都現代美術館所蔵

ああ!なんと都市の華やいでいることよ!名曲シュガーベイブ「DOWN TOWN」のイントロが聞こえてきそうだ!
美しいピンク&ブルーに染まるトワイライトの銀座に深く酩酊しながら徘徊したい気分にさせます。こちら所謂創作版画黎明期の名作です。(版画で言えば今度小泉癸巳男も紹介したいところですが、ああやはり明治26(1893)年6月生まれですから彼も同時代の空気を刷ったわけか。)

そしてもう一枚紹介したいのが古賀春江。古賀春江はパブリックドメインなのでそのまま貼りますが、

古賀春江『窓外の化粧』昭和5(1930) 年作 神奈川県立近代美術館所蔵

古賀春江『窓外の化粧』昭和5(1930) 年作 神奈川県立近代美術館所蔵

かの川端康成「末期の眼」(『一草一花 (講談社文芸文庫)』収録)にて「カメレオン」と称された前衛画家です。そのシュールレアリスム期のちょっとクレイジーな(この絵を見る度に「春の陽気で変になった人」を僕は思い浮かべる)高速度回転の躁期の中で冷たい汗を流し続けているような不吉な陽気さとでも言いましょうか。実際に古賀は神経梅毒による進行麻痺が発症する直前期の何か病的な霊感の中で一気呵成に描いていたシュールレアリスム風(実際はキリコ的「形而上絵画」に近いと云われていますが)絵画です。 この3年後の昭和8(1933)年9月10日)に亡くなってますが、その壮絶な最期を晩年親交があった川端康成が先の「末期の眼」で描いています。

この画風も全く違う絵画の上に描かれた美しくて何処か分裂病質な「都市」を思い浮かべていただければ、その「イカレた」井東憲の風味が存分に解るであろうということでお待たせしましたでんでんコンバーターbib/iによる井東憲の詩の紹介します。こちらは「井東憲詩集」にも収録されていますが、野川隆中期調査の中で『日本詩人』という詩誌調査中にたまたま発見した初出の方をオーサリングしました。原文は変わらないながらルビ点の相違がいくつかあります。

井東憲『贋造の街』大正14(1925)年4月10日

井東憲『贋造の街』

いいですねえ。不吉で飄逸。この中で

あの幻想狂の、意識的構成派の畫家は、私のことを……もつとも、そのかけてゐたセルロイドの眼鏡は、ほんの間に合わせに、夜店で買つたものだが……女に捨てられた怜悧な蜻蛉にたとへた。

「意識的構成派の畫家」とは間違いなく村山知義のことですね。本当に皆が近くに居たのだと。もう一丁は『井東憲詩集』から短いものを。

井東憲『變態光波』昭和2(1927)年3月20日

井東憲『變態光波』

おし決めた。将来變電社カフェ「變態光波」を開こう。(變電社第8宣言)。なお井東憲他作品はこちらでもいくつか紹介されていますので是非ご参照ください。しかし、古賀春江も画論や随筆の他「詩」を多く残しており、これ次回、平戸廉吉と古賀春江で變電叢書七・八篇とするのもありやも。

變電社社主 持田泰

不二出版「G・G・P・G」2007年復刻版購入により忘年会何個かキャンセル予定です

【ボンソアール!】稲垣足穂「とよく似た」野川隆の発射台【初期作品『しがあ一本』『靑黑いガス體』『黃色い詩』『無敵艦隊』公開】

社主代理持田です。予告通り通り久しぶり野川隆で「でんでんコンバーター×BiB/i」公開ですが、尖っていたころの前衛期野川の「G・G・P・G」創刊号「ノガワ・リュウ」時代の小品と前回紹介した村山知義の「マヴォ」に寄稿した詩をさっと紹介してまいります。

初期野川隆「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」「マヴォ」収録作品公開

さて今回の野川隆はあの「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」(=「G・G・P・G」)大正13(1924年)6月~大正15(1926)年1月頃の詩の公開です。こちらの詩誌「G・G・P・G」は2007年に不二出版にて全巻復刊されており、その時代の貴重な詩片を現代でも拝むことができるようになりました。都内公立図書館だと都立広尾図書館のみでしか蔵書なくチマチマ複写していたのですが、今回とうとう手に入れてしまった復刻版「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」32,400円税込也でございます。

不二出版「G・G・P・G」2007年復刻版購入により忘年会何個かキャンセル予定です

不二出版「G・G・P・G」2007年復刻版

ようやくこの野川隆という詩人の初期作品風貌だけでなくこの「G・G・P・G」全貌が知れました。いやあ尖ってますねえ。内外の芸術実験言語実験を貪欲旺盛に換骨奪胎せん勢いの当時20代前半の利発で都市的な不良青年らのヤングポエットぶりが炸裂しております。まずその記念すべき「G・G・P・G」初号が出るまでの経緯ですが、この彼の誕生から詩人としての登場までをざっと辿ります。なお以下履歴概略は西田勝著『近代日本の戦争と文学』「近代日本と戦争と文学」Ⅳ章『「満洲事変」から日本敗戦まで」の「7.中国農民に殉じた詩人野川隆」を参考にしております。野川の足跡をしっかりと追われており非常に参考になりました。

野川隆初期履歴

野川隆は森鴎外と東大同期で千葉大学医学部の前身にあたる第一高等学校医学部の教授であった野川二郎の九男として1901年4月23日千葉生まれます。生後8ヶ月で父が医院を開業するために一家とともに出身地であった岐阜に移ったことから、19歳で大垣中学(旧制)卒業するまで岐阜で育ちますが、14歳で父二郎が病没。軍医であった長兄弘が医院を継いだものの再建難しく、その借財を返すために長兄弘は「渡満」して中華民国間島省延吉県で野川医院を開業しており、隆も中学卒業後に一時長兄の元に母とともに身を寄せてます(なので彼にとって昭和13(1938)年の「渡満」は二度目であり、また親族の住む「大陸」であったということになります)。

翌大正10(1921)年に20歳の野川隆は上京。先の東洋大学に入学しますが1年足らずで退学。同じ頃「赤と黒」同人であり戦後も活躍した小野十三郎も同年1921年に上京し、東洋大学入学するも、わずか8ヵ月ほどで退学。同じく「赤と黒」同人であり東洋大学中退者と南天堂常連の岡本潤が詩作を始めていますが、野川隆も五兄の圭の紹介で就職した横浜税関に勤務しながら、七兄孟ら玉村善之助が創刊した海外新興藝術動向を紹介する「エポック」に『數學者の饗宴』(【大復活祭!電誌「トルタル」5号発刊記念】「野川隆の放物線Ⅱ」詩編『數學者の饗宴』『哈爾浜風物詩』他【続きはトルタルで!】にて紹介済)などを寄稿しはじめています。

その「エポック」は第6号(野川隆が訳したマックス・ウエバア訳詩集「立體詩三十八編」で一冊まるまる当てた号)を最後に途絶え、その復刊までの繋ぎとして野川隆が責任編集者として「G・G・P・G」初号が「非賣品」として世に出ます。その編集後記から。

ノガワ・リュウ『「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」第一年第一集編集後記』大正13(1924)年6月13日

『「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」第一年第一集編集後記)』

実は初号のみ野川隆は「ノガワ・リュウ」といカタカナネームで寄稿しています(※漢字の際の読みは「のがわたかし」)。そしてこの「都會の街々を動く、機械で出來た人間的な動物人形には、Gの發音の震動數と波形が氣に入つたのである」こそが「G」の産声が上がった瞬間であったわけですが、前回も軽く触れた稲垣足穂がむさぼるようの読んだのがこの大都会における雑音たる「G・G・P・G」です。以前も書きましたが高橋新吉、辻潤らの泥臭いダダよりも、都会的に洗練されたダダでありチューリッヒダダに近いと「G・G・P・G」を評した足穂ですが、さらにその時代を振り返った「GGPGの思い出」でこんなことを書いています。

野川兄弟は四谷の電車道にある細い横町を右へまがった所にある古い真四角な洋館で、そばにはキャベツ畠があり、従って彼ら兄弟はキャベツばかりをたべているとのことであった。この聞き伝えが根拠になって、私の「自分によく似た人」が出来たのである。この小話は『一千一秒物語』の中に収録されている。

稲垣足穂『「GGPG」の思い出』「稲垣足穂全集 第11巻 菟東雑記」2001年8月 筑摩書房

その「この小話は『一千一秒物語』の中に収録されている」は短いものなので全文引用させていただきますとこんな作品です。とても象徴的ですね。

自分とよく似た人
 星と三日月が糸でぶら下がっている晩、ポプラが両側にならんでいる細い道を行くと、その突きあたりに、自分と良く似た人が住んでいるという真四角な家があった。
 近づくと自分の家そっくりなので、どうもおかしいと思いながら戸口をあけて、かまわず二階へ登ってゆくと、椅子にもたれて、背をこちらに向けて本をよんでいる人があった。
「ボンソアール!」と大きな声で云うと向こうはおどろいて立ち上ってこちらを見た その人とは自分自身であった

稲垣足穂『一千一秒物語』新潮文庫 1969年12月

さて「ボンソアール!お前は俺か!」と足穂を叫ばめした野川隆その記念すべき「G・G・P・G」一作目が以下戯曲です。

ノガワ・リュウ『しがあ一本(一幕一場)』大正13(1924)年6月13日

『しがあ一本(一幕一場)』

上記「創作ばかり發表」宣言の初号においてノガワリュウ=野川隆作品はなんと戯曲から封切られたわけですが、最後「太陽はがらがらと割れて落ちる」あたりは足穂『一千一秒物語』でも星や月が「書割り」的オブジェクトとして描かれている様を彷彿とさせます。野川と足穂は途中歩む方向をそれぞれの道へと変えていくわけですが、数学や科学の知など野川隆からの影響である旨を足穂自身が明確に語っている事実は「諸君に銘記してもらいたい」by足穂。

なお本作は野川隆「G・G・P・G」掲載作品で最初の最後の戯曲となります。もっとも数年後大正終わって昭和2(1927)年に玉村善之助らと所謂「単位三科」の方の「劇場の三科」に参戦し「千万人のツアラトウストラ」という群衆劇を書いたようですが、その内容は不明です。この劇は1925年に開局されたばかりの大阪JOBKにおいてラジオドラマとしても放送されたといわれています。(五十殿利治『【改訂版】大正期新興美術運動の研究』(1998年スカイドア刊)「第十二章首都美術展から単位三科まで」上演」(P750参照)

この前衛劇をどこぞこかの劇団で上演される場合はわたくし胸熱で馳せ参じます(ご連絡お待ちしております!)つづいて2作の小品、これは並んで掲載された作品です。「青」と「黄」で並べるのはやはり作品内でも触れられるゴッホ的なるものへのオマージュかもしれません。

ノガワ・リュウ『靑黑いガス體』大正13(1924)年6月13日

『靑黑いガス體』

ノガワ・リュウ『黃色い詩』大正13(1924)年6月13日

『黃色い詩』

なお『黃色い詩』で触れられる以下

「君はHans Prinzhorn氏の”Bildnerei Der Geisteskranken”と云ふ本を讀んだかね。あれはいい本だ。一度眼を通して置き給へ。」

ノガワ・リュウ『黃色い詩』大正13(1924)年6月13日

これがなんと!ドイツ・ハイデルベルク大学のデジタルアーカイブでHans Prinzhorn”Bildnerei Der Geisteskranken“ちゃんと閲覧できるんですよ!こういうことがなにはともあれ「電子書籍」たるものの未来を繋ぐように思えてなりません。そしてハイデルベルグ大学のビューワとても使い勝手よくて泣けます。

つづいて少し「G・G・P・G」を離れて「マヴォ」に一度だけ参戦した際の野川隆の詩を紹介します。

野川隆『無敵艦隊』大正14(1925)年8月24日

『無敵艦隊』

やはーかっこいい詩を刻んできましたねえ「詩——あれはカミクズのことである」と来ますからねえ。また冒頭章の都会的なべらんめえ調で啖呵切っていくあたりが非常にクールじゃないですか。またも戦後POPSに照らし合わせてしまう私の悪い癖を発揮すると、Lou Reed- Walk on the Wild Sideが何か聞こえてきてしまいます。

ちなみに途中でフォントサイズ変えているのは「マヴォ」当該号にもそのように冒頭章と尻章以外は小さいフォントサイズ変わって掲載されていたので、それに倣いましたが、なんかここからギャンギャンとギター掻き鳴らしていそうにも思えますからパンクですねえしかもアートシーンに近場のNYパンクですねえ。しかもこちら初の「マヴォ」寄稿作品であり、その内に「G・G・P・G=ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」の異同たる「ゲエ・プリリリリリ・ギガム・プル・ゲム」とかの「Gの發音の震動數と波形」を放り込んでくるところなど憎いじゃないですか。「おう俺が「G・G・P・G」のノガワだけどよ」と「マヴォ」陣営を挑発しているかのようにも取れる詩です。まさに「白山の野郎ども」の「Walk on the Wild Side」。

変電叢書『野川隆著作選集』リリース予告

さて年末まで野川隆攻めで行く予定です。もっとも僕がどれくらいまで電子化できるか?という時間との勝負になってきました。だいたいの詩から小説、また評論類は今手元に揃えているのですが、中でも初期詩は組版上相当な難物があり、とりあえずは出せるものから「野川隆著作選集第一集」として電子放流することを目指したいと思います。

最後に大正14(1924)年11月3日に「世界詩人第一回講演会」記念写真を『世界詩人』第2巻第1号で見つけてきていますので転載します。赤丸で囲ったのは「20世紀跨ぎ生まれ世代」たるヤング野川隆の他、盟友橋本健吉(北園克衛)「世界詩人」主催ドン・ザッキー「マヴォ」村山知義ですが、野川と橋本の間には「G・G・P・G」同人であり画家「ウルガワ」こと宇留河泰呂(※この人の詩と人生行路も相当面白いので後日いろいろ詳らかにしたい)、中段真ん中にまとまって「赤と黒」萩原恭二郎壺井繁治他、下段真ん中に発禁詩集『夢と白骨との接吻』遠地輝武その横に「無産詩人」陀田勘助上段にアナーキズム詩の戦後の証言者たる「局清」こと秋山清等々。新進気鋭の一群が梁山泊のごとく一同介しております。
なおこの時期に「世界詩人叢書第6編」として野川隆『飛行競技会』という詩集を出す予定があったことが「世界詩人」の広告で知れました。こちらが発行された事実はないわけですが、仮に出ていたとしたら野川隆の初期アバンギャルド詩集として萩原恭二郎「死刑宣告」とともにもしかするれば後世に残るということもあったのかもしれません。

世界詩人第一回講演会記念撮影T141103

社主代理 持田泰

【秋の変電書月間’14】「村山知義の強引」ゲオルク・カイゼル作/北村喜八訳『朝から夜中まで』【オチとしてのウォーク・ディス・ウェイ】

9月です。めっきり秋です。よって【夏の変電書フェア’14】は終了とし【秋の変電書月間’14】となりますが、いつだってガチだぜの社主代理持田です。今回はビッグネーム「村山知義」の「強引」としてゲオルク・カイゼル作/北村喜八訳『朝から夜中まで』の戯曲を紹介いたします。今回の記事は寄り道が多くて格段と長いのでご覚悟をば!

ゲオルク・カイゼル『朝から夜中まで・クラウデイウス

朝から夜中まで表紙





朝から夜中まで・クラウデイウス』(コマ数105)
泰西戯曲選集 第10巻
著者:ゲオルク・カイゼル 翻訳:北村喜八
発行日:大正13(1924)年5月 出版社:新潮社
国立国会図書館デジタルコレクション





さてこの『朝から夜中まで』とは築地小劇場での大正13(1924)年12月で公演され、その舞台装置を村山知義が手がけたことで「日本最初の構成派舞台装置」と小山内薫らに絶賛され連日立ち見が出る程の評判をさらった舞台です。その台本として使われたのが上述のゲオルク・カイゼル作/北村喜八訳『朝から夜中まで』になります。

村山知義展が一昨年にやっていましたので『朝から夜中まで』というタイトルを知っている方もいるかと思いますが、実は現在このゲオルク・カイゼル=ゲオルク・カイザー翻訳作品が日本の通常書籍ではほぼ流通しておりません。

が!やってくれますNDL!開いててよかったNDL!国立国会図書館デジコレではちゃんと読めますよ!

その前に今回「村山知義の強引」というタイトルにしているところの村山知義については、Wikipedia-村山知義を参照ください。しかし文学史ってどうして「オッサン」になってからの写真を代表的な著者肖像として使うのか。夭折した作家の方が人気出るよって理由の大半がこれなような気がしてなりません。

ちなみに余談ですが、村山知義の生まれは1901(明治34)年1月18日で、前回(※【大復活祭!電誌「トルタル」5号発刊記念】「野川隆の放物線Ⅱ」詩編『數學者の饗宴』『哈爾浜風物詩』他【続きはトルタルで!】)の野川隆の生まれも同年1901年の4月23日です。ちょっとこの「同世代」を調べたら非常に面白かったので一気に羅列していきますが、以下は読み飛ばしていただいても構いません。本論とは関係なく個人的に「ある群像」を捉えたいなという試みです。

余談としての「世代」論

まず村山知義、野川隆と同じ20世紀が幕挙げた1901(明治34)年組に、以前に紹介(※林芙美子と野村吉哉とドン・ザッキーと「詩」の時代 【レビュアー:持田泰】)した『世界詩人』「ドン・ザッキー」こと都崎友雄も1901年7月11日、林芙美子「元夫」野村吉哉も1901年11月15日、野川と「サンチョ・クラブ」戦友でもある「池袋モンパルナス」小熊秀雄が9月9日、「ダダイスト新吉」高橋新吉1月28日、アナーキスト「黒き犯人」岡本潤が7月5日。ビッグネームでは『檸檬』梶井基次郎2月17日。

少し前後して翌1902(明治35)年組では小林秀雄が1902年4月11日、「サンチョ」に参加もした中野重治も1月25日、野川の『ゲエ・ギム・ギガム・プルルル・ギムゲム(GGPG)』盟友「橋本健吉」こと北園克衛も10月29日、『改造』懸賞評論論で小林二席に続いて三席になった『詩と試論』春山行夫も7月1日。

少し兄貴の1900(明治33)年組では、「GGPG」同人『一千一秒』稲垣足穂は1900年12月26日で一個上、「マヴォ」同人『雨になる朝』尾形亀之助も12月12日、同じく「マヴォ」同人カリカチュア画家柳瀬正夢も1月12日、満洲大連「亞」同人『三半規管喪失』北川冬彦も6月3日、もう少し兄さん1899(明治32)年組では、「赤と黒」同人『死刑宣告』萩原恭次郎1899年5月23日、「のらくろ」田河水泡こと小林秀雄の年上の義弟(妹の旦那)高見沢路直2月10日 (※なぜかWikipedia上では「前衛芸術集団『マヴォ』に参加し高見沢路直と名乗っていたものの深入りはせず」と書かれているのですが実際はマヴォの中でもバリバリのアヴァンギャリスト)、もう少し上ると「亞」同人『軍艦茉莉』安西冬衛1898(明治31)年3月9年、未来派「アクション」神原泰1898年(誕生月日不明)とここらは少し兄さん。

また戦後的ビッグネームだと川端康成は1899(明治32)年6月14日 横光利一1898年(明治31)年3月17日、今東光1898(明治31)年3月26日と少し先輩、林芙美子1903(明治36)年12月31日、小林多喜二1903年(明治36年)12月1日で少し後輩。また『新青年』系だと横溝正史1902年5月24日、久生十蘭1902年4月6日、小栗虫太郎1901年3月14日。林不忘/牧逸馬/谷譲次こと長谷川海太郎が1900年1月17日。

この「世代」の名は?

これみな前後あれど19世紀から20世紀へと跨いだ時期に生まれた面々です。豊作どころかまあなんというかああ「戦前」とはこの世代だったか!ということです。この私が安直に「20世紀跨ぎ生まれの世代」と呼んでいるこの世代を一言で言い表す言葉はあるのかないのか調べても出てこないんですね(※もしありましたらどなたかご教示ください)。1912〜26年大正期生まれの所謂「大正世代」「戦中派」の一回り上の世代にあたりますが、ここに確かな世代共通な空気が濃厚にあることが解ります。パリのアメリカ人たるところの「失われた世代」にあたるような世界的同時性の何モノかの感覚を最初に浴びた世代です。

1901年生まれであれば、幼少期4歳で日露戦先勝、9歳で大逆事件&韓国併呑、11歳で明治から大正期へ、13歳で欧州世界大戦、16歳ロシア革命、17歳米騒動、シベリア出兵、世界大戦終結、20歳原敬刺殺、21歳ソ連成立、22歳関東大震災、24歳治安維持法&普通選挙法公布と、「革命」と「戦争」の「帝国」の世代です。

また文化社会面で言えば、13歳で宝塚少女歌劇初演、15歳で「婦人公論」創刊、浅草オペラ「世界的バラエチー一座」旗揚げ、16歳で「主婦の友」創刊、18歳カルピス発売開始、「キネマ旬報」創刊、19歳で「新青年」創刊、及び日本最初のメーデー、日本社会主義同盟結成、活動写真会社松竹、帝国キネマ設立、20歳で表現主義映画『カリガリ博士』封切られ、21歳で「週刊朝日」「サンデー毎日」「小学五年生・六年生」(小学館)創刊され、同年アインシュタイン来日、22歳で「文藝春秋」創刊、ライト原案帝国ホテル(旧館)落成、丸ビル完成、マキノ映画製作所創立、サントリー前身壽屋ウイスキー工場設立、「アサヒグラフ」創刊、23歳で昭和天皇御成婚、築地小劇場創設、現在の甲子園球場たる阪神電車甲子園大運動場完成、24歳で講談社「キング」創刊、ラジオ放送開始、25歳で改造社「現代日本文学全集」刊行「円本」ブーム、NHK=日本放送協会設立、「アサヒカメラ」創刊、新宿高野フルーツパーラー営業開始、TOYOTA=豊田自動織機製作所設立です。

つまり彼等が育った明治後期大正年間で現代生活に直結している都市文化の基部がほぼ出揃った世代でもあります。

本論に戻って村山知義ついて

「村山知義の宇宙:すべて僕が沸騰する」図録

「村山知義の宇宙:すべて僕が沸騰する」図録


話戻して、そんな時代を通過した村山知義という名の「若い芸術家の肖像」は、Wikipedia見るより、先に触れた2012年の展覧会チラシの方がイメージ伝わりましょう。同展は村山前衛美術時代の現存する数少ない作品群だけでなく、クレーやカンディンスキー、アーキペンコらの作品なども同時に展示し彼が影響を受けたベルリン滞在時に欧州芸術運動の紹介から、帰国後国内で手掛けた様々なジャンルでの作品群を時系列に沿った形で一同に介しており、村山知義の全貌に迫る善き展覧会でした。



20世紀の初めに生を享け、ベルリンでダダや構成主義などの新興芸術を吸収して1923年に帰国、まもなく「マヴォ(Mavo)」や「三科」といったグループの活動を通じて大正末期から昭和初期にかけて日本の近代美術に決定的な影響を与えた村山知義(1901-1977)。

—『すべての僕が沸騰する 村山知義の宇宙』図録

1901年20世紀幕開けの年に生まれた村山”TOM”知義ですが、20世紀初頭、沸騰する時代の日本の空気のみならず世界の空気を吸い付くして、絵画・詩・小説・演劇・舞踊・映画・批評・翻訳と領域横断的に活躍し挑発しおおいに暴れ回った戦前前衛芸術史の中でも大物中の大物です。高見順『昭和文学盛衰史』でも当時の村山を「先駆芸術の帝王者」と呼んでいます。その1920年代の活躍の中でもかの伝説のマヴォ(Mavo)での光芒に関してはここでは触れませんので、竹熊先生の電脳Mavoにて「第一回よりぬきたけくまメモ:マヴォについて」などをご参考いただければと。なおマヴォ関連で言えば詩人尾形亀之助に関しては後日論じたいところですが。

さて今回紹介する『朝から夜中まで』その舞台装置は、時代の「小英雄(by安西冬衛)」村山知義のターニングポイントとなった作品で、村山知義のバイオグラフィを紐解くと必ず出でてきます。その舞台装置がどんなものかはググって貰えれば解るところですが、「すべての僕が沸騰する 村山知義の宇宙」展の図録が手元にありまして、こちらから画像を転載させていただきます。横に当時の彼のトレードマークであるところの「ブーベンコップ(おかっぱ頭)」とニット帽姿のポートレートが映っております。Wikipedeiaの坊主のおっさんよりこちらの方が「村山知義」ですね。尖端芸術家としての面目躍如たる「ドヤ顔」です。これは冗談で言っているのではなく、この「ドヤ顔」こそが、大正期マヴォの村山だと思うからです。この顏で戦後含めてアヴァンギャルド史に対して「ドヤ」と言っているように思えてなりません。

村山知義のポートレートと「朝から夜中まで」舞台装置模型 (「造形」1925年4月掲載)

村山知義のポートレートと「朝から夜中まで」舞台装置模型 (「造形」1925年4月掲載)

この舞台装置は村山が1924年築地小劇場で本劇が上演されるのを聞きつけて演出家土方与志へ直談判して舞台の美術担当に収まったことで生まれ出たものです。もっとも当時の村山は舞台美術の一切の門外漢であったという有名な逸話も残っていますが、この時代の帝王者に相応しい「強引さ」の結果で、戦後まで続く彼の舞台関連の業績に繋がったのだとを考えると、ここが演劇人村山知義の産声だった捉えてよいわけです。

またその「強引さ」はこの一点だけではありません。上演後すぐに小山内薫に「日本最初の構成派舞台装置」と紹介され多くの識者から喝采をさらいましたが、本原作者であるところのゲオルク・カイゼル=ゲオルク・カイザーは、表現派の劇作家です。そもそもでこのゲオルク・カイザーの情報がほとんど日本語Webにはないため、Wikipediaもまーひどいので、ちょっと遠回りになりますがまず原作者の簡単な略歴をまとめます。

遠回りのゲオルク・カイザーについて

Georg Kaiser,1928

Georg Kaiser,1928

ゲオルク・カイザー(Friedrich Carl Georg Kaiser 1878年11月25日-1945年6月4日)は、戦前エルンスト・トラーと並ぶドイツ表現主義の劇作家であり、1910—20年代ドイツ本国のみならずロンドン・ニューヨーク・東京などで彼の作品が公演されるなど、当時世界的にも人気を誇った作家で、ブレヒトらその後ドイツ演劇界のみならず、T・S・エリオット、ユージン・オニール、ソーントーン・ワイルダー、テネシー・ウィリアムズらの世界の戦後演劇界に大きな影響を与えましたが、1930年代ナチス政権化で政府協力を頑に断るカイザーは反ナチスと見なされ一切の作家活動・上演を禁止されます。彼の作品はかの1933年のナチスの焚書対象として燃やされています。

身の危険を察知したカイザーは家族にも告げずにスイスに単身亡命し(残した家族には亡命生活の窮状を訴えながら実は愛人マリア・フォン・ミュールフェルととその娘と生活してたそうですが)創作におけるナチ体制批判として日本を舞台にした「兵士タナカ」という戯曲も発表し、日本公使館の要請でスイスでの上演が止められます(なお2008年東京芸術座で「兵士タナカ」が講演されたようです)。終戦間際にノーベル文学賞候補にもなっておりましたが、1945年5月8日ナチスドイツ敗戦後も帰国適わぬまま翌6月4日に亡命先スイスで没します。享年66歳。

相当エキセントリックな人物であったらしく、放埒な金銭感覚のせいで人気劇作家として高収入であったにも関わらず絶え間なく借金を負い続け、起訴されて禁固刑にまでなっており、その際の陳述が「私は偉大であり、途方もなく例外的な存在であるために、法律は私には適用されない」と言い張る等なかなか飛んでます。

代表作としては『カレーの市民』(1912)『朝から夜中まで』 (1912) 『珊瑚』から『ガス1』『ガス2』へと続くガス3部作(1917—20)などなど。そして現在の日本ではゲオルク・カイザーの作品はほぼ読めません。『盲目の女神―20世紀欧米戯曲拾遺』に「ロザムンデ・フローリス Rosamunde Floris (1936/37)」が収録されてくらいです。ちなみにガス三部作は100年後の現代日本を間違いなく風刺していますが、これまたどっかで機会あれば触れます。未訳です。

念のためドイツ表現派について

では、そのゲオルク・カイザーの「ドイツ表現派」とはなんぞや?というところでありますが、詳しくは表現主義ーWikipediaを参照していただければと思いますが、ドイツ・ドレスデンで結成された画家グループ「ブリュッケ Die Brücke=橋」のメンバー、キルヒナーシュミット=ロットルフヘッケルらが当時パリを凌ぐとも言われた芸術都市ベルリンに1911年に移住して活発に創作活動を展開し、同年ミュンヘンにてカンディンスキーマルクらの手によって創刊された芸術誌「青騎士:ブラウエライター der Blaue Reiter」のもとに集まった画家集団らを中心にして、20世紀初頭にドイツで爆発した芸術運動です。

反権威、反ブルジョア、反写実、反印象を標榜し「生の飛躍エラン・ヴイタル」としての「内面」、時には「幻視」、また対象を消し去った内部規範のみの「抽象」をも含む「表出=expression」を主潮としています。「ブリュッケ」も「青騎士」ともに第一次世界大戦勃発とともに消滅しましたが、「表現主義(派)Der Expressionismus 」は音楽,文学,演劇,映画,建築に及ぶ革新的芸術の合言葉として広まり、特に表現派演劇及び映画は、第一次世界大戦後のドイツ革命を経たヴァイマル共和政下でも一つの潮流として、また戦時下スイス・チューリッヒで生まれたバルツァラらのDADA、イタリアの未来派、ソビエト革命期のロシアンアヴァンギャルドの構成派、などなどの様々なイズムが合流混成して、新即物主義=ノイエザッハリヒカイトNeue Sachlichkeit等の新派も吐き出しながら、「ヴァイマル文化」という大輪の徒花を咲かせていくわけです。なお1930年代ナチス政権下において「退廃芸術」の烙印を押されるのもこれ等の作品群です。

戦間期欧米文化はレザネ・フォール les années follesのフランスやハリウッド・ジャズエイジのアメリカからだけでなく、ヴァイマル共和制下ドイツの芸術実験、革命期ロシアからソビエト初期にかけてのロシア・アヴァンギャルド等、様々な経路から日本へ着弾し同時代的な影響を与えています。その紹介の一翼を担ったのが村山知義です。

村山知義とドイツ表現派

村山知義はベルリン単身渡ったのは1922(大正11)年、21歳の頃です。後期表現派運動が一段落着き第一次世界大戦後の新たなモダニズム芸術諸派が怒濤のように渦巻くベルリンで時代の空気を吸った村山はこの「表現派」を「オワコン」と観ています。乗り越えるべき父というより長男であると。もっともベルリン時代にカイザーやトラーの表現派演劇を大量に観て感銘を受けているわけですが、帰国後の執筆で築地小劇場で「朝から夜中まで」の開幕直前1924(大正13)年11月に村山の最初単著『現在の藝術と未來の藝術』(長隆舍書店)が出ていますが、その中に「過ぎ行く表現派」という章にて本質的批判をしています。

それゆえもし彼らがなんらカンディンスキーのいわゆる「内的要素なる精神の振動ゼーレヴィヴラチオン」が無いにものかかわらず、フォルムの面白さ、貴さ、美しさ、偉大さないしは醜さに圧倒されてある絵を創ることもまた正当にあり得る、、、、ことである。

—「過ぎ行く表現派」p174:村山知義『現在の藝術と未來の藝術』長隆舍書店1924

他にも1926(大正15)年2月の『構成派研究』

未来派は旧い美学を破壊したが、表現派は新しい美学を生み出した。破壊の後に建設が来るのはいかにも当然らしいが、実はこれは、表現派が未来派よりもずっと美術の殻をぬけきれないでその中に閉じこもっていることを示している。

—「3表現派」p14村山知義『構成派研究』中央美術社 1926

「立体派と未来派からコマ切れの肉と神秘的なドイツのビーフステーキが切り取ってこられた。それが表現派だ」「世に表現派ほど早くその目的を達し、展覧会場の金の額縁の中や、善良なる小市民的な部屋の小さな飾物やレースや花絨緞の真中で、易々と極楽往生を遂げた派はいない」というハンガリーのカシャークの痛烈な表現派批判も紹介しています。

ロシア構成派及び意識的構成主義について

この「表現派」の「表現」という言葉で担保されてしまう「美術」性と、隠蔽される「無知・無意識」を嫌う村山は、それを乗り越えるものとして「意識的構成主義 Bewusste-Konstruktionismuss: Conscious-Constructionnism」を掲げるわけですが、ではその「意識的構成主義」とは何ぞ?と。

ものすごいざっくりと説明しますと、ドイツ表現派の無対象絵画の内面表出理論が陥った静的なるカンディンスキー的「構図コンポジシオン」を乗り越えるべき「力」と「動」の表出たるところの「構成コンストルクシオン」(当時日本にいたブブノワ経由のロシア構成派理論)と、ドイツ・ハノーファーのダダ=アンチ・ダダたるところの「メルツ」のクルト・シュヴィッタース経由の「芸術」を茶化し打ち壊すパフォーマンスと所謂「コラージュ」とを「揚棄」させたいところの主義のようですが(「構成派批判」参照:村山知義『現在の藝術と未來の藝術』長隆舍書店1924)、理論的には揚棄というよりは折衷融合的といいますか敢えて言えば「マヴォイズム」としての「構成派」と認識してよいかと思いますが、

つまり、ここで急に本題に戻りますと、村山友義のもう一つの「強引」としてカイザーが1912年発表された「表現派」戯曲の舞台芸術を彼の標榜する「構成派」芸術で組み上げたという点です。村山自身が語るところのよると、「適度な左右対称、重量と運動の全体的平衡、形と色の両方に於ける単純さ明瞭さ、充分に発揮されたる実用性、全てが必要にして且つ充分なること」規則規範的に組まれており、村山自身はこの構成派舞台装置でもってして表現派とは一線を画したという自負があった。この構成派舞台装置と表現派のの差はどういうものなのか?のいいサンプルとしてこの『朝から夜中まで』は1921年ドイツ映画です。

幻のドイツ表現主義映画『朝から夜中まで』との比較

既に公表後70年を経過しておりパブリックドメインという認識のもとで展開してしまいますが、かの「カリガリ博士」の翌年にあたります。一時間少々の映画なので是非ご覧あれ。サイレント映画です(音楽は後年に載せたものでしょう)。典型的な表現派演出になっています。


『朝から夜中まで Von morgens bis mitternachts』ドイツ 1921年 69分
原作:ゲオルク・カイザー(Georg Kaiser)
監督:カール・ハインツ・マルティン(Karlheinz Martin)
撮影:カール・ホフマン(Carl Hoffmann)

なおこちら日本のみで上映され、本国ドイツその他のヨーロッパ諸国では一度も上映されなかったいわく付きの「表現主義映画」で、長年フィルムが失われたと思われていたものが東京国立近代美術館フィルムセンターで無字幕版唯一発見されたものが1968年にフランクフルトでの表現主義ゼミナールで始めてドイツで上映されたそうです。今回のこちらは1993年にミュンヘン映画博物館が復元してドイツ語字幕を加えたものになりますが。北村喜八訳『朝から夜中まで』を読んでから観ると演出相違等はいくつかありますがほぼほぼ話を追えるかと思います。

ようやく『朝から夜中まで』あらすじ(駆け足)

さて、ようやく本題の『朝から夜明けまで』のあらすじですが、駆け足で、ざっくりいきます。ドイツ某銀行の冴えない中年出納係の女に騙されて(勝手に勘違いした)横領持ち逃げ事件です。今で言う「中年の危機 ミッドライフ・クライシス」ものになるかと思いますが、表現派演劇は市民生活批判としての破滅欲求からの「新しい人間」像への希求ベクトルが底流にあり、その逃亡の『朝から夜中まで』の過程が劇的に描かれています。逃亡中一回自宅に戻り部屋の扉を全て開けさせてこんな述懐する「出納係」

出納係:(あたりを見廻しながら)お母さんが窓に寄りかかっている。娘たちは、卓に向かって刺繍したり——ワグネルを弾いたりしてゐる。妻は臺所で働いてゐる。四つの壁に囲まれた——これが家庭の生活だ。共同生活の美しい和樂だ。母と——息子と——その子供とが、一つ屋根の下にゐる。惑はされやすい魔法だ。魔法は紡がれてゆく。部屋には卓があり、ランプが吊り下がっている。右手にはピアノがある。陶上煉瓦の暖炉がある。臺所では、毎日の食事が用意される。朝のコオヒ、晝はカツレツ、寢室には——寝床。惑はされやすい魔法だ。そのうちに突然——背中に——白い堅いものがくる。卓が壁の側へ押しやられる——黄ろい柩が斜に置かれる……螺釘が締められる——ランプの周りに覆ひが下げられる——一年ピアノが弾かれない———

こう言葉を残して家族を捨て猥雑なる都市に繰り出す徹底的に蕩尽をします。エンディングはもう必然的な死なわけですが、非常にまとまった贖罪羊の象徴で終わります。興味ありましたら是非上記映画を横目に読んでみてください。今回はEPUB化しておりませんのでPDFデータでは読みがたいかと思いますが。なおこちらも将来の変電叢書復刊候補です。

『朝から夜中まで』構成派実舞台は

あらためて確認としてこちら(外部リンク)が『朝から夜中まで』舞台装置の再現物を観てみます。これが幕のない舞台にどーんと置いてあり観客のを舞台開始前から観客の度肝を抜いたと言われております。「舞台装置がどぐろをまいている」と。

しかしこの階層式の舞台装置をあの劇もってどのように使用したのか?ということですが、全7幕各場面をそれぞれの装置のブロックブロックに割当、照明を当てて運用したそうです。「一段上の正面奥が、競馬場の場の審判席、二階は右手の出納係の家の場、左手がホテルの場、正面奥が救世軍の場の演壇、一階は右手が銀行の場で左手が踊場の場である。一回中央の床は銀行の場とホテルの場では街路、踊場の場では聴衆席、競馬場の場では廊下、救世軍の場では演壇へ、及びホテルの部屋から正面手前の床へ張り出された縄梯子の上で演ぜられる」。照明は「銀行が白、家が黄、踊場が赤、ホテルが緑、救世軍が赤、競馬と雪の場が青」(村山知義「『朝から夜中までの舞台装置について」)という配色です。以下参考までに実際の舞台第一場「銀行の出納口」舞台写真を「すべての僕が沸騰する:村山知義の宇宙」展図録より転載します。

第一場「銀行の出納口」舞台写真 撮影:坂本万七 「すべての僕が沸騰する:村山知義の宇宙」展図録より転載

第一場「銀行の出納口」舞台写真 撮影:坂本万七
「すべての僕が沸騰する:村山知義の宇宙」展図録より転載

この演出も含めて当時はの観客に強い衝撃を与え、多くの人の「構成派演劇」という記憶を残し、村山知義の名を演劇界に轟かしたわけです。

その後の「村山知義の放物線」

村山知義のその後も言わずもがなでありますが「村山知義の放物線」を追記しておきますと、GGPG野川隆と同じく「藝術左翼から左翼藝術へと轉換」し、主に左翼演劇方面で活躍しますが、野川と同じく1930(昭和5)年5月で一回目、1932(昭和7)年4月2回目治安維持法で逮捕検挙され、1933(昭和8)年12月「転向」して出獄。1934(昭和9)年所謂「転向文学」の『白夜』を発表。その後も演劇創作活動続け、再び1940(昭和15)年8月逮捕、1942(昭和17)年6月保釈され、落ちのびるように1945年3月朝鮮、7月満州へ渡り、8月朝鮮京城で終戦を迎えます。なお8月15日玉音放送時の村山知義の状況は、こちら有志のブログに詳しく記載されていましたので是非ご参照ください。→「多面体F」朝鮮に渡った村山知義 他の記事でも村山知義について非常に詳しく書かれており、諸々参考にさせていただきました!

オチとして

さて、今回は村山知義という「巨人」相手だけでなくドイツ表現主義劇作家ゲオルク・カイザーから戦間期前衛芸術史なども紐解いてしまい、そのあまりにも広大な領域に手こずりました本記事をそろそろ終えたい!疲れた!と書いてる私も痛切に思っておりますが、最後にオチとして。この世界的に有名な表現派演劇を構成派で組み替えた「村山知義の強引」な手並みを観た観客の最初の衝撃を、敢えて今風に解釈するとどういうものだろうな?と長らく考えていたのですが、ようやく閃きました。

この戦後POPSに置きかえての俗な解釈を行うという野蛮さをやってのけると、つまり1977年ビルボード10位エアロスミス「Walk This Way」を1984年にカバーして世界的ヒット誘い「HIPHOP」の存在を世界に知らしめたRUN-DMCの衝撃ではなかったかと。

上記動画を観てから、改めてこの舞台を観ると、adidasスーパースター&カンゴールハット&ゴールドチェーンのオールドスクールスタイルでMC.TOMこと村山知義がドヤ顔で舞台中央から踊り出てきそうな気がしてきませんか!

という最後は「強引」なオチをつけて、長かった【秋の変電書月間’14】第一弾としてゲオルク・カイゼル作/北村喜八訳『朝から夜中まで』を終えたいと思います。「かえってわかりずらいオチ」の誹りは受け付けません。

社主代理 持田泰

参考文献

・村山知義研究会「村山知義の宇宙2012全ての僕が沸騰する」神奈川県立近代美術館葉山図録(2012/2/11〜3/25)
・村山知義『構成派研究、現在の芸術と未来の芸術』長隆舍書店(1924)復刊、本の泉社 (2002/10)
・五十殿利治『大正期新興美術運動の研究』スカイドア;改訂版 (1998/06)
・五十殿利治『日本のアヴァンギャルド芸術―“マヴォ”とその時代』青土社 (2001/07)
・レナート・ベンスン:小笠原豊樹訳『トラーとカイザー―ドイツ表現主義演劇』草思社(1986/4)

【夏の変電書フェア’14】「野川隆の放物線」小品『田舎驛にて』『作品第三』【でんでんコンバーター×BiB/iでEPUB初公開】

さて前回に続きガチの「夏の変電書フェア」で参りますが、さらにガチです夏休み中の変電社社主代理持田です。今回は終戦記念日8月15日にもちなみまして、改めまして渡満作家野川隆にフォーカスし「野川隆の放物線」というタイトルに思いを込めて進めたいと思いますが、改めて彼の軌跡を高見順の一文から。

文春文庫さんへ復刊希望。またそろそろPDなので電子書籍化を目論んでいます。

文春文庫さんへ復刊希望。またそろそろPDなので変電社としては電子書籍化を目論んでいますよ!

 
この北園克衛と『ゲエ・ギム・ギガム・プルルル・ギムゲム』をやっていた野川隆は藝術左翼から左翼藝術へと轉換して『ナップ』に参加、のちに満洲で捕らえられて獄死した。私はここで野川隆の靈に脱帽するとともに、生きている北園克衛の操守にも脱帽せざる得ないのである。

—高見順『昭和文学盛衰史

言わずもがなの北園克衛は戦後も「VOU」や「プラスティックポエム」で世界的にも有名な前衛詩人ですが、その北園が本名「橋本健吉」時代に詩誌『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』(GGPG)を一緒に作っていたのが今回の野川隆です。1923年関東大震災直前期から昭和初期に一斉に湧いて出た前衛詩運動ならびに新興美術運動のラッシュの中で、稲垣足穂村山知義とそうそうたる面子が寄稿した日本のアバンギャルド芸術運動史でも重要な位置を占める詩誌です。そこから作家人生をスタートさせた野川は「藝術左翼から左翼藝術へと轉換して『ナップ』」へ至り、運動瓦解後、1938(昭和13)年秋に満洲に渡ります。高見はまた別のところでも、

 私はまた、満洲で死んだ野川隆のことを思い出すのである、これは敗戦前に死んだのであるが、しかし、これも自然死ではなかった。野川隆は私のこの回顧記に、昭和初期のダダ的詩人として登場しているが、のちに、いわゆる藝術革命派から革命藝術家になってナップに参加した。その活動中に逮捕され、釋放後、満洲に渡った。その満洲でふたたび治安維持法違反の疑いで検挙され、獄中で発病、病院に移されたが、そのときはもう再起不能であった。昭和19年歿、四十四歳。

—高見順『昭和文学盛衰史

そういったわけで野川隆、上記人生経路を経て1944年に没していますので著作権は切れておりますが、現代においてはマイナー過ぎるようで青空文庫には当然収録されておらず、また当然一般流通の電子書籍にあるわけなく、そもそも紙でも現在入手しやすいもので『満洲の光と影 (コレクション戦争×文学)』収録の戦前芥川賞候補作『狗宝』と、少し前に出た川村湊『満洲崩壊―「大東亜文学」と作家たち』の野川隆の章で数編の詩が紹介されていくらいです。

しかしさすが国立国会図書館デジコレでは読めます。もっとも読めるには読めても、在満作家アンソロジーかそのまま雑誌に掲載作品が多いために、他の著作者との関係上、国立国会図書館本館利用か、図書館送信サービス利用館でしか読むことができません(国立国会図書館デジタルコレクション「野川隆」検索結果)。

「インターネット公開」がない!残念!

「インターネット公開」がない!残念!

で外部から見ようとすると以下のようになります。

「この資料は、国立国会図書館および図書館送信参加館の館内でご覧いただけます。複写箇所が特定できる場合は、遠隔複写サービスもご利用いただけます(歴史的音源、電子書籍・電子雑誌を除く)。」

「この資料は、国立国会図書館および図書館送信参加館の館内でご覧いただけます。複写箇所が特定できる場合は、遠隔複写サービスもご利用いただけます(歴史的音源、電子書籍・電子雑誌を除く)。」

とはいえ個人的趣味として先日の図書館送信サービスに取材(【行って来たよ!】国立国会図書館図書館向けデジタル化資料送信サービス体験レポ【美味しいマカロニ】【また行って来たよ!】続・国立国会図書館図書館向けデジタル化資料送信サービス体験レポ【いつも陽気で】)以来、実はポロポロと野川隆作品を複写サービス利用で持ち帰っており、結構數の作品コピーが手元にあります。

で、こちらを長らく紹介したいなと思ってはいたものの、上記理由によって、いつのもように国立国会図書館デジコレサイトに飛ばしてオンライン誘導させてもコンテンツが読めませんから、これは弱った「変電書」ではないなと。にもかかわらず、複写サービスコピー用紙からレビューを書いてしまった暁には、当変電社サイトは単に「複写してまでも読みたい近現代文学マニアックおじさんブログ」として侘しい一生を終えるのではないかと。※「既にそうだろう」という誹りは受け付けておりません。

なので変電社社主代理としてここで「名折れてたまるか」ということで一念発起し、コピー用紙からテキストを起こして、でんでんコンバーターにてEPUB生成し、さらにはBiB/iをサイト導入し、変電社サイト内部で作品をビューワー上で読める環境を構築しました!やったぞ!バンザイ!野川隆が電子書籍.epubで読めるのは変電社だけ!手打ちなのでどれも短いんですけれども!まとめて近日KDPで変電叢書『野川隆選集』として配布しようかと企んでおります!Coming Soon!

※なおあらためて、でんでんコンバーター高瀬 ‏@lost_and_found 氏ならびに、BiB/i松島まっつん @satorumurmur 氏、お二人の素晴らしいお仕事に対して最敬礼を送らさせて頂きます。

野川隆「電子書籍」レビュー

さて野川隆「電書」レビューを開始したいと思いますが、まず先の高見順が戦前の昭和文学史を振り返る連載の中で「野川隆は藝術左翼から左翼藝術へと轉換して『ナップ』に参加、のちに満洲で捕らえられて獄死」と数回に渡り熱く語るところの背景に触れておきます。一言で云えば、この人生行程こそが、あの時代の若い表現者たちのある端的な「典型」であったということです。

アバンギャルド詩の街のチンピラからナップの「闘士」へ。そして検挙逮捕されて運動を挫折し、マルクス主義を完全に捨て「転向」し釈放されるものもいれば「主義は捨てないが実践運動には参加しない」という「準転向」という形で釈放されるものがいる。で後者は「内地はうるさいから」と満洲へ落ちのびる者もいる。例えば戦後「現代画廊」主であり「気まぐれ美術館」美術エッセイで熱狂的な読者も多い洲之内徹も同じく、左翼活動から転向し情報将校として軍部に雇われ1938年秋(野川と同じ頃)に大陸に渡っています。野川より年齢は10歳下になりますが、彼は軍属として日中戦地で働いて生きて内地の土を踏んだので、その当時の作品を書き残しいくつかの作品は戦後芥川賞候補になっています。

そういった視点から「野川隆」という砲弾が20年代アバンギャルド運動の砲台から高く発射され大きな弧を描いて遠く海を超えて遥か北満の大地に確かに着弾したという事実を作品から追ってみたいと考えています。今は忘れ去れた「野川隆の放物線」です。まずはその着弾地点から。

野川隆『田舎驛にて

『田舎驛にて』


野川隆『田舎驛にて』






掲載誌『北窗. 3(2/3)』p94~98(50コマ目)
発行日:昭和16(1941-05) 
出版社:満鉄哈爾浜図書館
国立国会図書館デジタルコレクション
※「国立国会図書館/図書館送信参加館内公開」コンテンツのため複写サービス利用



この非常に短い5頁ほどの小品『田舎驛にて』が掲載された『北窗(ほくそ)』の発行元が満鉄哈爾浜(ハルピン)図書館ですが、こちらに関してはその図書館長である竹内正一の『哈爾賓入城』は以前にレビューを書きました。その同時代の作品となります。それでありながら竹内正一が描かなかったところの満洲の生活者が確かに写されています。生活者は満人(中国人)だけでなく書き手自身である日本人をも指しています。「噯、噯、老頭兒呀!這邊來、來々!」と支那(中国)語を巧みに操る「私」(竹内の作品にはロシア語巧みに使う日本人は出てきましたが、中国語喋る日本人は一人も出てきません)は、「合作社」の仕事をしている「協和會服」を着た日本人です。 この「合作社」とは何かというと、神戸大学付属図書館新聞記事文庫にやはりいい記事がありました。

誕生近き興農合作社 新京にて 島崎特派員(大阪朝日新聞 1940.3.2-3)

誕生近き興農合作社 新京にて 島崎特派員(大阪朝日新聞 1940.3.2-3)

誕生近き興農合作社 人口の八割を占める農民大衆を、半封建的な旧機構の桎梏から解放して、新体制の下に理想農村を創造しようという建国精神具現のための農村協同組合たる農事合作社と、高利貸資本の重圧から農民を救出しようという主旨の下に設立された近代的金融機関としての金融合作社、この両合作社を統合して、新たに興農合作社を作ることになったのである —誕生近き興農合作社 新京にて島崎特派員(大阪朝日新聞 1940.3.2-3)

いわゆる満人貧農による協同組合を組織して生産力を向上させ彼らの貧困救済をはかる運動が「合作社」です。 また「私」が着ている「協和會服」とは何かと云うと、満洲国政府と表裏となって「五族協和」の「王道楽土」の建設の実現を図るための政治教化団体「満州国協和会」というものがあり(※言わずもがなで甘粕正彦が総務部長)その正装が「協和會服」です。国民服、人民服(中山服)とよく似たものですが、Googleイメージ検索でこんな感じのものですが、「協和会服」より「協和服」の方がひっかかりますね

野川隆は此の「合作社」運動の中で再度治安維持法違反嫌疑で投獄されます。2008年にでっち上げであったことも証明された満鉄調査部事件の第二次検挙されたメンバーの一人として連座していた(もしくはその煽りの中での逮捕)ようです。
※2014年8月13日訂正追記:上記はその後の調査で私の完全なる勘違いであることが判明です。野川隆は以下引用の1941年11月4日「合作社事件」における「50名余の運動関係者が検挙」のうちの一人です(参考:川村湊『満洲崩壊―「大東亜文学」と作家たち』)

橘樸の影響を受けていた『満州評論』編集長・佐藤大四郎は、1937年1月以降、北満州の浜江省綏化県で、貧農を農事合作社(協同組合)に組織して生産力を向上させ彼らの救済をはかる運動に従事していた。満州国協和会中央本部実践科主任・平賀貞夫らの逮捕からこの運動は日本人「前歴者」が結集したことで関東憲兵隊(関東軍司令官隷下の軍令憲兵。憲兵司令官指揮下ではない)に目をつけられ、共産主義運動の嫌疑で佐藤のほか協和会の鈴木小兵衛、満鉄調査部の花房森・佐藤晴生など50名余の運動関係者が検挙された(合作社事件、1941年11月)。

なお、この満鉄調査部事件/合作社事件のWikipediaでも記載されている。

満鉄調査部は、1939年の拡充に伴う人員増強により、日本内地で活動の場を失った左翼からの転向者が多数就職していた。彼らは、内地ではもはや不可能となったマルクス主義的方法による社会調査・分析に従事しており、そのことが関東軍の憲兵隊を中心とする満州国治安当局からの監視の目を強めさせることになった。

これは先の洲之内徹なんかも全く同じ任務で陸軍の情報将校として中国北東部に着任しています。その彼の仕事ぶりが芥川賞候補作『棗の木の下』『砂』(「洲之内徹文学集成」収録)でも読めます。余談ですが、芥川賞選考会では「不道徳」の誹りを受けたものです。日本人が戦時下中国大陸で何をしてきたのか、また戦場が実に日常と地続きであることがこういう作品を読むといたく分かります。

さて『田舎驛』作品に話を戻したいと思いますが、まず文末から。(八・三・二六)と記載があります。これは「康徳8年3月26日」のことであろうと予測され、「康徳」は満洲国の年号で建国から8年、昭和で16年、西暦で1941年の3月26日。で、どんな年であったかというと、日中戦争は前線の拡大化泥沼化の一途を辿る一方で、対米交渉も完全に行き詰まり、援蒋ルートの遮断と「油」のために「南進」へと急速に転がり落ちていく時代です。まさにその年の冬12月8日未明、日本帝国海軍航空隊が真珠湾を奇襲し太平洋戦争が勃発します。ある意味日本が「詰んでしまった」年です。

そんな時代の北満の大地で「協和會服」を身にまとい「合作社」で従事する「私」の鉄道三等客車の中でのちささやかなエピソードになります。ここに戦争の影はありません。大陸における戦時下の満洲国農村近辺での日常があります。「私」は「親切な日本人」です。あの時代でなお大勢居たであろう無名の「親切な日本人」の中の一人です。そんな「私」でも意図せずして満人モラルを「結局、まあ、文化水準が低いんですね、……」と漏らし、すぐ「教育が普及してないんですね」と言い直します。しかし「さうですな。全くですァ、教育ちうもんがまるきり無いんやからなァ」に日本人乗客「五十男」の同意されてどこか叱られた気分になります(しかし現在の中国に対する言説でもこういう会話が普通に飛び交っていることを考えると、我々はこの73年の間に何か学べたことはあったのでしょうか)。そして駅についた時に馬車の取り合いで満人が大混雑するホームを眺めるだけしかできない「私」に「五十男」がこう云う

「これですァ!……」とさつきからすつかり機嫌をよくしてお喋りになつた五十男は私の肩を手袋の指先で突ついて云ふのである。「なつちよらんですなァ、交通道徳ちうもんがないんやから……」  そして大きく左右に肩をゆすぶりフェルトの長靴をがに股にざりざりと五六歩すすませると、突然しゃがれた聲でどなつた。 「こら、こら、どかんかい!……なんや、なんや、ほら、ならべ、ならべ、ならばんかい!……」  それから、これはまた恐ろしく身體つきに似合はぬ小さな手提カバンを右手で中空にひとふりすると矢庭に群衆のなかに跳びこんで、皮につゝまれた黒光する兩肩でさかんにぐいぐいと押しこくりながら人間の波間を前方へとおよいで行つた。

—野川隆『田舎驛にて

この「五十男」が満人に対して「教育指導」を行わんとするところの日本人の文化的「横暴」を「私」は呆然と見送ります。その見送られた「横暴」はそのまま北東中国戦地また南洋の戦地で繰り広げられたわけですが、この「私」の「置いていかれてしまった感」は痛切です。「協和會服」を纏い「合作社」的理想を抱えた「親切な日本人」が北満の寒空の田舎駅で21世紀の今でなお、ぼんやりと佇んでいるかのように思えてなりません。 さて着弾地点における野川隆に続いて、今度は発射台の野川隆を紹介します。

野川隆『作品第三(宇宙・人間及想像)

『作品第三(宇宙・人間及想像)』


野川隆『作品第三(宇宙・人間及想像)』






掲載誌『エポック. (1月號)(4)』p52~59(33コマ目)
発行日:大正12年(1923-01)
出版社:エポック社
国立国会図書館デジタルコレクション
※「国立国会図書館/図書館送信参加館内公開」コンテンツのため複写サービス利用


この掲載誌『エポック』はこれは先の『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』(GGPG)発刊が同じエポック社からその年の6月なのですが、その前身にあたる野川隆・孟兄弟、大正期新興美術運動の中心的人物玉村善之助らと一緒に出したもので、目次を見ると、「ダダ・ダダ」「未來派の宣言に就いて」などなど当時の欧州で盛んに破裂していた新興芸術運動の紹介から評論・翻訳など展開しています。その中で野川隆が22歳の頃に書いたとおぼしきものが、この『作品第三(宇宙・人間及想像)』です。

以前ドン・ザッキーを取り上げた際(林芙美子と野村吉哉とドン・ザッキーと「詩」の時代 【レビュアー:持田泰】)にも書きましたが、あの時代特有の「誇大妄想」感溢れる「内面」が迸るように吐露され、その「藝術左翼」サイドから果敢に何か触れようと「狂」じていて、そゆえにリリシズム溢れています。ただ「若い作品」です。

ちょうど同じ頃、1923(大正13)年7月かの小林秀雄がプレ批評家時代に『一つの脳髄』という小説を残していますが、個人的にその印象と良く似てるなと思ったところ、実は小林秀雄の誕生日が1902(明治35)年4月11日で、野川隆が1901(明治34)年4月23日なので二人は同世代でした。同じ世代の「若い詩人」たちにとって高度に回転した「自意識の球体」の出口の無さの神経衰弱の果てに、出会ってしまうナニモノかがおそらくは彼等のリアリティの担保になったのだと思う訳ですが、おそらくそこが「どん詰り」であることに二人は気づいたかのような終わり方です。

しかしこの『作品第三(宇宙・人間及想像)』の22歳の「砲台」からから『田舎驛にて』の40歳の「着弾地点」を思うと、野川隆という作家は本当に遠くまで飛んだなあとその射程距離に驚きます。

「野川隆は藝術左翼から左翼藝術へと轉換して『ナップ』に参加、のちに満洲で捕らえられて獄死」

上記一文の中に託された放物線は野川の他作品でもっと細かく辿れます。実は今回他にエポック時代から満洲で生前唯一残した非売品の詩集『九篇詩集』(※なお聞く所では「50万円以上」で取引される幻の超ド級レアアイテム)収録の詩編もいくつかEPUB化しておりますが、今回こちらの記事が長くなってしまっているので、今月8月に発行される(はず!)の電誌トルタル五号にて変電社「野川隆」特集として公開させていただきます!是非ともCheck This Out!

今後もテキスト起こしてEPUB化宣言(変電社第五宣言)

さて、前回に続き一人の作家に張り付いて、なお今回は国立国会図書館複写サービスからテキスト起こしてepub化までしたわけですが、今後も短いものであれば「でんでんコンバーター×BiB/i公開」を実施したいと考えています。なぜならば、昨今のデジタル化インターネッツ化の荒波の中で、さもすれば「パブリックドメイン」がなんのかんのと話題になりがら、端で見ていると、どうも簡単な形で、つまり戦後書籍化されててデータ化容易なものから青空文庫などで公開されていて、それはもちろんまったくもって良いこと有難いことでありながら、そこにあったはずの価値付けや文脈が一切なく並ぶことに対しては、変電社社主代理として前回の「過渡期の横光」記事でも違和感を表明しました。

今回も非常にボリューミーなレビューになりましたが、以後も、コンテンツを語る時にコンテクスト抜きで語れてしまう時代への反逆精神、すなわち「偏愛」でもってして、自ら「変な電子書籍」の作成してまでも、皆様に紹介したいと思います。

最後に、今回まとめた野川隆の作品、またそれ以外複写コピーで読んで感銘をうけたものの長いのでテキスト起こしを断念した諸作品含めて、その作品に宿りし「野川隆の靈」対して、私も末席ながら「脱帽」をさせていただきます。

社主代理 持田泰

【夏の変電書フェア’14】「過渡期の横光」短編集『高架線』『機械』『薔薇』【気分はサンタ・ルチア】

ご無沙汰のレビューでございますが、ガチを行きます。暑い日には暑苦しいことをするに限るという奇怪な信条を持つ社主代理持田です。ひょんなことから某版元某氏と川端康成がいかに「変態」であるかの話で盛り上がって、いい契機だと積読だった小谷野敦『川端康成伝 – 双面の人』を読んだことから、川端康成作品飛んだはずの興味の弾道が、盟友横光利一に着弾して、いろいろ国立国会図書館デジコレ漁っていたところの収穫結果として、今回は「過渡期の横光」ってことで暑苦しくビッグネームを取り上げます。ちなみに言わずもがなの横光利一に関して不明な場合はこちら参考ください。

横光利一 Wikipedia

もっとも「過渡期の横光」と言いながら横光利一自体が熱を帯びた時代の過渡期の文学状況そのものでもあるかのような作家ですが、その中でも「真夏の最高気温」を取り上げようではないか、ということです。夏フェアですから。もちろん横光ともなれば青空文庫でも結構数収録されているのですが、前から指摘していることですが、文脈がなくアイウエオ順で並ぶことで、その作家の重要な過渡期がわからない。またやはりこれも重要なことですが、青空文庫でも抜け漏れも多い。にもかかわらず「横光利一はこれだけ読め」なる上目線のわりには単なる青空文庫を編纂しただけの電子書籍が売られているのを見ると、まあ好き勝手にやっていただいて結構でありますが、一応変電社としては横光利一ではわりと重要作品の抜けが、青空文庫また戦後編纂された各種文庫本でも多いよ!てことを指摘しておきます。

だからこそ、そんな時は開いててよかっ国立国会図書館近代デジタルライブラリーでございます。
ありがとうデジコレ、I♡NDL

横光利一の代表的な「真夏日」作品といえば、新感覚派の代表作品であり、かの宮沢章夫氏がを11年かけて読んだことで伊藤整文学賞評論部門取ったこと(『時間のかかる読書―横光利一『機械』を巡る素晴らしきぐずぐず』)でも有名な『機械』1930(昭和5)年でありますが、その『機械』を含めて5作品に対して、先の川端は『昭和五年の芸術派作家及び作品』(「新潮」1933(昭5)年2月)にて「更生的な冒険を重ねながら、新しい文学に希望を与へ」たと書いています。その5作品とは何かというと『高架線』『』『機械』『鞭』『寝園』です。

これらの5作品は全て横光が芥川龍之介に唆されて上海滞在後に挑んだ初の長編『上海』の執筆中にポロポロと生み出された作品群であり、伊藤整を始めとして当時の文壇に大きな衝撃を与えたわけですが、この時期の横光作品は現在において青空文庫や汎用文庫本等で簡単に読めるものが実は多くはありません。『』『機械』『寝園』くらいなもので(なお『寝園』は今だ青空文庫化されていませんが、講談社文芸文庫で電子版になっていたのでそのリンクを張ってます)、他は大学図書館で分厚い全集でも漁らない限り読めません。上海滞在からかの悪名高い『純粋小説論』(1935(昭和10)年)までを「過渡期の横光」として考えるとその期間に熱を帯びた面白い作品が結構多数あります。

その意味で刊行本ごとまるっとスキャン保存している国立国会図書館デジタルコレクション近代デジタルライブラリーは最高でございます。当時の本がそのまま読めるよ!データでねというのは実に偉業ではありませんか!

なわけで私誠に勝手ながら「【夏の変電書フェア’14】「過渡期の横光」短編集」と題しまして三つほど見繕いました。

その前に、正月のリブート宣言1回目あたりから恒例(?)の国立国会図書館歴史音源れきおんから「記事の気分」としてのBGM(スマホでは聴けないけど)を選定しているわけですが、今回も見つけました。イタリアナポリ民謡和訳の「サンタ・ルチア」(作詞・作曲・編曲・実演家:羽衣歌子/製作者(レーベル):ビクター/発売年月日:1932年8月)。こちらを本日のBGMといたします!過渡期の横光と同時代だから横光自体も蓄音機から流れるこの音を聴いていたかもしれませんよ!またこれを聴きながら後段で紹介します『鞭』を読むと上等なコメディ(ブラック)を読んでいるかのような気分になりますぜ!これは試してもらいたい!

横光利一『高架線

高架線表紙





高架線』(コマ数152)
著者:横光利一
発行日:昭和5(1930)年 出版社:新潮社
国立国会図書館デジタルコレクション






まずこちらは先の川端が上げた5作品に入る『高架線』がタイトル通り収録されておりますが、他にも『笑った皇后』『負けた良人』『古い筆』『恐ろしき花』など青空文庫や汎用版文庫本では読めない短編が多数あります。『高架線』は『機械』直前期の横光の綿密な文体及び構成とその上海経由の都市の汚穢なる非理想を明確に切り取っておりますが、ざっくり内容説明しておきますと、ある路線の高架線を建造するための鉄材置き場が浮浪者たちの住処になっており、その浮浪者を監督する爺さんと、まだ地上路線が走っているのでその踏み切り番の爺さんの友情世話物ですが、その「高架線」が出来てしまえば二人は失業するというアイロニカルな設定のその社会性と、ネチネチとして改行の少ない文体、またその人物を含めて事物を「眺めている」ような映画的ともとれる描写は、「新感覚派」と呼ばれた一派のある特徴的なスタイルでもあり完成形です。『笑った皇后』という戯曲ではローマ皇帝暴君ネロの盛衰の題材にしながらラストシーンは非常に映像的で、またこの中でも妻の「不貞」に関するトライアングルが『負けた良人』また『烏』でもこの時期横光が常に取り上げるテーマですが、綿密に回りくどく「寝取られ(NTR)」の自意識を語りながら最後は非常に映像的な描写で唐突に終わります。

横光利一『機械

機械表紙





機械』(コマ数152)
著者:横光利一
発行日:昭和6(1931)年 出版社:白水社
国立国会図書館デジタルコレクション






続いて表題作『機械』を含むこちら白水社の短編集ですが、この中では川端の指摘した『』が入ってます。また青空にはない『眼に見えた虱』『父母の眞似』『悪魔』が入っており『悪魔』に関してはやはり重要作品です。

』は上海便船で事務長宛一等船客の某が自殺のおそれがあると無線電信が届いたところから始まるショートストーリーですが面白いですねえ。

しかし何が贅沢だからと云って他人に自分の自殺するのを報しらしめるほどの贅沢はこの世にはなかろう、全く無駄なことをあかの他人にさせ続けてそして最後は自分はのんきに死のうといふのではないか。生きてゐるものと云うのは死ぬもののために生きてゐるのではないなどど私ひとり旨の中で乙竹順吉にぷんぷんし始めて来たのだが、それにしてもこれから明日の三時まで饒舌り続けてゐなければならぬと云ふのは死と競争してゐるようなものである。ー横光利一『

この頃の横光の描くところの主人公は非常に飄逸で滑稽です。またその高速度に回転する自意識は心情よりも理知であるので、非常に乾いていて酷薄であるがゆえに、単なるユーモアで終わらせない残酷な決着をつける傾向があり、僕は漱石初期作品印象「猫」なんかをなんとなく思うところです。おなじく『悪魔』においてはどうやら好き同士でありながらお互いを「悪魔」と認識する教会におけるツンデレ男女ですが、男子視点のネチネチとした自意識でありながら不思議と滑稽です。そして不思議と残酷です。こういった部分は表題作『機械』でもあるのですが、おそらく『機械』だけではよくわからないこの時期の「横光らしさ」です。

横光利一『薔薇

薔薇表紙





薔薇』(コマ数128)
著者:横光利一
シリーズ:岩波新書 第21
発行日:昭和13(1938)年 出版社:岩波書店
国立国会図書館デジタルコレクション






少し変わり種で変電的な品を。こちら岩波新書で刊行された横光利一短編集です。岩波新書のWikipediaにも書いてるところ引用しますと「1938年(昭和13年)11月20日に岩波書店が創刊した新書シリーズである。古典を中心とした岩波文庫に対し、書き下ろし作品による一般啓蒙書を廉価で提供することを目的に創刊され、新書と呼ばれる出版形態の創始」ですが、初期に今と違って文芸作品をシリーズに入れていたんですね。ちなみに旧赤21がこの横光『薔薇』ですが、次の旧赤22が川端『抒情歌』です(さらには旧赤18里見弴『荊棘の冠』、旧赤19山本有三『瘤』旧赤20が久保田万太郎『春泥・花冷え』)。また一部面白い発見として、奥付が初版の13年11月15日ですが、

薔薇奥付

「りいち」ではなくて本名の「としかず」でルビが振られていました。※もっとも昔はこの音読み訓読みはおおらかな時代だったので間違いというわけではないかとは思います。

さて本短編集は私が設定している「過渡期の横光」期の1928(昭和3)年〜1935(昭和10)年から少し逸れた1938(昭和13)年出版ですが、編纂されているのは過渡期の短編・随筆です。やはり青空文庫にない『薔薇』1932(昭和7)年6月『雪解』1933(昭和8)年3月『歴史』1931(昭和6)10月等名品があります。

まず『薔薇』は横光が1928(昭和3)年に中学の後輩を訪ねて上海へ渡った事実を脚色構成されてますが、その後輩が持っていた薔薇の中の美少女の二葉の写真から、東京に結婚して住むその女性に手紙を届ける伝書鳩の役目を引き受けつつ、その恋を邪魔しようとしている、また入り組んだ主人公の話ですが、この富んだ設定は非常に何か江戸川乱歩的な感じがします。

雪解』は「ゆきげ」と読みますが横光自身の三重県伊賀上野の下宿時代の初恋の話です。こちら伊賀上野観光ではどうやら必ず紹介されているようですが(紹介サイトも散見)その作品が青空文庫でも汎用文庫本でもとくに収録されていないという現実に驚きます。

 卓二が少年期もそろそろ終わりに近づいてゐた日のころである。彼は城を後にした街の通を歩いていくと、突然十二、三になる一人の少女が彼の傍を脱兎のごとく駆けぬけて、急にくるりとこちらを向くと、腰を折って笑ひ出した。彼はそれがあまりにも不意の出来事だったので、その少女の動作を思わずぢつと眺めずにはをられなかつた。多分少女は後から追つかけて来た仲間の者をからかふつもりらしく、卓二が傍まで歩きつづけていつてもまだなかなか笑ひとめそうもなかつた。
 卓二がその少女を見てから停つてゐる彼女を追ひ抜いてしまふまで、僅か二十秒とは経つてゐないにちがひなかつたが、彼は町を歩いてゐて、その少女ほど美しいと思つた少女を見たことがなつた。彼はむしろそのとき、たぢたぢと恐れを抱いてその少女の傍を通りすぎたほどであるが、彼女の少女らしいといふ少女ではなく、十二、三歳でもう美しい大人の表情をしていた。ー横光利一『雪解

という素敵な出だしの可憐な初恋モノですが、そのモデルと宮田おかつは横光が早稲田大学英文科入学後作品を発表し始めた頃に急逝しているそうです。

つづいて『歴史(はるぴん記)』というエッセイが個人的に一番の収穫で、外地日本の残酷な史実の中の一抹のメルヘンを感じるものです。横光が1930(昭和5)年9月に大連、ハルピンまで出向いて紀行を書きたいと思いながら諸事情で果たせず印象を忘れないためにハルピン日日新聞の古新聞を送ってもらいながら読んだ在ハルピン日本人の古老たちの話「ハルピン草分座談会」なるが特集が面白く

それ故このやうな珍しい話はそのままにしておくのも惜しいと思ひ小説の形にでも書いてみようと思ってゐたのだが、小説とするにはあまりにも實話的な面白さの方が勝ちすぎるので、今まで書かずにそのままにしておいた。ー横光利一『歴史(はるぴん記)

それをさらっと伝聞随筆という形で一筆書きに描いているのですが、明治期からのハルピンにおける日本人入植の歴史は確かに非常に面白く、明治期は二葉亭四迷が密偵的にハルピンの街を暗躍していたりした事実や、日露戦争開戦に日本人引き揚げ命令が出た際の逸話は、確かに「實話的な面白さの方が勝ちすぎ」ています。引き揚げの話は、最後まで逃げる金がなくてぐずぐずと残留していた日本人達がシベリア鉄道欧州経由で退去させられ、集団で銃殺されるものと思っていたら、非常に丁重に親切にロシア人将校らに扱われ、また退去経路で各地で中国人として潜んでいた日本人(主に売笑婦たちとその関係者)が合流して雪だるま式に増え続け最終1000名近い日本人が欧州へ退去して行く中で、途中でお金がつきたら街で働かせてもらったり、さらには戦況が日本がロシアに勝利していることで、通過する街街でバンザイコールで歓迎歓待されドイツを抜けて地中海を経由して日本に帰国しているが、

その間ハルピンを立ってから9ヶ月もかかっているが、彼等の間で台湾まで来るまでに二百組に新しい夫婦が出来上がってゐて、それを今でも引揚夫婦といふのださうであるが、そのまま今もなほずっと夫婦生活を続けてゐるものも澤山あるとのことである。ー横光利一『歴史(はるぴん記)

というほのぼのとした史実が書かれていますが、この作品の初出の1931(昭和6)年から14年後、日本の敗戦及び満洲国の崩壊による大陸引揚げ者たちの悲惨な史実とは真逆の性質ゆえに強くメルヘンを感じるわけです。最後横光はこのタイトル「歴史」についてこう述懐いたします。

この題に歴史といふ見出しをつけたのはあまりにも大げさだと思うふが、しかし、私は集團の歴史を事實そのままに書いてみたのは今が初めてのことなので、書き進めて行くに従つて、歴史というものは「事實」と少しも違はないにもかかわらず、「事實」と違うところは「事實」の取捨選擇をすることにあると今さらに氣がついたからである。つまりこの一篇は取捨選擇といふ意味にとってもらへば幸いである。ー横光利一『歴史(はるぴん記)

なのでこの裏には悲惨な話の「取捨選択」もできるというニュアンスかと思われますが、ここでそろそろ記事の〆として強引に私の今の変電活動へと接合すると「取捨選択」でもって忘れされている「事実」としての「作品」は、例えば今回横光作品を国立国会図書館デジタルコレクションを漁ることで、手間さえ惜しまなければ諸々楽しい「事実=作品」を拾い上げることができる時代になったなと。つまるとこと各人が大量にある「裸の事実=データ」群の前で、各人思うところの「歴史」を編纂してしまええるような時代になったわけですね。楽しい。よって変電社持田も引き続き取捨選択される前のデータアーカイブへ果敢にサルベージを敢行し、読んでみて楽しい作品の歴史を露出させてまいります。【夏の変電書フェア’14】はまだ続くよ!

社主代理 持田 泰

【変電社リブート宣言】満洲国変電書ツアー:竹内正一『哈爾賓入城』

正月三が日も明けてしまいましたが、新年あけましておめでとうございます。大変ド無沙汰しております。社主代理持田です。本年もご愛顧賜らんことをよろしくお願いいたします。

2013年7月から唐突に放置しっぱなしの当ブログでございますが何も言い訳は言うまい。全ては個人の諸事情にすぎません。ただいかんせん放置しすぎたので前回の続きは失敬ながらこっそり放棄させていただき、なぜならジブリ「風立ち」去ってから「かぐや姫」で某宮崎監督引退撤回かもわからない。有為転変は世の習いとはいえ世間様の流れがあまりにも速く人生はウサイン・ボルトの速度で走り去ります。

そんな中こんなニュースが昨年末12月28日に流れました。

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【ジブリ『風立ちぬ』記念】ホリタツ堀辰雄で青空文庫を中心にブクログ棚こさえた【ようやく映画観たよ!】その2

さて前回
【ジブリ『風立ちぬ』記念】ホリタツ堀辰雄で青空文庫を中心にブクログ棚こさえた【映画はまだ観てない】その1
においては一段目堀辰雄作品だけの紹介でタイムアップしてしましましたが、今回「その2」を続けたいと思います。そして前回は観てなかったのですがようやくジブリ『風立ちぬ』を観てきました!

kazetachinumoviesnap

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【ジブリ『風立ちぬ』記念】ホリタツ堀辰雄で青空文庫を中心にブクログ棚こさえた【映画はまだ観てない】その1

無沙汰しております。社主代理持田です。諸々多忙につき変電活動ままなっておりませんが!今夏は「千年猛暑」だそうですね!千年に一回って言って来年も暑かったらと気が気じゃありません!そんな暑い最中にジブリ映画『風立ちぬ』が公開されました。宮崎駿72歳ですから本作が遺作になるかの腹も括ったものだろうと思われます。その意味では執筆当時32歳堀辰雄の「風立ちぬ、いざ生きめやも。」の声音とは違う響きを放ちそうでありますね。

kazetachinu

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林芙美子と野村吉哉とドン・ザッキーと「詩」の時代 【レビュアー:持田泰】

 

電子の意志

眞空界に放電する
電子の火花は
不可思議にも聲を發して
敗残の過去を物語りながら
電子の意志を宣言する

ードン・ザッキー『白痴の夢』大正14(1925)年

 
唐突に妙な詩の一節から始めましたが、これは2013年「明けた」と言われる「電子書籍元年(何度目かの)」について88年前に予言的に歌われた「電子書籍の詩」であると勝手に言い張りたい気分でいる社主代理持田です。ご無沙汰しております。「敗残の過去を物語りながら」ってとこがいいじゃないですか。

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